二人の母親(7)
母上の変化は劇的あった。大樹の幹のように太く上空に伸ばされた母上の左腕。それが激しく蠕動すると、母上の身体が沸騰するように泡立ち、その質量を増大させ始めた。母上の着る白いドレスが、内側から膨れ上がる肉の圧力に、ビリビリと裂ける。母上から幼い少女の面影はなくなり、捏ねくり回した不恰好な肉団子のように、その姿を不気味に変形させていく。
この異様な光景に、リディが心の中で、バタバタと暴れ始めた。
(ななな……なにが起こっているの!?)
「ぼくが知るか!」
ヤケクソ気味に、マリナが答える。肉団子と化した母上は、天井を突き破った左腕──すでに左腕というよりは肉団子から突き出た幹──が蠕動するたびにその質量を増やしていく。その様はまるで、天井を突き破った左腕を注入口として、肉団子風船を空気で膨らましているかのようだった。ただし、実際に肉団子に注入されているのは、空気ではない別の何かなのだろう。
肉団子が直径十メートルほどになると、その質量で、ホールの床がミシミシと音を立て始めた。と、ここで肉団子の動きがピタリと止まる。天井を突き破り蠕動していた左腕が、するすると縮んでいき、肉団子の中に取り込まれていく。そして肉団子が小刻みに震え出すと、その形を急激に変え始めた。
巨大なボール上の粘土を、丁寧に練り込みながら形作るように、頭部や手足と思われる部位が肉団子から突き出してくる。横に突き出した手足の先からは指が生え、上部に突き出した頭部は横に裂け、そこから蠢く舌が生える。肉の表面から白い体毛が生え、全身を白く染め上げた。そしてさらに、その白い体毛の隙間から覗くように、頭部の中心に現れたものは──
黄金に輝く一つの眼球。
(ちょっと……マリナこれって)
「……ビックフット……か?」
雪のように白い全身。不自然に膨れ上がった手足の筋肉。直立した状態でも拳が床につくほどに長い腕。歯のない口の中にのたうつ舌。母上の姿は、ビックフットと瓜二つだった。あえて、一般的なビックフットとの違いを挙げるなら、頭部の中心に輝く黄金の瞳と、全長が通常の倍にあたる七、八メートルほどあることぐらいか。
(ぐらいって……それって結構大変なことじゃない、マリナ?)
「言われなくても分かっているよ。リディ」
心の中でツッコミを入れてくるリディに、マリナは陰鬱な気分で応える。リディの記憶の中にある格闘技の知識は、言うまでもないが、対人間を想定したものである。自身の四倍や五倍もある、怪物を相手に想定されたものではない。つまり、母上に対して握っていた、戦闘知識の差というアドバンテージを失ったことになる。ただし──
(これだけ図体がでかければ、動きだって鈍くなるはずだ)
(そうなの?)
(……多分)
リディの問いかけに、内心で自信なさげに呟くマリナ。どうしたものかと、指で頬を掻いていると、歯を失った母上から明瞭な声が聞こえてきた。
「驚いてくれたようね」
「なんだ……喋ることができるのか。随分と逞しくなったものだな」
「あなたは知らないかも知れないけど、元々、あたしはビックフットから進化した存在なのよ。だからあたしにとって、この姿はそれほど特異なことではないの。ただ、人間の姿の方があたしの好みだから、正直この姿に戻ることは気が乗らなかったけど」
「もう人間の姿には戻れないのか?」
「いいえ。一度に沢山の質量を食べて一時的に身体が膨れ上がっているに過ぎないもの。時間を掛けて圧縮していけば……そうね、三日後ぐらいには元の身体に戻れるかしら」
「そうか。じゃあ三日後にまたここに集まって、さっきの続きをやろうか」
「あら? 気を遣わなくてもいいのよ」
ビックフットと化した母上が、人の身丈以上もある拳を振り上げる。
「この姿のまま、潰してあげるから」
母上の拳が、マリナに打ち下ろされた。マリナはすんでのところで跳躍し、拳の直撃を避ける。床にめり込んだ岩のような拳の上に着地し「ま、そうだろうね」と、刀を水平に構え、母上の腕を駆け上った。
母上の肩口で再び跳躍し、身体を横に回転させながら、刀を横薙ぎに一閃する。母上の頭部が黒い断面を見せ、斬り裂かれた。だが──
(さすがにデカイ!)
