ep.122 1度だけ試す
次の土曜日は、朝から雲の多い空だった。雨が降るほどではないが、日差しがほとんどないせいで外気は前週より冷たく感じる。優也がACROSSへ入ると、玄関を閉めた瞬間に外との温度差がはっきり分かり、リビングにはすでに落ち着いた暖かさが満ちていた。
〈おはようございます、優也〉
「おはよう。今日は外出たくなくなる寒さやな」
「午後も大きな気温上昇は見込まれていません」
「ほな予定どおり中やな」
今日は遠出を入れていない。
前の休日に話していた通り、真琴からグラタンの作り方を教えてもらうことになっていた。大きな予定ではないが、優也にとってはそれなりに楽しみにしていたことでもある。
キッチンへ立つと、ACROSSが冷蔵庫と食品庫の在庫を表示した。牛乳、バター、小麦粉、玉ねぎ、鶏肉、きのこ、マカロニは揃っている。足りないのはチーズくらいだった。
「チーズ少ないんやな」
〈現在量では、二人分のグラタンへ十分使用できない可能性があります〉
「真琴来てから買いに行こ。種類も聞いたほうが早いし」
〈承知しました〉
そこでACROSSは質問を止めた。
どのチーズがいいか。
どれくらい買うか。
何店比較するか。
聞こうと思えばいくらでも聞けるが、教える側の真琴が来てから決めればいい。前の休日に確認した“必要なことだけ聞く”というやり方が、もう自然に使われていた。
九時半を少し回った頃、玄関が開いた。
「おはようございます」
〈おはようございます、真琴〉
「おはよう。今日は先生よろしく」
優也が冗談めかして頭を下げると、真琴はすぐに笑った。
「先生はやめてください」
上着を脱いだ真琴は、いつものように優也の隣へ座る。向かい側を選ぶことは、もうほとんどなくなっていた。
「材料ほぼあるけど、チーズだけ足らんみたいやわ」
「じゃあ先に買いましょうか」
「種類は?」
「溶けるタイプなら何でもいいです。焼き色がつきやすいのがあれば、それで」
必要な条件が一つ出たところで、ACROSSが近所の店を二件だけ表示した。
「近いほうで買える?」
〈はい。条件に合う商品が確認できています〉
「じゃあそこですね」
真琴がそう言ったので、優也も頷いた。
買い物はそれで決まった。
◇
外へ出ると、想像していた以上に空気が冷たかった。
真琴はすぐ優也の腕へ自分の腕を絡める。優也も自然にその手へ自分の手を重ねた。
「寒いな」
「寒いですね」
数歩歩いたところで、優也は真琴の指先がかなり冷たいことに気づく。
「手、冷たっ」
「駅から歩いてきたので」
「手袋は?」
「バッグの中です」
「持ってるだけやん」
優也が笑うと、真琴も少し困ったように笑った。
優也は一度だけ手を外し、真琴の両手を自分の手で包む。真琴は少し驚いたものの、引かなかった。
「最近、普通に触りますね」
真琴の言い方に、優也は少しだけ眉を上げる。
「嫌?」
「嫌じゃないです」
「ほなええやろ」
数秒だけ温めてから手を離すと、真琴はすぐに優也の腕へ戻った。
「今の、継続希望ですか?」
「毎回やるん?」
「寒い時だけ」
「それなら毎回ちゃうやろ」
真琴が笑う。
「じゃあ、一時条件ですね」
「ACROSSみたいな言い方すんなや」
二人で笑いながら店へ向かった。
腕を組むこと。
手を重ねること。
手を温めること。
近いようで全部少しずつ違う。だから、全部を同じ扱いにしなくてもいい。
◇
買い物はすぐに終わった。
チーズのほかにサラダ用の葉物とトマトを追加し、優也はついでにコーヒー豆を一袋買った。
ACROSSへ戻ると、二人は上着を脱いでキッチンへ立つ。
「まず何する?」
「マカロニを茹でながら具材を切りましょう。ホワイトソースはそのあとで大丈夫です」
「了解」
優也が鍋へ水を入れ、真琴が玉ねぎときのこを出す。
二人で作業を始めると、いつもよりキッチン周りへ物が集まり、ボウルと切った具材の置き場が少し窮屈になった。
そこでACROSSが声を出した。
