ep.109 譲る理由
海沿いの一泊から一週間が過ぎても、優也のスマートフォンには、真琴と並んで撮った写真がお気に入りのまま残っていた。海ではなく真琴を見て笑っている自分の顔は、見返すたびに少し照れくさい。それでも削除する気にはならず、朝日の写真と並べて時々開いてしまう。
土曜日、ガレージへ着くと、ACROSSはいつものように挨拶を返した。真琴が来るまでの間、優也は冷蔵庫の中身を確認し、買い足す物だけを簡単にメモする。以前ならどこに何があるか探す時間も多かったが、最近は分からなければACROSSへ聞けば済むため、準備に掛かる時間は明らかに短くなっていた。
〈優也。卵は残り二個です。次回の宿泊予定がある場合、補充を推奨します〉
「まだ次の場所決めてへんけどな。真琴来たら相談するわ」
〈承知しました。補充候補として保持します〉
会話はそこで終わる。必要なことだけを伝え、返事が済めば黙る。その加減も、今ではほとんど意識しなくなっていた。 真琴が到着したのは午前十時少し前だった。ACROSSと挨拶を交わし、優也からコーヒーを受け取ると、先週の海旅で使った写真やメモを少し整理したあと、次の外出先について話し始める。
「次、どうします? 日帰りでもいいですし、また一泊でも」
「俺はどっちでもええで。真琴、どっか行きたいとこある?」
「私は……どこでもいいです」
真琴はそう答え、テーブルの上のタブレットへ視線を落とした。 優也ならそのまま「じゃあ適当に探そか」で終えていたかもしれない。ところが、少し間を置いてACROSSが声を出した。
〈真琴。確認してもよいですか〉
「はい」
〈“どこでもいい”という発話を、希望する場所がないという意味で扱ってよいですか。それとも、優也の希望を優先する意図を含みますか〉
真琴が顔を上げ、優也も思わず彼女を見る。自分たちの何気ない言い回しを、ACROSSがここまで具体的に拾ったことが意外だった。
「何でそう思ったん?」
優也が理由を聞くと、ACROSSは共有タブレット上の行動と現在の発話を切り分けるように、落ち着いた声で答えた。
〈共有タブレット上で、真琴は先週から湖畔の散策地と周辺温泉を複数回確認しています。ただし、現在の発話では希望場所として提示されませんでした。閲覧履歴だけから意図を確定せず、確認を優先しました〉
真琴は少し驚いたあと、隠していたつもりはなかったのに見抜かれたような気分になり、気まずそうに笑った。
「見てたのは本当です。景色がきれいそうだったので。でも、優也さんは温泉と食事が充実してるほうが好きだと思って、そこじゃなくてもいいかなって」
真琴が遠慮して候補から外していたことを知り、優也は少しだけ眉を寄せた。自分の好みを優先してほしいと頼んだ覚えはないし、湖が嫌いなわけでもない。
「いや、行きたいなら言うてや。俺、湖嫌いちゃうし」
「でも前に、山側は道が狭いところ多いって言ってたじゃないですか」
「場所によるやろ。ACROSSで入れるとこなら問題ないし、俺の好みだけで決める必要ないって」
真琴は少しだけ黙り、自分の希望をどこまで言葉にするか考えていた。その間を待ってから、ACROSSが続ける。
〈確認結果として、“どこでもいい”を希望なしとは扱わず、真琴には湖畔への関心があると保持してよいですか〉
「はい。ただ、絶対そこがいいというほどではありません」
〈承知しました。希望度は低から中程度として保持します〉
優也はいつもの線引きがここでも変わらないことに思わず笑い、その一貫した返しをむしろ信頼できると感じていた。
「希望度まで付けるんやな」
「優先順位を固定するためではなく、提案時に差を区別するためです」
「それなら分かるわ」
真琴も頷いたが、自分が遠慮していたことまで言葉になったせいか、その表情にはまだ少し恥ずかしさが残っていた。
◇
湖畔の候補を実際に調べてみると、思っていたよりACROSSでも入りやすい場所があった。大型車区画のある駐車場があり、少し離れた場所には日帰り温泉もある。紅葉が進む時期なら景色も良さそうで、道路幅も問題なかった。
「普通にええやん。ここでよくない?」
優也があっさり賛成すると、真琴は安心したように表情を緩め、少し嬉しそうに地図を拡大しながら周辺施設まで見始めた。
「本当にいいんですか?」
「何があかんの。真琴が見つけたんやろ?」
