第94話 少女は、触れてはいけない幸福を夢見る
――ここは、夢ではないのだろうか。
そう思うほどに、世界は穏やかで、輪郭がやわらかかった。
この人の隣を歩ける未来など、かつて想像したこともない。
少女は足元を見つめながら、ただ歩いていた。
「まだ歩くの?」
問いかける声にも、焦りはない。
「あともう少しだよ。……ほら」
丘を越えた、その先で、風の匂いが変わった。
空気に含まれるものが、わずかに甘い。
淡く、けれど確かに存在を主張する香り。
「……あ」
思わず、足が止まる。
視界いっぱいに、花が広がっていた。
紫。
白に溶け込む寸前の、淡い紫。
背の低い花が、無数に揺れている。
風に抗わず、けれど消えもしない。
そこに“在る”ということだけを、静かに続けている。
「きれい……」
声にした瞬間、喉がわずかに震えた。
それは感嘆というより、胸に溜まったものが零れた音だった。
「でしょう」
レインは、心から嬉しそうだった。
まるでこの景色を、少女に見せるためだけに歩いてきたかのように。
「ここ、誰にも教えてないんだ。貴族の庭でもないし、管理もされていない。……偶然、見つけた」
少女は、ためらいがちに花畑へ踏み入れる。
足元の花は、逃げもしなければ、拒みもしない。
「踏んでも……いいの?」
「踏まないように、歩けばいいよ」
それだけだった。
支配しない。
奪わない。
ただ、共に在るという選択。
花の香りが、さらに深くなる。
甘いのに、なぜか胸が締めつけられた。
「この花……」
少女はしゃがみ込み、一輪をそっと見つめる。
「名前、あるの?」
「あるよ。リリスミア」
その名を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
理由は、分からない。
「……変な名前」
「そうかな」
レインは、微笑んだ。
「でも、僕は好きだ。簡単に振り向かないし、主張もしない。なのに、気づいたら目で追ってしまう」
少女は、花から視線を逸らす。
「……それ、嫌いな人もいるよ」
「いるだろうね」
レインは屈み、少女と同じ高さになる。
「でも、僕は――そういうところが、好きだ」
風が吹いた。
花畑が、さざ波のように揺れる。
沈黙。
その静けさの中で、少女はなぜか息が苦しくなった。
「……ねえ」
「うん」
「今日が終わったら……わたしは、戻るよ」
裏路地に。
名前のない場所に。
レインは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、否定でも拒絶でもないことを、少女は感じ取っていた。
「知ってる」
やがて、静かに。
「だから、約束したんだ。今日一日だけ、君を独り占めするって」
少女は、唇を噛む。
「……それでも」
それでも、期待してしまう。
優しくされるたびに。
レインは、花畑を見渡し――そして、少女を見た。
「リズ」
その名を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなる。
「僕は、君を愛してる」
静かな告白だった。
誓いも、未来の話もない。
けれどそれは――
少女が、生まれて初めて受け取った“愛”だった。
「君がどこから来たかも、どんな夜を越えてきたかも、全部知らない」
一歩、距離が縮まる。
「それでもいい。知るために、そばにいたい」
少女の目に、涙が浮かぶ。
「……今日だけだよ」
「うん」
「今日だけ……リズでいる」
「それでいい」
レインは、そっと額に口づけた。
恋人としてでも、所有者としてでもなく――
大切なものに触れるように。
花畑は、静かに揺れていた。
誰にも踏み荒らされず、
誰にも奪われず。
この一日が、永遠であればいいと――
少女は、心から願ってしまった。
その願いが、
やがて神に届いてしまうことも知らずに。
***
「……レディ?」
淡い記憶が、音を立ててほどける。
「どうしたんだい?黙ったままで」
「レイン……」
口にして、違うと分かった。
重なった影は、別の人。
「あ」
目の前にいたのは、ベガ。
この世界での、恋人。
心配そうに覗き込むその顔に、少女は息を呑んだ。
がたん――
ローテーブルが揺れ、花瓶が床に落ちる。
小さな破裂音。
白い花瓶は静かに砕け、水が少女の裾を濡らした。
リリスミアは、その隙間で力なく倒れる。
「大丈夫?ケガはない?」
すぐに、ベガが手を取る。
「大丈夫……なんとも、ない」
恋人の声も、温度も、
なぜか遠かった。
自分に向けられた愛の言葉は――
受け取るべき愛は――
誰に返せばいいのか、分からない。
「ごめん。片付ける」
「いいよ。オレがやるから」
甘やかな声。
何もさせない優しさ。
自由を包む檻のような、温もり。
「レディは少し休んだ方がいい。疲れている……みたいだしね」
抱き上げられ、寝室へ運ばれる。
ベッドに横たえられると、マットが小さく沈んだ。
前髪を梳く指先。
その表情が、少しだけ悲しそうに見えた。
――夢だったら、よかったのに。
少女は、ベガの頬を撫でる。
ここは現実。
少女の、帰る世界。
「……キス、して」
「いいよ」
確かめるように引き寄せる。
「ん……」
短い口づけのあと、少女は息を吐き、指でベガの輪郭をなぞる。
「わたしの、帰る……場所……」
「そうだね」
今度は、ベガが少女の額に唇を落とした。
それは、約束のようで。
祈りのようで。
――そして、逃れられない現実だった。




