ep.1 消えた白い皿
十二月の大阪は、日が傾き始めると急に寒さを増す。
昼間はまだ日差しに多少の暖かさが残っていたはずなのに、午後四時を回る頃には、道路の上を抜けていく風が容赦なく体温を奪い始めていた。福山優也は防寒着の襟元を少し引き上げながら、右手に持った誘導灯をゆっくり横へ振る。
「はい、どうぞー。ゆっくりお願いしまーす」
片側交互通行になっている道路へ車を送り出し、軽自動車、その後ろのワゴン車、さらに配送トラックが規制区間へ入っていくのを確認する。最後尾が工事区間を抜けたところで誘導灯を赤へ切り替え、今度は反対側で待機している同僚へ無線を入れた。
「こっち止めました。そっちお願いします」
『了解。三台流します』
イヤホンから返事が聞こえ、優也は歩道側へ少し身体を寄せる。
道路工事の交通誘導という仕事は、傍から見るほど単純ではない。車だけを見ていれば済むわけでもなく、歩行者や自転車、脇道から出てくる車、工事現場へ出入りするダンプ、それに作業員の動きまで同時に気にしておく必要がある。一つ判断を誤れば事故につながる可能性がある以上、ぼんやり棒を振っていればいい仕事でもなかった。
それでも優也は、この仕事をそれほど嫌ってはいない。
夏はどうしようもなく暑く、冬は今日のように身体の芯まで冷える。長時間立ちっぱなしの日もあれば、交通量の多い場所では神経も使う。それでも、一日の仕事が終われば基本的にはそこで区切りがつくし、複雑な人間関係を家まで持ち帰る必要もない。自分には、こういう分かりやすい仕事の方が合っている気がしていた。
「福山さーん!」
工事区画の向こうから、作業員の一人が手を上げた。
「あと十五分くらいで終わりまーす!」
「はーい、了解です!」
返事をしながら腕時計を見ると、午後四時四十五分を少し過ぎたところだった。予定より早い。このまま規制解除まで順調なら、今日はいつもより少し早く帰れるかもしれない。
それだけで気分がわずかに軽くなる。
大きな夢があるわけでも、大層な趣味があるわけでもない。仕事を終えて家へ帰り、適当に食事をして、動画でも眺めながら酒を一本飲む。そんな一日で終わることも珍しくなかった。
生活も質素な方だと思う。
冷蔵庫は何年も使っている型落ち品で、電子レンジも温められればそれで十分。炊飯器に至っては、以前ホームセンターの特売で買った三合炊きが今も現役だった。壊れてもいない物を、見栄だけで買い替える感覚は優也にはない。
ただし、例外が一つだけある。
休憩中にポケットから取り出したスマートフォンは、その年のかなり上位に位置するモデルだった。
以前、同じ現場に入った警備員から、
「福山さん、家電とか全然こだわらんのに、スマホだけ毎回ええやつですよね」
と笑われたことがある。
その時、優也は大して考えもせず、
「毎日使うもんやからな。途中で動き遅いとか、容量足らんとか言うくらいなら、最初からええやつ買った方が楽やん」
と答えた。
要するに、何にでも金を掛けるわけではない。安い物で十分ならそれでいいし、必要なら廉価品でも普通に妥協できる。ただ、自分の中で「これは大事だ」と決めた物だけは、中途半端な物を選びたくなかった。
もっとも、今の優也の生活には、そんな大金を使いたくなる物など滅多にない。
その時は、そう思っていた。
◇