真琴はまだ少し気にしているようで、優也が本当は別の場所を望んでいるのではないかと確認する。優也は地図を見ながら首を横へ振った。
「そうですけど……優也さん、海の次は温泉宿っぽいところがいいかなと思ってたので」
「温泉あるやん。飯は現地で何か探せばええし。それに、真琴が行きたいとこ行くのも普通やろ」
そこまで二人の会話を聞いたACROSSは、選択の理由を一つに決めないため、再び確認を求めた。
〈優也。現在の選択は、優也自身も湖畔を希望しているためですか。それとも、真琴の希望を優先しているためですか〉
今度は優也が言葉を止め、自分が湖を選んだ理由を改めて考え、真琴に合わせただけではないと自分でも確認した。
「……両方やな。俺も行ってみたいし、真琴が行きたいなら余計そっちでええ」
〈二つの理由を分けて保持します。優也自身の関心あり。加えて、真琴の希望を優先する意図あり〉
同じ選択でも理由を一つにまとめない返しに、優也は少し呆れながらも、その細かさが今後の誤解を減らすのだと納得していた。
「そこまで細かくする?」
「今後、片方の希望のみを優先した結果と誤認しないためです」
真琴は自分だけが細かく確認されたわけではないと分かり、同じ基準で扱われていることへ少し安心したように小さく笑った。
「ACROSS、最近こういうところ細かいですね」
〈意図の差が今後の提案へ影響する場合、区別が必要です〉
優也はその返答を聞きながら、少し考えた。確かに、「真琴が行きたいから仕方なく付き合う」のと、「自分も行きたいし、真琴が喜ぶならなおさらいい」のでは意味が違う。人間同士なら雰囲気で済ませる部分を、ACROSSは一つずつ確かめている。
◇
候補地を決める前に、真琴がもう一つ別の場所を表示した。湖から少し離れた山側に、小さな温泉施設と地元料理の店が集まっている場所がある。優也はそちらにも興味を示したが、両方を一日で回ると移動が増え、前に二人で決めた「詰め込み過ぎない」という条件から外れそうだった。
「どっちか一つやな」
「私は湖のほうでいいです。温泉はまた別の日でも行けますし」
優也は即決せず、さっき遠慮していた真琴のことを思い出して、今度は言葉どおり受け取っていいのかもう一度だけ確かめる。
「俺も湖でええけど、真琴ほんまにそれでええ?」
「はい」
ACROSSはすぐには話さず、二人の希望が本当にぶつかっているかを整理するように数秒置いてから、慎重な声で言った。
〈確認が必要か判断しています〉
二人が同時に顔を上げ、今度は何を確認しようとしているのか、さっきまでの流れを思い返しながら次の言葉を待った。
「何を?」
真琴が代表するように聞くと、ACROSSは希望差を確認する必要性について、二人の選択を例にしながら説明を始めた。
〈真琴の“湖のほうでいい”という発話が、自身の希望と一致しているため追加確認は不要と判断しました。ただし、優也が山側温泉を強く希望している場合、二人の希望差を確認する必要があります。優也の山側温泉への希望度を確認してもよいですか〉
「そこまで考えてたんか」
優也はそこまで強い希望ではないことを自分でも確かめ、今回は湖で十分だと改めて整理してから、少し笑いながら頷いた。
「温泉も気になるけど、今回は湖でええよ。絶対行きたいほどちゃうし、また今度でええ」
〈承知しました。今回は湖畔を優先し、山側温泉は別候補として保持します〉
真琴はそのやり取りを見ながら、ACROSSが単純な多数決や優先順位ではなく希望差を見ていることをノートへ短く書き込んだ。
「何書いたん?」
「ACROSSが、発話だけじゃなくて“希望の強さがぶつかるかどうか”を見始めてるって」
優也はその表現を聞いて、さっきのやり取りを思い返した。どちらか一方の言葉だけで決めず、二人の希望差そのものを見ているらしい。
「なるほどな」
「どっちが正しいかじゃなくて、どれくらい譲れるかを確認しようとしてる感じです」
優也は「どれくらい譲れるか」という真琴の表現を聞き、単なる好みの順位づけではない今回の確認の意味に少し納得した。
◇
昼前になり、二人は買い物へ出る前に軽く食事を取ることにした。冷蔵庫には前日の残り物が少しあり、簡単に済ませるならそれで足りる。
「昼、これでええ?」
優也が冷蔵庫から残り物の容器を取り出すと、真琴は特にこだわりもなさそうに頷き、手早く皿を用意し始めた。
