第十四話 取り置き札
「取り置きなら、頭金だ」
店主の声に、俺は弓を見たまま少し遅れて返した。
「……いくら置けばいい」
店主が金額を口にした。今日の報酬袋一つでは届かない額だった。それでも置けない額ではない。今日の分と、この前の分と、その前の分。貯めてきたものを全部合わせれば。
あの時、自分がどんな顔をしていたのか覚えていない。覚えているのは手元だけだ。報酬袋の紐がほどける。袋の口が開く。
硬貨を一枚ずつカウンターへ置いた。
一枚置くたび、木の天板が硬く鳴る。二枚。三枚。袋の中の残りが軽くなっていくのが、紐を持つ左手に伝わってくる。まとめて出せばよかったのに、なぜかそうしなかった。一枚置くたび、弓が少しずつ近くなる。そんな気がしていた。
近くなっていたのは、弓だけじゃなかったのだが。
店主は黙って、置かれた硬貨を指の腹で数えていった。店の隅でミドリが黙って見ていた。腰のチョーク袋に指が触れている。
数え終えると、店主は顔も上げずに言った。
「期限は十日。過ぎたら札は外す。頭金は返らん。それでも置くか」
返らん、の一言で最後の一枚をつまんだ指が一拍だけ止まった。
十日。返らない。外される。
それでも指は硬貨を戻さなかった。
「置く」
最後の一枚が木の上で鳴った。
店主は頷いて、引き出しから小さな札を出した。薄い紙色の、なんでもない木札だ。筆を取り、俺の名を聞いて雑な字で書きつける。
蓮見。
その横に小さく日付も入れられた。十日後。
筆の擦れる音がして、それで終わりだった。店主はカウンターを回り、弓の下に打たれた小さな釘へ札を掛けた。
札が揺れた。
壁の高価な弓。張ったままの弦。その下で、俺の名前を書いた薄い木札が細い紐一本でぶら下がっている。カウンターには積まれた硬貨。俺の手にはほとんど空になった報酬袋。店の隅には、ミドリの腰の白いチョーク袋。
弓は綺麗だった。ただ、あの日のことで思い出すのは木目の艶じゃない。その下で揺れていた薄い札の方だ。
願いは、名前を書いた瞬間に期限のついた借りに変わる。
当時の俺は、それをまだ前進としか数えていなかった。
外へ出ると、夕方が夜に沈みかけていた。
歩いても袋はほとんど鳴らなかった。硬貨が数枚、底で転がるだけの音。行きとは別の袋みたいだった。
「ほんとに、置いたんだ」
ミドリが言った。
俺は袋ではなく店の方を振り返った。橙色の灯りの中で、札はもう見えない。それでも掛かっているのは分かった。
「売れたら、困る」
「……それ、エルさんに――」
ミドリはそこで止めた。
俺も答えなかった。答える言葉を持っていなかった。夜道に二人分の足音だけが続いた。
翌日から、掲示板の前に立つ時間が長くなった。
見るものは変わらない。朱の数字だ。ただ、数字の見え方が変わった。前は遠い弓に向かって、ぼんやり足し算をしていた。今は違う。残りの額があって、期限が十日ある。この依頼なら二回。こっちなら一回と少し。届く組み合わせを頭が勝手に探し続けている。
ミドリは相変わらず、俺の指より下の方を見ていた。行き先。人数。それから、あの黒い一行。
周りの声が耳に入ってくる。
「白鯨の外縁か」
「報酬、出るなあ」
「外縁なら、まあ」
「少人数向けだってよ。今どきだね」
軽い声だった。誰も深刻には言っていなかった。ただ、隅にいた年嵩の探索者だけが、その名前を聞いて口を閉じた。
その沈黙も、あの時の俺の耳には残らなかった。
係の男が新しい紙を掲示板に押し付けて、糊を伸ばした。白鯨坑道、という文字の上で、その指が一度だけ止まる。すぐに何事もなかったように、紙の端を押さえ直した。
周りの黄ばんだ紙の中で、その一枚だけが白かった。
『白鯨坑道・外縁搬送環調査』
『少人数推奨。支援兼前衛補助歓迎。出来高制。帰路保証なし』
白鯨坑道。いつか、掲示板の隅で見た名前だ。あの時の古い紙には、確か「経験者のみ」という但し書きがあった。今の紙にはない。
