3 とある料理人
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男は今さびれた十数年前、造船所だった建物の中にいた。
外見から想像できないだろうが中は西洋の美術館のような内装をしている。
クラブのように鮮やかなレーザーライトの線がいくつも交わるような部屋、小さなホールなどもあったりする。
勿論ここは周りからしてみれば、ただの閉鎖された造船所なのだが俺たちのような物からは全く別の施設へと見える。
そんな秘密基地のような建物の一室で俺は、中華包丁を手に取った。オレンジ色の落ち着いた照明に照らされた中華包丁に俺の彫りの深い顔が映る。そして、自分の光を感じない目を見つめて問いかける。
「俺は、果実を口にすべきだったのか?」
そう俺はいつものルーティーンのように口ずさみ、中華包丁の柄を指でぐるりと一回転させる。
この光景を見ている観客どもは演出だとでも思っているのかも知れないが、ただ臆病な自分を振り切るためにやっているだけなのだ。
今は、昔よりいい。そうかもしれない。昔は今よりいい。そうは思いたくない。
そうやっていつも迷いながら男はこの場に立つ。
血抜きのされた青白い女性の死体の前に。
ステンレス製のキッチンに置かれた死体は、とても品のある顔立ちで健康的な体つきをしている。
鱗を剥がれた魚のように全裸に剥かれた女性の骨格をただの食材として一通り眺める。肩から腕にかけての絞まった肉に程よく膨らんだ胸、括れた腹部。
食材としては些か小ぶりで食べられる部分は少なく見える。
今回の獲物を選んだのは俺ではない。いや、違うか。俺は、ここで、アトリエで自分の意思で人を殺したことはない。もし俺が選ぶことができたのならこんな若く細身の女ではなく、小汚なく生きる薄汚い肥えた中年を選ぶだろう。
しかしそれは叶わない。
それは変えることのできない秩序であり自分をこの場所に繋ぎとめるための楔であった。しかしその秩序を咎めることはできない。咎めようとも思いはしない。
ただ俺は頭を使わないことに頭を使い、自分に託された仕事をこなすだけでいい。それでいいのだ。
そう自分の心をベールに包み、強く奥歯を噛み締める。歯茎から血が出そうになるほどかかる圧力が自分の本心を抑圧していることに本人は気付かない。感受しない。
そんな無心と激情の狭間にたたされている男はゆっくりと隣のテーブルに置かれた中華包丁を幾度か握りもう一度、次は声に出すことなく心のなかで呟いた。
『俺は果実を口にすべきだったのか』
そうして、俺はこのショーの幕を切って落とすように青白い死体の首に無情にそして有情に銀を落とす。
# # #
「ここに座りなさい」
俺に諭すように彼女はそう言った。彼女は自分の隣を指差す。隣……つまりは彼女のベッドの上だ。
俺は腰をかけるべきなのか悩んだが有無を言わせぬような彼女の笑顔に従いベッドに腰かけた。
いつもそうだ彼女は、いつもよく笑っているのだがその中でも一段と目を細め口角を上げた笑みを浮かべる際には、瞳の奥から人に強制させるような威圧感を僅かに漏らす。
それなりに長い付き合いであるので、本気で怒っているというような感情ではない事は察することができる。だからと言って変に気を回し、機嫌を彼女の機嫌を損ねるのもよくないので素直に従った。
「何ですか?俺を呼び出すなんて珍しいですね。あんたは、あまり俺のショーは、好きじゃなかったんじゃないですか?」
少し刺のあるような言葉選びに感じるかもしれないがこれが俺と彼女との正しい距離感というやつだ。
そう言うと彼女は、手を後ろにつき上体を傾け、灰色のネグリジェから伸びた陶器のようにキメの細やかかな長い足をするりと伸ばした。
この部屋にあるステンドグラスの奥から漏れる淡い光に照らされた足は鮮やかにいくつかの色を映す。
「そうね。私は好きではないわ。いくらアトリエの資金源の一つとしてもあのショーは、下劣で空っぽな物にしか見えないわ」
俺は、こう言われても決して怒らない。何故なら俺の評価も全く同じだからだ。