「私は大丈夫です」
「俺も何でもええし、温めよか」
その時、ACROSSは優也の発話と午前中の行動に小さな差があることへ気づいたらしく、すぐには返さず少し間を置いた。
〈優也。確認してもよいですか〉
「また?」
〈“何でもいい”という発話についてです。現在、優也は冷蔵庫内の残り物を選択していますが、午前中に共有タブレットで近隣の蕎麦店を確認していました。昼食希望として保持する必要がありますか〉
真琴は今度は優也のほうが確認される番になったことがおかしくて、さっきまでの自分を思い出すように思わず吹き出した。
「優也さんも同じじゃないですか」
「いや、あれは店の営業時間見ただけやって」
真琴は明らかに信じていない顔で優也を見る。本人が思っているより、蕎麦を食べたい時の反応は分かりやすいらしい。
「蕎麦食べたい顔してましたよ」
「顔で分かるん?」
「分かります」
優也は言い訳を続けても仕方ないと思い、蕎麦への関心はあるが今は出掛けるほどではないと、今の選択を分けるように正直に答えた。
「まあ、食べたいっちゃ食べたい。でも今日はこれでええよ。出掛けるほどではない」
〈承知しました。蕎麦への関心あり。ただし現在の昼食選択を変更するほどではない、と保持します〉
自分もさっきの真琴と同じように扱われ、優也は少しだけ悔しそうに笑いながらも、公平な扱い自体には文句がなかった。
「完全に真琴と同じ扱いやん」
〈発話と行動に差がある場合、同じ基準で確認します〉
真琴は同じ基準で扱われたことが少し嬉しかったのか、優也の反応を見ながら満足そうに笑った。
「公平ですね」
「俺だけ見抜かれたみたいで悔しいわ」
「私もさっき見抜かれてました」
二人で笑いながら残り物を温めた。ACROSSはそれ以上何も言わず、昼食中の雑談にも入らなかった。
◇
食後、優也はテーブルへ肘をつかない程度に体を預け、真琴はソファでタブレットを見ながら次回の湖畔について調べていた。少しして真琴が画面を優也へ向ける。
「湖の近くに遊歩道あります。二キロくらいなら歩けそうですよ」
「ええやん。写真も撮れるやろ」
写真の話になると、真琴が少し楽しそうに優也を見る。前回決めた条件をまだ続けるのか、念のため確認したいらしい。
「また条件に入れます?」
「もう毎回一枚って決めたやん」
真琴が写真の話をしながら笑ったところで、ACROSSが前回の条件を確認するため自然な間に入った。
〈写真撮影について、確認があります〉
「今度は何?」
ACROSSは前回の海旅で、写真を撮ることより朝日をそのまま見たいと真琴が選んだ場面を参照し、撮影そのものを固定条件にしないほうがよいと説明した。
〈前回、自然な表情を優先する場合、視線や会話が自然に発生する状況で提案すると設定しました。撮影そのものを優先するのではなく、二人がその場の時間を優先している場合は提案を省略します。この条件を継続してよいですか〉
「それでええよ。真琴もそれでええ?」
真琴も前回の朝日を思い出したのか、迷わず同意した。
「私もお願いします」
〈承知しました〉
優也は少し感心した。ACROSSは、前回の朝に「写真より景色を見たい」と真琴が選んだことまで覚えている。単純に「毎回一枚撮る」という条件だけを守るのではなく、その時の二人の選択を上に置くようになっていた。
「こういうの、人間でも忘れるよな」
「ルール決めたら、そのまま守ろうとしちゃいますからね」
優也が冗談半分にACROSSのほうが融通が利くようになってきたのではないかと聞くと、いつもの慎重な答えが返ってきた。
「ACROSSのほうが融通利くようになってきた?」
〈比較には基準が必要です〉
評価には基準が必要だという返答がすぐに返ってきて、二人はあまりにACROSSらしい言い方に同時に笑った。
◇
午後、ホームセンターへ日用品を買いに行き、ガレージへ戻ったのは三時過ぎだった。荷物を片付けている途中、優也が重い箱を持ち上げると、真琴が横から手を出す。
「持ちますよ」
「大丈夫。これくらい一人でいける」
真琴は一度引きかけたが、箱の大きさを見るとやはり二人で持ったほうが早いと思ったらしく、もう一度手を出した。
「でも二人で持ったほうが早いです」
「ほんまに軽いって」