午後五時を少し過ぎた頃には規制も解除され、カラーコーンや看板の撤去が始まっていた。優也も誘導灯をしまい、現場責任者へ一言挨拶をしてから帰り支度を整える。
「福山さん、今日ちょっと飲みに行きません?」
同じ現場に入っていた男が、防寒着を脱ぎながら声を掛けてきた。
優也は一瞬だけ考えたものの、すぐに首を横へ振る。
「今日はええわ。寒いし、もう帰りたい」
「またそれですか」
「今日ずっと外おったんやで? これ以上、外におる理由ないやろ」
「飲み屋は中ですよ」
「そこまで行く間が寒いやん」
「面倒くさいだけでしょ」
「それもある」
互いに笑い、優也は先に現場を離れた。
帰宅する頃には空はすっかり暗くなっていた。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎながら、いつもの癖で声を出す。
「ただいまー」
もちろん返事はない。
一人暮らしを始めて随分経つのに、なぜかこの一言だけは習慣として残っていた。別に寂しさを紛らわせたいわけでもなく、単に子どもの頃から身についた癖が、そのまま抜けずにいるだけだった。
防寒着をハンガーへ掛け、暖房のスイッチを入れる。部屋の中まで冷え切っていて、エアコンから温風が出始めるまでには少し時間が掛かりそうだった。
「さむ……何食お」
冷蔵庫を開けて中を眺める。
豆腐、卵、少し前に作ったおかず、それから昨日買った総菜が残っている。料理をする気力は、冷蔵庫を開けた時点ですでに消えていた。
「今日はこれでええな」
総菜を電子レンジへ入れ、ついでに冷奴でも食べようと豆腐を取り出す。食器棚から白い小皿を一枚抜き取ったところで、ズボンのポケットが震えた。
何の模様もない、ごく普通の白い陶器の皿だった。四枚セットで買った安物で、いつ購入したのかも覚えていない。特別な思い入れがあるわけでもなく、割れたところで同じような物を買えばいい程度の存在だ。
「ん?」
皿を右手に持ったままスマートフォンを取り出す。
仕事仲間からメッセージが届いていた。今日の現場で撮った写真を共有してほしいらしい。
「今かいな……」
優也は皿を持ったままスマートフォンを操作し、指定された写真を探して送信する。時間にすれば十秒も掛かっていなかった。
送信完了を確認し、スマートフォンをテーブルの端へ置いたところで、優也はふと違和感を覚えた。何かが足りない気がして、無意識に右手へ視線を落とす。
「……あれ?」
手の中には何もなかった。
数秒前まで、そこには確かに白い皿があったはずだ。優也は一度瞬きをしてから、流し台、電子レンジの上、調理台、冷蔵庫の横へ順に視線を巡らせる。無意識にどこかへ置いたのだろうと思ったが、すぐ近くにそれらしい物は見当たらない。
「置いたっけ?」
念のため足元まで覗き込んでみるものの、落としたのなら音がしたはずだし、陶器なのだから床へ落ちれば割れていてもおかしくない。だが、何かが落ちた音を聞いた記憶はなく、当然ながら破片も見当たらなかった。
「……何してんねん、俺」
優也は苦笑しながら頭を掻いた。
疲れているのかもしれない。仕事から帰ってきたばかりで、ぼんやりしていたのだろう。そう考えながら食器棚からもう一枚取り出そうとしたところで、伸ばした手が途中で止まった。
棚の中には、同じ白い皿が三枚重なっている。
もともとは四枚あり、そのうち一枚をさっき自分が確かに取り出した。なら、その一枚はどこへ行った?
