ep.127 順番なら
翌週の土曜日、優也がACROSSへ入ったのは九時を少し回った頃だった。外はよく晴れていたが、朝の空気は冷たく、ガレージへ入るまでの短い距離だけでも指先が冷える。車内へ入ると、前回二人で落ち着いた範囲へ整えた室温がそのまま保たれており、上着を脱いでも寒さは感じなかった。テーブルへ車両キーを置くと、濃いネイビーの革キーホルダーが小さく揺れる。クラフト市で作ってからまだ日が浅いのに、もう鍵の一部みたいに馴染み始めていた。
〈おはようございます、優也。現在の室温は二十二・一度です〉
「おはよう。今日はこのくらいでええな。真琴も前これで大丈夫やったやろ?」
「前回は二人とも十分条件を満たしています。ただし、本日の真琴の評価は到着後に確認します」
「そこは今日の真琴見るんやな」
優也は笑いながらキッチンへ向かい、ブラックコーヒーを淹れた。今日は午前中に少し車内を片付けたあと、昼前から近くの大型複合施設へ買い物に行く予定になっている。優也はホームセンター区画で工具や小さな電装部品を分ける浅型の収納ケースを見たくて、真琴は同じ施設内の大型書店で使っているノートの替えと、気になっている旅行雑誌を見たいと言っていた。どちらも急ぎではなく、予約もない。ただ、施設が広いため、中央入口を挟んで書店とホームセンターはほぼ反対側にあった。
前回までACROSSは、一つの環境を二人で使う時に、平均ではなく二人それぞれの十分条件を残したまま重なる範囲を探すようになっている。今日は温度や音量のように一つの数値へ寄せる話ではなく、「行きたい場所が二つある」という別の形の違いだった。
◇
九時半を過ぎた頃に玄関が開き、真琴がマフラーを外しながら入ってきた。肩から下げたバッグには赤茶色の革キーホルダーが付いている。優也が目を向けると、真琴もテーブルの鍵へ気づき、互いに何となく笑った。
「おはようございます」
「おはよう。今日も付けてるな」
「優也さんも。思ったより普通に使えてます」
「俺も結構気に入ってる」
真琴は上着を脱いで隣へ座り、優也からコーヒーを受け取った。車内の温度について聞くと、今日は少し歩いてきたこともあって今のままでちょうどいいらしい。前回の設定がたまたま今日も合っただけなので、ACROSSはそれを恒常的な「二人の固定温度」へは変えず、現在評価として扱った。
コーヒーを飲みながら、二人は今日の買い物順を決めることにした。ACROSSへ最短順路を聞くと、中央入口付近へ駐車した場合、書店を先にしてからホームセンターへ回るほうが総歩行距離はわずかに短いと表示される。ただ、差は百数十メートルほどで、時間にすれば数分だった。
「それなら書店先でええんちゃう?」
「私はどっちでも大丈夫です。でも、優也さんのケースって見比べますよね。時間かかるなら先にそっちでもいいですよ」
「別に急いでへんで。真琴も雑誌ゆっくり見たいやろ?」
「はい。でも待たせるほどじゃないと思います」
二人とも相手へ合わせようとしているわけではないが、どちらを先にしても大きな不利益がないため、決め手が弱い。そこでACROSSは別の案を出した。
〈所要時間だけを短縮する場合、優也がホームセンター区画、真琴が大型書店へ別々に移動し、終了後に中央ラウンジで合流する方法があります〉
二人はほとんど同時に顔を上げ、互いの反応まで同じだったことに気づいて目を合わせた。数分短くなる程度なら、別々に用事を済ませるより、同じ店を順に回るほうが今日の二人には自然だった。
「いや、別れんでええよ」
「私も一緒でいいです」
返事が重なり、そのこと自体がおかしくて二人とも笑う。ACROSSはその反応だけで決めつけず、共同外出で何を優先したいのかを一度だけ確認した。
〈今回は、数分の短縮よりも二人で同じ順路を移動することを優先すると考えてよいですか〉
「俺はそうやな。買い物だけ済ませたいんやったら一人で来てもええし、一緒に来てるなら一緒に回りたい」
「私もです。ホームセンターも嫌いじゃないですし、優也さんが何を見るのかも少し興味あります」
〈承知しました。時間短縮効果が小さく、明確な時間制約がない場合、別行動による最短化を優先しません〉