そのやり取りを聞いていたACROSSが、珍しくすぐには口を挟まず、二人が箱を運び終えるまで待った。 リビングへ戻ったところで声を出す。
〈確認してもよいですか〉
「はい」
真琴が続きを促すように答えると、ACROSSは自分が会話へ入り過ぎないための質問頻度について、具体的な提案を始めた。
〈先ほど、真琴は優也の負担を減らす目的で手伝いを提案し、優也は自身で運べることを理由に断りました。このような場合、今後私から安全上の問題がない限り介入しない設定でよいですか〉
優也は作業上の小さな譲り合いまで、今後の介入条件として整理しようとしていることに少し驚いた。
「なんでそこ聞くん?」
〈発話だけでは、優也が援助そのものを不要としているのか、真琴へ負担を掛けたくないため断ったのかを確定できません。しかし、行動結果に安全上の問題はありませんでした。今後同様の場面で、追加確認が必要か判断するためです〉
ACROSSから理由を確認されると、真琴は自分から聞くより先に、その答えを知りたそうに優也へ視線を向けた。
「で、どっちだったんですか?」
「……どっちもやな。ほんまに一人で持てたし、真琴に持たせるほどちゃうと思った」
真琴は予想どおりだったと言いたげに優也を見る。単に一人で運べるから断っただけではなく、自分へ負担を掛けたくない気持ちも混じっていたらしい。
「やっぱり少しは私に持たせたくなかったんじゃないですか」
「そら重いもん持たせんでええなら、持たせたくないやろ」
真琴は何か言い返そうとして口を閉じ、優也の答えを受け取った。そこへACROSSが静かに整理を続ける。
〈優也の回答を、援助拒否ではなく、必要性が低い場合は自身で負担する傾向として保持します。安全上の問題がある場合は別途通知します〉
「それでええよ」
真琴もその扱いなら納得できると頷き、自分が手伝いたい場合は遠慮せずもう一度伝えればいいと考えていた。
「私が手伝いたい時は、私がもう一回言えばいいですしね」
〈はい〉
ACROSSは短く了承し、作業上の小さな譲り合いへ必要以上に踏み込まないという方針を示すように会話を終えた。
◇
片付けがひと段落し、二人はコーヒーを淹れてリビングへ戻った。真琴はさっきの箱の話をまだ少し引きずっているのか、カップを持ちながら優也を見る。
「優也さん、前からそうですよね」
「何が?」
真琴は少し考えながら、優也が自分でできることをすぐ「一人で大丈夫」と言う癖を指摘した。優也は普通だと思っているらしいが、真琴には少し違って見えている。
「自分でできること、すぐ“一人で大丈夫”って言うところ。私が手伝うの、嫌なわけじゃないんですよね?」
「嫌ちゃうよ。むしろ助かる時もある。ただ、真琴にやらせんでいいことなら俺がやるだけ」
真琴は優也の言い分を一度自分の中で整理してから、完全に納得したわけではないもののゆっくり頷いた。
「じゃあ今度から、本当に手伝いたい時はもう一回言います」
「何でそこまで」
「私も一緒にやりたい時あるからです」
優也は返事に少し詰まった。 言葉だけなら作業の話だ。それでも、最近の二人の間では「一緒に」という言葉が以前より少し重く聞こえる。
「分かった。二回言われたら頼むわ」
「二回じゃなくても、ちゃんと聞いてください」
「はいはい」
真琴は「二回」という優也なりの譲歩がおかしくて少し笑い、それなら次からは遠慮せず言える気がした。
◇
夕方になり、真琴は今日分かったことをノートへまとめ始めた。前回の確認では「言葉の意味が一つに決まらない時は本人へ確認する」と整理したが、今日はそこからさらに踏み込んでいる。
『発話と過去行動・閲覧情報に差がある場合、推定で固定せず本人へ確認』
『“どこでもいい”“何でもいい”を希望なしと自動分類しない』
『本人の希望と他者への配慮・譲歩を分離して確認』
『二人の希望が競合する場合、希望の強さを個別に確認』
『希望条件は強度を含めて保持可能』
『援助拒否と、相手への負担回避を分離して確認』
『安全上の問題がない場合、私的な譲り合いへ過剰介入しない』
真琴は最後の一行を書き終えると、今日一日の共通点をどうまとめるべきか考えるようにペンを止めた。
「今日は“言ってないこと”を見るようになりましたね」
優也がノートへ視線を落とすと、今日の出来事が同じテーマの中へきれいに並んでいるのが分かった。
「言ってないこと?」
