第32話 月の姫、反逆者になる
王宮の地下に広がる、冷たく湿った石造りの迷宮。
壁に掛けられた松明の頼りない灯りだけが、逃げ惑う私たちの影を長く引き伸ばしていた。
「こちらだ! この区画の隠し通路なら、私しか知らないはずだ!」
先頭を走るレオルド殿下が、王城の構造の知識を頼りに私たちを導く。
しかし、後方からは無数の軍靴の音と、鎧が擦れる甲高い金属音が容赦なく迫ってきていた。王妃イザナの執念は、私たちが想像していた以上に凄まじかったのだ。
「甘いですよ、殿下! 近衛兵だけでなく、神殿の隠密部隊まで動員されています。すでに先回りされている可能性が高い!」
最後尾で剣を構えながら走るアスカル様が、緊迫した声を上げた。
彼の言葉通り、私たちが通路の角を曲がった瞬間、前方の闇から無数の松明の炎が浮かび上がった。
「そこまでだ、反逆者ども!」
王妃の腹心である近衛隊長が、冷酷な声で告げた。
前後を完全に塞がれた。通路の幅は狭く、アスカル様やレオルド殿下がどれほど剣の腕に覚えがあっても、数十人の重武装した兵士たちを相手にここを突破するのは不可能だった。
「もはや逃げ場はない! 大人しく武器を捨て、その女を渡せ!」
槍の穂先が、じりじりと私たちを包囲していく。
このままでは、アスカル様もレオルド殿下も、そしてカナト様も、私を庇ってこの暗い地下で殺されてしまう。そして、彼らが集めてくれた「証拠」もすべて闇に葬られる。
(……それだけは、絶対にさせない)
私は小さく息を吸い込むと、前に出ようとしたレオルド殿下の肩を押し留め、自ら近衛隊長の前に歩み出た。
「ミオラ嬢! だめだ!」
「ミオラ様!」
「おやめなさい。私が彼らに同行します」
私は振り返らずに、凛とした声で告げた。
近衛隊長が微かに警戒の目を見せる。
「ミオラ・ルナシア。貴様には、国家反逆、神殿冒涜、王族侮辱、および貴族秩序破壊の重大な罪がかけられている。ここで大人しく縛につくというのか」
「ええ。私が捕まれば、あなたたちの任務は達成されるはず。私の同行者たちに手を出さないと約束するなら、抵抗はいたしません」
王妃の最大の目的は、私という「危険分子」を捕らえ、その口を完全に塞ぐことだ。私がここで無駄に血を流して死ねば、王妃は「月の姫を暴漢から守りきれなかった」と民衆に言い訳をしなければならなくなる。だから、彼女は必ず私を生け捕りにし、大義名分を立ててから断罪するはずだ。
「……だめです」
私の腕を、黒い手袋をした手が強く掴んだ。
カナト様だった。彼の灰色の瞳には、いつもの冷静さの中に、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいた。
「あなたを渡せば、王妃はどんな手を使ってでもあなたの意思を砕きにきます。あなたが一人で耐えられる保証はない」
「耐えてみせますわ」
私は、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「カナト様。このままここで全滅すれば、あの『密命書』も裏帳簿も、すべて彼らに奪われます。……どうか、証拠を持って逃げて。そして、私の正しさを、あなたたちの手で証明してください」
「ミオラ様……」
「私のせいで、あなたの職が奪われ、命まで危険に晒してしまった。本当に……」
私が自責の念を込めて言いかけた言葉を、カナト様は、あの日と同じ言葉で、静かに、だが確かな熱を帯びた声で遮った。
「私の判断を、あなたの罪にしないでください」
地下通路の暗闇の中で、彼の瞳だけが強い光を放っていた。
甘い言葉ではない。だが、どんな愛の言葉よりも重く、私の魂を打ち震わせる真実の誓いだった。
「私があなたを信じたのは、あなたが正しいからです。だから……必ず、あなたを助け出します。暗闇で握り潰されるのではなく、光の当たる『公開裁判』に持ち込みます。絶対に」
「……ええ。信じて待っていますわ」
