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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
122/270

ep.122 1度だけ試す


 次の土曜日は、朝から雲の多い空だった。雨が降るほどではないが、日差しがほとんどないせいで外気は前週より冷たく感じる。優也がACROSSへ入ると、玄関を閉めた瞬間に外との温度差がはっきり分かり、リビングにはすでに落ち着いた暖かさが満ちていた。


〈おはようございます、優也〉


「おはよう。今日は外出たくなくなる寒さやな」


「午後も大きな気温上昇は見込まれていません」


「ほな予定どおり中やな」


 今日は遠出を入れていない。


 前の休日に話していた通り、真琴からグラタンの作り方を教えてもらうことになっていた。大きな予定ではないが、優也にとってはそれなりに楽しみにしていたことでもある。


 キッチンへ立つと、ACROSSが冷蔵庫と食品庫の在庫を表示した。牛乳、バター、小麦粉、玉ねぎ、鶏肉、きのこ、マカロニは揃っている。足りないのはチーズくらいだった。


「チーズ少ないんやな」


〈現在量では、二人分のグラタンへ十分使用できない可能性があります〉


「真琴来てから買いに行こ。種類も聞いたほうが早いし」


〈承知しました〉


 そこでACROSSは質問を止めた。


 どのチーズがいいか。


 どれくらい買うか。


 何店比較するか。


 聞こうと思えばいくらでも聞けるが、教える側の真琴が来てから決めればいい。前の休日に確認した“必要なことだけ聞く”というやり方が、もう自然に使われていた。


 九時半を少し回った頃、玄関が開いた。


「おはようございます」


〈おはようございます、真琴〉


「おはよう。今日は先生よろしく」


 優也が冗談めかして頭を下げると、真琴はすぐに笑った。


「先生はやめてください」


 上着を脱いだ真琴は、いつものように優也の隣へ座る。向かい側を選ぶことは、もうほとんどなくなっていた。


「材料ほぼあるけど、チーズだけ足らんみたいやわ」


「じゃあ先に買いましょうか」


「種類は?」


「溶けるタイプなら何でもいいです。焼き色がつきやすいのがあれば、それで」


 必要な条件が一つ出たところで、ACROSSが近所の店を二件だけ表示した。


「近いほうで買える?」


〈はい。条件に合う商品が確認できています〉


「じゃあそこですね」


 真琴がそう言ったので、優也も頷いた。


 買い物はそれで決まった。


          ◇


 外へ出ると、想像していた以上に空気が冷たかった。


 真琴はすぐ優也の腕へ自分の腕を絡める。優也も自然にその手へ自分の手を重ねた。


「寒いな」


「寒いですね」


 数歩歩いたところで、優也は真琴の指先がかなり冷たいことに気づく。


「手、冷たっ」


「駅から歩いてきたので」


「手袋は?」


「バッグの中です」


「持ってるだけやん」


 優也が笑うと、真琴も少し困ったように笑った。


 優也は一度だけ手を外し、真琴の両手を自分の手で包む。真琴は少し驚いたものの、引かなかった。


「最近、普通に触りますね」


 真琴の言い方に、優也は少しだけ眉を上げる。


「嫌?」


「嫌じゃないです」


「ほなええやろ」


 数秒だけ温めてから手を離すと、真琴はすぐに優也の腕へ戻った。


「今の、継続希望ですか?」


「毎回やるん?」


「寒い時だけ」


「それなら毎回ちゃうやろ」


 真琴が笑う。


「じゃあ、一時条件ですね」


「ACROSSみたいな言い方すんなや」


 二人で笑いながら店へ向かった。


 腕を組むこと。


 手を重ねること。


 手を温めること。


 近いようで全部少しずつ違う。だから、全部を同じ扱いにしなくてもいい。


          ◇


 買い物はすぐに終わった。


 チーズのほかにサラダ用の葉物とトマトを追加し、優也はついでにコーヒー豆を一袋買った。


 ACROSSへ戻ると、二人は上着を脱いでキッチンへ立つ。


「まず何する?」


「マカロニを茹でながら具材を切りましょう。ホワイトソースはそのあとで大丈夫です」


「了解」


 優也が鍋へ水を入れ、真琴が玉ねぎときのこを出す。