〈提案があります。本日の調理中のみ、可動テーブルを現在位置から十二センチ右へ移動すると、キッチン側の仮置き面積を増やせます〉
優也がテーブルを見る。
「ずっとじゃなくて、今日だけ?」
〈はい。調理終了後に元の位置へ戻す前提の一時配置です〉
真琴も少し興味を持ったように見た。
「使いにくかったら戻せる?」
〈はい。元の位置は保持しています〉
優也と真琴は顔を見合わせた。
「ほな一回やってみよか」
「私もいいです」
二人でテーブルを少しだけずらす。
たった十二センチでも、通路と仮置き面が少し広がった。
「これ、結構違うな」
「ボウル置きやすいです」
〈一時配置として記録します〉
ACROSSはそれ以上何も言わない。
うまくいったから恒常配置へ変える、という話にはまだ進まなかった。
◇
調理を始めると、テーブルをずらした効果はすぐに分かった。
切った具材を入れたボウル、茹で上がったマカロニ、使い終わった調理器具。置き場を一つ増やせるだけで、二人の動きがぶつかりにくい。
真琴が玉ねぎを薄く切り、優也は鶏肉を食べやすい大きさへ切る。
「そこ、もう少し小さくてもいいですよ」
「これ?」
優也が切った鶏肉を見せると、真琴が指で一回り小さい大きさを示した。
「そのくらいです」
「細かいな先生」
「だから先生やめてください」
真琴が笑い、優也も笑いながら切り直す。
鶏肉と玉ねぎを炒め始めると、キッチン周辺だけ少し熱がこもってきた。
〈調理区画周辺の温度が、リビング平均より二度以上高くなっています。換気量を一段上げる一時調整を試してよいですか〉
「ええよ」
「お願いします」
換気が少し強まり、数分後には熱気がこもる感じが減った。
「これも今日だけ?」
優也が聞く。
〈はい。調理終了後に通常設定へ戻します。今回有用でも、自動的な恒常設定には変更しません〉
「なんで?」
真琴が聞くと、ACROSSはすぐに答えた。
〈料理内容、外気温、使用機器、人数によって必要換気量が変わるためです。本日の結果は参考情報として保持します〉
「一回うまくいったからって、毎回同じにせえへんのやな」
「はい」
前の休日まで積み上げてきた考え方が、そのまま設備運用にも広がっている。
人の状態も。
家具の配置も。
空調も。
一度の結果で全部を固定しない。
◇
具材を炒め終え、いよいよホワイトソースに入る。
「ここ失敗しそうやわ」
「ちゃんと混ぜれば大丈夫です。焦がさないでくださいね」
「それが怖いねん」
真琴が横に立ち、優也へ順番を教える。
バターを溶かし、小麦粉を入れ、粉っぽさがなくなるまで弱火で混ぜる。そのあと牛乳を少しずつ加える。
「一気に入れたら駄目ですよ」
「分かってるって」
真琴が念を押した直後、優也の手が牛乳パックごと少し傾く。
「今、入れようとしたでしょう」
「してへん」
「手が動いてました」
優也は笑って牛乳を戻し、少量ずつ加え直した。
真琴が木べらの動きを確認するため、かなり近くへ寄る。肩が触れそうな距離だった。
以前なら、その近さのほうが気になって少し離れていたかもしれない。
今は、そのままだ。
「こんな感じ?」
「はい。もう少しだけ混ぜて」
とろみがついてくる。
「塩どれくらい?」
「一回味見しましょう」
真琴が小さなスプーンですくい、少し冷ましてから口にする。
「もう少しだけ塩あってもいいです」
「俺も味見する」
優也が手を出すと、真琴は新しいスプーンを取ろうとして一度止まった。
そのまま、さっき自分が使ったスプーンを少し持ち上げる。
「……これでもいいですか?」
優也も一瞬だけ止まる。
互いの飲み物を口にしたことはある。
それでも、真正面から聞かれると少し意識した。
「別にええよ」
真琴は少し照れた顔でソースをすくい、優也へ渡した。
優也がそのまま味見する。
「うん。ちょい薄いな」
「でしょう」
二人とも何事もなかったように調理へ戻った。
けれど、空気がほんの少し変わったことだけは、どちらも気づいていた。
