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第106話 麗しの狼夏、再び

皆さん、長い間お待たせしてすみませんでした。ちょこちょこと書いては修正、書いては修正の繰り返し。そしてようやく完成までこぎつけました。今回も長文ですので読み応えはあるかと思います。どうぞお楽しみください。

「……フー―……っ!」



黒狼達の所へいつ向かうのか、そして今夜行う食事会の話だけで済むはずだった朝議の場で急遽娘の名前、つまり狼華の名前を決める話が行われたのだが、それにより零治が今まで隠し通してきた秘密、それが一番最悪な形でバラされてしまった。その事で怒り心頭の零治は少しでも気を紛らわせようと東屋でタバコを吸っているのだが、煙の吹かし方がいつもより乱暴になっている。誰がどう見ても苛立ちが収まっていないのは明らかだった。



「クソぉ……。何だってこんな事に。あんな形でオレの秘密が暴露されちまうなんて。……フー―……っ!」


「父上ーーっ!」


「あぁ~。噂をすればだ……」



東屋で少しでも気を紛らわすためにタバコを吸って時間を潰していたが、その静かな時間は終わりを告げた。庭から右手に持つ紙を振り回しながらこちらに駆け寄ってくる狼華の声が耳に入り、零治の不機嫌な表情はますます悪くなり、彼はタバコを口に咥えて頬杖を付きながら中庭と東屋を繋いでいる階段へと視線を向ける。階段の下からはドタバタと騒がしい足音が響いてきて、騒ぎの元である狼華がその場に辿り着くと彼女は零治に向かっていきなり抱きついてきた。



「父上ーーっ! 私の名前が決まりましたぞ!」


「分かったからいちいち抱きつくな。暑苦しいから離れろ」



咥えタバコをしている時に抱きつかれてはお互いに危ない。抱きついてきた相手にタバコの火が当たる可能性は充分にあるし、ポロッと口から落ちて自分が火傷する可能性もある。そんな事になったら折角の機敏転換が台無しになるだけである。零治は未だに抱きついている狼華を両手で無理やり押しのけて引き剥がした。



「むぅ……父上はつれないですぞ。しかもまたそんな物を吸って」


「ここにタバコを吸いに行くとさっき言っただろ。……フー―……」



タバコを吸っている姿を見るなり狼華が顔をしかめるので、零治は残りを一気に吸って煙を大きく吐き、吸い殻を携帯灰皿に捨てる。本音としてはもうしばらくここで喫煙をしていたい所なのだろうが、娘が来たとなるとそうもいかない。狼華のこれまでの反応を見た限り、彼女はタバコを好ましくは思っていないようだ。また朝のようにギャーギャー言われたらただでさえ悪い気分が余計に悪くなる。とりあえずタバコは我慢するしかないと零治は自分に言い聞かせ、狼華に視線を向けた。



「で、名前が決まったって?」


「おお! そうでした! 見てください! これが私の名前ですぞっ!」


「どれどれ」



狼華の名前が書き記されている紙を零治は受け取り、目の前で広げてササッと眼を通した。真っ先に眼についたのは、横線が二本引かれて潰された『夏』の文字。そして次に視線が向いたのは潰された文字の横にある空きスペースに書き記された『華』の文字である。当然この文字を書いたのは星だと零治もすぐに分かったが、この文字のどこに星らしさがあるのか。それが疑問だった。



「んん~? これって読み方は前と同じだよな?」


「はい。今日から私の名は狼華ですぞ、父上」


「この新しい『華』の字を書いたのは星なんだな?」


「はい」


「……この字のどこにアイツらしさがあるんだ?」



考えれば考えるほど分からなくなる。星の性と名、字にもこの文字は使われていない。華の字は『はな』と読む事も出来るが、その読み方だとどのように星と結び付けれるのか。戦場で華々しく戦って活躍していたとかそういう解釈も出来なくはないが、この考え方は星だけに限らず大半の武人が該当すると思える。そうなってくるとこの文字に星らしさがあるとは言い難い。いくら考えてもなぜこの文字を選んだのか零治には見当がつかなかった。



「なあ。星はなんでこの文字を選んだんだ? この字のどこにアイツらしさがあるんだよ?」


「…………」


「おい。なぜ黙る。別におかしな質問じゃないだろ」


「父上。女は秘密を纏ってこそ美しく輝けるのですよ?」


「……ほぉ~。それはつまり、何か隠してるって意味と解釈していいんだよなぁ?」


「な、何を言ってるのですか、父上。私は何も隠し事なんか……っ!」


「さっき秘密がどうたらと抜かしていながら言い訳すんじゃねぇ……」



狼華は性格が星に似てはいるが、やはりまだ内面が幼いが故に星のように適当にあしらう事は出来ない。狼華の挙動不審な様子を前にすれば零治でなくても何か隠し事をしてるのだと一目で分かるだろう。そのせいなのか、零治の中で玉座の間での一件に対する怒りの炎が少しずつ燃え盛り始めたのだ。



「オレの秘密はバラしやがったくせに、お前の名前につけられた『華』の字の秘密は教えないつもりなのか。ええ……?」


「ち、父上。落ち着いてください。ほら。タバコでも吸って気分転換などしてはいかがですか……っ!?」


「どうした? タバコは嫌いじゃなかったのか? なぜ今このタイミングでオレに喫煙を奨める……」


「そ、それはそのぉ……」



歯切れの悪い狼華の様子に零治は堪忍袋の緒がプッツンと切れてしまい、彼は口の端を吊り上げて右手を叢雲の柄に伸ばして迷わず抜刀した。上空に存在する叡智の城ヴァイスハイトのせいで陽の光は地上まで届いていないが、それでも白銀の刃は鈍い輝きを放っていた。



「父上っ! なぜ剣を抜くのですかっ!?」


「やかましい! オレの秘密を全員の前でバラしておいてただで済むと思ってんのか! お仕置きしてやるっ! そこになおれぇ!」


「ひゃあああああっ!」


「くぉらぁ! 待ちやがれぇ!」



叢雲を抜刀した零治に恐怖した狼華は脱兎の如くその場から逃げ出したが、当然零治も右手に持つ叢雲を振り回しながら走って追跡をする。その姿は桂花に激怒して追いかける春蘭のようにも思えた。流石の零治も娘として扱うと決めた狼華を殺すような真似はしないだろうが、これは誰がどう見ても止めに入らねば非常に不味い展開である。



「逃げんじゃねぇ! 今すぐ止まりやがれこの野郎!」


「だったらその剣を仕舞ってくださいよ! 父上っ!」


「お仕置きだっつってんだろうがぁ! いいから止まれやぁ!」


「でしたら止まりませーーんっ!」


「親に逆らうとはいい度胸だっ! オレを怒らせるとどうなるかその身に叩き込んでやるっ!」


「ひえええええっ! 誰か父上を止めてくださーーいっ!」



いくら父と慕っている零治でも、叢雲を振り回しながら怒り狂って追いかけて来られては狼華も逃げるしか無い。しかもお仕置きと言っているのだから捕まると何をされるか分かったものじゃない。今の狼華にとってこの状況は命の危機にも匹敵する出来事である。涙目になりながらも必死に零治から逃げ続ける狼華だが、いつまでも追いかけっこを続けていては埒が明かない。とはいっても、まだ内面が幼い彼女にこの状況を打開する方法など考えつくわけがないし、その余裕も無い。しかしそんな状況の中、城内へと続いている吹き抜けの廊下に救いの女神が現れたのだ。



「あっ! 母上ーーーーっ!」


「ん? 狼華。そんなに慌ててどうしたのだ?」



吹き抜けの廊下に姿を見せたのは星、翠、蒲公英、翠蓮の四人だった。狼華は星の姿を見るなり廊下の柵を飛び越えて星に抱きつき、そのまま彼女の背中に隠れてビクつきながら顔だけをそっと覗かせた。その様子に星達は怪訝な顔になり、狼華が見ている方向に視線を向けると、叢雲を片手にこちらに猛然と走ってくる零治の姿が確認できた。零治は猛スピードで走ってきているが吹き抜けの廊下を確認すると、右足の踵を前に突き出して地面を踏み締め、大量の砂煙を巻き上げながらブレーキを掛けて廊下の目前で停止した。



「ふぅー、ふぅー、ふぅー……っ!」


「零治殿。どうしたのですか? そんなに血相を変えて」


「…………」


「ん?」



零治が無言でこちらを睨みつけているが、その視線は自分に向いておらず、気になった星は彼の視線の先を追ってみた。零治の視線の先に居るのは、星の背中に隠れている狼華。そしてそんな彼女を睨みつけている零治。大方、また狼華が零治を怒らせるような事をしたのだろうと星は察したが、場を和ませるためなのか何なのか知らないが、随分と的外れな事を口にした。



「ふむ。娘と仲良く追いかけっこですか? 零治殿」


「はっ?」


「このような状況でも娘の遊び相手を務めるとは流石ですな。父親の鏡ですぞ」


「どこをどう見たら遊んでいるように見えるんだ……」


「ふむ。確かに剣を振り回しながら相手を追い回す遊びは見た事も聞いた事もありませんな。もしや天界ではそれが普通なのですか? だとしたら中々に斬新な遊びですな」


「…………」



星の冗談なのか本気なのか理解に苦しむセリフに零治も反応に困ってしまう。だが、零治もこの短い間に星が捻くれた性格をしているという事は既に把握しているので、少なくとも彼女がいま言った言葉は恐らく冗談だろう。ただ、それでこの場の空気が和むかどうかは別問題である。おまけにここには星だけでなく、翠と蒲公英、翠蓮も居るのだ。緊急事態でもないのに城の敷地内で抜き身の剣を持っているのは明らかに異常だ。三人から向けられる視線が痛い。



「零治。何があったか知らないけど、剣を振り回して自分の子を追い回すのは親以前に人としてどうかとあたしは思うよ」


「……いや、母様だってあたしらがまだ子供の頃鍛錬と称して似たような事してたじゃん」


「ホントだよ。鍛錬で命の危機を感じたのはたんぽぽはあれが初めてだったよ」


「やかましい。それはそれ。これはこれだよ」


(はぁ~……こっちの事情も知らないで好き勝手言いやがって)



内心零治はこう思うも、少なくとも翠蓮が言っている事は正論なので反論は出来ない。だがそのおかげもあって狼華に対する怒りで興奮状態だったが、少しだけ頭も冷えて燃え盛っていた怒りの炎も鎮火した。とはいえ事情を彼女達に説明する気は零治には無い。この際狼華に与えられた文字の秘密を与えた本人である星に尋ねるのも手だが、彼女が素直に説明するだろうか。それに狼華が先程言っていた、女は秘密を纏ってこそ美しく輝ける。この言葉は狼華の性格から自分で考えたとはとても思えず、どうせ星の受け売りなのだろうと零治は見ている。となるとやはり訊くだけ時間の無駄なのだという結論にしか到れなかった。とりあえず零治は叢雲を鞘に収め、気持ちを落ち着けるためにタバコをコートの下から一本取り出し、火を点けて煙をいつものように吹かし始めた。



「……フー―……」


「父上。またタバコですか。身体を壊してしまいますよ……」


「あぁん……? さっき喫煙を奨めたのはお前だろうが……」


「ひっ!?」



星の背中に隠れながら狼華は零治の喫煙をたしなめるが、彼は表情に影を落として睨みつけるので狼華は萎縮してササッと星の背中に顔を引っ込めた。このやり取りには誰もが呆れるだろう。事情は分からないが、親が娘を睨み付けるのは褒められた行為ではない。



「零治殿。事情は分かりませぬが娘を怖がらせるのは父親として褒められた姿ではありませぬぞ」


「……フー―……っ! だったらお前からそこのバカ娘に言い聞かせとけ。オレを怒らせるような事をするなとな」



零治の毒づきに狼華は星の背に隠れながら不満げな表情をするが、いつものように口答えはしなかった。今の零治に反抗的な態度を見せたら余計に怒りを買う事になると理解しているのだろう。実際ここに来るまでに、彼は叢雲を抜刀して追いかけ回してきたのだ。星達のおかげで零治の怒りの炎も少しは鎮火したのだ。わざわざここで怒りの炎に油を注ぐ必要などあるまい。狼華も少しは学習したと言うべきなのだろう。



「ねえ、音無さん」


「あん? ……フー―……。どうした? 蒲公英」


「初めて会った時から気になってたんだけど、音無さんが口にしてるそれってなんなの?」


「ふむ。そういえば私と初めて会った時もそれを口にしていましたな」


「やれやれ。またこの質問かよ。これで何度目だ……?」



蒲公英と星が興味を示したのは零治が普段から口にしているタバコである。もうこれでこの質問も何度目になるだろうか。とはいえ、この世界にタバコは存在していないのだから興味を持たれるのは仕方ない事である。訊かれた以上は説明はするが、零治は内心このやり取りにも飽き飽きしている。だからさっさと終わらせるために要点だけを掻い摘んだざっくりした内容で説明する事にした。



「あー、コイツの名称は『タバコ』で、オレの世界ではごく一般的な嗜好品の一つだ。因みに使い方は火を点けて煙を吸うだけ。そして煙を吸うと気分が落ち着く。以上、説明終わり」


「……なあ。なんか説明がすげぇ雑だった気がするのはあたしの気のせいか?」


「それはお前の気のせいだぜ、翠」


「そ、そうか」


「へぇ~。ねえ音無さん。気になるからたんぽぽにもそれ吸わせてよ」


「あ~。やっぱそうなるわな。……ダメだ」


「え~。どうして?」


「タバコの煙は基本的に身体に悪いんだよ。それに麻薬と同じで依存性が高いから、一度吸い出すとタバコが無いとイライラするようになる。吸っても良い事なんか何一つ無いぞ」



タバコにある最も悪い点を零治が説明すると、星達は揃いも揃って何も言いはしないが零治にジト目を向けていた。そしてその視線はこう語っていた。身体に悪いと分かっているのなら、なぜわざわざそんな物を吸っているんだと。無言の圧力は何かを言われるより精神的に堪える場合もあるが、零治から言わせればそんなものどこ吹く風である。彼は星達のジト目を物ともせずにタバコの煙を吹かし、自分の考えを口にした。