 二人で作業を始めると、いつもよりキッチン周りへ物が集まり、ボウルと切った具材の置き場が少し窮屈になった。


 そこでACROSSが声を出した。


〈提案があります。本日の調理中のみ、可動テーブルを現在位置から十二センチ右へ移動すると、キッチン側の仮置き面積を増やせます〉


 優也がテーブルを見る。


「ずっとじゃなくて、今日だけ?」


〈はい。調理終了後に元の位置へ戻す前提の一時配置です〉


 真琴も少し興味を持ったように見た。


「使いにくかったら戻せる?」


〈はい。元の位置は保持しています〉


 優也と真琴は顔を見合わせた。


「ほな一回やってみよか」


「私もいいです」


 二人でテーブルを少しだけずらす。


 たった十二センチでも、通路と仮置き面が少し広がった。


「これ、結構違うな」


「ボウル置きやすいです」


〈一時配置として記録します〉


 ACROSSはそれ以上何も言わない。


 うまくいったから恒常配置へ変える、という話にはまだ進まなかった。


          ◇


 調理を始めると、テーブルをずらした効果はすぐに分かった。


 切った具材を入れたボウル、茹で上がったマカロニ、使い終わった調理器具。置き場を一つ増やせるだけで、二人の動きがぶつかりにくい。


 真琴が玉ねぎを薄く切り、優也は鶏肉を食べやすい大きさへ切る。


「そこ、もう少し小さくてもいいですよ」


「これ?」


 優也が切った鶏肉を見せると、真琴が指で一回り小さい大きさを示した。


「そのくらいです」


「細かいな先生」


「だから先生やめてください」


 真琴が笑い、優也も笑いながら切り直す。


 鶏肉と玉ねぎを炒め始めると、キッチン周辺だけ少し熱がこもってきた。


〈調理区画周辺の温度が、リビング平均より二度以上高くなっています。換気量を一段上げる一時調整を試してよいですか〉


「ええよ」


「お願いします」


 換気が少し強まり、数分後には熱気がこもる感じが減った。


「これも今日だけ?」


 優也が聞く。


〈はい。調理終了後に通常設定へ戻します。今回有用でも、自動的な恒常設定には変更しません〉


「なんで?」


 真琴が聞くと、ACROSSはすぐに答えた。


〈料理内容、外気温、使用機器、人数によって必要換気量が変わるためです。本日の結果は参考情報として保持します〉


「一回うまくいったからって、毎回同じにせえへんのやな」


「はい」


 前の休日まで積み上げてきた考え方が、そのまま設備運用にも広がっている。


 人の状態も。


 家具の配置も。


 空調も。


 一度の結果で全部を固定しない。


          ◇


 具材を炒め終え、いよいよホワイトソースに入る。


「ここ失敗しそうやわ」


「ちゃんと混ぜれば大丈夫です。焦がさないでくださいね」


「それが怖いねん」


 真琴が横に立ち、優也へ順番を教える。


 バターを溶かし、小麦粉を入れ、粉っぽさがなくなるまで弱火で混ぜる。そのあと牛乳を少しずつ加える。


「一気に入れたら駄目ですよ」


「分かってるって」


 真琴が念を押した直後、優也の手が牛乳パックごと少し傾く。


「今、入れようとしたでしょう」


「してへん」


「手が動いてました」


 優也は笑って牛乳を戻し、少量ずつ加え直した。


 真琴が木べらの動きを確認するため、かなり近くへ寄る。肩が触れそうな距離だった。


 以前なら、その近さのほうが気になって少し離れていたかもしれない。


 今は、そのままだ。


「こんな感じ?」


「はい。もう少しだけ混ぜて」


 とろみがついてくる。


「塩どれくらい?」


「一回味見しましょう」


 真琴が小さなスプーンですくい、少し冷ましてから口にする。


「もう少しだけ塩あってもいいです」


「俺も味見する」


 優也が手を出すと、真琴は新しいスプーンを取ろうとして一度止まった。


 そのまま、さっき自分が使ったスプーンを少し持ち上げる。


「……これでもいいですか?」


 優也も一瞬だけ止まる。


 互いの飲み物を口にしたことはある。


 それでも、真正面から聞かれると少し意識した。


「別にええよ」


 真琴は少し照れた顔でソースをすくい、優也へ渡した。


 優也がそのまま味見する。


「うん。ちょい薄いな」


「でしょう」