ACROSSは何も言わなかった。
◇
塩を足し、具材とマカロニを合わせ、耐熱皿へ移す。最後にチーズをしっかり乗せてオーブンへ入れた。
焼き上がりを待つ間、二人で作業台を片付ける。
「テーブル、このまま食べる?」
優也が聞くと、真琴は少し見てから首を傾げた。
「食べる時は元の位置のほうがいいと思います」
「ACROSS、戻す?」
〈本日の一時配置を終了しますか〉
「うん」
〈承知しました〉
二人で元へ戻す。
真琴が座ってみると、やはり食事ではいつもの位置のほうが落ち着いた。
「調理には便利。でも食事には元のほうがいいですね」
「同じ配置でも用途で変わるんやな」
そこでACROSSが確認する。
〈本日の結果を、“調理時の一時配置として有用”“食事時は通常位置を維持”として分離して保持してよいですか〉
「ええよ」
「お願いします」
家具配置そのものは変わらない。
ただ、次に似た調理をする時の選択肢が一つ増えた。
◇
オーブンから香ばしい匂いが広がり始める。
優也が扉越しに中を見ると、表面のチーズが少しずつ色づいていた。
「めっちゃうまそうやん」
「焼き色ついたら出して大丈夫です」
ちょうどいいところで取り出し、サラダと一緒にテーブルへ並べる。
「いただきます」
二人で食べ始める。
優也が一口食べた瞬間、少し目を見開いた。
「うまっ」
真琴が笑う。
「良かったです」
「これ普通に店いけるやん」
「それは言い過ぎです」
「いや、ほんまうまい」
優也はもう一口食べる。
自分で作ったとは思えないくらい、ソースも具材もまとまっていた。
「優也さんがちゃんと混ぜたからです」
「先生のおかげやろ」
真琴がすぐに横を見る。
「また言ってる」
二人で笑った。
食事の途中、ACROSSが一度だけ声を出した。
〈先ほどの一時調整について、評価を確認してもよいですか〉
「どれ?」
〈テーブル位置と換気量です〉
優也がフォークを置く。
「テーブルは調理中めっちゃ楽やった。食べる時はいらん」
「換気も良かったです。暑くなり過ぎませんでした」
〈承知しました。今後、同条件に近い調理時には“前回有用だった一時調整”として提案できます。自動適用はしません〉
真琴が頷く。
「それがいいです」
「一回成功しただけやもんな」
「はい」
試す。
合えば、その場では使う。
合わなければ戻す。
次回まで固定しない。
その軽さがあるだけで、新しいことを試すハードルはかなり下がる。
◇
食後、片付けを済ませた二人はソファへ戻った。
真琴はノートを開き、今日の変化を整理する。
『低影響・可逆的な変更は“一時試行”として扱える』
『試行前に元の状態を保持』
『中断指示があれば即時復帰』
『一度有用でも恒常設定へ自動昇格しない』
『用途・環境・人数など条件を分離』
『成功結果は次回提案の参考にする』
『恒常設定変更は別途確認』
『合わずに元へ戻すことを失敗とは扱わない』
最後まで書き終えたあと、真琴は一行だけ追加した。
『質問だけで決めなくても、戻せる範囲なら短時間試して本人が判断できる場合がある』
「今日これやな」
優也が横から見る。
「はい。テーブルも換気も、やってみたから分かりました」
「でも勝手にやられんのは嫌やろ?」
「それは嫌です」
ACROSSが声を出す。
〈可逆性があっても、新しい試行は許可範囲を超えて実行しません。また、本人の身体、個人情報、外部契約、費用、公開範囲に影響する試行は、元へ戻せることだけを理由に実行しません〉
「戻せるから何でも試してええ、ではないんやな」
〈はい〉
優也は少し考えた。
「今後、自分で試してええ範囲ってどこなん?」
〈既存の許可範囲内で、容易に復帰でき、影響が小さい設定です。照明、空調、換気、表示配置などが該当します。ただし、快適性へ直接影響する変更は、原則として提案または事前に設定された許可条件を使用します〉
「家具は?」