「あぁ~、はいはい。どうして身体に悪いのにそんな物を吸ってるんだって言いたいんだろ? 理由なんか無い。ただタバコを吸いたいから吸う。それだけだ」


「やれやれ。今の話を聞いて、娘の朝の反応がようやく理解できましたよ。零治殿、そのような物を口にするのはもうやめるべきなのでは?」


「ケッ! コイツとの付き合いは華琳より長いんだ。今更そんな事言われたぐらいでオレがタバコをやめると思ったら大間違いだぜ?」


「全く。とんだ父親だねぇ。身体に悪いと分かっていながら口にして、星が注意しても開き直るなんてさぁ。零治、そういうのは娘の教育に悪いよ? よく言うだろ? 子は親の背中を見て育つって」


「フッ。コイツはもう充分に成長してるじゃねぇか。内面は難ありだが。それにここには優秀な教師が大勢居るからそいつらに任せれば問題無いし、アンタもその一人だろ? 翠蓮」


「やれやれ。そりゃいくらなんでも他力本願すぎじゃないの?」


「別に育児放棄をするわけじゃねぇ。オレの教育が必要な所はキッチリやるさ。……フー―……。さて、オレもそろそろ玉座の間に戻るか。今夜の食事会の準備があるからな」



とりあえずタバコを吸ったおかげで気分もだいぶ落ち着いた。これ以上ここで油を売って時間を無駄にしていては今夜の食事会の準備の時間が無くなってしまう。何より言い出しっぺの自分が居なくては準備もへったくれもない。零治は吸っていたタバコの吸殻を携帯灰皿に捨て、城へ戻ろうとしたその時だった。狼華が未だに星の背中に隠れながら零治を呼び止めた。



「あの、父上」


「あん? 何だよ?」


「その……私もお手伝いがしたいのですが」


「お前がぁ? なんか邪魔にしかならん気がするんだが」


「むっ。失礼ですな。料理でもなんでも手伝ってみせますぞ」


「ほぉ~。なら一つ試してやる。料理の『さしすせそ』を答えてみろ」


「そんなの簡単ですぞ。『さ』は砂糖。『し』は塩。『す』はお酢。『せ』は醤油。『そ』は味噌でございましょう?」


「フンッ。オレの記憶を継承しているなら答えれて当然か。……いいだろう。許可してやる」


「ありがとうございますっ! 父上!」


「ただし、オレが邪魔だと判断したら問答無用で追い出すからな」


「分かっておりますよ。さあさあ。早く行きましょうぞ」


「おいやめろ! くっつくんじゃねぇ! 歩きにくいから離れろっ!」


「嫌です♪」



零治に手伝いを許可された事がよほど嬉しいのだろう。さっきまであんなに怯えて星の背中に隠れていたのに、狼華は顔を輝かせて朝議の時のように零治の右腕に自分の両腕を絡ませてまるで恋人同士のように歩き始めたのだ。しかしこんな事をされるとどうしても自分の歩調で歩く事が出来ないので、零治の脚の動きがよたよたとしている。その様子を星は黙って見送り、フッと小さな笑みをこぼした。



「ふふっ。どうやら杞憂だったか」


「ん? 星、何か気になる事でもあったのかい?」


「いえ、朝議の一件でまた零治殿の娘に対する風当たりが強くなるのではないかと思っていたのですが、あの様子だと要らぬ心配だったようで」


「あぁね。確かにあの様子なら大丈夫そうだね。零治も少しずつ父親としての自覚を持ち始めてるのかもな」


「そういや朝議の時、音無はなんであんなに怒ってたんだ?」


「たんぽぽも気になる。なんか女装がどうとか聞こえたんだけど、なんの事なのかな?」


「さてな。まあ、零治殿の秘密については今宵の食事会で分かるだろうよ。我らはそれを楽しみにしながら時間を潰すとしよう」


………


……



「戻ったぞ」


「やっと戻りましたか。遅いですよ、零――。……ほぉ~」



食事会を開くと提案した零治がようやく玉座の間に戻ったので亜弥が出迎えたが、出迎えてみれば零治と彼の右腕にまるでデートをしているアベックのように両腕を絡ませてくっついている狼華の姿が確認できた。その様子に亜弥は右手を顎に添えて、意味深な笑みを浮かべながら感心したような声を出してウンウンと頷いた。



「何だよ?」


「いえ、朝あんな事があったというのに、随分と仲がいいなと思いましてね」


「ケッ! これはコイツが勝手にやってるだけだし、やめろと言っても聞かねぇから諦めてんだよ。……お前もいつまでくっついてんだ。いい加減離れろ」



未だに腕に絡みついている狼華を振り払うために、零治は右腕を振って乱暴に彼女を引き剥がした。別に殴ったりとかはしてないで痛くはないのだが、零治の行動にはやはり娘として不満らしく、彼に恨めしげな視線を向けて口を尖らせる。



「むぅ~……父上、私に対する扱いが雑すぎませぬか」


「やかましい。まさかお前は食事会の準備中もオレにくっつくつもりじゃねぇだろうな? それはただの妨害行為だ。追い出されたくなかったら文句を言うんじゃない」


「ぬぅ。仕方ありませぬな。今は我慢しましょう」


「それでよろしい。……さて、早い所準備に取り掛からないとな」


「それは分かりますがぁ……零治さん。わたくし食事会で気になる点がありましてよぉ」


「何だ?」


「料理の内容はどの様にいたすのですかぁ? 今回は人数も多いですし、沢山の料理が必要になるかと思いますがぁ」



樺憐が指摘する通り、食事会を開くにしても料理のラインナップは決めておく必要がある。今回の食事会には自分達の世界の料理と酒を華琳達に振る舞うという趣旨はあっても、全ての料理を用意するのは土台無理な話だ。零治もある程度は考えをまとめてある。後は即興でどうにかする。それでいくつもりなのだ。



「あぁ、そうだな。まあ、華琳もそうだが、流琉も間違いなく興味を惹かれるだろうから、こっちの世界でも完全ではなくても真似できる料理も多少は作ろうかと思ってる。それに真似できそうにない料理をメインにしても、あの二人ならオレ達の世界の料理から何かヒントも得られるはずさ」


「なるほどぉ。承知しましたわぁ。わたくしも存分に腕を振るうとしましょう」


「ああ。それと樺憐、食事会の料理はほぼ全てお前に任せたい」


「はい? わたくしがですかぁ? それは構いませんが、零治さんはお作りにならないのですかぁ?」


「そういうわけじゃない。オレは今回、華琳達に酒の提供に回りたいんだ。バーカウンターみたいな席を用意してな。まあ、そこでも調理できるスペースは用意するが、主な料理はお前に任せたい。頼めるか?」


「分かりましたわぁ。必ずや皆さんの舌を満足させてみせましょう」


「ああ。頼むぜ」


「零治。私も訊きたい事があるんですが」


「何だよ?」


「食事会の形式はどうするんです? 流石に人数が人数ですから、注文を受けてから作るというのは私達だけではどう考えても無理ですし、効率も悪いですよ」



樺憐に続いて次に質問してきたのは亜弥だ。そして彼女が知りたいのは食事会の形式。自分達はあくまでも振る舞う側。つまり食事会の料理を提供する事になるが、今回は華琳達でなく、桃香や孫策といった蜀と呉の首脳陣達も居るのだ。それに零治達もある程度は飲み食いするつもりでいる。トータルで四十人以上。それだけの人数分の料理を用意するのに、注文を受けてから零治達だけで用意するのはどう考えても不可能である。もちろんそこも抜かりはなかった。



「そんな事はオレも分かってる。だから料理はバイキング形式で出すつもりだ。全員に出来たての提供は出来ないが、これなら全員に料理は振る舞えるだろ?」


「なるほど。確かに人数を考えるとそれ以外に方法は無いですね。で、必要な物はどうやって用意するんですか? さっき言ってたバーカウンターだって、数時間の突貫工事で用意できる代物じゃありませんよ。……真桜なら出来そうな気がしなくもないですが、彼女に頼むわけでもないのでしょう?」


「分かってる。必要な物は全てBDを使って用意するつもりだ。料理に必要な食材や酒、その他諸々も含めて全部な」


「なるほど。了解です。なら時間も惜しいですし、早いと所準備に取り掛かりましょうか」


「ああ。……BD、そういうわけだから頼りにさせてもらうぜ」


『へいへい。分かりましたよ、ご主人様』



零治の指示に従い、BDが魔法を展開すると玉座の間の至る所に魔法陣が描かれ、その中から零治が必要としている食事会に必要な物が次々と創り出されていく。料理に必要な食材はもちろん、酒類に食器やグラス、大人数が食事を囲む円形の大型テーブルと対となる椅子にその他諸々。流石の零治達もこれには圧巻だ。まさかここまでいともたやすく用意してくれるとは予想もしていなかったが、これは嬉しい誤算である。これならテーブル等の配置などはすぐに終わるだろう。後は料理の用意。零治達は意気揚々と食事会の準備に取り掛かり始める。因みの亜弥達に狼華の紹介は作業前にササッと零治が済ませておいた。


………


……



「臥々瑠。呉のテーブル、もう少しこっちに寄せるから持ち上げて」


「ええ~。またぁ? もう適当でいいじゃんかぁ。玉座の間はこんなに広いんだし」


「そういうわけにはいかないの。ちゃんと動線を確保して、みんながスムーズに料理や飲み物を取れるようにしないと。バイキングは人の流れのスムーズさが大事なのよ」


「ぶ~。分かったよぉ……」



大人数を囲う円形のテーブルなのでいちいち細々と移動させるのに文句を言う臥々瑠だが、奈々瑠のもっともな反論に口を尖らしながら渋々と従い、普通なら数人がかりでなければ持ち上げれない大型テーブルを二人は持ち前の怪力で軽々と持ち上げ、ちょこちょこと短い距離を小刻みに移動してテーブルの位置決めをしっかりと行っていく。テーブルをセットして奈々瑠は料理を並べるテーブルがセットされる場所と魏と蜀のテーブルをセットする場所を見比べ、動線の確保には充分と判断すると一度頷いた。



「とりあえずここで良いかな。よし。次は蜀のテーブルのセットよ」


「ふぇ~い……」


「亜弥。料理を並べるテーブルはどの辺に置く? やっぱ壁際?」


「まあ、それが無難でしょうかね。後は……置くのならば樺憐と零治が使用している調理台の間あたりが良いでしょうね」


「何で?」


「例えばですが、このテーブルを二人の調理台の真向かいの壁際に置いた場合、補充用の料理を運ぶ時の自分の姿を想像すれば分かりやすいのでは?」


「あぁ、なるほど。確かに距離があると効率が悪いわな。人の流れもあるしな」


「そういう事です。幸い樺憐の調理台と零治のバーカウンターの間に丁度いいスペースがありますし、料理用のテーブルはそこにセットしましょう。その方が私達だけでなく、零治と樺憐も楽だと思いますしね」


「了解。ならちゃっちゃっと運んじまうか」



亜弥と恭佳も奈々瑠と臥々瑠同様に、今夜の食事会用の料理を並べる長方形のテーブルを二人ががりでせっせと運び、樺憐が使用している調理台と零治が使用する予定のバーカウンターの間にあるスペースに置き、料理を取るのに必要な食器用のサイドテーブルも置いて位置決めを終えたので、次の作業に取り掛かろうとする亜弥をよそに、恭佳はチラリと樺憐が使用している調理台と零治が担当するバーカウンターに視線を向けた。



「大したもんだねぇ」


「恭佳。どうかしたんですか?」


「いや、今夜の食事会で零治の奴、どうやってアタシらの世界の料理や酒を用意するのかと気になってたんだが……まさかここまでやるとは思ってなくてさ」


「あぁ、確かに。ここまでの規模は予想もできないですね」



亜弥も恭佳と同様に樺憐と零治が使用しているそれぞれの持ち場を見てみれば、その様子には圧巻だろう。まず、樺憐が使用している調理台だが、造りが完全にレストランの厨房レベルなのだ。高火力のガスコンロが三口、更に食器や調理器具等を洗うための大きな流し。おまけに樺憐の背後には食材を保存しておくための業務用の冷蔵庫まであるし、その隣には生簀が三つもある。それぞれ生簀にはこの世界でも馴染みのある魚の鯛を始め、ヒラメキスといった馴染みない魚類が泳いでおり、もう一つの生簀には蟹や海老といった甲殻類。三つ目の生簀には数匹のイカが泳いでいて魚介類も豊富だ。更に調理台には寿司屋のカウンター席などでよく見かける冷蔵ケースも備え付けられていて、中には捌かれた魚の切り身や雲丹にイクラや牡蠣などと選り取り見取りである。しかもこの調理台も特別性で、水道の水は台の中に水属性の魔石が仕込まれていてこれのおかげで蛇口を捻ればいくらでも水が出るし、排水溝もBDが台の中で異次元空間と繋げているので水回りの排水問題は解決済み。ガスコンロの火も炎の魔石が動力源となっているので使い放題なのだ。同じ理由で樺憐の後ろにある業務用の冷蔵庫の内部にも雷属性の魔石がバッテリー代わりとして仕込まれている。だから電源無しでも稼働しているのだ。零治が使用してるバーカウンターの水道や調理台も同じ仕様であるのでもう何でもありの状態と言える。しかも零治がBDを通して料理に必要な調理器具や調理台だけでなく、食材もありとあらゆる物がこの場にはある。そのおかげでこちらの世界では作れる料理が限定されるという縛りが無くなり、樺憐は思う存分その料理の腕を振るう事が出来るので彼女はコンロの前でとても上機嫌にフライパンを振るい、中で巨大なオムレツが宙を舞っていた。