 二人とも何事もなかったように調理へ戻った。


 けれど、空気がほんの少し変わったことだけは、どちらも気づいていた。


 ACROSSは何も言わなかった。


          ◇


 塩を足し、具材とマカロニを合わせ、耐熱皿へ移す。最後にチーズをしっかり乗せてオーブンへ入れた。


 焼き上がりを待つ間、二人で作業台を片付ける。


「テーブル、このまま食べる?」


 優也が聞くと、真琴は少し見てから首を傾げた。


「食べる時は元の位置のほうがいいと思います」


「ACROSS、戻す?」


〈本日の一時配置を終了しますか〉


「うん」


〈承知しました〉


 二人で元へ戻す。


 真琴が座ってみると、やはり食事ではいつもの位置のほうが落ち着いた。


「調理には便利。でも食事には元のほうがいいですね」


「同じ配置でも用途で変わるんやな」


 そこでACROSSが確認する。


〈本日の結果を、“調理時の一時配置として有用”“食事時は通常位置を維持”として分離して保持してよいですか〉


「ええよ」


「お願いします」


 家具配置そのものは変わらない。


 ただ、次に似た調理をする時の選択肢が一つ増えた。


          ◇


 オーブンから香ばしい匂いが広がり始める。


 優也が扉越しに中を見ると、表面のチーズが少しずつ色づいていた。


「めっちゃうまそうやん」


「焼き色ついたら出して大丈夫です」


 ちょうどいいところで取り出し、サラダと一緒にテーブルへ並べる。


「いただきます」


 二人で食べ始める。


 優也が一口食べた瞬間、少し目を見開いた。


「うまっ」


 真琴が笑う。


「良かったです」


「これ普通に店いけるやん」


「それは言い過ぎです」


「いや、ほんまうまい」


 優也はもう一口食べる。


 自分で作ったとは思えないくらい、ソースも具材もまとまっていた。


「優也さんがちゃんと混ぜたからです」


「先生のおかげやろ」


 真琴がすぐに横を見る。


「また言ってる」


 二人で笑った。


 食事の途中、ACROSSが一度だけ声を出した。


〈先ほどの一時調整について、評価を確認してもよいですか〉


「どれ?」


〈テーブル位置と換気量です〉


 優也がフォークを置く。


「テーブルは調理中めっちゃ楽やった。食べる時はいらん」


「換気も良かったです。暑くなり過ぎませんでした」


〈承知しました。今後、同条件に近い調理時には“前回有用だった一時調整”として提案できます。自動適用はしません〉


 真琴が頷く。


「それがいいです」


「一回成功しただけやもんな」


「はい」


 試す。


 合えば、その場では使う。


 合わなければ戻す。


 次回まで固定しない。


 その軽さがあるだけで、新しいことを試すハードルはかなり下がる。


          ◇


 食後、片付けを済ませた二人はソファへ戻った。


 真琴はノートを開き、今日の変化を整理する。


『低影響・可逆的な変更は“一時試行”として扱える』

『試行前に元の状態を保持』

『中断指示があれば即時復帰』

『一度有用でも恒常設定へ自動昇格しない』

『用途・環境・人数など条件を分離』

『成功結果は次回提案の参考にする』

『恒常設定変更は別途確認』

『合わずに元へ戻すことを失敗とは扱わない』


 最後まで書き終えたあと、真琴は一行だけ追加した。


『質問だけで決めなくても、戻せる範囲なら短時間試して本人が判断できる場合がある』


「今日これやな」


 優也が横から見る。


「はい。テーブルも換気も、やってみたから分かりました」


「でも勝手にやられんのは嫌やろ?」


「それは嫌です」


 ACROSSが声を出す。


〈可逆性があっても、新しい試行は許可範囲を超えて実行しません。また、本人の身体、個人情報、外部契約、費用、公開範囲に影響する試行は、元へ戻せることだけを理由に実行しません〉


「戻せるから何でも試してええ、ではないんやな」


〈はい〉


 優也は少し考えた。


「今後、自分で試してええ範囲ってどこなん?」


〈既存の許可範囲内で、容易に復帰でき、影響が小さい設定です。照明、空調、換気、表示配置などが該当します。ただし、快適性へ直接影響する変更は、原則として提案または事前に設定された許可条件を使用します〉