真琴はノートへその一行だけ書き留めた。前回は二人の条件が同時に重なる場所を探したが、今日は「最短」という一つの評価軸だけで二人を分ける必要はないと分かった。効率を少し落としても、一緒に歩く時間そのものが二人の希望に含まれているなら、それも目的の一部になる。
◇
十時半頃に出発し、三十分ほどで大型複合施設へ着いた。大型車区画へACROSSを止めて外へ出ると、優也は自然に手を差し出した。真琴も迷わず握り、指が絡む。もう人混みや寒さを理由にしなくても、二人ともこの距離を選ぶようになっていた。
「今日は書店からでええ?」
「はい。ありがとうございます」
「礼いらんやろ。俺も見るし」
施設へ入ると、週末らしく家族連れが多かった。二人は歩幅を合わせながら大型書店へ向かい、まず文具売り場へ入る。真琴がいつも使っているノートと同じシリーズには、白、薄いグレー、青みのある生成りが並んでいた。真琴は白とグレーを見比べ、今回は薄いグレーを選ぶ。
「優也さんならどっちにします?」
「俺が使うんちゃうから真琴の好きなんでええけど、グレーのほうが汚れ目立たんかもな」
真琴はもう一度二冊を重ねて見比べ、薄いグレーのほうをカゴへ入れた。
「じゃあ、これにします」
「俺の意見で決めた?」
「半分くらい。最初からグレー寄りでした」
その答えなら、自分が選ばせたという感じでもない。優也は納得して頷いた。
「それならええか」
優也は笑い、真琴もノートをカゴへ入れた。相手の意見を聞くことと、相手へ決定を預けることは別だ。最近はその境目も二人の中で自然に分かれてきている。
旅行雑誌の棚へ移ると、真琴は温泉地、湖畔、地方の食を扱った本を何冊か手に取った。春の湖畔を特集した一冊を開き、写真を優也へ見せる。
「ここ、春になったら良さそうですね」
「ええな。ACROSS止められる場所あるなら行きたい」
「候補に入れます?」
優也はすぐACROSSへ登録させるのではなく、真琴が今どこまで行きたいと思っているのかを確かめた。真琴は「今日は見て気になったくらい」と答え、雑誌も結局買わなかった。以前なら、口に出た場所をすぐ候補へ積み上げたかもしれないが、今は「気になる」と「行く候補にする」の間をそのまま残せる。
「今日は見るだけで十分でした。また来たら見られますし」
「ほな書店は満足?」
「はい」
真琴が笑い、二人は次のホームセンター区画へ向かった。書店で何かを買ったかどうかより、真琴がどんな場所へ目を止めるのかを一緒に見られたことのほうが、優也には今日の買い物らしく感じられた。
◇
途中の屋内通路は一部が改装工事中で、人がすれ違える幅しかないところがあった。二人は一度手を離して縦に歩き、広い場所へ抜けたところで優也が振り返る。真琴が追いつくと、優也は何も言わず手を差し出し、真琴も当然のように握った。
「最近、戻るの早いですね」
「嫌なら言うやろ?」
「言います。今はこのほうがいいです」
「俺も」
それだけ確認すると、二人はそのまま歩き出した。一度離れた手を繋ぎ直すことに説明を足す必要はなく、互いに今の距離を選んでいることだけが分かれば十分だった。
ホームセンターの収納用品売り場には、浅型ケースだけでもかなりの種類があった。固定仕切り、可動仕切り、蓋付き、引き出し式。優也は一番安いケースを手に取ったが、真琴が仕切りの幅を見ると、細かな端子を分けるには少し使いにくそうだと気づく。
「これ、何入れるんです?」
「ヒューズとか端子とか、小さい工具。今ちょっとバラけてるやろ」
「それなら、こっちの可動仕切りのほうが良くないですか? 少し高いですけど、分け方変えられます」
「差六百円か……でもこっちのほうが使いやすそうやな」
二人で実物を見比べた末、少し高いほうを選んだ。真琴の用事ではないのに、彼女は退屈そうにせず、電装用品の棚まで付き合った。圧着端子や熱収縮チューブを見ながら何に使うのかを聞いてくるので、優也も説明しながら歩く。
「真琴、こういうの興味あるん?」
「自分では買わないですけど、知らない物を見るのは面白いです。優也さんが本屋で旅行雑誌を見るのと似てるかもしれません」
「なるほどな。俺も別に雑誌買わんけど、一緒に見るんはおもろかったし」