「ふんふふ~ん♪ 零治さんのおかげで今まで作れなかった料理が作り放題ですわぁ」


「でっけぇオムレツだなぁ。あれ卵何個使ってんだ?」


「さあ? まあ、十個以上は間違いなく使ってるでしょうね」


「だろうな。……零治の方もスゲェよなぁ。見ろよ。あの酒瓶の数」


「ですね。今この大陸で、ここが最も多種多様で美味しいお酒が呑める場所と言っても過言じゃないでしょうね」



零治が担当しているバーカウンターの方も規模が凄く、当然ながら彼の背後には酒瓶を収納するためのショーケースが設置されていて、零治はそこにBDの力を使って用意した酒瓶を一本一本丁寧に陳列していて、ケースの下段には酒の様々な呑み方に対応できるように用意した、ショットグラスにロックグラスなどと豊富に取り揃えられている。更に棚の隣にはビールサーバーもセットされているし、ビールジョッキ専用の冷蔵庫もしっかりと常備されていて、中にはキンキンに冷やされたジョッキが大量に収納されている。一通り酒を並び終えた零治はジョッキを冷やしている冷蔵庫からおもむろに一つ取り出し、さも当然のようにサーバーの注ぎ口にジョッキを当ててレバーを倒し、ビール八、泡二の割合でを注いでそれを呑み始めた。



「んっ、んっ、んっ……かぁ~っ! 旨すぎるっ!」


「おい零治っ! 仕事中になに呑んでんだ!」


「ああ? 一杯ぐらい別にいいじゃねぇか。これは味見だよ味見。華琳達に不味い酒を出すわけにはいかねぇからなぁ」


「言い訳すんじゃねぇ! アタシにも呑ませろっ!」


「ちょっと恭佳。私達はまだ仕事中で――」


「……一杯だけだぞ」


「はぁ……この姉弟は揃いも揃って……」



もはやビールを呑む事以外頭にない恭佳、そしてそれを一杯だけとはいえ容認する零治に呆れ果てて亜弥は右手で額を押さえて首を左右に振るが、そんな彼女の様子など二人の眼には入っていない。バーカウンターに両腕を組むように突いて前屈みの姿勢で恭佳は久々のビールを今か今かと顔を輝かせながら待ち続け、零治がサーバーから注いだ先程と同じ割合のキンキンに冷えたビールの入ったジョッキを目の前にゆっくりと置いた。



「ほれ。生ビール一丁」


「おお~っ! 綺麗な金色じゃねぇの! んじゃ、さっそく。……んっ、んっ、んっ!」



零治から提供されたビールを恭佳は意気揚々と手に取り、口をつけて一気に傾けて喉に流し込んだ。口に広がるホップとモルトが醸し出す独特の苦味と香り、爽快な炭酸の刺激。これら全てはまさに久しき故郷の味だ。久しぶりのビールの味に恭佳は呑むのを途中で止める事ができず、あっという間にジョッキを空にしてしまったのだ。



「ぶっはぁ~っ! 久しぶりのビールが全身に染みるぅ! 旨すぎるぜっ!」


「少しは味わったらどうなんだ。一気に呑みやがって」


「バカ言ってんじゃないよ。最初の一杯目は一気呑みが常識だ。で、肴をつまみながら二杯目からゆっくり呑むんだよ。零治。おかわり。後つまみもくれ。フライドポテトがいいな」


「一杯だけって言ったろ。それに今日の姉さんはもてなす側だぞ。酒もつまみももうしばらく我慢するんだな」



恭佳は空になったジョッキを突きつけておかわりを要求するが、当然零治がそれを聞き入れるはずもなく、恭佳からジョッキを奪い取るとそれを水道でジャーっと水洗いをして水切れを良くするために逆さまにひっくり返してジョッキ用の冷蔵庫の最下段へと戻した。



「ちぇ~。ケチな弟だねぇ」


「あのなぁ。今夜の食事会が始まる前に姉さんが酔っ払ってどうするんだよ」


「たかがビールを二、三杯呑んだぐらいでこのアタシが酔うかよ。それに、食事会が始まったらどうせ酒呑みながら華琳達の相手もしなきゃならないんだし問題ないじゃん?」


「そういうセリフは食事会が始まってから言え。ほら、とっとと仕事に戻れ。オレは姉さんと遊んでられるほど暇じゃねぇんだ」


「へいへい」



ビール一杯では物足りないと恭佳は思っているが、かといってゴネて食事会の仕事を遅らせるわけにもいかない。食事会を開く時間が遅れれば遅れるほど華琳達を待たせる事になるし、自分達が楽しむ時間も減ってしまう。そうなっては本末転倒だ。面倒だが恭佳は気持ちを切り替えて零治の指示に従い、亜弥の方へと戻り彼女との作業を再開したので、零治も自分の仕事へと戻る。酒の陳列もある程度進んで終りが見えてきたので、零治も今夜の食事会で出す料理の調理へと取り掛かり始めるべく、樺憐の担当部署と同じように業務用冷蔵庫の中から様々な食材を取り出して調理台へと無造作に並べた。



「さて、何から作るかな」


「……父上」


「ん? 何だよ?」


「私にももう少しやりがいのある仕事を振ってほしいのですが」


「あぁん? お前がオレと一緒じゃなきゃ嫌だって聞かねぇからここに置いてやってんのに文句があるのか?」


「そういうわけではありませぬよ。ですがこの仕事……あまりにも地味すぎてつまらないのです」



狼華は作業の割り振り時に父親である零治と一緒でないと嫌だと聞き入れなかったので、仕方なく彼は自分の持ち場での仕事を割り振ったのだが、狼華がやらされている作業は酒を注ぐのに使うグラスの拭き掃除だ。彼女は食事会の準備が始まってからまるでバーテンダーのように、純白の布を片手に数あるグラスの全てを入念に磨き上げていた。それこそ一点の曇りもなく、まるで鏡のように持ち手の顔が映り込むほどにだ。零治はそこまでやれと指示していないのだが、狼華は父親である零治に褒めてもらいたい一心でここまでしているのだろうが、流石に数が数なので飽きてきているのかもしれない。



「仕事なんて基本的につまらんものだぞ」


「そうかもしれませぬが、趣味を仕事にして生きている者も居るではありませぬか。ならば楽しい仕事もあるのでは?」


「それをやると今度は『趣味』が『仕事』になっちまう。そうなると楽しんでいた趣味がただの作業になるからどっち道つまらなくなるだけだぞ。それでも楽しいと感じれる人間なんてそうそう居ないさ」


「……そういうものなのですか?」


「そういうものだ。分かったら口ではなく手を動かせ」


「はぁ~い……」



不満そうな顔をしながらも狼華は手を動かしてグラスの磨き作業を再開した。零治の指示通りちゃんと手を動かしているが、相変わらず狼華は不満げに口を尖らせている。その様子に零治は内心やれやれと溜め息を吐き、首を軽く左右に振りながら苦笑して彼女の機嫌を取る事にした。



「ったく。仕事が一通り片付いたら料理の手伝いもやらせてやるよ。どうせこの後休憩用の昼飯も用意するつもりだからな」


「本当ですか父上っ!?」


「ああ。簡単な作業ぐらいならやらせてやる」


「おおっ! どんな作業でも必ずや父上の期待に応えてみせましょうぞっ!」


「分かったからいちいち騒ぐな。後、手を止めるな」


「はいっ!」


(全く。この程度の事で喜ぶとは。見た目は大人なのに、中身は本当にガキなんだな)



零治から言わせれば料理の手伝いを頼むなどそこまで大袈裟な話ではない。退屈そうにしている狼華に別の仕事を割り振るのと、彼女の料理の腕前を見極める意味合いがある。それ以上でもそれ以下でもない。だが狼華は違う。彼女は父親と認識している零治にあらゆる面で認めてもらいたい承認欲求がある。料理もその一つだ。何より父娘の共同作業、これに狼華は娘として強い憧れを抱いている。だから最初に作業は零治と一緒でなければ嫌だとゴネたのだ。狼華は早く零治と一緒に料理が作りたい。自分の腕前を披露したい。そして父を驚かせてあげ、認めてもらいたい。そういった事への期待に胸を膨らませつつグラスを磨く手の動きにも加速がかかった。


………


……



あれから時間の経過と共に食事会の準備は着々と進んでいき、魏、蜀、呉と三国のそれぞれの陣営のメンバーが使用するテーブルの配置、料理を配置するテーブルも樺憐が使用している調理台と、零治が使用しているバーカウンターの間にあるスペースに、合計で三つも用意しているので料理の種類もこれで豊富に用意できるだろう。バイキングだと飲み物も基本的にドリンクバーになるのだが、それだとサーバーを用意しなければいけないし、使い方を全員に説明もしないといけない。しかし全員がサーバーの使い方を理解できるか分からないし、何かトラブルも起こりかねない。なので飲み物に関しては零治が注文を受けて渡す形式にするが、飲料ならグラスに入れて相手に渡すだけ。数が多いと時間はかかるが、それでもこの方法が一番確実なのだ。料理を取るのに使うトングや食器類、そしてそれらを置いておくサイドテーブルも料理を配置するテーブルの横にきちんと配置しているので邪魔にもならない。後は料理の用意をすれば食事会の準備は完了である。



(ふむ。キリが良いし、ここいらで昼飯がてらの休憩にするか)



ここまで小休止を挟んでいたとはいえブッ通しで食事会の準備のための作業を続けていたのだ。それに零治達の仕事は準備だけでなく、食事会を開いてから華琳達をもてなすために相手をしなければならない。むしろそこからが本番なのだから、今の内に身体を休めて体力を温存しておかねば後が続かないだろう。零治はパンパンと手を打ち鳴らして亜弥達に声をかけた。



「よし。キリが良いしそろそろ休憩にしようぜ。時間帯も昼時だし、昼飯を用意してやるからこっちに来いよ」



零治の一声で全員が作業の手を止め、彼も持ち場であるバーカウンターの椅子に腰掛けていく。そんな中、持ち場である調理台から蓋がされたステンレス製の横長の深皿を樺憐が持ち込み、零治の前にそれを置いた。



「零治さん。こちらも昼食に加えてくださいますかぁ?」


「ん? それは?」


「開けてみてください」



深皿に被せてある蓋の取っ手に零治は右手を伸ばして開けると、中から湯気が立ち上り姿を見せたのは先程樺憐が作っていた巨大オムレツである。ただ普通のオムレツと違い、上にかけられているのはケチャップではなく、ほぐした蟹の身が混ぜ込まれた塩ベースの餡である。



「あぁ、さっき作ってたオムレツか。上にかけてあるのは……塩餡か?」


「はい。ケチャップでも良かったのですが、塩餡の方がこちらの方達の口にも合いやすいと思いましてぇ。ですがその前に零治さん達に試食をお願いしたいのですわぁ」


「そういう事ならお安いご用だ。ならこいつも昼飯に加えよう」


「ありがとうございますぅ。……あっ。わたくしも昼食のご用意のお手伝いをしますわぁ」


「いや、大丈夫だ。樺憐、お前は座って待ってな」


「はい? よろしいのですかぁ? 零治さんお一人で用意するのは大変だと思うのですがぁ」


「分かってる。だが今から作る昼飯の用意の手伝いは……コイツにやらせる」



と、零治が右手でピッと指差した先に居るのは、未だに律儀にグラスの拭き上げを続けている狼華である。彼女はここに来る前に零治に手伝わせてくれと言い、おまけに料理でも何でも手伝ってみせるとまで豪語したし、料理の『さしすせそ』もちゃんと答えれてる。後はどの程度の技量があるのか、それをここで見極めて食事会でどういう役割を狼華に与えるのか決めるのが零治の考えだったのだ。



「おおっ。父上、私も料理をして良いのですか?」


「ああ。お前がどの程度の技量の持ち主なのか、それを今から見極めさせてもらう」


「ふふっ。良いですとも。それこそ父上よりも美味しい料理を作って皆をあっと言わせてみせましょうぞ」


「ほぉ~。このオレに料理でも勝負しようってのか? 生意気なガキだな。すぐに実力の違いを思い知らせてやる……」


「ふふふ。望む所ですぞ」



別に料理対決をするのが目的ではないというのに、零治と狼華は互いに睨み合ってバチバチと火花を散らしている。本気のケンカではなさそうなのでそれを考えるとこれはマジな方なのだろう。ただやるのならば、別の機会にしてほしい。それが亜弥達の今の本音である。



「零治、料理対決がしたいのなら別の機会にしてくださいよ。今はそういう事に割ける時間は無いはずですよ」


「分かってる。ただの冗談だ。……おい。オレが昼飯の材料を用意するから、お前はその間に樺憐が作った巨大オムレツを人数分に切り分けておけ」


「承知しました。父上」



狼華は零治の指示に従い、まずは背後にある皿などが収納されている棚の扉を開け、手頃な皿を人数分取り出してそれを調理台の適当なスペースに置いた。次に狼華はペティナイフを一本取り出すと、巨大オムレツの端の方に刃を突き立て、そのままスーッと包丁を横に引いて綺麗に二つにカットする。そしてそこから今度は縦に等間隔にカットしていき、トングを使って一つずつ取皿に取り分け、仕上げにスプーンでオムレツが入っている大皿の底に溜まっている塩餡を掬い取って軽くかけ回し、亜弥達の前に順に並べていく。オムレツの断面はトロリとした半熟の焼き加減でこれだけでも充分に食欲がそそる光景だ。



「カットする前も大きかったですが、カットしてもその迫力は衰えませんね。しかし樺憐、これはいくら何でも大きすぎなのでは……?」


「ふふふ。ついつい張り切ってしまいましたわぁ」


「母さん、張り切る気持ちは分かりますけど、これはやっぱり大きすぎですよ。試食とはいえ私達だけじゃ余り……はしないかな」


「そうそう。アタシはこれくらい余裕だよ。それにこっちの世界に来てからもう長いし、オムレツを食べるのも久しぶりだなぁ」


「全くだね。こっちの世界にも卵料理はあるけど、オムレツみたいなシンプルなのは見かけないからね。……で、零治。そろそろ何を食わせてくれるのか教えてくれよ」


「はいはい」



急かす恭佳の質問に零治は態度で答えるように、調理台の前に必要な食材を無造作にドサドサと並べていった。零治が用意した食材は乾燥パスタ、タマネギ、ピーマン、ホワイトマッシュルーム、ブロックベーコン。それと味付けに使うケチャップである。このラインナップの具材でパスタ料理となると、もう一つしか思い浮かばないだろう。