「怒らないのね」
「ええ」
彼女は俺が怒るのに期待していたのだろうか?もしくは、ただ単にいつものように刺のある会話を楽しみたいのかだろうか。
「毎回あなたと話すたびに思うのだけれど、あなたはここにいる誰とも違うわよね」
「当たり前です。一個人である人間はそれ以上のもしくは以下であったとしても何者にもなれないですから」
「それは、あなたの見解?」
俺は、軽く顎を引く。受け売りではあるものの最終的に自分で咀嚼したものであるため自分の見解かと問われれば是と答えるべきだ。
「まぁ、私としてはそんな宙に浮いたような回答を求めてはいないのだけれど」
「というと?」
彼女が言いたいことは察しがついてはいるのだがあえてとぼけて見せる。
「ここにいる人たちの殆んどはここに留まることをよしとし、各々仕事を娯楽として楽しんでいるわ。けれどもあなたはそうではないわ。何かいつも迷っているような空虚とした目をしているわ」
図星であるのだがその事を理由として呼び出す問いのは引っ掛かる。何故ならこのこと……つまりはここから出る考えがちらついている事ぐらいは、彼女からしてみれば火を見るよりも明らかなのだろうから。
分かっていてわざわざ呼び出すような無駄を彼女はしない。だからこそこの状況に些細な疑問を抱くこととなっている。
「それで、俺に何の要件ですか?」
丁寧に湾曲させ築かれてきた話の枠組みを俺の言葉が両断した。
あまり他人のペースに合わせるような人間ではないためこんな雑な切り出し方をされると腹を立てそうなものなのだが、思いのほか柔らかい態度で返答が来た。
「貴方に笛職人について相談をしたい。と言うのが今回の目的よ」
「笛職人?」
平坦な口調が少し崩れた。
勿論知らないから聞き返した訳ではなく、あまりに自分とは離れた問いに対して疑問が沸き、自分に問ようなに自然と声が出たのだ。
笛職人。同じアトリエのメンバーであり、彼女と同様にアトリエの中では芸術性の高い花方の子だ。
確か幼い頃から彼女が付き添っていると言うのは聞いたことがあるのだが、それ以上は殆んど知らない。会話すらまともにしたことはない。
その為何故自分に笛職人の話をされるのかが全くもって皆無だった。
「あの子最近貴方と同じ目をするようになったの」
僅かな沈黙のあと声色を変えずに返した。
「反抗期なんじゃないですか?」
「もしそうだとしたら、貴方も反抗期と言うことなのかしら?」
口調自体は殆んど変わらないが俺をおちょくっているようだ。
「年頃の女の子ですから、まともな回答だと思うんですけど」
「そうなのかしらね。私はもっと深い所にあの子の思想や意志があると思うの。それこそ自分ですら気づいていないような所に」
そう言いながら空虚な暗い部屋の天井を見つめる。普段の張り付いた笑顔の裏に真剣さがかいまみえた気がした。
「それは、彼女の仕事とは別の所にということですか?」
俺は、短く清楚に整えてある頭を掻く。
「というよりは、他の道を探す事を諦めて今の境遇のなかに身を置いているような感じかしら。まあ、もしそうなのだとしたらそうさせているのは私の存在であるのでしょうけど」
この人が自分の行い、いや存在を卑下するような言い方をするのを初めて聞いた。自分の曲がらない意思に沿って生きてきたのを今まで見てきた此方からすればひどくチクチクと痛むような違和感を感じる。
「あんたらしくないですよ」
「そうね。けれどあの子の事は遅かれ早かれ何か手を打つわ。つまらない話に付き合ってくれてありがとう」
「いいえ、案外退屈ではなかったです」
そう言って男は扉に向かい歩み出す。
この話を聞くことで俺は少しだけ自分の指針を定める至るまではないにしても行動する決意だけは固まった。
最後に俺はこの人に恩を返すための仕事をしよう。
ステンドグラスを通して漏れた鮮やかな光が不安げに揺れながら映る扉を押し開き足を進める。
ゆっくり、ゆっくりと閉ざされる扉の向こうからこの男の知らないような顔をした女が見送っていた。
その後、男と白い死神との接触が合った事は誰も知らない。