第100話 少女は、振り返る
何日かぶりに姿を現した太陽に、
大地は、ほっと息をついたようだった。
濡れきった土はゆっくりと乾き、
やさしい風が、雨の名残を撫でていく。
空は、光を拒むことをやめたらしい。
――虹だ。
青の深みに、虹色の半円が浮かぶ。
始まりも終わりも分からない、
ただ光の屈折だけで描かれた、仮初めの軌跡。
「雨、あがってよかったな」
リブは、まだ湿り気の残る石畳を、つま先で軽く蹴った。
「明日から忙しくなるなー」
デネラは、太陽を少しだけ恨めしそうに見上げる。
ほんのわずかな休息が、もう少し続いてほしかった。
「雨の中の作業、しんどかっただろ」
「そりゃあ……しんどいけどさ」
デネラは言葉を濁しながら、肩をすくめる。
「植物に日光がいいのは分かってるんだけど……」
そして、横目でリブを見る。
「……もう少し、誰かさんとお話ししたりしたかったな、なんて」
「誰かさんって、誰だよ」
「…………なんでもない」
伝わらないか、と心の中で思う。
正解の形が、分からない。
――それこそ、
あの名前も持たない少女のように、
好意をそのまま差し出せたなら、
きっと、ずっと楽だった。
なんて考えた時だった。
「……え」
デネラの足が止まった。
風が、揺れた。
「……なんで」
視線の先。
帰り道の向こうに――
「ナナシ……!!」
「ナナシちゃん!!」
考えるより先に、身体が動いていた。
息を切らし、
ずっと探していた少女のもとへ。
「どこ行ってたんだよ……!!」
「ずっと、探してたんだよ!!」
紫色の髪は、肩口まで短く切られていた。
それでも、間違えようがない。
儚く、今にも消えてしまいそうな瞳。
現実と夢の狭間を漂うような、その存在。
「…………」
少女は、足元を覚束なく揺らし、振り返る。
変わらない。
気の抜けた炭酸のような、
どこにも力の入らない佇まい。
「……だれ、だっけ……」
「は?」
その言葉を残して、
少女は瞳を閉じ――崩れ落ちた。
「ナナシ!!」
リブが、地面に倒れる寸前で受け止める。
背筋に、冷たいものが走った。
けれど、立ち尽くすわけにはいかない。
「と、とりあえず……あたしの家に運ぼう!近いし!!」
「そうだな!!」
眠った少女の顔は、
ひどく追い詰められているようだった。
どこにいたのか。
なにを見てきたのか。
答えはすべて、
少女が目を覚ましたあとでしか、聞けない。
***
リブはすぐにユウゴを呼びに行った。
人体に詳しい彼なら、頼りになる。
その間、デネラは、自分にできる限りの世話をする。
温かい、野菜たっぷりのスープ。
立ちのぼる湯気が、小さな厨房を満たしていく。
火加減を調整していると、背後で階段が軋んだ。
「どうだった?」
二階から降りてきたユウゴとリブに声をかける。
「起きないことには、なんとも言えない」
ユウゴは、苦い顔で答えた。
「そっか……。あ、とりあえず座って。今ちょうどスープができたの。味、見てほしくて」
「ありがたくいただくぜ!!」
「あんたには言ってなーい」
「けち臭ぇな」
もちろん、冗談だ。
二つのスープボウルに、出来立てのスープを注ぐ。
「うわ、うまそう!!」
リブは、ふうふうと息を吹きかけながら口に運ぶ。
「……ありがとう、デネラ」
だが、ユウゴは、スープを見つめたまま、手をつけない。
「お腹、空いてなかった?」
「いや……考え事だ」
――やっぱり、上の空。
デネラは、そう思った。
「ナナシちゃん……大丈夫かな?」
「衰弱はしているが、顔色は悪くない。……それより、出会ったときの話を」
「あー。『誰だっけ』って言われた」
リブは、あっという間にスープを平らげている。
「……その一言が、気になる」
ユウゴは、リブの視線にも気づかず、沈黙する。
「まさか……とは思うが……」
「なにか知ってるのか?」
「……まだ、お前たちには早い」
「また子ども扱いかよ」
そのときだった。
――どんっ。
二階から、鈍い音。
三人は顔を見合わせ、一斉に駆け出す。
「ナナシちゃん!!」
部屋に飛び込んだ瞬間、息が詰まった。
ベッドから落ち、床に蹲る少女。
髪は乱れ、瞳は、怯えきっている。
まるで――
生きた屍。
かすかに動く唇。
それだけが、彼女がまだ人である証だった。
「ナナシちゃん……大丈夫?」
デネラが、そっと手を伸ばす。
――ばしん。
少女は、その手を叩き落とした。
「……や……」
肩が、小さく震える。
ユウゴは、静かに息を吐いた。
「ここが、どこか分かるか」
落ち着いた声。
少女は、紫の瞳でユウゴを見上げる。
「…………」
沈黙。
出会った頃と、同じ。
「……知ってる」
か細い声で、少女は言った。
「……アルヴェン」
北の大地、アルヴェン。
かつては、知らないと首を振った場所。
「俺のことは覚えてるか」
少女は、痩せた腕を持ち上げ、一人ずつ指さす。
「……りぶ……ゆうご……でねら」
確かに、名前を呼んだ。
「なんだよ。覚えてるじゃねーか」
リブは、ほっとしたように鼻を鳴らす。
けれど、デネラは違和感を覚えた。
――言わされている。
そんな気がした。
「……リンゴ、食べる?」
恐る恐る、尋ねる。
少女が、唯一好きだと言った果実。
「…………いらない」
即答。
「……きらい」
その一言は、静かで、決定的だった。
愛された記憶も、信じた味も――切り捨てるように。
少女は、
何かを確かに、
忘れていた。