「今日の昼飯はみんな大好きのナポリタンだ」


「ナポリタン……?」



零治の言葉に狼華は不思議そうに首を傾げる。彼女は零治と星の間に生まれた存在。そして二人の記憶も全てではないにしてもある程度継承していると今朝自分で説明していた。それに横文字発音も狼華は普通に出来るし、ナポリタンという発音にも違和感が無かったので、この料理の事は知っていると見て間違いないだろうが、何がそんなに気になるのか零治は狼華に訪ねた。



「何を首なんか傾げてる。ナポリタンを知らないのか?」


「いえ、知っておりますよ。ただ……父上から受け継いだ記憶によると、子供っぽい味の料理という印象しかなくて」


「おっ? ナポリタンをバカにしてんのか? 確かにコイツの味付けは子供っぽいかもしれんが、味変すれば大人の味にだってなる優れたパスタ料理なんだぞ」


「そうなのですか? ……そこの記憶は受け継いでいないようなのでよく分からないです」


「やれやれ。そんなんでちゃんと料理が出来るのかね? やっぱ樺憐に代わってもらうかな」


「むっ。失敬ですな、父上。味については父上ほど理解しておりませぬが、作り方は分かっておりますぞ」


「ほぉ~。そうかい。ならオレの助言は一切要らないよなぁ?」


「無論です」


「良い返事だ。なら始めるぞ。オレとお前の分も入れると全部で七人前だ。お互いに半分ずつ作るぞ」


「承知しました」



父である零治と娘の狼華の共同作業がここに始まり、まず二人は調理台の下にある収納スペースに収められている寸胴鍋を取り出して水を張り、水の量に対して一パーセントの塩を加えて火にかけた。鍋の水が沸騰するまでの間に零治と狼華の二人は包丁とまな板を取り出し、ナポリタンに使う具材の下ごしらえに取り掛かった。まず厚切りベーコンを適当な厚さにスライスしていき、次にスライスしたベーコンを数枚重ね、食べごたえも出すために大きめな短冊状にカットしていった。そこから続いてピーマン、タマネギ、マッシュルームも均等にスライスしていき、具材の下ごしらえはあっという間に終わってしまう。その様子を見ていた亜弥達は、零治の手際に感心すると同時に狼華の手際に驚かされた。彼女は昨日この世に誕生したばかり。ならばこの料理が初めての経験のはずなのに、狼華の包丁さばきは零治の動きと遜色が無かったのだ。



「ふむ。相変わらず零治の包丁さばきは見事ですね。……しかし、狼華には驚かされますね。とても初めてとは思えない包丁さばきですよ」


「同感だ。並んでて絵になるな。流石は零治の娘だよ。……どっちかっつーと兄妹の方がしっくり来る表現なんだけどな」


「なら貴方もあの場に入ってはどうです? 料理の練習にはいい機会だと思いますよ」


「遠慮する」


(はぁ……いいなぁ。私も兄さんとの子供を作ってああいう事がしたいなぁ)



目の前の光景に対して零治に恋心を抱いている奈々瑠は複雑な心境だ。狼華の包丁さばきには圧倒され、料理の技量の差を見せつけられているし、色々とごたごたがあったが零治も狼華の事を娘として扱っていくと決めた。つまりこれはまさに父娘の共同作業。当然奈々瑠にも将来的には零治との間に子供を作ってそういった事がしたい願望もあり、二人の調理の様子を見つつ、まだ実在もしていない我が子を想像しながら自分が親子の共同作業をしている光景を頭の中に浮かべてみた。


………


……



広い二階建ての一軒家にある、対面式のカウンター型キッチンでトントンと小気味の良い包丁で食材を切る音が響いており、調理をしているのは成長した奈々瑠である。顔立ちや髪の長さと色、特徴的な犬耳とフサフサした毛並みの尻尾はそのままだが、身長は少しばかり伸びているし、胸も少々成長していた。奈々瑠は紺色のエプロンを身に着け、タートルネックの白いセーターにジーンズ姿と随分おとなしめの格好だがその姿は新妻と呼称するのが相応しいだろう。朝日が差し込むキッチン内で彼女は上機嫌に鼻歌を歌い、尻尾を左右にフリフリと動かしながら料理に没頭していた。



「ふんふふ~ん♪ ふふんふ~ん♪」


「ママ~。ご飯まだ~?」


「はいはい。まだ作り始めたばかりなのよ? いい子にして待ってなさい。零奈れいな



奈々瑠の足元で黒いワンピースのような衣服を纏い、テディベアを抱きかかえてご飯をせがんできた幼い少女は奈々瑠と零治の間に生まれた一人娘である零奈。彼女は母親である奈々瑠の特徴的な犬耳と尻尾を受け継いでこの世に生を受けた戦闘獣人バイオロイドと人間のハーフだ。だが受け継いだ特徴は奈々瑠の物だけでなく、父である零治の物も遺伝している。顔立ちはどちらかといえば奈々瑠に寄っているが、髪の色と眼の色は零治と同色である。更に彼の特徴的な緩めのツンツンヘアーも遺伝しており、髪の毛自体も腰の辺りまで伸ばしているので、その姿は犬耳と尻尾がある幼い恭佳のようにも見えた。



「ふわぁ~……おはよ~」


「ふわぁ~……奈々瑠ママ、おはよう」


「おはよう。臥々瑠、音瑠ねる



気怠げに欠伸をしながらリビングに入ってきたのは成長した臥々瑠と、零治との間に生まれた彼女の一人娘の音瑠である。臥々瑠も奈々瑠同様に身長が少しばかり伸びて胸も多少は成長している。唯一変わっていないのは童顔と髪の長さぐらいだろう。彼女の娘である音瑠も母親に合わせて髪の長さは同じぐらいのショートボブだ。顔はどちらかといえば零治に似ており、髪の色も彼の物が遺伝している。ただ零奈と違って緩いツンツン頭は受け継いでおらず、逆に母親である臥々瑠のボサついた感じのクセ毛とルビーのような赤い眼の色、そして犬耳と尻尾を受け継いでいた。二人とも起きた直後なのか眼が寝ぼけているし、髪も寝癖とクセ毛のせいもあっていつも以上にボサボサしている。しかも服装もパジャマとして着用している自分の身長以上の大きめのTシャツ一枚だけで下はランジェリーのまま。シャツで腰の下まで隠れてるから本人達は問題無いと言っているが、女性として褒められた格好とは言えないだろう。



「アンタ達、その様子だとまた夜更ししたわね。臥々瑠、まだ育ち盛りの娘に何させてるのよ」


「しょうがないじゃん。この前発売した新作のゲームが面白過ぎで止め所が見つからなかったんだもん」


「言い訳してないでさっさと音瑠と一緒に顔を洗って、髪も整えて着替えなさい。今日のゴミ出し当番はアンタなんだから早くしてよね」


「ふぁ~い……音瑠、行くよ」


「は~い。ママ」


「全く。母親になってもだらしない所はちっとも変わってないんだから」


「ママ。零奈もお手伝いする~」


「あらそう? それじゃあ出来上がった料理をテーブルに並べてくれる?」


「は~い」


………


……



「よし。朝ご飯の用意完了」



テーブルに並べられた朝食を前に奈々瑠は満足げに頷いてグッとガッツポーズをした。朝食のラインナップは、炊きたての白米に厚焼き玉子に焼き鮭の切り身と味噌汁、箸休めに用意した白菜の浅漬。和食の定番と言える内容だった。その匂いを嗅ぎつけたのか、着替えを済ませた臥々瑠と音瑠がリビングに入ってきた。臥々瑠は奈々瑠と、そして音瑠は零奈と同じデザインの服装だ。こういう所はやはり姉妹であるが故に趣味嗜好が近いのかもしれない。



「あぁ~、お腹空いた~。奈々瑠、朝ご飯できた~?」


「アンタってホントそういう所も昔と変わらないわね。今できた所よ」


「わ~い。ご飯ご飯~♪」


「零奈も食べる~」


「はいはい。二人とも待ちなさい。まだパパが来てないでしょう? ……臥々瑠、零治さんは?」


「ん~? アタシ見てないよ。まだ寝てるんじゃない?」


「もう。あの人ったら非番だからってこんな時間まで寝て。しょうがないわね。みんなで起こしに行くわよ」



奈々瑠はやれやれと言わんばかりに溜め息を吐いてエプロンを外し、それを適当な大きさに畳んでキッチンのカウンターに置いて臥々瑠達を連れてリビングを出る。そしてそのまま二階に続く階段をゆっくりと登って零治の部屋の扉まで行くと、右手で軽くコンコンと二回ノックした。



「貴方。起きてますか? 朝食の用意が出来ましたよ」



扉の前で呼び掛けるが返事は無い。奈々瑠は念の為と思い扉に顔を近づけて聞き耳を立てるが、扉の先からはなんの音も聞こえなかった。もうこれはまだ寝ているのは確定だろうが、流石にいきなりドアを開けるのは気が引けたので、一応断りは入れておこうと奈々瑠は思った。



「貴方、入りますよ?」



奈々瑠はドアノブに手をかけて回し、零治の部屋の扉をゆっくりと開けて静かに室内へ入り、臥々瑠達もそれに続いた。部屋は割と広めで、零治が仕事と私用で使っている大型のパソコンがセットされているデスクにその横には据え置きゲーム機用のデスク。おまけに部屋の角には零治が好んで呑んでいる酒瓶が収納された棚などもあり、飲酒するためのミニテーブルセットもあってまさに彼の趣味が全開になっていた。そして部屋の主である零治は窓辺に設置してあるベッドで未だに寝ていた。



「ほら。アタシの言った通り寝てるね」


「はぁ……しかもウイスキーのボトルと空のグラスがそのままだわ。零治さんったらまた深酒したのね」



零治は平日に酒をあまり呑まない反面休日に深酒をする癖があるため、こうやって朝になっても中々起きない事が多々あった。奈々瑠は健康上良くないから少しは呑む量を減らせと言ってるのだが中々聞き入れてもらえず彼女の頭痛の種の一つだった。奈々瑠はまず部屋のカーテンを開けて陽の光を室内に取り入れ、こっちの気も知らないで暢気に寝ている零治に静かに近づき、手を伸ばして軽く揺すりながら声をかけた。



「貴方。起きてください。もう朝ですよ?」


「すー……すー……」


「もう。全然起きようとしないわ」


「奈々瑠、そんなやり方じゃ我が家の旦那様は起きてくれないよ?」


「何よ。じゃあアンタは何かいい方法でも知ってるの?」


「当然。……零奈、音瑠。アレやっていいよ」


「は~い」


「任せて、ママ」



何か良い方法があるのか、臥々瑠は零治を指差しながら零奈と音瑠に何か指示を出した。すると二人は分かったようにトテトテと零治のベッドの横まで移動し、互いに顔を見合わせると軽く頷いて零治に視線を戻した。そして零奈と音瑠は揃って脚を軽く曲げて力を溜め、小さい子供とは思えない跳躍力でジャンプをして四肢を大きく広げ、零治の腹の上にダイブしたのだ。



「パパ~。朝だよ~♪」


「起きろ~!」


「ぶふぅ!?」



小さいとはいえ、子供二人が無防備な腹の上にいきなりダイブしてきたので流石の零治も眼が覚めてしまう。その乱暴な起こし方に奈々瑠は唖然としているが、臥々瑠はしてやったりと言わんばかりにウンウンと満足げに頷いていた。



「ほら。起きたでしょ?」


「確かに起きたけど、もうちょっとマシなやり方は無いの? っていうか、アンタは自分の娘だけじゃなくて私の娘にまで何を教えているのよ!?」


「……おい。姉妹喧嘩は後にして娘達をどかせろ」


「あっ、ごめんなさい。ほらほら。零奈も音瑠もいつまでもパパのお腹の上に乗ってちゃダメよ」


「い~や~! 零奈、パパと一緒がいいの~!」


「音瑠もやだ~! パパから離れたくない~!」



奈々瑠が降りるように促すが、零奈も音瑠もそれを全く聞こうとせず零治の首に自分の両腕を巻きつけてしがみついている。幼いが故に父親から離れるのが嫌なのだろう。父親としてそれだけ好かれるのは嬉しい事ではあるが、寝起きの直後でこの騒ぎは歓迎できない状況である。



「あぁもう。頼むから二人とも静かにしてくれ。……で、奈々瑠。この騒ぎは何なんだ……?」


「いえ、朝食の用意が出来たのでみんなで起こしに来たのですが」


「どうして普通に起こしてくれないんだ。お前はオレに何か恨みでもあるのか……?」


「私は普通に起こそうとしましたよ。でもそれじゃ起きないからって臥々瑠が……言っときますけど娘達にやらせたのは彼女ですからね」


「……臥々瑠」


「っ!? ……ひゅ~♪ ひゅひゅ~♪」



零治がジロっと恨みを込めた視線で睨みつけると、臥々瑠はなんの事か分からないと言わんばかりに両手を頭の後ろに組んで口笛を鳴らしながら眼を逸らして誤魔化すが、零治にそんな手が通用するはずもなく、後でキッチリ制裁するための釘を刺したのだ。



「臥々瑠、後でお話をしような? 二人っきりで……」


「ええっ!? そ、そんなぁ……」


「自業自得でしょ。……ほら。貴方も起きてください。朝食が冷めてしまいますよ」


「非番の日ぐらいもう少し寝かせてくれよ」


「もう少しって具体的に言うとどれぐらいです?」


「……あと五時間ぐらい」


「せめてそこは五分と言ってください。ほら。いい加減起きた起きた」



口で言っても零治は言い訳を述べて起きようとしないので奈々瑠は強硬手段を取り、彼が使用している掛け布団に両手を伸ばしてバサッと引き剥がしたのだ。いきなり布団を引き剥がされたので身体が外気に晒され、体温も急激に下がって零治は両腕を身体に巻き付けて身震いした。