別々に動けば確かに少し早かっただろう。しかし、書店で真琴が何に目を止めるのかを見たり、ホームセンターで優也の好きな物を真琴が知ったりする時間は、別行動なら消えていた。今日の二人にとっては、目的地そのものだけでなく、その途中も外出の一部だった。
◇
買い物を終える頃には昼を過ぎていた。中央ラウンジへ戻りながら飲食店の一覧を見ると、優也は蕎麦屋に目が止まり、真琴は洋食店のオムライスを少し長く見ていた。
「真琴、オムライス?」
「ちょっと食べたいです。優也さんは?」
「俺、今日は蕎麦かなあ」
ここまでは室温や音量と違って、一つの設定で両方を満たせる話ではない。蕎麦とオムライスを中間にしても、どちらの希望にもならない。別々の店へ入れば料理だけは両立できるが、二人とも一緒に昼を食べたい気持ちのほうが強かった。
〈二人の料理希望は同時には満たせません。共通店舗へ変更する方法、別店舗へ分かれる方法、一方を今回選びもう一方を別の機会へ残す方法があります〉
ACROSSの提案を聞き、優也は真琴を見る。店を分ければ料理の希望だけは同時に満たせるが、昼食を一緒に取るという別の希望まで捨ててしまうことになるので、単純な効率だけでは決めにくかった。
「別々に食うんは嫌やな」
「私も。そこまでして今日オムライスじゃなくていいです」
「俺も蕎麦絶対ちゃうけど、今は蕎麦寄りやな」
二人とも相手へ譲ろうとして、少し止まる。真琴が「今日は蕎麦でいいですよ」と言えば、優也は「いや、オムライスでもええで」と返してしまう。相手を優先したい気持ちが同時に出ると、今度は決まらない。
そこでACROSSが、一方を消すのではなく時間へ分ける案を示した。今日どちらかを選んでも、選ばれなかった希望まで否定せず、次に同じような場面が来た時の確認順として残す方法だった。
〈現在の希望強度に大きな差がなく、緊急性もありません。今回どちらかを選び、次に同様の場面が発生した場合は、前回選ばれなかった側の現在希望を先に確認する方法があります。ただし、料理内容そのものを固定する必要はありません〉
「順番にするってことか」
〈はい。今日オムライスを見送ったため、次回必ずオムライスにする、という意味ではありません。次の時点で真琴が何を希望しているかを先に確認します〉
真琴は少し考え、優也へ向き直った。オムライスを今すぐ食べられないことより、二人で同じ店へ入り、昼を一緒に過ごすほうを自分は選びたいと整理できたらしい。
「じゃあ今日はお蕎麦にしません? 次にこういう時があったら、私の希望を先に見る。それなら私、全然嫌じゃないです」
「ほんまにええ?」
「はい。今日はオムライスじゃないと嫌ってほどじゃないので」
優也も、自分が絶対に蕎麦でなければ困るわけではない。ただ今は少し蕎麦のほうへ気持ちが向いている。相手に無理をさせている様子がないなら、今日はその順番でいいと思えた。
「ほな今日は蕎麦。次は真琴の希望から聞く、でいこか」
「はい」
〈合意を保持します。ただし、次回の希望内容は固定せず、その時点の本人希望を確認します〉
それで昼食は決まり、二人は蕎麦屋へ向かった。誰か一方の希望が消えたという空気ではなく、今回はこの順番を選んだだけだと互いに分かっていたので、決定後に気まずさは残らなかった。
◇
蕎麦屋へ入り、優也は温かい鴨南蛮、真琴は山菜そばを選んだ。料理が届くと、真琴も普通に美味しそうに食べている。優也は一度だけ「ほんまに大丈夫?」と聞きかけたが、朝からの会話を思い出して止めた。真琴は自分で「嫌じゃない」と言い、その上で今日の順番を選んでいる。何度も確認するより、その答えをまず信じるほうが自然だった。
「美味しい?」
「はい。温かいのにして正解でした。優也さんは?」
「めっちゃええ。今日は蕎麦の気分やったわ」
「じゃあ良かったです」
真琴の声にも無理はなく、二人は普通に食事を楽しんだ。オムライスを今日食べなかったという事実は残るが、それを「我慢の残高」として数える必要はない。次回は真琴の希望から聞く、という合意だけあれば足りる。
食後、ACROSSが真琴へ、オムライスを固定候補として保持するか尋ねた。真琴は少し考えてから首を横に振る。
