第92話 少女は、少しだけ胸を弾ませる
昼下がりの街は、
朝の静けさを、ゆっくりと手放しつつあった。
石畳の隙間に溜まった光は、
時間が進むにつれて、より鮮やかに輝いている。
少女は、その光の端を踏まないように歩きながら、
隣を行くベガの袖を、そっとつまんでいた。
引き止めるほど強くはない。
ただ、離れないことを確かめるためだけの、
曖昧で、控えめな力。
「疲れた?」
気づいたベガが、すぐに声を落とす。
歩幅も、意識せずとも緩まっていた。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、
ベガは「そっか」と短く返す。
理由を聞かない。
無理もさせない。
その代わり、
少女の歩調に、きっちりと合わせてくる。
それが、ひどくありがたかった。
手を繋いでいるわけでもない。
肩が触れるほど近いわけでもない。
けれど、同じ方向を向き、
同じ速度で、同じ街を歩いている。
それだけで、
胸の奥に溜まっていた緊張が、
少しずつほどけていくのを感じた。
「あ……」
ふと、少女は足を止めた。
どこか、懐かしい香り。
視線を向けると、そこは花屋の入り口だった。
色とりどりの花が、
まるで息を潜めるように並んでいる。
「どうしたの?」
「ううん……なんでもない」
「そう」
それだけ。
ベガは、それ以上何も言わず、
ただ微笑んだ。
また、歩き出す。
花の香りを、引き止めることなく。
***
次の日―――
朝、目を覚ますと、
隣にベガはいなかった。
いない朝は、初めてだった。
胸の奥に、
ひやりとしたものが広がる。
けれど、
ダイニングテーブルに置かれた一枚の紙に気づき、
その不安は、静かにほどけていった。
―――ギルドから依頼があった。昼過ぎには戻る。
テーブルの上には、
パンと、目玉焼き、サラダ、ヨーグルト。
用意された朝食。
少女は、静かすぎる部屋に腰を下ろす。
一口、食べる。
咀嚼の音が、
やけに大きく響いた気がして、
少しだけ、恥ずかしくなる。
「……聞こえてたのかな……」
目の前は、空っぽだった。
いつも、愛おしそうに自分を見つめる視線は、そこにない。
「……欲深く、なってきてる」
今まで、なかった気持ち。
煩わしいと思っていた、人との交わり。
それを、
自ら選んでいる自分。
自分が自分ではないような感覚に、
少女は、少し落ち着かなくなった。
最初にこの部屋へ来たときは、
何もない、殺風景な空間だった。
けれど、最近は―――
少しずつ、物が増えている。
マグカップ。
食器。
ナイフと、フォーク。
自分が、ここにいる証。
いてもいいという、ささやかな証。
それが、
たまらなく、くすぐったかった。
食器を洗い、
慣れない手つきで、少しだけ掃除をする。
いつもなら、
「座ってていい」と言われるのに。
彼がいないから。
帰ってきたときの、
少し驚いた顔を想像して、
少女は、ほんの少し意地悪な気持ちになる。
「……そうだ」
ふと、思いつく。
普段、やらないことをしてみよう。
少女はコートを羽織り、
昼下がりの街へ出かけた。
***
外の風は、思ったよりも強かった。
乾いた砂が道を渡り、靴の先に当たる。
「うわ、魔王じゃん」
何気ない一言。
少女は、反射的に振り向いた。
「こっち見た!」
「こわっ!」
冒険者たち。
しばらく、ベガの陰に隠れて、忘れていた感覚。
少女は、街では忌み嫌われる存在だった。
恐れられ、
距離を取られる。
「なあ」
そんな少女に、
距離を詰めてくる声がある。
ヴルだった。
前触れもなく、
いつの間にか、隣に立っている。
「この風、髪ぼさぼさになるやろ」
少女は立ち止まり、少し考えてから答えた。
「……なる」
「せやろ。ええ髪しとるのにもったいないわ」
「……別に、いい」
「そか。ほな、ええな」
この辺りが、ヴルのテリトリーだったことを、
少女は思い出す。
彼が視線を投げると、
先ほどの連中は、何も言わずに路地へ消えた。
「……なんで、話しかけたの?」
「んー……気晴らしや。店番も飽きてたしな」
「不真面目」
「そんなことあらへん。金の音がする方向やったら一目散やで」
「……わたしのことも、売ろうとしたもんね」
その言葉に、
ヴルは一瞬だけ反応した。
意外と顔に出るんだ、と少女は思う。
「覚えてんの?」
「驚くことじゃないでしょ……あんなことされたら」
「なるほど」
ヴルは、深く頷いた。
「なにしに行きよるん?」
並んで歩く。
足音と、風の音だけがついてくる。
「買い物」
「さよか……あー、せや。腹、減ってへん?」
「……少し」
「ほな、なんか食うか。甘いんと、辛いん。どっちがええ?」
少女は、少し迷う。
ベガがいつ帰ってくるかは、分からない。
昼過ぎ、という言葉が、胸に引っかかる。
でも、お腹は正直だった。
「……辛い」
「へえ。てっきり甘々なんが好きかと思てた。大人やん」
からかうような口調。
少女は、少しだけ眉を寄せる。
「まあ、甘いんもあるとこ行こか」
「……?」
「気分、変わるかもしれへんやろ」
理由は言わない。
深掘りもしない。
人の流れが、増えていく。
「人、多い……じゃん」
「せやな。迷子になったら面倒やし、ついて来いや」
命令でも、優しさでもない声。
少女は、何も言わず、少しだけ距離を詰めた。
歩きながら、ヴルが笑う。
「ほんま、不思議やな」
「……なにが?」
「いや。別に、なんでもない」
案内された小さな店で、
よく分からない辛い餅を食べた。
甘い方は、あんこが入っているらしい。
これを、ベガの手土産にしよう。
きっと、驚く。
少女は、それを二つ買った。
満足して立ち上がった、その瞬間。
「ほな、またな」
ヴルは、逃げるように去っていった。
同時に―――
「……っ……はぁ、はぁ……こんなところに、いたんだ!」
汗にまみれたベガが、駆け寄ってくる。
首のスカーフを外し、荒い呼吸のまま、少女を見た。
「あ、ごめん……すぐ帰るつもりだったの」
「いや。……レディがいてくれて、良かった」
服から覗く腕には、いくつもの傷跡。
治癒もせず、まっすぐ戻ってきたのだと、すぐに分かる。
「書き置き、すればよかった……」
「そうだよ。オレだって残したのに。……レディは、ひどいや」
息を整え、深く呼吸してから、ようやく視線が合う。
安堵した顔。
胸をなで下ろしていた。
「帰ろう」
ベガは、少女の肩に、少しだけ体重を預けるように言った。
「……見せたいものが、あるんだ」