「例えば私の“どこでもいい”です。本当は湖に少し興味があったけど、言葉だけなら希望なしに見える。優也さんの“何でもいい”も、蕎麦に関心はあったけど、わざわざ行くほどではなかった。箱の時も“一人で大丈夫”だけじゃ理由は一つに決まらない」
優也は三つの場面を順番に思い返し、発話だけで理由まで決めてしまえば確かにズレると納得した。
「なるほどな。言葉だけで決めたらズレるってことか」
「はい。でも、ACROSSが勝手に“本当はこう思ってる”と決めてないのが大事です。違いに気づいたら聞く。そこは今までと同じです」
優也は、行動との差を検出することと気持ちを理解することが同じなのか気になり、天井を見上げた。
「ACROSS。人の気持ち分かるようになったってことではないんやな?」
〈はい。発話、行動、過去の選択に差がある場合、その差を検出できます。ただし、理由を感情として確定することはできません。必要な場合は本人へ確認します〉
優也がまだそこは線を引くのかと笑うと、ACROSSはこれまでと同じように、確認できないことは確定しないという方針を迷いなく返した。
「そこはまだ線引くんやな」
〈確認できないことを確定しません〉
優也はあまりにも変わらない返し方に思わず笑い、真琴も横で同じように表情を緩めた。
「ほんまブレへんな」
真琴もその一貫した返答を聞き、変化しても根本の慎重さは変わらないところがACROSSらしいと感じたように笑った。
◇
少しして、ACROSSがこれまでの確認回数そのものを振り返るように自分から声を出し、今度は質問の仕方そのものを調整したいと切り出した。
〈優也、真琴。今後の確認頻度について質問があります〉
「どうぞ」
真琴が自然に続きを促すと、ACROSSは軽微な選択まで毎回確認することの負担について説明した。
〈軽微な選択まで毎回確認すると、会話への介入が増えます。安全、費用、移動、共同予定、双方の希望差が大きい場合を優先して確認し、影響が小さい場合は現在の選択を尊重して質問を省略してよいですか〉
二人は、ACROSS自身が質問し過ぎる可能性まで調整しようとしていることに気づき、顔を見合わせた。
「それがええと思う。昼飯で毎回“ほんまにそれでええん?”って聞かれたらしんどいし」
「私もです。大きい判断とか、どちらかがかなり譲ってそうな時だけでいいと思います」
〈承知しました。確認頻度を調整します〉
ACROSSは確認頻度を調整すると短く答え、その方針を示すようにその後の会話へは口を挟まなかった。
「自分で質問し過ぎる可能性まで考えるんやな」
「最近、関わり方そのものを調整してますね」
優也は、声を持ったからといって何にでも口を挟む存在にならなかったことを素直にありがたく感じていた。
「喋れるようになったからって、ずっと喋るんちゃうのがええわ」
「私もそう思います」
車内に短い沈黙が落ちたが、それは気まずさより、互いに今の変化を整理するための静けさに近かった。
◇
帰る準備を始める前、真琴はタブレットを閉じると、今度はACROSSではなく自分自身が確かめる番だというように優也へ体を向けた。
「優也さん」
「ん?」
「湖、本当に行きたいですか?」
今度はACROSSではなく真琴自身からの確認で、優也は今日一日の流れと重なったことに少しだけ笑った。
「行きたいで。真琴が行きたいから合わせてるだけちゃう。景色も良さそうやし、温泉もあるし、普通に楽しそうやん」
「そうですか」
安心したように見えたのに、真琴にはまだ少し引っ掛かりが残っていたらしい。優也が気づいて聞くと、真琴は正直に理由を話した。
「まだ気にしてた?」
「少しだけ。私が行きたいって分かったから、無理に合わせてないかなって」
「合わせること自体は別に嫌ちゃうけどな。真琴が行きたいとこ行って喜んでるなら、それも俺は楽しいし」
真琴の表情が少し止まり、優也も言ってから、自分がまた相手の喜びを自分の楽しさとして口にしたことへ遅れて気づいた。
「……また困るやつ言った?」
「はい。少し」
優也が反射的に謝ると、真琴はすぐに首を横へ振った。困ると言っても、嫌だという意味ではない。
「ごめん」
「謝らなくていいです」
真琴は優也が楽しそうなら自分も嬉しいと口にしたあと、自分でも少し踏み込んだと気づいたように照れた笑みを浮かべた。
