第76話 少女は、光の名を借りる
―――長い夢を見ていた気がした。
目を開けると、見覚えのある天井がそこにあった。
安堵とも落胆ともつかない息が、少女の喉から静かにこぼれる。
首だけを動かすと、窓が風に揺れて、小さく鳴った。
その隙間から、冬が忍び込んでくる。
冷たい日差しが、遠慮なく少女の頬を照らしていた。
布団の中に戻りたい――そう思わなかったわけではない。
けれど、今日は予定があった。
大事な、大事な――一日を預けるための、約束。
少女は身支度を済ませ、外へ出た。
冬の空は淡く、色を主張しない。
青は薄く引き延ばされ、空気は凛と張りつめている。
息を吸うだけで、肺の奥がきしむようだった。
小道を抜け、わずかに日が射す道を渡る。
この街の住人しか知らない、小さな、小さな広場。
「おはよう」
声に、少女は顔を上げた。
雪を溶かすような、穏やかな笑み。
「早すぎ…だよ」
「ごめんね。できるだけ長く、君と一緒にいたいと思ったんだ」
レインは、ためらいもなくそう言った。
少女は、まだこの男のことをよく知らない。
なぜ自分に、ここまで向けてくるのか。
下心なく、近づいてきているのか。
―――それでも。
一緒にいると、胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
「どこに行くの?」
「秘密。今日は全部、僕に任せて」
「嫌な予感しかしない」
「そんなことないって……はい」
差し出された手。
意味が分からず、少女は首をかしげる。
「なに……お金?」
「違うってば」
重なる手のひら。
「エスコート、だよ」
初めて聞く言葉だった。
何かの儀式――貴族の中だけで通じる作法なのだろう。
そう思えば、納得もできた。
なにより、レインが嬉しそうだったから。
その気持ちが、少女の胸にも静かに伝わった。
手を引かれ、路地裏を抜ける。
その先は、光の世界。
影に生きてきた少女は、一瞬、足を止めかけた。
だが――レインがいる。
それだけで、どこへでも行ける気がした。
一歩。
初めて、暗がりを越えて、明るい場所へ踏み出す。
「あ……」
頭では分かっている。
大したことじゃない。
けれど、ずっと遠くから眺めていた喧騒の中に、
自分が足を踏み入れたという事実が、胸を打った。
「おいで」
黒く、豪奢な馬車が停まっていた。
「な、に……いやだ」
聞いていない。
自分は、そんな世界の人間じゃない。
「じゃあ……ちょっとごめんね」
動かない少女を、レインは抱き上げた。
「え!!?? ちょっと……」
声が出たことよりも、羞恥が勝る。
そのまま馬車へ運ばれ、扉は自動的に閉じ、鍵がかかる。
密室。
少女は不安に駆られ、レインの服をぎゅっと掴んだ。
「ふふ……」
笑っている。
こんなにも怖いのに。
楽しそうに。
「なんで、笑うの?」
「だって、あまりにも可愛かったから」
「……」
苛立ちが先に立つ。
少女は、彼の脇を小突いた。
「あはっ! ごめん、ごめん」
抗議を受け入れ、レインは少女を席に座らせた。
「『一日を僕にくれ』って言うから、何事かと思ったけど……こんなことをするために、呼んだわけじゃないよね?」
「違うよ。これは本当に一部。今日はね……君に、別人になってほしい」
「……は?」
意味が分からない。
レインはわずかに頬を染め、咳払いをする。
「今日は、僕だけのものになってほしい。僕だけを、見てほしいんだ」
やはり、分からない。
「つまり……」
紫の瞳が、ぼんやりと揺れる。
手を伸ばしかけた少女の手を、レインは止めた。
「あ、違う。そういう意味じゃない。今日は……なし。僕はね、君と同じ気持ちになった時に……その先の話がしたい」
「『同じ気持ち』?」
馬車が揺れる。
「それは、僕が教えることじゃない」
珍しく、答えは返ってこなかった。
「改めて、今日のお願い」
真っ直ぐな視線。
「今日は君を、僕のパートナーとして一日付き合ってほしい。……そうだ、リズ。今だけ。君の名前は『リズ』」
「リズ……?」
「路地裏の暮らしは忘れて。今日は、リズっていう仮面をつけてほしい。いつもの君じゃない。別の君になるんだ」
「別の……わたし……」
「そう。僕と過ごす、大事な一日だ。忘れないでほしい」
自分ではない自分になれる。
その言葉は、甘く――そして、怖かった。
戻れなくなる。
そう思うからこそ、惹かれる。
「君はリズ。わがままで、自分に正直で、裏表のない…そんな人だよ」
今日だけ。
もし、許されるなら。
少女は、静かに、頷いた。