〈現在は二人による物理移動が必要なため、私から提案はできますが自動変更できません〉
「将来できるようになったら?」
「同じ権限基準を引き継ぎます」
真琴が少し笑った。
「できることと、していいことは別ですね」
〈はい〉
その線だけは、機能が増えても変わらない。
◇
話が一段落すると、真琴はノートを閉じ、ソファへ深く座った。
優也が大きめのブランケットを一枚取り、二人の膝へ掛ける。
「今日も一枚でええ?」
「はい」
真琴は自然に優也の腕へ自分の腕を絡め、その上へ優也の手が重なる。
数分すると、今度は肩へ頭を預けた。
「今日、肩大丈夫なん?」
「大丈夫です」
「ほな安心」
真琴はしばらくそのままでいた。
優也も何も言わない。
少し前までなら、近い距離が続くと何か話さなければならない気がしていた。
今は、静かなままでも落ち着く。
前の休日に、それを二人とも言葉で確認したばかりだった。
しばらくして、真琴が小さな声で言う。
「優也さん」
「ん?」
「さっきのスプーン、ちょっと恥ずかしかったです」
優也の心臓が一瞬だけ速くなる。
「今言うん?」
「今なら言えるかなと思って」
優也も誤魔化すのをやめた。
「俺も多少は意識したで」
「多少ですか?」
真琴がすぐに聞き返す。
優也は少し間を置いた。
「……まあ、結構」
真琴が肩へ頭を乗せたまま笑う。
「じゃあ同じですね」
「たぶんな」
それ以上は掘らなかった。
なぜ恥ずかしかったのか。
どこまで意識したのか。
その意味を何と呼ぶのか。
今はそこまで知る必要がなかった。
◇
しばらくして、ACROSSが声を出した。
〈本日の一時試行について、追加確認が一件あります〉
「何?」
〈同じ用途で一時試行が繰り返し選択され、複数回有用と評価された場合、恒常設定変更を提案してよいですか〉
真琴が少し考える。
「提案だけならいいです。でも勝手には変えないでください」
「俺もそれでええ」
〈承知しました。反復成功は恒常化の根拠候補として保持しますが、変更には確認を求めます〉
優也は頷いた。
試す。
合えば使う。
合わなければ戻す。
何度も合うなら、その時初めて常設するか考える。
答えを最初から固定しないという点では、最近のACROSSの変化と同じだった。
◇
午後は映画を見ることにした。
真琴が作品を選び、優也が飲み物を用意する。
再生前、ACROSSが新しい提案を出した。
〈前回までの視聴時照度より一段低い設定を、一時試行しますか。現在設定へ即時復帰できます〉
優也と真琴は顔を見合わせた。
「試してみる?」
「はい」
「じゃあお願い」
照明が少しだけ暗くなる。
最初は画面へ意識が集まりやすく、二人とも悪くないと感じた。
ところが十分ほど経つと、真琴が少し目を細める。
「やっぱり前のほうが好きかもしれません」
〈通常視聴設定へ戻しますか〉
「お願いします」
照明が元へ戻る。
優也が笑う。
「合わんやつも出たな」
「でも戻すだけです」
〈本試行は“不適合”ではなく、“真琴は本日の視聴で従来照度を選択”として保持します。優也については未確認です〉
「俺も今のほうがええよ」
〈確認しました〉
試して合わなかったこと自体は、失敗ではない。
使ってみたからこそ分かった。
それだけだった。
◇
映画を再開すると、真琴は優也へ少し寄り、肩へ頭を預けたまま腕も絡める。
今日は寒さを理由にしたわけでも、写真を撮るためでもない。
ただ、その距離で映画を見ている。
画面の中で登場人物が笑うと、真琴の肩が少し揺れ、優也もつられて笑う。
ACROSSは何も言わない。
映画を見るという目的に必要な調整は、もう済んでいた。
終了した頃には外が少し暗くなり始めていた。
「面白かったです」
「今日は寝んかったな」
「今日は寝ません」
「前は寝たもんな」
「まだ言うんですか」
真琴が少し頬を膨らませ、そのあと自分でも笑った。
優也は毛布を畳みながら、今日の照明を思い返す。
「一回試すって、気楽やな」