上段の報酬額は朱書きだった。
俺の指がそこで止まった。
頭の中の割り算が一度で終わった。割る必要がなかった。その額は、一回で弓の残りに届いていた。
ミドリの指は別の場所で止まっていた。まず白鯨坑道の名前。それから、ゆっくり下りて黒い一行。帰路保証なし。
湿気で紙の端が小さく浮いた。
二人とも何も言わなかった。
俺はその朱の数字から目を離せなかった。
ミドリの指は、その下の黒い一行に置かれたままだった。
横から靴音が近づいてきた。
「あんた、あれ見てたろ」
振り向くと、あの寡黙な前衛が立っていた。この前の回収依頼で組んだ男だ。また頼むわ、と言ったきり、それ以上は喋らなかった男が掲示板の白い紙を顎で示した。
「あんた、少人数向きだよな。支援もできて、前にも出られる。小型の魔物の相手もできる。白鯨の外縁で、そういう奴を探してるんだ」
悪意のある声じゃなかった。この前の現場で俺の働きを見た男が、稼げる話を持ってきた。ただそれだけだった。
登録所の隅の机で、男は依頼内容の写しを広げた。
行き先は白鯨坑道の本坑じゃない。外縁搬送環。昔の搬送路が坑道の外周をぐるりと回っている、その環の調査だという。討伐じゃない。魔物の反応は薄いと言われている。向こうには、白鯨の外縁に入ったことがある経験者が一人つく。人数は絞る。出来高制。帰路保証なし。報酬は、掲示板に出ていたあの朱書きの額だ。
「外縁だ。奥じゃない」
男は短く言った。
行くための言い訳なら、揃っていた。
外縁なら。調査なら。経験者がいるなら。俺なら、穴は埋められる。
そして、一回で弓に届く。
背後のざわめきが耳に入ってくる。
「経験者いるなら、いけるんじゃね」
「少人数向けだろ、今どきの」
軽い声がさっきより近く聞こえた。
一人だけ、隅の席の年嵩の探索者が何も言わずに杯の中を見ていた。声の輪から、その席だけが外れていた。
あの沈黙が何を知っていたのか。俺がそれを思い知るのは、ずっと後の話だ。
ミドリが俺の袖を引いた。
掲示板から離れた壁際まで来ると、ざわめきが少し遠くなった。彼女はまっすぐ俺を見て言った。
「それ、やめよう」
言いかけて飲み込む、いつものミドリじゃなかった。
「白鯨って、前にも見た名前だよ。あの時、経験者だけって書いてなかった? 帰路保証なしだよ。外縁って言ってるだけで、白鯨は白鯨でしょ」
俺は静かに返した。
「十日しかない」
「……」
「一回で届く。外縁だ。調査だけだ。経験者もいる。俺なら、穴は埋められる」
言いながら、頭の中には店先の橙色があった。弓の下で揺れる薄い札。雑な字の、蓮見。その横に添えられた期限の日付。
目の前で、白鯨の紙の端が湿気にかさりと浮いた。
記憶の中の札が、同じ音で揺れた気がした。
朱の数字と、薄い札。二枚の紙が、頭の中で一枚に重なっていく。白鯨の報酬は、もう報酬に見えなかった。あれは、弓の残金の形をしていた。
ミドリはしばらく俺を見ていた。何かを探すような目だった。それから腰のチョーク袋を握って目を伏せた。
それ以上は言わなかった。言っても、俺が聞かないと分かる目を、俺はしていたんだろう。
窓口で依頼控えを受け取った。
薄い紙だ。白鯨坑道・外縁搬送環調査。集合、二日後の夜明け前。人数、五名。出来高制。帰路保証なし。
それだけの紙を、俺は二つに折った。薄いくせに、折り目をつける指先だけが妙に硬かった。折った紙を懐へ入れる。胸の上で紙の角が小さく引っかかった。
ミドリは何も言わなかった。腰のチョーク袋を握ったままだった。
登録所の外は、もう夜だった。
扉が閉まると、ざわめきが遠のいて湿った外気だけが残った。懐には依頼控え。腰に下げた報酬袋は、歩いてもほとんど鳴らない。
「本当に、行くの」
ミドリが聞いた。
「行く」
俺はそれだけ答えた。
懐の中で折った紙の端が胸に当たっている。そこに、集合時刻が書いてある。二日後、夜明け前。
取り置き札の期限まで、あと七日だった。