私はカナト様の手を解き、微笑んで見せた。
そして、近衛隊長に向かって両手を差し出した。
「さあ、枷をかけなさい」
重く冷たい鉄の枷が、私の手首に嵌められる。
アスカル様が血を吐くような呻き声を漏らし、レオルド殿下が絶望に膝をつくのが見えた。だが、カナト様は私の意思を汲み取り、二人を強引に引き連れて、一瞬の隙を突いて隠し水路の方へと身を躍らせた。
「追うな! 大魚は捕らえた。残りの小魚どもなど、後でどうとでもなる!」
近衛隊長の命令で、私は荒々しく引き立てられ、地下のさらに奥深くへと連行されていった。
*
私が捕らえられたという知らせは、翌朝には王都中を駆け巡った。
『月の姫ミオラ・ルナシア、国家反逆の罪で投獄!』
王妃の思惑通り、情報操作は徹底されていた。
神殿の権威を貶め、貴族院を不当に混乱させ、あまつさえ建国記念の式典を武力で妨害しようとした恐るべき魔女。それが、今の私の世間での扱いだった。
しかし、王妃の誤算は、私の仲間たちが誰一人として絶望に屈していなかったことだ。
王都の外れ。
一時保護院の片隅で、ナナは届いたばかりの号外を握りしめ、ポロポロと涙を流していた。
だが、彼女はその涙を乱暴に拭うと、傍らにいたユイナの手を強く握った。
「泣いている暇なんてない。お嬢様は、私たちを守るために捕まったんだわ。……私たちが、証言しなければ。お嬢様が命懸けで守ってくれた真実を、今度は私たちが証明するのよ!」
ユイナも強く頷き、保護院の子どもたちや、かつて私が救った下級騎士たちのもとへ走り出した。
一方、王宮の包囲網を抜け出したアスカル様とレオルド殿下、そしてカナト様も、決して歩みを止めてはいなかった。
「私は、私に従う騎士たちを集める。命令違反の反逆者となろうとも、彼女の正義のために剣を振るうと誓った者たちだ!」
アスカル様が、身を潜めた隠れ家で声を張る。
「……私は、母上の暴走を止めるため、他派閥の貴族たちを説得に回る。王太子としての最後の権限を使ってでも、彼女を死なせはしない」
レオルド殿下もまた、かつての弱さを捨て、険しい顔で決意を語った。
「私は、証拠を完璧な形に組み上げます。王妃が用意するいかなる捏造も通じない、絶対の法理を」
カナト様は、薄暗いランプの灯りの下で、王妃の密命書を睨み据えながら言った。
私を巡る包囲網の中で、彼らはそれぞれの戦いを始めていた。
*
王宮地下の、最下層の牢獄。
冷たい石の床に座り込んだまま、私はじっと暗闇を見つめていた。
窓もなく、差し入れられるのは一日に一度の硬いパンと泥水のようなスープだけ。
手首に食い込んだ鉄の枷が、容赦なく私の体温と体力を奪っていく。
(……カナト様たち。無事に逃げ切れたかしら)
寒さに身を震わせながら、私は『月鏡』の能力を発動させようと試みた。
この牢の周囲にいる看守たちの言葉と行動の矛盾を読み取れば、何か脱出の糸口、あるいは外部の状況が掴めるかもしれない。
私は目の奥に意識を集中させた。
しかし――。
「……え?」
何も、起こらなかった。
いつもなら目の奥で瞬くはずの、月光のような冷たい痛みが来ない。
鉄格子の向こうで「月の姫もこれで終わりだな」と嘲笑う看守たちの言葉に、以前なら確実に見えていたはずの『黒い染み』が、まったく見えないのだ。
「そんな……嘘、でしょう……?」
私は何度も、何度も瞬きを繰り返した。
だが、視界はただの暗闇のまま。他人の嘘を、矛盾を暴き出すためのあの黒い染みは、どこにも現れなかった。
前日の法廷で、大量の矛盾を浴びて能力が暴走した代償。
私の『月鏡』は、この一番過酷な檻の中で、完全にその力を失ってしまったのだ。
「ああ……っ」
能力がなければ、私はただの無力な令嬢に過ぎない。
他人の嘘を見抜くことも、誰が本当の味方なのかを知る術も、すべて奪われてしまった。
完全な暗闇の中で、私は膝を抱え、ただ一人、絶望の淵に突き落とされた。