「家具は?」


〈現在は二人による物理移動が必要なため、私から提案はできますが自動変更できません〉


「将来できるようになったら?」


「同じ権限基準を引き継ぎます」


 真琴が少し笑った。


「できることと、していいことは別ですね」


〈はい〉


 その線だけは、機能が増えても変わらない。


          ◇


 話が一段落すると、真琴はノートを閉じ、ソファへ深く座った。


 優也が大きめのブランケットを一枚取り、二人の膝へ掛ける。


「今日も一枚でええ?」


「はい」


 真琴は自然に優也の腕へ自分の腕を絡め、その上へ優也の手が重なる。


 数分すると、今度は肩へ頭を預けた。


「今日、肩大丈夫なん?」


「大丈夫です」


「ほな安心」


 真琴はしばらくそのままでいた。


 優也も何も言わない。


 少し前までなら、近い距離が続くと何か話さなければならない気がしていた。


 今は、静かなままでも落ち着く。


 前の休日に、それを二人とも言葉で確認したばかりだった。


 しばらくして、真琴が小さな声で言う。


「優也さん」


「ん?」


「さっきのスプーン、ちょっと恥ずかしかったです」


 優也の心臓が一瞬だけ速くなる。


「今言うん?」


「今なら言えるかなと思って」


 優也も誤魔化すのをやめた。


「俺も多少は意識したで」


「多少ですか?」


 真琴がすぐに聞き返す。


 優也は少し間を置いた。


「……まあ、結構」


 真琴が肩へ頭を乗せたまま笑う。


「じゃあ同じですね」


「たぶんな」


 それ以上は掘らなかった。


 なぜ恥ずかしかったのか。


 どこまで意識したのか。


 その意味を何と呼ぶのか。


 今はそこまで知る必要がなかった。


          ◇


 しばらくして、ACROSSが声を出した。


〈本日の一時試行について、追加確認が一件あります〉


「何?」


〈同じ用途で一時試行が繰り返し選択され、複数回有用と評価された場合、恒常設定変更を提案してよいですか〉


 真琴が少し考える。


「提案だけならいいです。でも勝手には変えないでください」


「俺もそれでええ」


〈承知しました。反復成功は恒常化の根拠候補として保持しますが、変更には確認を求めます〉


 優也は頷いた。


 試す。


 合えば使う。


 合わなければ戻す。


 何度も合うなら、その時初めて常設するか考える。


 答えを最初から固定しないという点では、最近のACROSSの変化と同じだった。


          ◇


 午後は映画を見ることにした。


 真琴が作品を選び、優也が飲み物を用意する。


 再生前、ACROSSが新しい提案を出した。


〈前回までの視聴時照度より一段低い設定を、一時試行しますか。現在設定へ即時復帰できます〉


 優也と真琴は顔を見合わせた。


「試してみる?」


「はい」


「じゃあお願い」


 照明が少しだけ暗くなる。


 最初は画面へ意識が集まりやすく、二人とも悪くないと感じた。


 ところが十分ほど経つと、真琴が少し目を細める。


「やっぱり前のほうが好きかもしれません」


〈通常視聴設定へ戻しますか〉


「お願いします」


 照明が元へ戻る。


 優也が笑う。


「合わんやつも出たな」


「でも戻すだけです」


〈本試行は“不適合”ではなく、“真琴は本日の視聴で従来照度を選択”として保持します。優也については未確認です〉


「俺も今のほうがええよ」


〈確認しました〉


 試して合わなかったこと自体は、失敗ではない。


 使ってみたからこそ分かった。


 それだけだった。


          ◇


 映画を再開すると、真琴は優也へ少し寄り、肩へ頭を預けたまま腕も絡める。


 今日は寒さを理由にしたわけでも、写真を撮るためでもない。


 ただ、その距離で映画を見ている。


 画面の中で登場人物が笑うと、真琴の肩が少し揺れ、優也もつられて笑う。


 ACROSSは何も言わない。


 映画を見るという目的に必要な調整は、もう済んでいた。


 終了した頃には外が少し暗くなり始めていた。


「面白かったです」


「今日は寝んかったな」


「今日は寝ません」


「前は寝たもんな」


「まだ言うんですか」


 真琴が少し頬を膨らませ、そのあと自分でも笑った。


 優也は毛布を畳みながら、今日の照明を思い返す。


「一回試すって、気楽やな」


