第19話:銀貨3枚の誤差
王都中央監査局本部、地下三階。
かつてエレオノーラが慣れ親しんだ、埃とインクの匂いが漂う執務室とは、すべてが違っていた。
部屋の中央にある重厚なマホガニーのデスク。その上にあるのは、鈍く光る金色の刻印が施された『特命監査官』の辞令と、ハインリヒ局長から直接手渡された、最初の案件ファイルだけだった。
「……これだけ?」
エレオノーラは、薄いファイルを開いたまま、小さく呟いた。
国家全土を揺るがす告発書の果てに、自分に与えられた『特命』の任務。それが、王都の片隅にある「第六物資集積倉庫」の、直近三ヶ月の在庫監査。
拍子抜けするほどに地味で、まるで左遷された新人監査官に押し付けるような退屈な作業だった。
ハインリヒ局長の、あの底知れない笑みが脳裏をかすめる。
嫌がらせのつもりか。あるいは、飼い殺しか。
「……いいでしょう」
エレオノーラは上着を椅子の背にかけ、シャツの袖を捲り上げた。
どんな地味な案件だろうと関係ない。監査官が信じるべきは、己の頭脳と、羊皮紙の上に刻まれたインクの跡だけだ。
サラサラと、深夜の室内に羽根ペンの音だけが規則正しく響く。
だが、監査を始めてから数時間が経過した頃、エレオノーラのペン先がピタリと止まった。
倉庫の在庫報告書。その最下段の数字が、どうやっても合わない。
「……3レアル」
それは、あまりにも微々たる数字だった。
銀貨3枚。数十万レアルが動く倉庫全体の予算から見れば、ただの「記載漏れ」か「端数処理の誤差」として、誰もが見逃す極小の歪み。
だが、エレオノーラの背筋に、奇妙な悪寒が走った。
普通の人間が帳簿をごまかす際に出る、焦りや強欲といった『ノイズ』が一切ない。流通税の特例措置と、戦時備蓄の減価償却の盲点を精密に重ね合わせた、異常なほどに美しい数式だった。
翌朝、エレオノーラはその3レアルの行方を追うべく動いた。
倉庫の帳簿から、そこへ物資を運んだ運搬業者の帳簿へ。さらにその奥にある省庁の納品証明書へ。
「チッ……特命監査官、ですか。はいはい、分かりましたよ。拒む理由などございませんからね」
各部署の窓口に並ぶ官僚たちは、金色の辞令を見るなり露骨に舌打ちを漏らした。泥にまみれた地方ギルド上がりの小娘が、ハインリヒの威光を傘に着て飛び込んできた――その事実自体が、彼らのプライドを逆撫でするようだった。
「規則通り」を盾にした嫌がらせは、執拗だった。
あからさまに目線を逸らされ、鼻で笑われ、わざとらしく書類の束をデスクに叩きつけられる。ガチャン、バタンと、当てつけのように乱暴に閉められる鉄製の引き出しの音。
最高権限の肩書きがあろうとも、現場の官僚たちが「非協力」という無言の壁を築けば、何一つ調査は進まない。
終いには、冷笑と共に、山のような「全く無関係の雑多な廃棄書類」をデスクへ積み上げられた。必要な資料を、膨大な情報の海の底に沈めて殺す――それが、彼らの懃懃無礼な復讐だった。
だが、彼らが嫌がらせのつもりで放り出してきたそのゴミの山こそが、エレオノーラの牙だった。
どれほど書類の海に隠そうと、目の前にあるわずかな数字の歪みを逆算していくだけで、次の帳簿の、その次の帳簿の『嘘』が芋づる式に浮かび上がる。
不快な舌打ちも、耳障りな雑音も、彼女が集中を高めるためのノイズにすらならなかった。
運搬業者から省庁へ。省庁から王宮の保管料請求書へ。さらにその奥、軍の支払い記録へ。
誰も協力しないはずの王都。
なのに、彼女が執念で数字を繋ぎ合わせるたび、その「3レアル」の歪みは、他組織の防衛線を嘲笑うかのように、国家予算の全く別の『項目』へと、綺麗に還流していた。
そこには、どの組織図にも存在しない、所属不明の謎の暗号だけが刻まれている。
──『7―0―3』。
「どういう、こと?」
エレオノーラは激しい悪寒を覚えながら、その還流の『起点』を探るべく、特命監査官の辞令を手に、局内の最奥に眠る古びた地下倉庫へと走った。
重い鉄扉の鍵を開け、埃が何層にも堆積した、数十年前の古い監査原簿の山をひっくり返す。
あった。
そこには、今と全く同じ『7―0―3』のコードが、歴史の血痕のように刻まれていた。
だが、そのコードの真上に並ぶ、かすれた大見出しの文字を目にした瞬間、エレオノーラは息をすることすら忘れた。
『第2次北方大反乱財政原簿』
エレオノーラの指先が止まった。
あり得ない。
なぜ、この名前がここにある。
(つづく)