両断とまではいかなかった。一撃で仕留め損なったことに内心舌打ちをしていると、跳躍して無防備となったマリナに、母上の拳が迫ってきた。咄嗟に腕をクロスして防御するも、巨大な拳によって打ち抜かれる衝撃は、容易にその防御を貫通し、マリナの体を打ち砕いた。
「ぐっ!」
口からうめき声が漏れる。マリナはそのまま床に叩きつけられ、ゴロゴロと床を転がった。全身がバラバラにされたような激痛に脳が悲鳴をあげている。マリナは歯を食いしばって苦痛に耐えると、身体の少しずつ動かしながら、自身の損傷具合を確認した。
母上の拳が直撃した腕は、両腕ともに筋肉が潰されたのか力が入らない。骨折は免れたが、刀を持つので精一杯だった。体もひどい有様だった。肋骨は何本が折れ臓器も損傷している。疑いようのない重症だ。
もっとも、スノーの自己再生能力を持ってすれば、それほど悲観するほどのものではない。丸一日安静にして過ごせば、すっかり治ってしまうだろう。そんな暇を、母上が与えてくれれば──だが。
マリナは震えながらも上半身を起こすと、足先に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。肩を上下に動かして呼吸を繰り返しながら、母上の黄金に輝く一つ目を睨みつける。戦意は全く失っていない。だが、打つ手もない。
(参ったな。あんな図体でも動きが全然鈍くなっていない。刀で多少斬りつけても、あのデカさじゃダメージもたかが知れている。加えて、奴の強力な自己再生能力まであるんじゃ、どうしろっていうのさ)
先程、マリナが斬った母上の頭部は、もうすでに自己再生が始まっているようだ。黒い断面が見る見るうちに、綺麗な細胞に変質していく。あと数分もあれば、斬れた断面は完全にくっ付いて、塞がってしまうだろう。
母上が一歩、マリナに近づく。マリナは一歩後退し、思考をフル回転させる。
(一撃で仕留めるか、あるいは再生する間もなくバラバラにしてやらないと、あいつを殺すことなんてできない。だが、刀一本でそれをどうやる?)
ここで、マリナを呼ぶリディの声が、心の中で聞こえた。
(マリナ。大丈夫?)
(リディか……今は少し手が離せないんだ。奴を倒す策を考えているから、少しだけ静かにしてもらえないか?)
(うん。ただそのことなんだけど……)
(ん?)
マリナの頭の中に、リディの思考が流れ込んできた。言葉を介さない、イメージの共有。それは一瞬のうちに行われ、マリナはリディが今考えていることを、即座に理解した。そして──呆気にとられ目を丸くする。
(リディ。君はこんなこと、いつから考えていたんだ……)
(いつと言うか、ふと思いついたんだけど)
(ふと……って、こんな方法をか?)
(そうだけど……やっぱり無理かな?)
心配そうにリディが言う。マリナは、リディの奇抜な発想に、暫く呆然としていたが、すぐにニヤリと笑った。背後に跳んで、近づいてくる母上から距離を取り直し、リディに心の中で話し掛ける。
(いや……それでいこう。それしかない)
(そう? 良かった)
その声だけで、リディが胸を撫で下ろしたのが分かった。マリナは母上に注意を払いながら、リディに問い掛ける。
(だがその作戦だと、もう一人分、手が必要だ。どうするつもりだ)
(あ……うん。それは大丈夫。すごく頼りになる人がいるからさ)
そう言ってリディは、マリナとは別の誰かに呼びかけを始めた。
(『左脚』さん! 応答おねがいします! 『左脚』さん! おーい!)
リディの声が聞こえてきた。瓦礫から這い出した『左脚』は、頭をブルブルと振った後、リディの呼びかけに答えた。
(おう。リディちゃんか。どうやらそっちは無事だったようだな)
(『左脚』さんも無事で何よりです)
(まあ、突然訳分からねえ触手に襲われるトラブルはあったが、なんとか逃げ切ってやったぜ。あの触手は、そっちの母上と何か関係があるんじゃねえのか?)
(多分そうです。ですが今はそんな世間話に花を咲かせている場合ではないんです)
(俺の生き死にの問題は、リディちゃんにとって世間話レベルなのか?)
呆れて呻く。と、突然リディの思考が、『左脚』に流れ込んできた。『左脚』は瞬時にして、リディたちが置かれている状況と、それを打破する奇策について理解する。
『左脚』はマリナ同様、暫く惚けたように沈黙していたが、すぐに歯を見せて笑った。
(おいおい。こいつはまた、随分と豪快な作戦を考えたもんだな。面白え)
(『左脚』さんには例の装置を動かして欲しいんです。一度動かしたことがあると聞いていますが、大丈夫ですか?)
(ああ。問題ねえ。タイミングはどうする)
(こちらからお伝えします。結構マリナが大変そうなので、急いでお願いします)
(おお分かった。マリナってダチに、それまで死んでも逃げ切るよう言っといてくれな)
(ありがとうございます。『左脚』さん)
そう言って、リディとの会話は途絶えた。『左脚』はゆっくりと立ち上がると、脚を一度、二度と床に打ち付けた。どうやら、走るのに問題はなさそうだ。そしてふとリディを思い、吹き出してしまう。初めてリディと出会った時、──その幼い顔立ちのせいか──守る側というよりも、守られる側の人間という印象が強かった。だがどうやら、その印象は誤りだったらしい。
「強い女だ。いいね。惚れちまいそうだぜリディちゃんよ」
『左脚』は走り出した。