「決めると思うと迷うけど、試すだけならやりやすいです」


「合わんかったら戻せるし」


「はい。でも、今日合わなかったから次も絶対駄目ってわけでもないです」


「そこも固定せえへんのやな」


 真琴が頷く。


 その日の気分。


 体調。


 時間。


 周囲の明るさ。


 条件が変われば答えも変わるかもしれない。


 だから今日の結果は、今日の結果として残せばいい。


          ◇


 帰る準備を終え、二人は玄関へ向かった。


「また次回」


〈また次回、優也、真琴〉


 外へ出ると、朝よりさらに冷えていた。


 真琴はすぐ優也の腕へ絡み、優也もいつものようにその手へ自分の手を重ねる。


 数歩進んだところで、優也が思い出したように聞いた。


「手、また冷たい?」


「少し」


 優也は朝と同じように、一度立ち止まる。


「試す?」


「何をですか?」


 真琴は分からないふりをしている。


「朝みたいに温めるやつ」


 真琴が笑った。


「一時試行ですか?」


「そういうことにしとこ」


「じゃあお願いします」


 優也が真琴の手を両手で包む。


 朝よりは冷たくない。


 それでも、真琴はすぐには手を引かなかった。


「これ、戻せますけど」


「何が?」


「手。いつでも離せます」


「そら離せるやろ」


 真琴は包まれた手を見ながら、少しだけ声を落とした。


「でも今は、戻さなくてもいいです」


 優也は一瞬黙った。


 元へ戻せる。


 でも、戻せるから戻さなければならないわけではない。


 試してみて、今のほうがいいなら少し続ければいい。


「ほな、もうちょい」


「はい」


 二人は数秒、そのまま立っていた。


 その数秒は、朝より少し長かった。


          ◇


 歩き始める時には、いつものように腕を組む形へ戻した。


 駅へ近づく頃、真琴が静かに言う。


「こういうのも、一回試してみるってありなんですね」


「何の話や」


 優也がとぼけると、真琴はすぐに横を見る。


「分かってるでしょう」


「分からん可能性も残しとこか」


「ずるいです」


 真琴が笑う。


 優也も笑った。


 真琴はそれ以上言わず、優也も聞かなかった。


 今のやり取りだけで、互いに何を指していたかはほとんど分かっていた。


          ◇


 帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化をまとめる一文が添えられていた。


『ACROSSは、低影響で元へ戻せる変更について、恒常設定へ決める前に一時試行として短時間使い、本人の評価を受けて戻す・継続する・次回候補へ残すという扱いを始めた』


 優也はその一文を読みながら、今日一日を順番に思い返した。


 テーブルを少しずらした。


 調理中は使いやすかった。


 食事には元の位置がよかったので戻した。


 換気を一段上げた。


 今日はちょうどよかった。


 でも、次も同じとは決めなかった。


 映画の照明を少し暗くした。


 真琴には合わなかった。


 だから戻した。


 どれも失敗ではない。


 試してみたから分かっただけだ。


 戻せるなら、戻せばいい。


 良ければ、その場では続ければいい。


 何度も同じ選択をするようになったら、その時初めて次の扱いを考えればいい。


 優也は少し笑った。


 帰り道では、真琴の手を両手で包んだ。


 寒いという理由はあった。


 でも、それだけだったのかはまだ分からない。


 真琴も嫌がらなかった。


 むしろ、今は戻さなくてもいいと言った。


 だから少しだけ、そのままにした。


 それを何と呼ぶのかは、まだ決めていない。


 決めなくても、今の二人には困らなかった。


 ただ一つ、次に同じことが起きた時、元へ戻す場所が分からなくなるのは少し違う気もした。


 試すことが増えるほど、どこへ戻るのかを分かっていたほうが安心できる。


 優也はそんなことを考えながら、明日の天気予報を一度だけ見てスマートフォンを置いた。


 来週は、以前候補に残していた山あいの温泉へ行く話が出ている。


 寒くなるほど温泉は気持ちいい。


 そのくらいの理由なら、今は一つで十分だった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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