「決めると思うと迷うけど、試すだけならやりやすいです」
「合わんかったら戻せるし」
「はい。でも、今日合わなかったから次も絶対駄目ってわけでもないです」
「そこも固定せえへんのやな」
真琴が頷く。
その日の気分。
体調。
時間。
周囲の明るさ。
条件が変われば答えも変わるかもしれない。
だから今日の結果は、今日の結果として残せばいい。
◇
帰る準備を終え、二人は玄関へ向かった。
「また次回」
〈また次回、優也、真琴〉
外へ出ると、朝よりさらに冷えていた。
真琴はすぐ優也の腕へ絡み、優也もいつものようにその手へ自分の手を重ねる。
数歩進んだところで、優也が思い出したように聞いた。
「手、また冷たい?」
「少し」
優也は朝と同じように、一度立ち止まる。
「試す?」
「何をですか?」
真琴は分からないふりをしている。
「朝みたいに温めるやつ」
真琴が笑った。
「一時試行ですか?」
「そういうことにしとこ」
「じゃあお願いします」
優也が真琴の手を両手で包む。
朝よりは冷たくない。
それでも、真琴はすぐには手を引かなかった。
「これ、戻せますけど」
「何が?」
「手。いつでも離せます」
「そら離せるやろ」
真琴は包まれた手を見ながら、少しだけ声を落とした。
「でも今は、戻さなくてもいいです」
優也は一瞬黙った。
元へ戻せる。
でも、戻せるから戻さなければならないわけではない。
試してみて、今のほうがいいなら少し続ければいい。
「ほな、もうちょい」
「はい」
二人は数秒、そのまま立っていた。
その数秒は、朝より少し長かった。
◇
歩き始める時には、いつものように腕を組む形へ戻した。
駅へ近づく頃、真琴が静かに言う。
「こういうのも、一回試してみるってありなんですね」
「何の話や」
優也がとぼけると、真琴はすぐに横を見る。
「分かってるでしょう」
「分からん可能性も残しとこか」
「ずるいです」
真琴が笑う。
優也も笑った。
真琴はそれ以上言わず、優也も聞かなかった。
今のやり取りだけで、互いに何を指していたかはほとんど分かっていた。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化をまとめる一文が添えられていた。
『ACROSSは、低影響で元へ戻せる変更について、恒常設定へ決める前に一時試行として短時間使い、本人の評価を受けて戻す・継続する・次回候補へ残すという扱いを始めた』
優也はその一文を読みながら、今日一日を順番に思い返した。
テーブルを少しずらした。
調理中は使いやすかった。
食事には元の位置がよかったので戻した。
換気を一段上げた。
今日はちょうどよかった。
でも、次も同じとは決めなかった。
映画の照明を少し暗くした。
真琴には合わなかった。
だから戻した。
どれも失敗ではない。
試してみたから分かっただけだ。
戻せるなら、戻せばいい。
良ければ、その場では続ければいい。
何度も同じ選択をするようになったら、その時初めて次の扱いを考えればいい。
優也は少し笑った。
帰り道では、真琴の手を両手で包んだ。
寒いという理由はあった。
でも、それだけだったのかはまだ分からない。
真琴も嫌がらなかった。
むしろ、今は戻さなくてもいいと言った。
だから少しだけ、そのままにした。
それを何と呼ぶのかは、まだ決めていない。
決めなくても、今の二人には困らなかった。
ただ一つ、次に同じことが起きた時、元へ戻す場所が分からなくなるのは少し違う気もした。
試すことが増えるほど、どこへ戻るのかを分かっていたほうが安心できる。
優也はそんなことを考えながら、明日の天気予報を一度だけ見てスマートフォンを置いた。
来週は、以前候補に残していた山あいの温泉へ行く話が出ている。
寒くなるほど温泉は気持ちいい。
そのくらいの理由なら、今は一つで十分だった。
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