「うおっ!? いきなり何すんだよ! 寒いじゃねぇか!」


「貴方がいつまでもゴネるからいけないんですよ。寒いのが嫌なら早く起きて着替えてください」


「へいへい。……ふぅ~む」


「……どうしました? そんなにジッと見つめて」


「いや……昔のお前からは想像も出来ないくらいに変わったなと思ってな」


「私も変わりますよ。だって今の私は……いえ、私達は」



奈々瑠はそこで言葉を区切り、左手を自分の目線の高さまで持ち上げて手の甲の方を零治に向けたので、臥々瑠も奈々瑠が何を伝えたいのかを察し、彼女に倣って左手を自分の目線の高さまで持ち上げて同じように手の甲を零治に見せた。二人の左手の薬指には室内に差し込んでくる陽の光を受けて煌めく指輪、エンゲージリングがはめられている。



「今の私達は貴方の妹ではなく、貴方の妻なのですから」


「そうそう。アタシも貴方を支える妻だよ。これからもよろしくね。旦那様」


………


……



(えへへ~。いいなぁ。そして兄さんと二人目を作る子作りも頑張って……)


「ほえ? 奈々瑠、なに笑ってるの?」


「っ!? べ、別に……」


「ふ~ん」



普段見せないようなだらしない顔でにやけているのが気になって臥々瑠が声をかけてきたので、奈々瑠は現実に引き戻されるが、当然本当の事など言えないので適当に誤魔化す。しかし、母親である樺憐は奈々瑠の顔がほんのり紅潮しているのを見逃さず、そっと口を耳元まで近づけて小さく囁きかけた。



「奈々瑠、大丈夫よぉ。諦めずに積極的にアプローチすれば貴方の想いは必ず零治さんに届くから」


「っ!? か、母さん……っ!」


「ふふっ。頑張るのよぉ」



樺憐のささやかなエールに奈々瑠は黙って顔を真っ赤にして俯き、頭からは沸騰しているやかんのように湯気を立ち上らせていた。その様子に気づいた零治は怪訝な表情になるが、今は調理中のため料理に集中したいのですぐに視線を手元に戻した。具材の下ごしらえを終えた零治は乾燥パスタが入った筒状のボトルに手を伸ばして蓋を開け、中から必要な量のパスタを取り出して両手で持ち、沸騰しているお湯の中にバサッと投入した。狼華も同様にパスタを鍋に投入すると、零治に何やら意味深な笑みを向けていた。



「鍋にパスタ入れたぐらいでドヤ顔すんな」


「むぅ~……父上。少しは褒めてくれても良いのでは……?」


「そういうセリフは料理を完成させてから言うんだな」


「はぁ~い……」



零治のつれない態度に狼華は口を尖らせて生返事をしながらもきちんと手を動かし、零治と同じようにフライパンを火にかけて温め、充分に温度が上がったら二人共オリーブオイルの瓶の蓋を開けてオイルを垂らし、フライパンを持って軽く回すように傾けて全体にオイルを馴染ませた。そして最初に短冊状にカットしたベーコンを投入して木ベラでかき混ぜるように炒め始めた。



「ふーむ。本当に手際が零治と遜色ないですね」


「ああ。この調子なら全く同じ味の料理が出来上がるんじゃね? そうなったら、今後はアタシの昼飯も零治だけじゃなく狼華にも頼めそうだな」


「全く。少しは二人を見習って自分で作ろうとは思わないんですか?」


「全っ然思わないね」


「はぁ……零治もこんな姉を持って苦労が耐えませんね」


「そんなの今に始まった事じゃない。それに、隣の娘に比べればまだマシさ」


「むっ。父上、それはどういう意味です」


「言葉通りの意味さ。ほら、よそ見をするな。手が止まってるぞ。ベーコンを焦がすつもりか?」


「むぅ~……」



相変わらずな零治の自分に対する言動がぞんざいな気がする狼華は頬を膨らますが、零治が指摘する通り料理の手を止めるわけにはいかない。彼女は視線をフライパンに戻して中のベーコンが焦げ付かないように手早く木ベラでかき回し、フライパンを軽く振って煽るとベーコンが軽やかに宙を舞う。零治と狼華が調理しているベーコンに良い焼き目がついた頃合いに、二人は続いてスライスしたタマネギとマッシュルームを投入してフライパンを揺すり木ベラで具材をかき回しながら更に火を通していった。その場には具材が焼ける匂いが漂い、その匂いは臥々瑠の空腹を強く刺激してきた。



「に、兄さん……そのベーコン一切れちょうだいっ!」


「ダメだ」


「ええ~っ!? 一切れぐらい別にいいじゃん!」


「お前の分は大盛りにしてやるから出来上がるまで我慢しろ」


「ぶぅ~……」



ただ言っても臥々瑠が聞き入れないのは零治も長い付き合いで把握済みだ。だから大盛りという単語を彼女に聞かせて大人しくさせるが、やはり不満はあるらしく口を尖らせている。だが臥々瑠には悪いが構っている暇は無い。フライパンに投入したタマネギとマッシュルームも火が通ってしんなりしてきたので、零治と狼華の二人はケチャップを手に取って逆さに向け、チューブをグッと握って中身を絞り出した。フライパンに引かれたケチャップはジュワジュワと音を立てながら焼けて辺りにトマトの香りが広がり、零治と狼華の二人は木ベラで一緒に炒めている具材を手早くかき回してケチャップを絡めていく。



「おお~。この匂い。久しぶりに嗅ぐと堪らないねぇ。零治、それ後十秒で完成させな」


「姉さんはオレにどれだけ無茶な注文をつける気だ。だいたい十秒じゃ冷食のレンチンすら出来ないぞ」


「冗談だよ。だけど早く食いたいのは本音だから頼むよ」


「気持ちは分かるが、そう急かされてもこれ以上省ける調理工程は無いんでね。大人しく待ってろ」



臥々瑠だけでなく恭佳もこれ以上は待ちきれないようだが、いま作っているナポリタンは時短のために省ける調理工程はもう無いのだ。パスタはまだ茹で上がっていないし、麺に絡めるソースもまだ未完成だし、こちらも火が通るまで待ってもらうしか無い。かといって火を強くして焦がしてしまっては本末転倒である。だから我慢してもらう以外にやはり選択肢は無かった。しかし完成まで後少しなので、零治はフライパンから一度手を離してトングを手に取り、鍋に突っ込んでパスタを一本引き上げて茹で加減を確かめるためにそれを口に運んだ。



(ん~……まだ少し固いな。ソースの方はどうだ?)



パスタはまだ茹で上がっていないので、次に零治はソースの具合を確かめるために木ベラでケチャップの部分を軽くすくい取り、右手の小指の先にちょんと付けて口にしてみた。火の通り具合は悪くないが、まだ完成とも言えない状態だった。



(こっちもケチャップの酸味がまだ残ってるな。もう少し煮詰める必要があるか)



ケチャップが持つ酸味がまだ残っているため、零治はフライパンを円を描くように揺すりながら中身を木ベラでかき回し、ソースに火を通していった。隣で調理をしている狼華も彼と同じようにパスタの茹で加減を確認するためにトングを使って一本取り出し、口にするとまだ固かったので鍋を火からは降ろしていない。そして狼華は次にフライパンのソースの味見もした。今の所零治と狼華の動きは全く同じだったのだが、ここで違いが出てきた。狼華はソースの味に納得して小さく頷いてスライスしたピーマンを投入して仕上げにかかったのだ。



「おやぁ? ここに来て双方の動きに違いが出てきましたね」


「ああ。狼華はソースの仕上げにかかったな。零治はまだのようだけど」



零治も狼華の行動にチラリと視線を向けて様子を窺うが、すぐに視線を自分が調理しているフライパンに戻し、ソースの仕上げに専念した。零治は木ベラでソースをすくい取って再度味見をすると、今度は自分が納得できる味に仕上がっていたので、彼もスライスしたピーマンを投入するが、またもや狼華との行動に差異が生まれており、零治はピーマンと一緒にバターも投入して木ベラでソースをかき回していたのだ。



「あれ? 兄さん、ピーマンだけじゃなくバターも一緒に入れてる」


「うん。狼華はピーマンしか入れてなかったよね。……お母さん、これって何か意味があるの?」


「んん~? ふふっ。それは出来上がってからのお楽しみよぉ」



零治同様、料理に精通している樺憐はこの時点で零治と狼華が作っているナポリタンの味に決定的な違いが出来ている事に気づいている。今その事を指摘すればリカバリーも可能だが、それでは本人のためにもならないと樺憐は考えている。料理とは理屈だけではなく、身体でも覚えるもの。だからこそ余計な口は挟まず、最後まで完成させて双方の料理を食べ比べさせ、何が違うのかを本人に理解させる。零治もその考えらしく、狼華の作業には一切口を挟まずに自分の料理に専念しているのだ。そんなこんなで零治と狼華が仕上げに入っているソースは出来上がり、パスタも茹で上がりの頃合いとなったので二人は鍋を火から降ろし、茹で上がったパスタをザルに流し入れて軽く湯切りをしてからフライパンの中に投入した。そしてそこから二人はフライパンを円を描くように揺すり、トングを使ってパスタにソースが絡むようにかき回し、時おりフライパンを振るって中身を煽ったりもした。それによりパスタ全体にケチャップソースが纏わりつき、よく喫茶店とかで見る綺麗なオレンジ色になった。ソースが充分に絡んだので、零治と狼華の二人は皿を用意して盛り付けに取り掛かった。零治はトングでパスタの束を一掴みすると、皿に乗せてトングでパスタを掴んだまま左手で皿をクルクルと小刻みに回転させてパスタを捻って山の形を作り、充分に捻った所でトングを離しているが、狼華は掴んだパスタの束を皿にペタペタと乗せているだけなので、零治が横から口を挟んだ。



「おい。おい、狼華」


「あっ……」


「何だよ?」


「ようやく名前で呼んでくれましたな。父上」


「呼んじゃ悪いのか?」


「いいえ。嬉しいですぞ。で、何ですか?」


「何ですかじゃない。お前、パスタの盛り付け方がなっちゃいねぇぞ」


「ん? どこか問題でもあるのですか?」


「大ありだ。そんな皿にペタペタと寝かせるように盛ったらすぐに冷めちまうだろ。オレみたいに捻って山の形にして盛り付けるんだ。これなら冷めにくくなるし、見た目も綺麗だからな」


「そうなのですか? 分かりました。ではそのように盛り付けるようにします」


「あぁ、それとだ、姉さんと臥々瑠の皿は量を多めにしてやれよ」


「はい」



狼華は零治のアドバイスに素直に従い、皿に寝かせるように乗せたパスタの束をトングで掴み直して持ち上げ、今度は左手で皿をクルクルと小刻みに回しながらパスタを捻って綺麗な山の形を作り、零治と同じように盛り付けていく。盛り付けに関しては問題なさそうなので、彼も自分の受け持つ皿に専念し始めた。



(ふーむ。コイツ、オレの記憶を継承していると言っていたが、『全て』ではないとも言っていたからな。所々に抜けがあるのはそのせいか。となると、いま作ったナポリタンのミスもそれが原因だな)



零治と狼華は黙々と皿に作り上げたナポリタンを更に盛り付け、恭佳と臥々瑠の皿はしっかりと大盛りにしていく。盛り付けが完了したら料理を待ち続けている亜弥達の前にそれぞれの皿を置いていき、最後に零治が人数分のフォークを取り出して皿の端に乗せ、零治と狼華も互いが作ったナポリタンの皿を目の前に置き、味変用のタバスコと粉チーズもカウンターに用意してようやく昼食の準備が整った。



「ほれ。ナポリタンお待ち」


「おおっ! 旨そうじゃねぇか!」


「兄さんっ! もう食べていいんだよね!? アタシこれ以上は我慢できないよ!」


「ああ。もう食っていいぞ」


「よっしゃあ! 食うぞぉ!」


「いただきま~す!」



恭佳と臥々瑠はフォークを素早く手に取り、まずは零治が作ったナポリタンの山に突っ込んでクルクルと回転させてパスタを巻き取り、山から引き抜いて口元まで運べば湯気と共にケチャップの香りが鼻孔と空腹を刺激してきたので、二人は我先にと言わんばかりにそれを頬張った。



「美味しい~っ!」


「くぅ~っ! 旨すぎて泣けてくるぜ!」


「喜んでくれるのは嬉しいが……二人とも大袈裟すぎやしないか?」



恭佳と臥々瑠は久しぶりの元いた世界の料理の味、それと空腹も相まって食べる手が止まらずガツガツと凄まじい勢いで零治お手製のナポリタンを食べ続けていく。その様子に零治も喜んでくれるのは素直に嬉しいのだが、今回ばかりは苦笑せざるを得なかった。とりあえずこの二人が零治の手料理に対してこんな調子なのはいつもの事なので、亜弥達もフォークを手に取り、まずは零治のナポリタンから堪能する事にした。



「まあ、いいじゃないですか。恭佳と臥々瑠が貴方の料理に対してこんな調子なのはいつもの事ですしね。では、私達もいただきましょうか。……あむ」



零治の作ったナポリタンを口にすれば、茹で加減が完璧なパスタにはモチモチとした弾力のある歯ごたえがあり、麺と具材にしっかりと絡んでいるケチャップの旨味とバターのコクが口の中いっぱいに広がっていく。更に麺と一緒に絡んでいるタマネギとピーマンはシャキシャキとした食感を楽しませてくれ、ベーコンとマッシュルームを一緒を口にすればこの二つの食材が持つ旨味がケチャップの旨味と合わさって味のコントラストが描かれていった。



「うん。この味、もはや久しぶりを通り越して懐かしくすら感じる味ですね」


「同感です、姉さん。タマネギとピーマンはシャキシャキとしていて、このベーコンとマッシュルームの味も合わさってとても美味しいです」


「そうねぇ。ベーコンは焼き目がついているから、単に肉の旨味が加わるだけでなく香ばしい味わいですわぁ。流石は零治さんですわねぇ」


「……あの、皆さん。そろそろ私の料理も食べてほしいのですが」



全員が完全に零治のナポリタンに夢中になり、誰一人として狼華のナポリタンには手を付けようとしないので彼女は遠慮気味に右手を上げて催促してきた。その様子に亜弥達は互いに顔を見合わせて思わず苦笑してしまう。



