⑥「結局出掛けなかった八雲と暇をもて余す」
《 ……やっと落ち着きました 》
どれだけの間、八雲が俺に抱き付いていたのか判らなくなった時、ゆっくりと身体を起こした彼女がスマホを触り始め、僅かに震える指先が止まるとメールが届いた。
「そうか……とにかく、もう少ししたら出発しよう」
俺は彼女を安心させる為に声を掛けたが、八雲はふるふると首を横に振ると再び抱き付いてきた。
……淡く漂う柔軟剤と、綺麗な髪の毛からほのかに香る優しい匂い。もし、俺が理性の保てない奴だったら、彼女を抱き締め続けて独占欲を満たそうとする程の、柔らかな八雲らしい香りで、頭の芯が空白になる。
……その瞬間、俺ははっきりと意識した。自分は八雲を、この病弱で繊細な八雲を手放したくない。込み入った理由も何もかも省みず、ただ一緒の時間を過ごしたいという思いを。
でも、果たして俺は彼女を幸せに出来るのだろうか。心の中に闇を抱え、向精神病薬と抗鬱薬を服用しないと一人で歩く事も出来なくなるような、不安定な八雲を……。
「……先輩、ありがとうございます」
その時、今まで聞いた中で一番はっきりとした声で、八雲が礼を言った。その声は震えもせず、途絶える事もなく、誰が聞いても何を言ったか判る声だった。
「うん、いや……いいんだ、八雲。気にするなって」
「……はい、気にしません……」
そう彼女と互いに言葉を交わしながら、ふと気付いてスマホの時計を見ると、もう昼前になっていた。これから高速に乗って飛ばして走っても……モーグルワールドに着くのは夕方前、帰りは渋滞にはまれば日付が変わる直前になるかもしれない。
「八雲、残念だけどモーグルワールドは、また今度だな……」
「……はい、気にしません……」
「……ん、そうか……」
彼女の答えに、少しだけホッとする。そりゃ無茶すれば行けない事も無いが、まだ正式に付き合ってもいない娘を連れ回したら、世間的に見て略取と言われても仕方ない。
「さて、そうなったら何処に行くか……なあ、八雲?」
「……判りません、ごめんなさい……」
俺は呟きながら八雲の身体を離す為、彼女の肩に手を当てて後部座席へ座らせようとするが、
「先輩……もう少しだけ……」
そう言うと再び身体を密着させてくる。彼女の身体は華奢で細く、やはりどう見ても十代後半にしか見えず、そんな八雲に身体を押し付けられた俺は、万が一不審者扱いにでもされたらと考えただけで、冷や汗が噴き出してくる。
「迷惑ですよね、本当に……ごめんなさい」
漸く八雲に身体を離して貰うと、見た目の幼さからは想像も出来ない程、理性的な声で自分の我が儘を彼女が詫びる。
「いや、全然迷惑じゃないよ。でも八雲こそ俺みたいな奴じゃ……その、なんと言うか……」
「いえ! 全然迷惑じゃない!! ……ごほっ、ごほっ……」
何となく口ごもりながら喋る俺に、八雲が突然大きな声を上げた後、急に咳き込み始めたので、背中を擦って落ち着くまで待ってやる。
「……はぁ、はぁ……ダメダメですよね、ホントに私ったら……ふぁっ!?」
やっと呼吸が整い、話せるようになった八雲が愛おしくなり、そっと抱き締める。それが俺なりの彼女に対する答えだった。
「どうしたんですか、急に……もぅ!」
暫くそうしていた後、俺の腕の中から解放された八雲が、耳まで赤くしながら尋ねる。
「そりゃあ、決まってるだろ? 言わせるなよ……俺だって、恥ずかしいんだから」
こちらもきっと、耳まで赤くなっているだろうと思いながら、やっとの思いで答えてやる。
「でも、ちゃんと声を出して話せるんだな、八雲は」
「……気が付いたらいつの間にか、話せるようになっただけです!」
「ああ、そうか……でも、改めて聞いてみると、良い声だな」
「……先輩のバカ……」
そんな言葉を交わしている内に、ポツポツとフロントガラスの表面を雨粒が叩き、次第に雨足が強くなっていく。あのまま出掛けていたら、モーグルワールドに着いても楽しめただろうか?
「ところで八雲、いつまでも先輩って呼ぶのはどうなんだろうなぁ」
「……イヤですか?」
「イヤか、と言われたら違うんだけど、俺はもう八雲の上司でも先輩でもないからなぁ」
その返答を聞いた八雲は暫く黙っていたが、考えが纏まったのか後部座席に座り直し、背筋を伸ばしてから答えた。
「……私、先輩の名前、知らないです」
……あー、そうだったのか。言われてみりゃ、自分から名前まで自己紹介する上司は居ないな。
「八雲、俺の名前は庄司、ショージだ」
「ショージさん、ですか……」
そう繰り返してから八雲は、俺と向き合い軽くお辞儀をしてから口を開いた。
「ショージさん、今までありがとうございました。これからも宜しくお願いいたします!」
「ああ、こちらこそ宜しく」
俺がそう答えると、八雲は恥ずかしそうに俯いて顔を手で隠しながら、
「……はぁ……私、どうしちゃったんだろう。頭の中がごちゃごちゃで、何も思い付かない……」
それだけ言ってから、チラッと俺の顔を見た。
「じゃあ、ひとまず助手席に移りなよ。もう少ししたら、何処か別の場所でゆっくり話をしよう」
「はい、そうします!」
ようやく気持ちが落ち着いたのか、後部座席のドアを自分で開けて外に出ると、八雲は助手席のドアを開け、よいしょと一声出しながらシートに座った。
……さて、何処に行こうか?