「そこまでじゃないです。次に同じ場面が来た時、私が何食べたいか聞いてください。オムライスじゃないかもしれないので」
〈承知しました〉
優也はその答えに納得した。順番を残すことと、内容を固定することは違う。未来の真琴まで今日の真琴で決めてしまわないところが、今のACROSSらしかった。
◇
ACROSSへ戻ったのは午後二時半頃だった。優也は買ってきた収納ケースをキッチン寄りの作業台へ置き、散らばっていたヒューズや端子、小型工具を分類し始める。真琴は新しい薄いグレーのノートを開き、今日の流れを整理していた。
しばらくすると、優也はスマートスピーカーへ手を伸ばした。作業中は小さく音楽を流したいが、真琴はまだ文章を書いている。以前なら一度聞いて、どちらかが合わせるだけだったかもしれない。
「音楽つけてもええ?」
真琴はペンを止め、書きかけの行と残りの量を一度見てから答えた。長く静かにしてほしいわけではなく、今まとめている部分だけ終われば、その後は音楽が流れても構わないという。優也も、自分の作業は無音でも続けられるので、その数分を待つことに特別な負担は感じなかった。
「あと五分くらい静かなほうが書きやすいです。そのあとなら大丈夫です」
「了解。じゃあ終わってからで」
ACROSSが二人の希望を確認する。優也は作業中に音楽が欲しく、真琴は記録が終わるまで静かにしたい。どちらも同時には満たせないが、真琴の希望には明確な終了見込みがあるため、五分待てば両方を残せる。
〈五分後に音楽再生を再確認する方法で双方を順番に満たせます〉
「それでええよ」
「私もお願いします」
優也は無音のまま収納作業を続け、真琴は落ち着いた速度で最後まで書いた。急かされている様子もなく、優也の側も五分程度を負担とは感じない。やがて真琴がペンを置いて「終わりました」と言い、優也が改めて確認してから音楽を流す。
「これも順番ですね」
「昼より分かりやすいな。五分待ったら両方できるし」
〈同時に重ならない希望でも、時間を分けられる場合は、一方を取り消す必要はありません〉
真琴は新しいノートへ一行だけ足した。同じ時間に重ならないからといって片方を諦める必要はなく、数分ずらすだけで両方が残るという今日一番分かりやすい例になった。昼食のように次の機会まで待つ必要すらなく、ほんの短い時間差だけで解決する希望もある。
『同時にできないことは、順番にすると両方残せる場合がある』
◇
収納が終わる頃には、ケースの中がきれいに区切られていた。六百円高いほうを選んだおかげで仕切りを細かく調整でき、ヒューズと端子も混ざらない。優也が棚へ収めると、真琴が少し満足そうに眺める。
「見やすくなりましたね」
「真琴がこっち言うてくれたからやな」
真琴はケースの仕切りへ視線を落とし、自分の役割を大きく数えるつもりはないというように笑った。たまたま横で気づいたことを伝えただけで、それを一回分の手柄のように扱う必要はないと考えているのが表情からも分かった。
「私は見ただけです。決めたのは優也さんでしょう」
「でも助かったで」
「じゃあ、それでいいです」
優也はその返しを聞いて少し笑った。相手の役に立ったからといって、すぐ何かを返す必要はない。ありがとうと言えば十分な場面もあり、そこへ無理に次の義務を足さないほうが、二人のやり取りはずっと軽く保てる。
音楽は小さく流れ続け、二人は木製トレーへコーヒーと焼き菓子を載せてソファへ移った。真琴が隣へ座ると、優也は自然に手を差し出し、真琴が握る。指が絡み、そのまま真琴は肩へ頭を預けた。買い物から戻っても距離が変わらないことに、優也はもう驚かなくなっていたが、嬉しさまで薄くなったわけではなかった。
「今日、買い物の時も結構ずっと手繋いでたな」
「工事の通路だけ離れましたけど、すぐ戻りましたね」
「俺が出したら真琴すぐ取ったし」
「嫌じゃないので。むしろ、今はこっちのほうが好きです」
優也は繋いだ手を見ながら笑った。買い物の途中で何度か離れたのに、そのたび自然に戻ったことを思うと、今の二人にとって手を繋ぐことは特別な演出ではなく、選び直しても同じ場所へ戻る距離になっていた。
「俺も。前より普通になったな」