「あぁ、悪い悪い。安心しなって。アンタの料理を忘れたわけじゃないから。それにほら。アタシは零治の料理はもう完食してるんでね」


「同じく!」



大盛りにしていたとはいえ、零治と狼華のナポリタンを食べ比べるという方向性での調理だったので、結果的に一皿の量は普段の半分なのだ。大食いの恭佳と臥々瑠は既に零治の料理を完食していて皿の中身は綺麗サッパリ無くなっていた。当然二人はまだ食べ足りないのでさっそく狼華の皿に手を伸ばしてフォークを突き立て、クルクルと回転させてパスタを巻き取った。



「んじゃ、アンタの料理の腕を確かめさせてもらおうかね」


「いただきま~す!」


「あむ」


「……いかがですか?」


「むぐむぐ。……ん~?」


「……あれ?」


「ん? どうなさいました?」



狼華が作ったナポリタンを口にし、恭佳と臥々瑠は怪訝な表情になり、何かを確かめるように無言でもう一度フォークを突き立てパスタを巻き取って口にした。しかしそのたびに二人は首を傾げるのだ。その様子を横で見ている零治と樺憐は何が原因なのか既に気づいているが、それが分からない狼華は少しながら不安を抱いてしまった。



「どうしたのです? もしや……不味いのですか?」


「いや、不味くはないよ。ただなんか物足りないというか……」


「うん。上手く説明できないけどこのナポリタン、なんか兄さんが作ったの比べると味に違和感があるんだよねぇ」


「違和感? ……ふむ。では私達も食べてみましょうか」



恭佳と臥々瑠の反応が気になり、亜弥と奈々瑠、樺憐も狼華のナポリタンにフォークを伸ばして食べてみた。パスタの茹で加減は申し分ない。口の中にはケチャップの旨味が広がるし、タマネギとピーマンもしっかりとシャキシャキしている。ベーコンも焼き目がついているおかげでちゃんと香ばしいし、マッシュルームの旨味も感じられる。だがそれともう一つ、狼華のナポリタンには零治が作った物とは違う味が混ざっていたので、亜弥がそれを指摘した。



「あぁ、なるほど。このナポリタン、僅かですがケチャップの酸味が残ってますね。これは零治より先に仕上げにかかった事による煮詰めの甘さが原因ですね」


「そうですね。それに兄さんが作ったの違って、こっちにはコクも感じられませんね。母さん、これってもしかして……」


「ええ。バターを入れていないのが原因よぉ」


「なっ!? ……父上、私は料理に失敗したのですか?」


「失敗と言えば失敗になるが、食えなくなる程の大きなミスじゃない。だが、華琳のような美食家が食べ比べたら確実に指摘されるミスではあるな」


「むぅ……コクに関しては確かに私はバターを加えていませんでしたから反論できませぬが、ちゃんとソースの味見はしましたぞ」


「なのに酸味が残ってるって事は、お前の舌が未熟だって証拠だ。それにこういう場合は論より証拠。お前もオレと自分の皿を食べ比べてみろ」


「分かりました」



味覚には個人差がある。だからここに居る人間の内一人や二人ならともかく、全員が味の違和感を指摘しているのだ。となると自分の舌でも確かめるしかない。狼華はフォークを手に取り、まずは零治のナポリタンを一口食べてみる。口にすればケチャップの旨味、具材の旨味が一杯に広がり、バターのコクも感じられた。零治のナポリタンの味を覚えた狼華は空のグラスを取って蛇口を捻り、一杯の水を飲んで口の中をリセットし、今度は自分が作ったナポリタンを食べてみた。よく味わってみると確かに僅かながらにケチャップの酸味が感じられるし、零治のナポリタンにはあったコクも感じられない。ここまで明確な差を感じさせられては狼華もぐうの音も出ない。



「確かにこうして食べ比べてみると、父上と私の料理は味が全然違う。同じ料理とは思えないほどに」


「それは少し言い過ぎだと思うが、まあそう思うのも仕方ないな。ましてやオレのナポリタンを食った後だと、味の粗が余計に目立っちまうからな」


「…………」


「おいおい。そこまでしょげるなよ。料理に失敗はつきものだ。誰だって最初から上手く作れたりはしない。大事なのは、その失敗を次に活かす事だ。そうだろ?」


「父上……。はいっ! この失敗を糧とし、次は最高の料理を作って父上をあっと言わせてみせましょうぞ!」


「フッ。良い返事だ。なら、お前の今後の成長に期待させてもらうよ」


「ええ。……それはそうと父上、一つ相談があるのですが」


「何だよ?」


「私は父上の料理が大層気に入りました。なので皿を交換しましょう。父上は私の失敗作を食べてください」


「おい。そんな事をしてオレに何の得がある? オレだって休憩中の飯ぐらい旨い物が食いたいんだ。それはちゃんと自分で始末しろ。それが料理を作った者の責務だ」


「むぅ~……ケチですな」


「何とでも言え。さてオレも飯にするかな。……ん? あれ?」



狼華にナポリタンの調理でのミスを理解させ、ようやく自分も食事にありつけると思い、零治はカウンターに置いていたであるはずの皿に視線を戻した。しかし、その視線の先には狼華が調理したナポリタンの皿はあったが、自分が作ったナポリタンが見当たらなかったのだ。辺りを見回してみるがやはりどこにも無かった。



「おい。オレのナポリタンが無いぞ」


「はい? 零治、無いとはどういう意味です?」


「だから、オレが作ったオレの分のナポリタンの皿が消えてんだよ。狼華が作ったオレの分はあるんだが。……姉さん、まさかとは思うが」


「おいおい。零治。アタシの席はアンタから見て端の方だよ。ここからどうやってアンタに気づかれずに皿を横取りするのさ?」


「だよなぁ。ならどうして皿が消えてるんだ。……ん。これは……」



消えた自分の分のナポリタンの皿を探すために辺りを見回していた時、零治の視線がバーカウンターの裏側へ出入りするためのスイングドア付近の床に眼が止まった。その視線の先には、オレンジ色に染まったタマネギの切れ端が一切れ落ちていたのだ。零治はスイングドアの前まで近づき、その場にしゃがんでタマネギの切れ端を拾い上げて観察した。正直こういう事はしたくないがこれも手掛かりを得るためである。零治はクルクルと拾い上げたタマネギの切れ端を回転させて観察し、ゴミなどの付着物が無い事を確認すると念の為、一度フッと軽く息を吹きかけてそれを口にした。



「あぐ。……これ、オレが作ったナポリタンの味だ」



その場から立ち上がった零治はスイングドアを右手で乱暴に押してバーカウンターから表に出ると、その視線の先にはナポリタンの具材として使用したピーマンやらマッシュルームやらベーコンやらの切れ端が不規則な間隔で床に落ちているが、落ちている具材の軌道は玉座の間の開け放たれた一つの窓まで続いていたのだ。もうこれは確定である。何者かがあの開いた窓から玉座の間に侵入し、零治達に気づかれる事もなくナポリタンを盗み出したのだと。今夜の食事会の準備でせわしなく働き、ようやく昼食にありつけると思った矢先にこれである。しかも自分で作っているのだ。簡単な料理とはいえそこそこの手間はかかっている。何より誰であろうと自分の昼食を盗まれて黙っていられるほど零治はお人好しではない。



「野郎……誰だか知らねぇがオレの昼飯を盗み出すとはいい度胸だ。犯人にはきっちり制裁をしてやる」



零治の中で怒りの炎がチロチロと少しずつ燃え盛り、彼は反転してバーカウンター内へ戻ると、カウンターに置いてあるタバスコの瓶を手に取って懐に忍べ、バサッとコートをなびかせながら足早に開け放たれている窓まで進み、そこから外に出て昼食泥棒の追跡を開始したのだ。



「あっ、父上。どこへ行かれるのですか」


「狼華、放っておきな」


「ですが伯母上」


「あぁん? 今なんつった……?」


「し、失礼いたしました。姉上……」


「分かりゃいいんだよ」


「はい。……で、なぜ父上を止めないのですか?」


「んなの決まってんだろ。面倒だからだ」


「そ、それでいいのですか……? 父上、かなり怒っていたようでしたが……」



どうも中庭での一件で狼華は零治の行動を不安視しているのかもしれない。確かに自分の昼食を何者かに奪われている点に関して零治はかなり怒っていた。それは恭佳達も理解している。しかしだがそれと同時に零治も暴力沙汰にするほど怒ってるわけではないとも判断していた。それは彼がここを去る前に取った行動で分かっているのだ。



「心配は要らないよ。もしも零治がここで包丁でも取り出していたらアタシらも止めていただろうけど、アイツが持って行ったのはタバスコの瓶だっただろ? なら大丈夫さ。……多分」


「はぁ……」


「狼華。恭佳の言う通りそこまで心配の必要はないと思いますよ。それに、いま貴方にまで抜けられたらこの後の食事会の準備が滞ってしまいますからね」


「……分かりました。ですが、あまり帰りが遅いようでしたら私は父上を探しに行きますからな」


「それで構いませんよ。さて、なら次は樺憐お手製のこの巨大オムレツの試食に移りましょうか」


「は~い。忌憚のない意見をお願いしますわねぇ」


………


……



「はああああああっ!」


「でやああああああっ!」



場所は代わってこちらは成都城の中庭。上空に存在する叡智の城のせいで表はまるで曇り空のように薄暗いが、そんな事は気にもせずに春蘭と関羽が裂帛の気合を放ちながら激しい攻防を繰り返し、その場に激しい金属音が鳴り響いていた。そしてその様子を観戦している三国の首脳陣達。今夜開かれる食事会までの間、時間を潰す方法が思いつかないのでこうして明日の決戦のための特訓を合同で行う事になり今に至っているのだ。



「どうした、関羽。この前の決戦の時の方が歯応えがあったぞ。まさか手を抜いているわけではなかろうな」


「抜かせ。これはまだ準備運動に過ぎぬ。私が本気を見せるのはここからだ」


「ふっ。面白い。ならばその本気とやらでこの魏武の大剣を倒してみせろっ!」


「望む所だ! 我が青龍偃月刀の威力、しかと見るが良い! 夏侯惇っ!」



春蘭と関羽は再び裂帛の気合を放ちながら双方共に地面を駆け抜け、互いの距離を詰めて己の間合いに捉えるとここまで共に戦い抜いてきた愛用の得物を同時に振るい、春蘭の七星餓狼と関羽の青龍偃月刀の刃同士が一度激しくぶつかり、間から火花を散らして重い金属音が鳴り響いた。二人の様子に華琳は優雅な笑みを浮かべながら観戦しているが、対象的に桃香と一刀は表情が引きつり気味である。昨日は零治が用意した仮想世界での特訓、更にその前は魏と蜀による決戦。ここまで連戦続きだというのに春蘭も関羽も全く疲労を感じさせない動きっぷりなので、お互いに体力が有り余っているとしか思えなかったのだ。



「愛紗の奴、気合が入ってるなぁ」


「うん。直接戦うのは私達じゃないけれど、やっぱり……黒狼さんの事が許せないからなんだと思う」


「桃香……」


「……黒狼さん。貴方はどうしてこんな事を……」



桃香は憂いを帯びた表情で空を見上げ、上空に存在している巨城である叡智の城を見つめて誰に言うのでもなく呟く。最早黒狼達との戦いを避ける事は出来ない。それは彼女も分かってる。だがそれでも、心優しい桃香は今回の件は血を流さずに解決したい。それこそが彼女の願いである。周りにどう思われようと、甘いと言われようがこれだけは譲れなかった。そんな桃香の心境を理解してなのか、そうでないのか華琳が彼女に声をかけた。



「劉備。黒狼を信じるのは貴方の勝手だけれど、食事会の時までそんな辛気臭い顔をするのはやめなさいよ。そんな事をしたら今夜の料理の味も楽しめないし、零治達にも気を遣わせてしまうわよ」


「曹操さん」


「あの男の真意は明日の決戦まで分かりはしないわ。ならば今日ぐらい黒狼の事を考えるのはやめなさい。当日にならないと分からない事を今から考えていても無駄に疲れるだけよ」


「……そうですね。そうします。非常事態ですけれど、今日は零治さんが主催する食事会を楽しんでもバチは当たりませんよね?」


「ええ。その方が零治も喜んでくれるはずよ」


「はい。……あの、曹操さん」


「何?」


「私の事はこれから桃香と呼んでください。この大陸の平和な未来を築き上げる同じ仲間として、私の真名を預かってほしいんです」



三国の同盟が結ばれてまだ日が浅いというのに、こうもあっさりと自分の真名を預ける桃香の行動に華琳は内心驚いている。しかし桃香の言う通り、これからはこの大陸の未来のために苦楽を共にする仲間通し、いつまでもよそよそしいのは確かによろしくない。それにこれが桃香の人となりであり彼女の良さなのだと華琳も理解し、その申し出を承諾した。



「そう。なら、私の真名も貴方に預けましょう。これからよろしくね、桃香」


「はい。こちらこそよろしくお願いします。華琳さん」


「…………」


「ほら。ご主人様も」


「えっ? いやでも、俺まだ彼女の事をよく知らないし」


「あら。桃香がご主人様と持ち上げている程の男なのだから、信用するには充分でしょう? 私は別に構わないわよ」


「そういうもんなの? ……じゃあ、俺の事は一刀って呼んでくれていいから」


「ええ。これからよろしくね、一刀」


「ちょっとちょっと~。三人して私の知らない間になに仲良くしてるのよ。私だけ仲間はずれにするつもり~?」



間に入ってきたのは口をへの字にして子供のように不満げな顔をしている孫策だった。桃香、一刀がいつの間にか華琳と真名を預け合い、同じ三国同盟の一員であるにも関わらず自分だけ他人行儀な接し方をされるのが孫策は嫌なのだ。華琳達の間に割って入るや否や、孫策は強引に華琳に自分の真名を預けてきた。