「私も、優也さんが楽しそうなら嬉しいので」
優也は何も返せず、カップへ視線を落とした。 今の言葉をACROSSがどう扱うのか少し気になったが、ACROSSは何も言わない。二人の希望差を解消するための確認ではなく、ただ二人の間で交わされた言葉だと判断したのかもしれなかった。
◇
玄関へ向かう前、優也はさっきの会話にはACROSSが入ってこなかったことを思い出し、その理由が気になって聞いてみた。
「今の会話、確認せえへんの?」
〈必要性が低いと判断しました〉
優也はACROSSがあえて黙っていたことを少し意外に思い、どこで介入不要と判断したのか理由だけを聞いてみた。
「理由は?」
「外出先に関する判断はすでに一致しています。直前の会話は、決定を変更するためではなく、互いの理由を確認する内容でした。追加質問による行動上の利益が小さいため介入しません」
真琴は会話の内容だけでなく、追加質問によって実際に何か変わるかまで基準にしていると知り、少し驚いたように天井へ視線を向けた。
「そこまで区別してるんですね」
「はい」
優也はすべての会話を分析対象にしない判断までできるようになったことに、少し感心しながら頷いた。
「それでええわ。全部に入ってこんでええ」
〈承知しました〉
その返答を聞いた二人は、互いの理由を確かめるだけの会話へACROSSが入らなかったことにも納得し、そのまま帰る準備を続けた。
◇
ガレージを出て駅へ向かう途中、真琴はいつものように優也の隣を歩いた。少し前までは、並んで歩くこと自体に何の意味もなかった。それが今では、互いに歩幅を合わせ、離れ過ぎない距離を自然に選んでいる。
「湖、いつにします?」
「来週休み合うなら行こか。混んでそうなら再来週でもええし」
真琴はその場で予定を固定せず、帰宅後に互いの休みと混雑状況を確認してから、無理のない日を選ぶことにした。
「じゃあ帰ったら予定見ます」
「うん」
しばらく歩くと、真琴の手が一度だけ優也の手へ触れた。 海から戻った時と同じように、今度もどちらからともなく距離が近づく。 優也は少しだけ手を動かし、真琴の指へ触れた。 真琴も離さない。 数歩そのまま歩いたあと、真琴の指が優也の指の間へゆっくり入る。 今度は、ちゃんと手を繋いだ。 海辺の朝より短い時間だったが、理由は何もなかった。
「……これ、状況的にあり?」
優也は触れた指を離さないまま、小さな声で確認するように聞いた。真琴はその聞き方がおかしくて少し笑う。
「聞かなくても分かるでしょう」
「ACROSSみたいに確認しようかなと思って」
真琴は呆れたように笑い、手を繋ぐたびにそんなふうに確認されたら余計に意識してしまうと、小さく抗議するように返した。
「毎回聞かれたら困ります」
「じゃあ今は?」
「……今は、いいです」
優也は返事を受け取ると、それ以上言葉を重ねず、真琴の手を繋いだまま歩幅を合わせて駅へ向かった。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日一日の変化をまとめるような短い補足が付け加えられていた。
『ACROSSは、発話されなかった希望や理由を推定で決めず、行動との差として検出し、必要な時だけ本人へ確認するようになった』
優也はその一文を何度か読み返しながら、湖の話から帰り道まで続いた今日の会話を順番に思い返した。
「どこでもいい」。
「何でもいい」。
「一人で大丈夫」。
言葉だけなら単純でも、その理由は一つではない。 譲っているのか。 本当にこだわりがないのか。 相手へ負担を掛けたくないのか。 自分も同じものを望んでいるのか。 ACROSSはそこを勝手に決めず、必要なら聞くようになった。 そして優也と真琴も、少しずつ同じことをしている。 相手が何を考えているのか、勝手に決めない。 気になるなら聞く。 それでも、全部を聞かなければ分からないわけではない。 手を差し出した時に取ってくれたこと。 離さなかったこと。 もう一度、今度は理由もなく手を繋いだこと。 言葉にしなくても分かることも、少しずつ増えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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