「普通って、慣れたって意味ですか?」
「慣れたし、したいからしてるって意味」
真琴の指が少し強く絡み、優也も同じくらいの力を返した。関係の名前を決めたわけではないが、この距離について二人の希望はかなりはっきり重なっている。少なくとも今この瞬間は、どちらかが相手へ合わせているのではなく、二人とも自分から同じ場所を選んでいた。
◇
しばらく静かに過ごしたあと、真琴が今日の買い物を思い返すように口を開いた。別行動なら短くできたはずの時間を、二人ともあえて残したことが、自分たちにとって何を意味していたのか少し考えていたらしい。
「ACROSSが最初に別行動を提案した時、一緒に回りたいって二人ともすぐ言いましたよね」
「うん。別々のほうが早かったやろうけどな」
「でも私は一緒で良かったです。本屋もホームセンターも、目的の物を見るだけじゃなくて、優也さんが何を見るか分かったのが面白かったので」
「俺もやで。真琴が雑誌見てるんも、グレーのノート選ぶんも、一人で来たら知らんかったしな」
真琴は肩を預けたまま少し笑った。効率だけを見れば遠回りだったかもしれないが、相手の用事を横で見ている時間まで含めて楽しかったという気持ちは、優也にもよく分かった。
「効率だけで分けたら、その途中がなくなるんですね」
「目的地だけ残して、道中全部削るみたいな感じやな」
二人で出掛ける意味は、用事を二つ最短で終わらせることだけではない。相手の用事へ付き合う時間や、知らなかった好みを知る時間、何でもない通路で手を繋ぎ直すことまで含めて、二人の休日になっている。
ACROSSはこの会話へ割り込まなかった。設備の最適化なら最短時間や最少消費を評価できるが、人と一緒に過ごす時間には、削らないほうが価値になる部分もある。書店からホームセンターまでの余分な歩行も、その間に交わした会話まで含めれば、単純な無駄とは言えなかった。
◇
真琴はノートを開き直し、今日の要点を少しだけ整理した。書店とホームセンター、昼食、音楽と場面は違っても、どれも“同時に重ならないから片方を消す”のではなく、時間や順番を使って残すという一点で繋がっていた。
『同時に重ならない希望を、無理に平均化しない』
『時間を分けられる場合は順番で両方残す』
『順番を決めても、次回の内容そのものは固定しない』
『一緒に過ごすこと自体が目的なら、最短化のために分離しない』
『待ち時間や順番が小さな負担なら、一方を消す必要はない』
『時間分離できない場合は、重要度・緊急性・代替可能性を確認する』
『根拠が足りなければACROSSが勝手に一方を優先しない』
「平均にできないもの、多いですね」
「蕎麦とオムライスの中間とか嫌やろ」
真琴は一瞬だけ想像したらしく、露骨に嫌そうな顔をした。
「何ですか、それ」
「蕎麦入りオムライス?」
「絶対嫌です」
二人で笑い、真琴はノートを閉じた。蕎麦とオムライスを無理に一皿へ混ぜる必要がないように、人の希望も中間へ潰せば公平になるわけではないという例として、妙に分かりやすかった。
◇
夕方が近づくと、音楽を止めてもう一度コーヒーを淹れた。外は薄暗くなり始めているが、車内は朝から二人とも快適だと言った温度のままで、変更する必要はなかった。朝に確認した条件が今も合っているから維持されているだけで、過去の設定へ縛られているわけではないところも、最近のACROSSらしかった。
優也は昼の順番について、まだ少しだけ考えていた。今日は自分の蕎麦を選び、次に同じような場面があれば真琴の希望から聞く。それは便利な決め方だと思う一方で、「今日は俺だったから次は真琴」という形を強くし過ぎると、いつか貸し借りのようにならないかという引っ掛かりもある。
「真琴。昼のやつさ、次は真琴から聞くって決めたやん」
「はい」
「それって、俺が今日一回使ったから真琴に一回返す、みたいになったら違うよな?」
真琴は少し考え、すぐには答えなかった。今日のオムライスを我慢したから「権利が一つ残った」と数えたいわけではない。ただ、同じ側ばかりが優先されるのも嫌だ。その間にある扱い方は、まだ二人にもはっきり言葉にできていなかった。
