第72話 少女は、甘さと恐怖のあわいに立つ
ありえない――
そう思う間もなく、それは目の前で起きていた。
ベガは反射的に自分の腕をつねる。
確かな痛みが走り、現実だと知る。
柔軟に世界を受け入れてきた彼にとって、それを飲み込むのは難しいことではなかった。
「セル……本当に良かった。もし、あなたが死んじゃったら……また作り直されちゃう……」
少女は、蛇の無事を確かめると、ほっと息をついた。
その仕草に応えるように、蛇は彼女へと身を寄せ、頭をこつんとぶつける。
じゃれるような、幼い親愛の仕草だった。
「作り直される……どういうことだい?」
何気なく問いかけた言葉に、少女は一瞬、目を瞬かせる。
「……え?」
「いや、“作り直される”って……レディがさっき……」
「わたし、そんなこと言った?」
「え?」
「…………え……?」
きょとんとした表情。
少女自身も、自分の口から出たはずの言葉を掴めずにいるようだった。
独り言を拾ってしまったのか。
それとも、もっと別の――彼女自身も知らない理由があるのか。
答えの出ない沈黙に、ベガは考えるのをやめ、にっこりと笑った。
「まあ、いいや。レディが無事だったことを喜ぼう」
「………ん……」
少女は小さく頷き、蛇へ戻るよう指示を出す。
その合図に従い、蛇は霧のようにすうっと消えていった。
「………ぅ……」
消えた瞬間、少女はその場にうずくまった。
小さな体が、かすかに震えている。
「レディ?」
カタカタ……と、抑えきれない震え。
ベガは急いでそばに寄り、様子をうかがう。
「………寒い………」
「大丈夫だよ……大丈夫」
ベガはそっと背中に手を当て、撫でる。
彼は知っている。
これは恐怖だ。
新しい魔力の色に触れた時、自分も同じように震えた。
未知の領域。先の見えない場所へ足を踏み入れた時の、あの感覚。
今、彼にできることは一つだけだった。
揺らぐ彼女の輪郭を、言葉で繋ぎ止めること。
「オレがそばにいる」
その声は低く、静かで、空気に溶けるようだった。
大丈夫だと、伝えること。
恐怖の先に、まだ温もりが残っていると教えること。
そして――
楽しむ心を、忘れないこと。
「こういう時はさ、お酒でも飲んで、忘れてしまおう!」
わざと軽く言えば、少女はかすかに首を振る。
「……いら……ない」
「弱いんだ」
「……好きじゃないだけ」
「そうか」
ベガは、彼女の頭にそっと手を置いた。
撫でるというより、確かめるように。
そこにいることを、失われていないことを。
「いつか……おいしく飲もうな」
囁くような声。
艶を帯びた唇が、静かに動く。
「でも……」
少女の瞳が、淡く光る。
夜露を含んだような、不安と期待のあわいの色。
「………っ……」
その視線から、逃れられない。
吸い込まれるように、ベガは囚われる。
守るはずだった距離が、音もなく崩れていく。
「酔ったことにして……」
少女は、そっとベガの首元のスカーフを引いた。
拒む力ではなく、確かめるための指先。
布に導かれ、彼の体は自然と彼女へ傾く。
「……!」
触れた唇は、驚くほど柔らかく、甘かった。
これまで触れてきたどんな女性とも違う、
儚さを含んだ濃密な甘さ。
果実を噛んだ瞬間のような、瑞々しさ。
壊れそうで、手放せない魅力。
「……っ……」
もっと、欲しい。
だが同時に、壊したくない。
その葛藤ごと抱え込むように、
ベガは衝動のまま、少女の頭を掴んだ。
「……ん……ぅ………っ」
離さない。
離せない。
「やめ……て……。これ、以上は……っ」
「誘ってきたくせに?」
肩を上下に揺らし、息を乱す少女。
うっすらと濡れる瞳が、拒絶と期待の境界で揺れる。
その小さな抵抗さえ、
守るべきもののように、愛おしく思えてしまう。
「ちが…う。恋人、いるんでしょ……?」
ベガは答えの代わりに、少女の身体を軽く抱き上げた。
驚くほど、軽い。
少女は抗わず、彼に体を預ける。
「うそつき」
羽のように、あっけなく持ち上げられる体。
少女は彼の胸に耳を当てる。
そこにある、不規則な心音。
一定ではない鼓動が、やけに近い。
「……あんたが……不誠実なら、この関係は終わってる」
その言葉は、脅しではなく、
静かな約束だった。
「オレは、レディだけを愛するよ」
夕日が二人を包み込み、境界線を溶かす。
世界から切り取られたように、二人の輪郭は、ゆっくりと溶けていった。
***
一方、その頃――
ようやく西の街・ノクスウェルにたどり着いた一行がいた。
カペラ、アルデバ、ヴル、デネラ、そしてリブ。
ヴルの操る馬車が、ギルド前で止まる。
「よっと」
カペラとアルデバは軽やかに地へ降り立つ。
「お前らは、今日泊まれる宿を探してこい」
「こっちはギルドで、蛇使いの情報を聞いてくる」
荒い口調と鋭い視線。
逆らえばどうなるか――考えるまでもない。
「……う、うっす!」
恐怖が胸に残るまま、リブたちは従った。
「邪魔するぜ」
二人は我が物顔でギルドへ入る。
こういう場所では、なめられないことが何より重要だ。
「見ねぇ顔だな」
黒いひげの男が前に出る。
「ああ。この辺じゃ“はじめまして”だな。南から来た」
「しばらく、よろしくな」
強く握られた手に、男は一瞬たじろぎ、奥へ下がった。
「ふん」
こういう治安の悪い街で生き残るには、強さを誇示する必要がある。
「おい、ギルドの嬢ちゃん」
「情報を教えろ」
カウンターにもたれかかる二人。
だが、ギルド嬢は慣れた様子で手を差し出した。
「……冒険者タグを」
「くっそ。毎回面倒な役所仕事だな」
「個人情報保護のためです。ご協力ください」
手荒に渡されたタグを確認し、彼女は顔を上げる。
「確認できました。カペラ様、アルデバ様。素晴らしい功績ですね。本日は?」
「……女を探してる。蛇を連れた女だ」
「そのようなテイマーは存じ上げません」
「はあ?んなはずねぇだろ」
悪目立ちする存在ーーー。
静かに生きているなど、想像もしていなかった。
「紫の瞳と髪だ。落としてったタグを返してぇ」
「申し訳ありませんが、見かけたとしても、個人情報はお伝えできません」
「……ああ?」
威圧にも、彼女の態度は変わらない。
舌打ちし、出口へ向かった、その時。
「さっきの話、聞かせてもらったわよ」
入口を塞ぐ、けばけばしい三人の女。
赤い唇、露出の多い装い。
胸元で鳴る冒険者タグ。
「その女のこと……知ってるけど?」
女たちの中心に立つ者が、にんまりと笑った。
「教えてあげましょうか?」