「曹操~。私の事もこれからは雪蓮って呼んでよ~」


「また随分とノリが軽いわね。貴方は誰にでもそうやって軽々しく真名を預けているの?」


「そんなわけないじゃない。この前の決戦での王としての格の違いを見せつけられたから、貴方に敬意を払っての事なんだから」


「はぁ……まあいいわ。貴方の言う通り、一人だけ仲間外れにしては同盟関係としてどうかと思うしね。なら、私の真名も貴方に預けるわ。これからよろしくね、雪蓮」


「ええ。こちらこそよろしく、華琳」



三国の首脳陣全員がまだ互いに真名を預けたわけではないが、三国の王同士がこうして真名を呼び合うのは良い傾向だろう。この調子で交流を重ねていけばいずれは全員が真名を呼び合う日が来るのもそう遠くはない。そうなれば三国同盟の関係もより強固なものとなるはず。そんな未来に期待しつつ、華琳達は春蘭と関羽の試合に眼を向けるが、未だに決着がつく様子が見られない。その状況に次第に焦れてきたのか、関羽を特別視している霞が野次を飛ばし始めた。



「おい春蘭! いつまで関羽を独り占めするつもりや! ええかげんウチと代わらんかい!」


「まだ試合中だ! 外野は黙ってろっ!」


「あはは。愛紗ちゃんは人気者だなぁ」


「それにしても二人共よく体力が保つよな。ここまでずっと連戦続きだったのに」


「あれぐらい我らから言わせれば普通の事ですぞ。主の体力があまりにも無さ過ぎるだけなのでは?」


「ん? ……星か。悪かったな。みんなより体力が無くて」



涼し気な声でどこか嫌味ったらしいセリフを一刀に投げかけてきたのは星だった。彼女は優雅な足取りでこちらへ歩み寄り、桃香の隣に控えて涼し気な表情で試合を観戦する。他の者達は春蘭と関羽の試合を食い入るように見ているが、星にはそれが無かった。別に冷めているのではない。実際に二人の勝敗がどうなるのかを予想しつつ面白がるように笑みを浮かべていたのが良い証拠だ。



「星ちゃんは参加しないの?」


「今はそういう気分ではないのです。こうして見ているだけで充分ですよ。それに私は別の用があってここへ来たので」


「別の用って?」


「ふむ。……曹操殿」


「ん? 何かしら?」


「先日は誠にありがとうございました」



星は意味深な言葉を口にすると華琳の前まで足を進め、深々と頭を下げて彼女に礼の言葉を述べ始めた。星の突然の行動に華琳は面食らい、唖然としていた。それもそのはず、彼女は星に礼を言われるような事をした覚えが全く無いのだ。これで驚くなと言われても無理な話である。



「突然どうしたの? 私、貴方に礼を言われるような事をした覚えは無いわよ?」


「ありますとも。あの時、貴方が零治殿を説得してくれたおかげで娘を救う事が出来たのです。これはその事に対する礼ですよ」


「あぁ、その事。気にしなくて良いわ。私はただ、零治に娘を手に掛ける業を背負わせたくなかっただけよ」


「曹操殿……」


「それに、経緯が特殊とはいえど天の御遣いの血を受け継いだ者を見殺しにするほど私は落ちぶれていないわ。何しろあの零治を手こずらせた貴重な人材なのですからね」


「ふふっ。確かにその通りですな」


「ただし、貴方との間に娘が生まれたとはいえ、零治は我が国の御遣い。そこわ変わらないわよ。よく覚えておきなさい」


「ええ。承知しておりますよ。……曹操殿」


「まだ何かあるの?」


「我が真名は星。私の真名、曹操殿に預けましょう。娘を救ってくれた御恩は一生かけて返さねばなりませぬからな」


「そう。なら、その恩返しに期待も込めて私の真名を貴方に預けましょう。以後は華琳と呼んで構わないわ」


「はっ。以後、よろしくお願いします。華琳殿」



二人のやり取りを見ていて桃香は三国同盟が結ばれてよかったと心の底から思えた。もちろんまだ全てが終わったわけではないが、こうして人々は理解し合える。その輪が広がってゆく。自分が掲げていた理想の実現は決して不可能ではないと確信していた。後はその未来を護るためにも黒狼との戦いを終わらせる。その決意を胸に秘めていた時だった。何やら今まで嗅いだ事の無い不思議な匂いが漂ってきたのだ。



「あれ? ……くんくん」


「ん? 桃香。どうしたんだよ?」


「ねえ、ご主人様。なんだか美味しそうな匂いがするんだけど……何の匂いなんだろ。私こんな匂い、今まで嗅いだ事が無いんだけど」


「美味しそうな匂い? ……ん~?」



桃香の言葉が気になり、一刀も鼻を鳴らして周囲の空気を吸ってみると、微かにだが確かに彼女の言う通り何やら空腹感を刺激する美味しそうな匂いが感じ取れたのだ。嗅ぎ取れる匂いは微かなので何の匂いなのかは断言できないが、一刀はその匂いに何やら覚えがあった。



「あれ? 俺この匂い、なんか知ってる気がするなぁ」


「えっ? ご主人様、これが何の匂いか分かるの?」


「いや、こんな薄っすらとした匂いじゃハッキリとは分からないよ。でも何だろ。なんか懐かしい感じがする」


「うにゃ? みんな集まって何をしてるんだにゃ?」



と、そこにやって来たのは子分であるミケ、トラ、シャムの三人を連れ立っている孟獲だった。しかも彼女は頭上に掲げるように一枚の皿を持っており、その皿には何やらオレンジの鮮やかな色合をした何かの料理が盛り付けられていたのだ。おまけに孟獲達の口周りや手も同じようにオレンジ色でベタベタに染まっていた。



「あっ、美以ちゃん。……ん? ねえ、美以ちゃん」


「どうしたにゃ?」


「その手に持っているお皿は何なの?」


「これにゃ? さっき狩りをして獲ってきた奴にゃ。すっごく美味しいじょ」


「んん? ……っ! って、美以! その皿に乗ってるのって……ナポリタンじゃないのかっ!?」


「なぽ……? 兄ぃ。これはそういう名前にゃのか?」


「ご主人様。なぽりたんって何?」


「あぁ、ナポリタンってのは俺の世界の料理の一つだよ」


「ええっ!? ご主人様の世界の料理!? ……って、あれ?」


「……ん?」



孟獲が持って来たナポリタンの皿。そしてこれは一刀もよく知る自分の世界の料理の一つ。なぜそんな物がここにあるのかについての理由は、桃香も一刀も一つしか思い浮かばない。今この成都城には一刀だけでなく、天の御遣いと称されてこの世界に降り立っている人間があと六人も居るのだ。何やら嫌な予感がする桃香と一刀は互いに顔を見合わせて、冷や汗を流しながらすぐに孟獲に視線を戻し、桃香が恐る恐る訪ねた。



「ねえ、美以ちゃん。そのお皿……どこから持ってきたの……?」


「うにゃ? 桃香がよくみんなを集めてお話をしているでっかいお部屋からにゃ」


「……ご主人様。もしかしてあのお料理って」


「ああ。間違いないよ。あれ……零治達が用意した料理の一つだ」



そう。孟獲が持っている皿の正体は零治が食事休憩のために用意した料理。つまり、零治の昼食であるナポリタンを気づかれずに玉座の間から持ち出したの彼女なのだ。おまけに孟獲はこういった食べ物絡みのトラブルを街でも頻繁に起こしていた。桃香や一刀は孟獲に注意もしつつ、生活の文化の違いがあるから仕方ないと思い、長い目で見守っていたのだが今回ばかりはそうもいかないだろう。とにかくまずは事情を確認するのが先決である。



「なあ、美以。ちょっと確認したいんだけど、その皿を持ってきた部屋にさ……誰か居なかったか?」


「にゃ? ……うん。確かに居たにゃ。全員の名前は分からないけど昨日会った、かれんって人も居たじょ」


「み、美以ちゃん。悪い事は言わないから、そのお皿、今すぐ元の場所に返してきた方がいいって……っ!」


「どうしてにゃ?」


「どうしてってそれは――」


「見~つ~け~た~ぞ~。この昼飯泥棒がぁ……」



桃香が孟獲に皿を返すように説得を試みたが一足遅かったようだ。孟獲が残していった痕跡を追跡していた零治がこの場に現れ、彼は表情に影を落として地を這うような低い声で彼女に声をかけたのだ。流石に騒ぎが大きくなり始めたので、春蘭と関羽も勝負の手を止め、その場に居る三国の首脳陣達全員の視線が集中していた。



「ほっほぉ。犯人は誰かと思ったら昨日のガキんちょどもか。しかももう食ってやがるし……これは制裁確定だなぁ……」


「にゃ? 何の話にゃ? これは美以達が狩りで獲ってきた獲物にゃ」


「ほぉ~。この世界じゃ皿に乗った料理が生き物としてうろついてんのかよ。不思議な事もあるもんだなぁ……」



孟獲の言い分に零治は表情に更に影を落とし、口の端を吊り上げて笑みを浮かべるが眼が全く笑っていないのでその姿はかなり不気味だし、背筋に悪寒も走る。このままでは零治は孟獲達に対して何をするか分かったものじゃない。とにかく今は彼の機嫌をなだめ、出来るだけ話を穏便に済ませる方向へ持っていくのが重要である。今の零治は戦場に立っている時とは違うが近寄りがたい雰囲気を放っている。しかしそれに臆すること無く一刀と桃香は間に割って入り、零治との話を試みた。




「ま、まあまあ。零治、美以達は生活の文化も違うし、ここは大目に見てやってくれよ」


「そ、そうですよ。確かに盗み食いは悪い事ですけれど、美以ちゃん達も悪気があってやったわけじゃないんですから……っ!」


「一刀、桃香。お前らの言いたい事は分かるし、今夜の食事会で出す料理を少々つまみ食いされた程度ならオレもここまで怒らねぇよ。だがなぁ……そいつらがいま食ってるのはオレの昼飯なんだよ。食い物の恨みは恐ろしい、お前らもそれぐらい知ってるだろ……」


「そ、それはそのぉ……」



食べ物の恨みは恐ろしい、これについては流石の一刀と桃香も反論は出来ない。一刀も元いた世界でこの諺はよく耳にしていたし、桃香も零治の言い分は分かる。ましてやこちらの世界ではその日の食事だってままならない程の貧しい生活を送っている人だって当たり前のように居るのだ。そんな極貧生活を余儀なくされている人が久しぶりの食事にありつけるかと思いきや、それを誰かに横取りされたらどうなる。激昂して相手を殺害してしまう可能性だって決してゼロではない。こちらの世界の人々にとって、食事とはそれだけの死活問題なのだ。だがそれでも、なんとか機嫌を直してくれないかと懇願の眼差しを一刀と桃香が向けるので、零治は表情こそ変えていないが二人を安心させるために口を開いた。



「安心しろ。ただちょいとばかりお仕置きをするだけだ。それ以外なにもしねぇよ……」


「お、お仕置きって……だだ、駄目ですよ零治さん!? 殴ったりするのはっ!」


「そんな事しねぇよ……」


「零治。なら何をするつもりなんだよ……?」


「…………」



一刀の問いかけに零治は表情を全く変えず、無言を貫き通す。零治の様子に桃香は一抹の不安を感じて血相を変えて殴るのはやめるよう止めに入ったが、彼はそんな事はしないとこれを否定している。だが零治の考えているお仕置きの全貌が明らかになったわけではないし、一刀も桃香も零治との付き合いが長いわけでもない。だから彼が何を考えているのか読み取る事が出来ず、二人は困ったように声を潜めて相談し合った。



「ねえ、ご主人様。どうすれば零治さんを止められるかな……?」


「そんなの俺だった分からないよ。むしろ俺が知りたいぐらいだって……」


「だよねぇ。でも、このままじゃ零治さん、美以ちゃん達に何するか分からないからどうにかして止めないと」


「それは分かってるよ。だけどどうすれば良いんだよ……」



桃香も一刀も零治がこういう事で怒った時、どうすれば機嫌を直してくれるかなど分かるわけがない。何しろ昨日今日の付き合いなのだ。だからといってこのまま零治を放置するわけにもいかないだろう。どうやってこの状況を打開しようかと二人して必死に頭を働かせていたその時だった。思わぬ人物が零治に声をかけたのだ。



「零治。一つ確認させてもらいたいのだけれど」


「何だ。華琳……」



声をかけたのはそれまで終始無言で零治と桃香、一刀のやり取りを静観していた華琳だった。横で話を聞いていたので、零治が何に対してい怒っているのかの理由も理解している。今の桃香と一刀にとって華琳はまさに救いの女神と言っても過言ではない存在である。今この場に居る人間で零治と最も付き合いが長いのは間違いなく華琳である。彼女ならば何とかして零治を止めてくれるはず。そんな期待の眼差しを桃香と一刀は華琳に向けて静かに様子を見守った。



「横で話を聞かせてもらっていたのだけれど、彼女……孟獲達が食べているの天の国の料理なのよね?」


「ああ」


「なら、あれを作ったのは貴方? それとも樺憐?」


「オレだ……」


「なるほど。確かに貴方の怒りも頷けるわね。自分で作った昼食を他人に横取りなんかされたら、私だって黙ってはいられないわ」


「だろう? 華琳ならオレの気持ちを理解してくれると思っていたぜ……」



桃香と一刀の期待は見事なまで粉微塵に打ち砕かれてしまった。華琳が零治の機嫌を直すよう説得してくれるのかと思えば、何と彼女は零治の考えに同調するような言葉を口にしたのだ。これは良くない流れである。このまま話が進むと本当に零治は孟獲達に自身が考えているお仕置きを実行してしまうだろう。もうこうなったら強引にでも止めるしか無い。そう思い意を決した桃香が零治と孟獲達の間に割って入ろうとしたその時だった。



「けれどね、零治。彼女達を見てみなさい」


「あん?」


「……良い笑顔をして食べていると思わない?」



華琳の言うように孟獲は零治達の事などそっちのけで子分であるミケ、トラ、シャムと一緒に顔を輝かせて零治お手製のナポリタンをむしゃむしゃと手掴みで食べ続けている。彼女達の食べ方はお世辞にも行儀が良いとはとても言えないが、良い笑顔をしている。孟獲達と一緒に過ごしていた桃香と一刀も彼女がここまで笑っているのは初めて見る光景である。もしかしたら初めて口にする料理の味に興奮しているからなのかもしれない。



