二人の母親(6)
マリナは態勢を低くして駆け出した。リディの身体は以前のものよりも小柄で、歩幅が狭い。マリナは意識的に脚を小刻みに動かしながら、集中力を高めていった。
母上が剣に変形した右腕を突き出してくる。走る速度を落とさぬよう、僅かに身体を逸らすだけで剣を躱す。そしてそのまま、相手の死角となる右脇に滑り込んだ。身体を捻り、刀を横一線に振るう──と、思わせて母上に向かって大きく踏み込んだ。刀の攻撃を警戒し大きく後退する母上に、一瞬で詰め寄る。母上の目が驚愕に見開かれる。刀を上段に構え、右脚を振り上げた。刀を目で追っていた母上の鳩尾に、右足がめり込む。
「──!」
母上の幼い体躯が大きく吹き飛ばされる。マリナは勢いを殺さずに再び駆け出し、母上を猛追する。
母上が転がるように立ち上がり、こちらを激しく睨みつけてきた。右腕を大きく振りかぶり、母上が強大な剣を横一線に払う。脚を床に力強く叩きつけ、身体に急静止を掛ける。鼻先を掠めて母上の剣が通り過ぎた。と、同時に床を思い切り蹴りつけ、脇の空いた母上の懐に潜り込んだ。母上が即座に反応し、左拳を突き出してきた。半身になってその拳を躱し、腕を掴み上げる。そして腕を手前に引き、脚を掛ける。母上の身体が、自分の突き出した拳の勢いで一回転し、背中から床に叩きつけられる。刀を縦にし、母上の胸の中心──そこから僅か左にずらした位置に、刀を突き立てる。母上が右に転がって刀を躱した。即座に脚を振り上げ、刀の切っ先を躱した母上を蹴りつけた。母上が大きな弧を描きながら、瓦礫に埋もれた客席へ飛ばされる。
マリナは一息吐くと、もそもそと立ち上がろうとする母上を見やった。母上がマリナを睨みつけている。その表情には、先程まで浮かべていた余裕はなく、ただ訝しげに顔を歪めている。
マリナは一度二度と刀を素振りして、改めて自身の体調を確認する。そして静かに、母上に話し掛けた。
「何か言いたそうだな?」
「……あなたの力は、さっきと何も変わっていない。むしろ、小柄な子に寄生したことで僅かに落ちているぐらいだわ。そのはずなのに、どうしてこうも攻撃が当たってしまうのかしら。そこが理解できない」
マリナは肩をすくめ、母上の問いに答える。
「なんてことはない。さっきまでのぼくは、自身の膂力と反射速度に頼りきった、強引な攻め方をしていた。だから、そのどれもがぼくよりも勝るお前に、太刀打ちすることができなかった。だが今は、フェイントや誘導といった技術を用いて、お前と戦っている」
「つまり……さっきまでは手加減していたってこと? とてもそうは見えなかったけど」
「手加減なんかしてないさ。あの時はあれが全力だったんだ」
「どういう意味かしら?」
マリナは左手を胸に置いて言う。
「この身体の持ち主──リディは、本人曰くあらゆる格闘技をマスターしているらしい。ただしそれは、本を読んで得た知識だけの話で、その技術を扱うだけの身体作りを、彼女はしてこなかった。とんだ宝の持ち腐れだが、今こうしてそれが役に立っている」
「リディちゃんの蓄えた戦闘知識を、あなたが使いこなしているということ」
「そうなるな。まさに目から鱗だ。体重移動や呼吸法。脚の運び方や捌き方。敵の力を利用してのカウンターや投げ技。リディの戦闘知識はその全てを、ぼくに教授してくれた」
マリナは話しながら態勢を低くしていく。
「さすがに知識を得ただけで全てを使いこなしているわけじゃないが──」
マリナは母上に向かって駆け出す。
刀を上段に構え振り下ろす。母上が身を引いて刀を躱す。すぐさま刀を引き、切っ先を突き出した。母上が左に跳び、こちらの懐に飛び込もうと態勢を低くする。母上の呼吸を測り、母上が飛び込むその同時に、突き出した刀をそのまま横に払った。母上が驚きの表情を浮かべ、自身の身体を引き倒して刃を躱す。そこで左足を振り上げ、床に這いつくばった母上を蹴り上げた。母上はホールの壁に激突して、尻餅をつく。
マリナは左脚を下ろすと、母上を見据えニヤリと笑った。
「この程度のことならできる。重要なのは相手の呼吸を見て、その次の動きを予測することだな。本当の戦いのプロには通じないだろうが、お前のように安穏とモースで過ごしてきた奴になら、十分対処できる」
マリナの講釈に、母上は何の反応も示さなかった。ただ顔を俯け沈黙している。マリナはその隙に、こっそりと呼吸を整える。すると、頭の中でひどく陽気な声が聞こえた。
(きゃあああ! マリナ強い! いけいけこのままやっちゃええ!)