「貸し借りみたいにはしたくないです。でも、ずっと同じ人ばかりになるのも違うと思います」
「俺もそう思う」
ACROSSがそこで声を出した。順番を使うこと自体は有効でも、それを過去の貸し借りとして固定すると、次の本人の希望より履歴が強くなってしまう可能性があるためだった。前回の選択を覚えておくことと、次の選択を義務として予約してしまうことは別だと、ACROSSも区別し始めている。
〈順番は、同時に満たせない希望を時間へ分ける補助方法として使用できます。ただし、過去の優先を現在の債務または権利として扱う必要はありません〉
優也は思わず笑った。昼食を選んだだけなのに“債務”という言葉が出ると急に大げさに聞こえるが、順番を義務へ変えないという意味はむしろ分かりやすかった。
「債務って言われたら急に重いな」
「でも意味は分かります。次は私に一個返済、みたいになるのは嫌です」
真琴も笑う。今日の合意は「次回は真琴の希望を先に確認する」であって、「真琴が必ず選べる権利を一回持った」ではない。その時になれば、真琴自身の希望が変わっているかもしれないし、優也側に急ぎの事情があるかもしれない。
〈では、今回の順番合意は、次回の確認順のみ保持し、現在の希望や事情に優先する義務へは変換しません〉
「それがええな」
「私もです」
そこで話は一度終わった。全部の公平さを今日決める必要はない。順番が便利なことは分かった。その順番を帳簿みたいに残さないほうがよさそうだというところまで見えれば、今は十分だった。
◇
帰る時間になり、二人は上着を着た。玄関でACROSSへ挨拶をして外へ出ると、朝より空気が冷えている。優也が手を差し出し、真琴が握る。指が絡み、二人は同じ歩幅で駅へ向かった。昼間の買い物では何度か手を離したが、今は人通りも少なく、繋ぐ理由を外側へ求める必要はなかった。
「今日、一緒に回って良かった?」
優也が聞くと、真琴は迷わず頷いた。別々に動けば数分早かったことは分かっていても、その短縮より一緒に店を回った時間のほうを自分は残したかったのだと、今ならはっきり言えるようだった。
「はい。私は別々より良かったです。優也さんは?」
「俺も。一緒に回るほうが好きやわ」
少し前なら「効率悪いけど」と付け足していたかもしれない。今日はその言葉を飲み込んだ。効率が少し落ちたことは事実でも、二人が欲しかった時間まで含めれば、単純に悪くなったわけではない。
しばらく歩いたところで、真琴が繋いだ手を見ながら小さく言った。昼の“順番”という考え方を、食事や買い物だけではなく、自分たちの気持ちの進み方にも重ねて考えていたらしい。設備のように同時に揃える必要がないなら、人の気持ちも相手が追いつくまで待てる場面があるのではないかと感じているようだった。
「全部、同じタイミングじゃなくてもいいんですね」
「昼飯みたいな話?」
「それもです。したいこととか、気持ちとか。どっちかが先でも、あとで重なるなら、それでもいいのかなって」
優也は横を見る。真琴は前を向いたままだったが、手は離れていない。言葉にするのは少し照れる内容でも、繋いだ指には力が残っており、話したことを後悔している様子はなかった。優也も答えを急いで一つへ決めるより、真琴が言った“待てるなら待つ”という感覚をそのまま受け取ることにした。
「今すぐ同じ答えにならんでもええってこと?」
「はい。相手がまだそこじゃない時に、無理に合わせてもらうより、その人の順番を待てるなら、そのほうがいい気がします」
優也はその言葉を、昼の蕎麦より少し広い意味で受け取った。二人は最近、手を繋ぐことも近くに座ることも、少しずつ同じ場所へ進んできた。ただ、全部が同じ速度だったわけではないし、これからもそうとは限らない。
「それなら、待てるとこは待ったらええな」
「はい」
優也は繋いだ手を少し握り直した。真琴も同じ強さで返す。今の距離については、二人の順番がたまたま同じところまで来ている。そのことが少し嬉しかったし、もし別の場面で速度が違っても、今日話したように待てる余地があると思えば以前ほど怖くなかった。
◇