「いや……どっか置いたんやろ」
自分に言い聞かせるように呟き、もう一度台所を探してみる。冷蔵庫の横、食器棚の別の段、流しの下、電子レンジの脇、炊飯器の裏。念のため冷蔵庫の中まで開け直してみたところで、自分が何をしているのか分からなくなってきた。
さすがにゴミ箱を覗いた頃には、優也自身も呆れていた。
「皿一枚で何してんねん……」
結局、別の皿を一枚取り出して豆腐を載せ、醤油と刻みネギを掛ける。温め終わった総菜と一緒にテーブルへ運び、冷蔵庫から缶ビールを一本出した。
プルタブを開ける小気味よい音が、静かな部屋に響く。
テレビをつければ、いつもと変わらない番組が流れ始めた。それでも、優也は食事の途中で何度も台所へ目を向けてしまう。
「……ほんま、どこ置いたんやろ?」
人間、意識せず変なことをする時がある。スマートフォンを冷蔵庫へ入れてしまった、財布を探しているのに手に持っていた、なんて話も聞いたことがあるし、自分だって歳を取れば似たようなことをするのかもしれない。
そう考えると、少し情けなくもなった。
たかが安物の皿一枚だ。明日になれば、あり得ないような場所から出てきて笑い話になるかもしれない。
優也はそう思うことにして、残っていたビールを飲み干した。
◇
食事を終え、食器を洗って片づける。
先ほど使った白い皿を食器棚へ戻すと、そこにはやはり四枚ではなく三枚しかなかった。気にしなければいいだけなのに、一度引っ掛かった疑問というものは、そう簡単には頭から消えてくれない。
優也はしばらく棚を眺めたあと、諦めるように扉を閉める。
「……なんやねん」
そう呟いた時だった。
ふいに、頭の奥を妙な感覚がよぎった。誰かに呼ばれたわけではない。音がしたわけでもなければ、何かが視界を横切ったわけでもない。それでも、なぜか分かった。
――ある。
自分でも意味が分からないのに、さっき消えた皿が“どこかに存在している”という感覚だけが、不思議なくらいはっきりしていた。
優也は眉を寄せながら目を閉じた。
最初はただ暗いだけだったが、その暗闇の奥へ意識を向けていると、やがてぼんやりと白い輪郭が浮かび上がってくる。映像として鮮明に見えているわけではない。それでも、丸くて平たい何か――ついさっきまで手に持っていた、あの皿だと分かった。
「……何これ?」
思わず目を開ける。
目の前にあるのは、いつもの台所だった。食器棚も、流し台も、電子レンジも、何一つ変わっていない。
それでも気になって、もう一度目を閉じてみる。
すると、やはりそこに白い皿がある。
見ているというより、存在そのものが頭の中へ直接伝わってくるような、不思議な感覚だった。
優也は少し迷ったあと、右手を前へ出す。どうすればいいのかなど分かるはずもない。それでも、さっき消えた皿を強く意識してみた。
あの白い皿を、ここへ戻したい。
そう思った瞬間、空だった右手に突然、はっきりとした重さが生まれた。
「……え?」
反射的に目を開ける。
そこには、白い皿があった。
さっきまで台所中を探しても見つからなかった、一枚の皿。指先には陶器特有の冷たさまで伝わってくる。
優也はしばらく身動きもせず、自分の右手と皿を交互に見比べた。どれだけ見直しても、見間違いには思えない。酔っていると言えるほど酒を飲んだわけでもなければ、眠っていたわけでもない。
そして何より、自分は今、何もない場所からこの皿を取り出した。
その事実だけが、妙にはっきりしていた。
「……いや、待て」
優也は皿をテーブルへそっと置き、少し距離を取った。当然ながら皿は動かず、ただの安物の白い皿が、何事もなかったかのようにテーブルの上へ置かれているだけだ。
「……どういうことやねん?」
怖いという感覚がないわけではなかったが、それ以上に、理解できないことへの戸惑いの方が強かった。さっき何が起きたのか。どうやって消えたのか。どこへ行っていたのか。そして、なぜ自分はそれを取り出せたのか。
考えても答えは出ない。
ただ一つ分かるのは、今までの自分の日常では説明できない何かが起きたということだけだった。
優也は腕を組み、テーブルの上の白い皿をじっと見つめる。
いつも通り仕事をして、いつも通り家へ帰り、いつも通り安い総菜と冷奴を食べる。それだけで終わるはずだった一日が、一枚の皿を境に、ほんの少しだけ違うものへ変わってしまった。
その時の優也には、まだ知る由もなかった。
目の前にある数百円の白い皿が、やがて自分の暮らしを変え、旅を変え、人との出会いを変え、そして遥か先で多くの人間の人生にまで関わっていく、最初のきっかけになることを。
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