「……リディか」
マリナが半眼で呟く。この身体の本来の持ち主が、マリナの戦いに興奮したのか、甲高い声で歓声を上げている。心の中で声しか聞こえていないというのに、不思議と手足をバタつかせ、ぴょんぴょんと跳ね回っているリディの姿まで、マリナには見えるようだった。
心の中でリディがビシリと母上を指差し、声高に叫ぶ。
(さあマリナ! トドメを刺すんだよ! 口から怪光線的なものを放って!)
「出ないよそんなもの」
(じゃあヘドロ的なものでいいよ! もちろん強酸性! ドロドロに溶かしちゃうの!)
「君はぼくを怪獣か何かだと思っているのか?」
マリナは呆れて溜息を吐いた。そして、母上には聞こえないよう小さな声で呟く。
「馬鹿なこと言ってないで、少し集中させてくれ。奴にはああ言ったが、実際はそんな簡単なものじゃないんだ。なんせ奴の攻撃をもろに受ければ、こっちは一発KOだって十分にあり得る。結構神経すり減らして攻撃に出ているんだ」
(え? 余裕そうに見えるけど)
呑気に返すリディに、マリナは口を尖らせて言う。
「そう見せているの。相手が焦って少しでも隙を見せてくれないかと思ってね。言っちゃなんだけど、ぼくが話したことなんて、ほぼハッタリに近いよ」
(ええ……そうなの)
がっくりと肩を落とす──イメージが見える──リディ。マリナは気を再度引き締めて、母上を見据える。
「そんな急に強くなんかなれるものか。小手先で誤魔化しているに過ぎない。事実、奴には決定的なダメージを与えられてない。こっからが正念場だよ」
母上が顔を俯けたまま立ち上がる。マリナは態勢を低くして、どんな行動も即座に取れるよう、呼吸を整える。母上が左腕を頭の上に掲げる。マリナがその様子を訝しげに見ていると、母上が俯けていた顔をゆっくりとあげた。母上の黄金の瞳が──
凶悪に輝いている。
「面倒ね……」
母上の左腕が爆発するように大きく膨れ上がった。
「なんだ!」
マリナは咄嗟に一歩身を引く。母上の左腕は、まるで巨大な樹木が急成長していくように、太く大きく、上空に蠢きながら伸びていった。伸びた左腕が十メートル上空にあるホールの天井を突き破り、ホール全体を激しく揺らす。マリナは転ばないようバランスを取りながら、母上の一挙一動を見逃しまいと、睨みつける。天井が崩れ落ちる轟音の中、母上は何かを喋っている。マリナは目を凝らし、唇の動きから言葉を読み取る。母上はこう言っていた。
「踏み潰してあげる」
一際大きく、ホールが揺れた。
「なな……なんだこの揺れは!」
突如、ホールが激しく揺れだした。『左脚』は転ばないよう腰を落とし、踏ん張りを入れると、『右脚』に視線を向ける。『右脚』が尻餅をついて、キョロキョロと周囲を見回している。どうやら、彼女にとっても、これは想定外の出来事らしい。『左脚』はそれを確認すると、内心で舌打ちをする。
(母上か? なにをしようってんだ?)
と、突然天井の一部が轟音を立てて崩れた。『左脚』が視線を上げる。ぽっかりと穴が空いた天井から、蛇のようにのたうつ触手が突き出していた。その触手が──
『右脚』に向かって高速で伸ばされる。
「きゃあああ!」
『右脚』が悲鳴をあげ、咄嗟にその触手から身を躱す。しかし、その触手は『右脚』の動きを察知しているように彼女を追尾し、彼女の胸に深々と突き刺さった。
「かっ……」
『右脚』の呻き声が聞こえた。スノーに感染したこの身体ならば、胸を貫かれた程度では致命傷にならないはずだ。『左脚』はそう判断し、『右脚』に突き刺さった触手を切り離そうと、彼女の下に駆け寄ろうとする。だがその時、『右脚』の身体に異変が起こった。
『右脚』の顔や手足が突然、ドロリと溶け始めたのだ。さらに、その液状になった肉を、触手が、まるで養分を吸い上げるように、ズズズと音を立てて吸い込んでいく。
「がばああぎがぐごああ!」
悲痛な叫びが、すでに半分を失った『右脚』の頭部から漏れ聞こえる。『左脚』は状況が飲み込めず、呆然と立ち尽くした。『右脚』の身体は徐々にその体積を減らしていき、ついには、髪の毛一本残さず触手に喰われてしまった。
「まさか……肉体ごとスノーを取り込んでいるのか?」
『左脚』は気配を察し、頭上を見上げる。『右脚』を喰った触手とは別の触手が、『左脚』に向かって高速で伸ばされた。
コンサートホールを突き破った彼女の左腕は、モース上空まで伸ばされると、幾重にも枝分かれし、モースの街中に降り注いだ。そしてそれら触手が、モースの元住人であるビックフットに、次々と突き刺さる。触手に貫かれたビックフットは苦悶の声を上げながら、ドロリと身体が溶け始める。触手はその溶けた肉を、ストローで吸い上げるように、全て飲み込んでいく。全長四、五メートルにもなるビックフットを全て平らげると、触手は新たなビックフットを求め、街の散策を始めた。