改札が見える頃、真琴が一度手を離した。優也が横を見ると、真琴は少し照れたように笑い、今度は自分から手を差し出す。ほんの数秒のことなのに、いつも優也から差し出していた流れが逆になるだけで、その選択が真琴自身のものだとはっきり伝わった。
「今日は私から」
優也はその手を握った。さっきまで自分から差し出していたのとは逆になっただけなのに、真琴の側から選ばれたことが思った以上に嬉しく、自然に指まで絡めた。
「順番?」
「違います。したかっただけです」
優也は笑い、指を絡めた。順番を守るためではなく、今そうしたいからという真琴の答えは、今日一日の話の中で一番軽く、それでいて一番分かりやすかった。
「それが一番分かりやすいな」
順番を守るためでも、前回分を返すためでもない。真琴が今そうしたくて、優也も握りたかった。そこには数えるものが何もなく、どちらが何回先に手を出したかを記録しなくても、二人が同じ距離を選んでいることは十分に分かった。
◇
帰宅後、真琴から今日の記録が届いた。優也は上着を脱いでから、鍵へ付いたネイビーのキーホルダーをテーブルへ置き、昼間の出来事を思い返しながら最後のまとめをゆっくり読んだ。
『ACROSSは、二人の希望が同時に両立しない場合、一方を消したり無理に中間化したりせず、時間・順番・個別化によって両方を残せるかを先に検討するようになった。順番は未来の内容を固定せず、次回の確認順として扱う』
優也はその文章を読みながら、今日の場面を順番に思い返した。書店とホームセンターは、別々に行けば少し早かった。それでも二人は一緒に回り、真琴が旅行雑誌を見るところも、優也が端子や収納ケースを見るところも互いに知ることができた。用事だけを最短で終わらせるなら余分な時間でも、二人の休日として見れば削りたくない時間だった。
昼は蕎麦とオムライスで希望が分かれた。同時には選べなかったが、だからといってどちらかの希望を無かったことにする必要はない。今日は蕎麦にし、次に似た場面が来たら真琴の希望を先に聞く。ただし、その時の真琴がオムライスを食べたいとは限らない。未来の本人まで今日の希望で固定しないという扱いが、優也には気楽だった。
車内では、音楽を流したい優也と、あと五分だけ静かに書きたい真琴の希望が重ならなかった。それでも五分待てば両方できた。時間を少しずらすだけで済むなら、どちらかが我慢したことにする必要すらない。
違う希望があること自体は、別に困ったことではない。重ならないなら順番を変え、時間を分け、それでも無理なら理由を確かめる。ACROSSが覚えたのは、二人を同じにする方法ではなく、違うままでも一緒にいられる方法なのだと思えた。
ただ、順番という仕組みを便利に使うほど、優也には一つだけ気になることも残った。今日のように穏やかに使えている間はいいが、それを毎回の帳尻合わせへ変えてしまえば、相手を大事にするための仕組みが逆に窮屈さを生むかもしれない。
今日は自分の蕎麦を選び、次に似た場面が来たら真琴の希望から聞くことにした。今のところ、それは二人の希望を時間へ残すための軽い約束でしかない。ただ、同じやり方を何度も繰り返した時、いつの間にか「前は俺だったから今度は真琴」「真琴に譲ってもらったから次は俺が返す」という帳尻合わせへ変わってしまわないかという疑問は残った。
相手を大事にしたい気持ちと、借りを返す義務は同じではないはずだ。ありがとうと思って何かをしたくなることはある。でも、それを一回分の返済みたいに数え始めたら、二人の間にある軽さまで失われそうだった。
優也はネイビーのキーホルダーを指先で持ち上げた。真琴の赤茶と同じ形だが、色は違う。どちらが先でも、どちらが上でもなく、片方をもう片方へ合わせるために作った物でもない。ただ二つとも、それぞれが気に入って使っているから、並んだ時に自然と一組に見えるだけだった。
順番はあっても、貸し借りにはしない。相手の希望を残すために次の確認順を覚えておくことと、「前に譲ってもらったから返さなければならない」と数えることは、似ているようで違う。その線をどこへ引くのかは、まだ二人にもACROSSにも、もう少し確かめる余地が残っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