「作り手として、あの娘達の笑顔は最高の褒美じゃないかしら?」


「だから盗み食いを許せとでも言うのか……?」


「そうは言わない。盗みは立派な悪事よ。けれど彼女達を罰するのは私でも貴方でもないわ。……桃香」


「あっ、はい」


「孟獲達の主人は貴方なのだから、悪さをしたらどうするべきかは分かるでしょう?」



華琳は桃香に視線を向けてウインクをし、彼女もすぐに華琳の真意を理解した。ここは自分がちゃんと主として仲間の悪事は注意をし、そして自分達から自発的に謝罪をさせる。これならば事を穏便に済ませる事も可能なはずだ。桃香は素早く孟獲達の前まで歩み寄ってその場にしゃがみこんで口を開いた。



「ねえ、美以ちゃん。そのお料理、美味しい?」


「おお。とっても美味しいにゃ! 産まれて初めて食べる味がするにゃ!」


「そうなんだぁ。そのお料理、このお兄さんが作ったんだよ」


「そうなのか。誰だか知らないがありがとうにゃ」


「お前らのために作ったわけじゃないんだがなぁ……」


「でもね美以ちゃん。そのお料理、このお兄さんのお昼ご飯だったんだよ? 他人の物を勝手に食べるのは悪い事だよね? ちゃーんと謝らないと駄目だよ?」


「あうっ。そうだったのか。……うぅ。ごめんなさいにゃ」


「ほら。ミケちゃん達も悪い事をしたらちゃんと謝る」


「うぅ……ごめんにゃー……」


「ごめんなさいにょ……」


「ごめんなさいにゃん」


「…………」



桃香に促され、孟獲達は申し訳無さそうな顔をして頭をちょこんと下げてきちんと零治に謝罪をした。だが肝心の零治は未だに黙ったままである。これでは彼が孟獲達のした事をちゃんと許しているのかも判断できない。仕方ないので最後のダメ押しとして、桃香も家臣の不祥事を詫びるべく零治に頭を下げたのだ。



「零治さん。美以ちゃん達もこうして謝っていますし、ここは私に免じてどうか許してやってください」


「はぁ……ったく。……おい、ガキんちょども」


「どうしたにゃ?」


「その料理は旨かったか?」


「おおっ! すっごく美味しかったじょ! もっと食べたいくらいだにゃ!」


「そうかぁ。それならオレも作ったかいがあったってもんだ。……その皿貸しな。特別にもっと『旨く』してやるよ……」



零治が意味深な言葉を口にして懐から小さな小瓶を一本取り出し、キャップを外してポケットにしのべる。零治が右手に持っている物はタバスコの瓶である。桃香も一緒に謝罪をしたので怒りの炎も鎮火はしたが、やはり仕返しはしなければ気が済まないのだ。零治は左手を孟獲達に差し出し、指をクイクイっと内側へ仰ぐ動作をしてナポリタンの皿をこちらへ渡すように促した。



「おおっ! もっと美味しくできるのか!? なら頼むにゃ!」


「任せな……」



孟獲は零治の魅了的な提案に顔を輝かせてナポリタンの皿を彼に手渡し、零治は右手に持っているタバスコの瓶を掌の中でクルッと回転させて逆手に持ち、瓶を上下に軽く振ってタバスコを振りかけ始めたのだ。何度も何度も瓶を振り、中身のタバスコを全体にまんべんなく降りかけていく。その様子を見ていた一刀は零治が手にしている瓶を観察していてその正体にいち早く気づき、思わず声を出した。



「ん? ……ちょっ!? 零治! それって……っ!」


「ああ? 何だよ?」


「いや……零治、その瓶の中身って……タバスコなんじゃ……」


「だからどうした? ナポリタンとタバスコは相性がいいんだぜ?」


「それはそうかもしれないけど……何回ぐらいかけたの……?」


「んん~? ……二十回ぐらいはかけたな」



タバスコにも実は種類があり、一般的に市販されているの物は全部で六種類。その内スーパーなどでもよく販売されているのはオリジナルソースと呼ばれている物であり、零治が手にしているのもそれだ。そしてオリジナルソースの辛さは三番目に辛いのだ。数回かけた程度ならピリッとした辛さと酸味が良いアクセントとなり、ナポリタンに違う味わいをもたらしてくれるだろうが、二十回も全体にまんべんなく振りかけたらそれはただの刺激物の塊でしかない。味だって殆ど分からなくなるだろう。ここまでした物を孟獲達に食べさせるのはまずいと思うのだが、零治が睨みつけているので一刀は止めたくても止められない。桃香も一緒に頭を下げたが、やはり内心ではまだ許せていないのだろうという事を一刀は嫌でも分かってしまい、事の成り行きを見守る事しか出来なかった。



「ほらよ。待たせたな。好きなだけ食えよ」


「ありがとうにゃ! ……ん~。なんか酸っぱい匂いがするにゃ」


「気にするな。今かけた調味料はそういう匂いがする物なんだよ」


「そうにゃのか。……それじゃいただきますにゃー!」



零治は孟獲達に大量のタバスコがかけられたナポリタンを手渡してタバスコの瓶のキャップを閉めてコートの下に忍べ、何の疑いもなく孟獲達はナポリタンを手掴みで頬張り、すぐに硬直してしまう。その場に奇妙な沈黙が広がり、零治はニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて孟獲達の様子を観察しており、彼の表情が何を物語っているのかを華琳はすぐに察して内心溜め息を吐いていた。



(呆れた。零治ったらまた何かしたわね)


「どうした? 早く味の感想を聞かせてほしいんだがなぁ」


「お……」


「お?」


「美味しいじょーーっ!」


「なん……だと……っ!?」



零治は孟獲達がタバスコの辛さで悶え苦しむ姿を見たくて期待していたのに、彼女達の反応はその真逆。大量のタバスコがかけたられたナポリタンを美味しい美味しいと連呼しながら貪るようにバクバクと食べ続けており、あっという間に平らげて皿のナポリタンは綺麗サッパリ無くなっていた。



「にゃー。さっきの刺激的な味はたまらなく美味しかったじょー」


「おい、一刀。このガキども味覚がおかしいんじゃねぇのか……?」


「おかしいかどうかは分からないけど、俺達とは違う味覚をしているのは間違いないと思うよ」


「はぁ……これじゃ仕返しになりゃしねぇ」


「やっぱりあれは仕返しだったんだね……」


「当たり前だろ。ったく。拍子抜けだな。おまけに無駄に疲れた。もうオレは戻る。……ほら。皿を返せ」



零治は孟獲から空になった皿を引ったくるように奪い取り、皿を見つめて一度小さな溜め息を吐くと踵を返して玉座の間へと引き返していく。その様子に何が何だか分からない桃香は不思議そうに首を傾げてどうしたのかと華琳に眼で問いかけてみるが、彼女も苦笑してヒョイッと肩を竦めるだけ。零治の仕返しは見事なまでに失敗し、無駄足で終わってしまった。


………


……



あれから玉座の間に戻った零治は狼華が作った失敗作のナポリタンで昼食を済ませる羽目になったが、タバスコと粉チーズを使って味変をすればケチャップの酸味とコクの無さも気にならなかったので、とりあえず昼飯休憩に不満は無かったようだ。それからすぐに全員で食事会の準備の仕上げに取り掛かり、各陣営のテーブル、料理と酒、食器類、その他諸々の準備は全て整ったし、辺りも暗くなり始めているがまだ夜ではなく夕方ぐらい。何とかギリギリ間に合った所である。



「ふぅ~。何とかギリギリで間に合ったな。……亜弥、桃香達への連絡は?」


「大丈夫です。全員には夕方頃に中庭に一度集まるように連絡しておきましたので。たぶんそろそろ集合していると思いますよ。後は彼女達を迎えに行って会場であるここに案内するだけです」


「そいつは結構」



桃香達への連絡も問題なし。零治はチラリとバイキング形式で用意した料理に視線を向ける。これらの料理は軽いステンレス製の楕円形をした取っ手付きの大きな器に盛り付けており、その器のサイズに合わせた一回り大きい四方に支えの脚を取り付けた受け皿に軽く水を張ってはめ込んである。更に受け皿の下には固形燃料を詰めた金属容器に火を灯して下から熱してあり、料理を盛り付けている器も蓋を出来るようにしているので冷める心配は無い。料理のラインナップは樺憐が昼間試作した巨大オムレツや焼きそば、海鮮ピラフや唐揚げなどと統一感もなくバラバラで高級路線ではなくどちらかと言えば大衆向けの料理ばかりだ。だがこれだけで終わらせるはずもなく、零治と樺憐は食事会が始まってからその場で高級感のある料理も作って華琳達に振る舞う予定なのだ。料理に関してもバッチリ抜かりはない。後は華琳達を出迎えに行くだけ。



「よし。それじゃあ全員こいつに着替えろ」


「ん? 零治、何ですかこれは?」



どこから用意したのか、零治は黒が基調となった正方形に折りたたまれた布の塊と革製のロングブーツを亜弥達に手渡したのだ。着替えろと言っていたから服なのは確かだろうが、これだけではどういったデザインの服なのか見当もつかない。亜弥達は零治が用意した衣装がどういう物なのか確かめるべく、受け取った布を広げてみせた。



「ん~? 零治、これってゴスロリドレスってやつか?」


「そうだ」


「……アンタねぇ、アタシにこんなもん着せて何を企んでんだ」


「姉さんだけじゃない。全員同じデザインの服だぜ?」


「ん? ……零治、この衣装ひょっとして……」


「おっ? 察しが良いな、亜弥。やはり見覚えがあったか」



零治から手渡された衣装を広げて見た亜弥はすぐにこれの正体に気づいた。そう。このゴスロリドレスは零治が狼夏に扮するために使用していた物と全く同じデザインをしている。つまりこれを着用して給仕係を務めろという事なのだ。



「貴方は私達にこれを着て給仕をやれと?」


「そうだ。……安心しろ。オレも着るからよ」


「えっ?」


「朝華琳に言っただろ。『証明』するとな」


「ふむ」


「分かったなら、お前らは自分の部屋に戻ってそいつに着替えて華琳達を迎えに行け。オレはここで着替えてお前らが来るのを待ってるからよ」


「分かりました。ではまた後で」


「父上」


「ん? どうした?」


「着替えを手伝ってほしいのですが」


「自分で着替えろ。着方が分からないなら亜弥か樺憐にでも教えてもらえ。分かったらお前もとっとと行け」


「むぅ~……」



零治から手渡された衣装を手にしながら亜弥達は玉座の間を立ち去り、着替えを手伝ってほしいとせがむ狼華も追い出し、零治は大扉を閉めて一度大きく息を吐いた。ここまで来たらもう後には引けない。それに既に朝方いままで隠し通してきた秘密は狼華にバラされてしまっているのだ。そして華琳にも証明すると明言している。やるからには徹底的にやってやる。それが今の零治の考えなのだ。



「さて、オレも着替えるか。……っと、その前に。BD」


『何だよ?』


「お前に用意してほしい物がある」


『おいおい。これ以上俺様に何を求めるつもりだ? パーティーに必要なもんは全て用意してやったはずだろうが』


「そういうのじゃない。お前にある道具を用意してもらいたいのさ」


『ある道具? 何だよ?』


「オレが元いた世界で狼夏に扮して敵地に潜入していた時、よくお世話になっていた代物だ。それが何なのかはオレの記憶を読み取れば分かるぜ」


『そうかい。じゃあちょっくら失礼するぜ』



BDは零治に言われた通り、彼の過去の記憶を読み取っていく。それによりBDの中に様々な情報が流れ込んでくるが、不要な情報は排除し、零治が狼夏に扮している時の情報を重点的に収集していく。そうしてBDの中に零治が元いた世界で狼夏に扮している時の出来事が映像記録のように再生されていくが、しばらくして当時の彼がとある道具を使用している姿が確認できたのだ。



『あん? ……相棒、これって』


「おっ? どうやら見つけたようだな。それを創ってほしいのさ」


『いや、創れと言うんなら創るがよ、こんな物なんに使う気だ? 少なくともパーティーで使う道具じゃねぇぞ』


「ちょっとした余興と……保険だな」


『保険?』


「ああ。オレの女装姿を見て、一部の連中はバカにする可能性が大いにある。そいつらに思い知らせるための保険さ」


『悪趣味な奴だなぁ』


「お前にだけは言われたくねぇな。んな事より早い所用意を頼むぜ」


『へいへい』


………


……



「えーっと、ここでいいんだよね? ご主人様」


「だと思うよ。亜弥には夕方頃中庭に一度集合してくれって言われたもんな」



大雑把ではあるが、亜弥が指定した夕方頃の時刻に中庭へ最初に集合したのは蜀の面々だった。非常事態の中で開かれる食事会だが、提供される料理も酒も全て零治の世界の物。つまりこちらの世界の人から見ればそれは天界の物という事になる。零治の世界の料理と酒がどのような見た目でどのような味がする物なのかは全くの未知数。だが零治は朝議の時、味は保証すると明言していた。だから期待は出来るだろうと全員思っているし、その思いが行き過ぎて人としてやってはいけない事をしている人物がこの中に二名ほど居た。それは先程から顔色を悪くして足元がふらついている張飛と翠である。



「あれ? 鈴々ちゃん、翠ちゃん。二人とも顔色が悪いけどどうかしたの?」


「な、何でもないのだ……」


「ああ。桃香様は気にしないでくれ。あたしらなら平気だから……」


「ねえ、愛紗ちゃん。鈴々ちゃんと翠ちゃん、どうしちゃったの?」


「はぁ……この二人ときたら、今夜の食事会で腹一杯食べたいがために朝から水しか飲んでいないのですよ。全く。だから少しは何か食べておけとあれほど言ったのだぞ」



桃香の疑問に関羽が呆れたように溜め息を吐いて首を左右に振りながら答えた。そう。張飛と翠は今夜の食事会の料理のためにわざわざ朝から何も食べておらず、今まで水を飲むだけで過ごしてきたのだ。丸一日ではないにしても、これは普通に身体に悪い行為である。人間の身体はそこまで万能には出来ていない。もちろん二食抜いたぐらいでいきなり餓死とかするわけではないのだが、見ての通りさっそく影響が出ていた。



「にゃ~……鈴々はこれぐらい平気なのだ……」


「そうだぜ。それに、今夜の食事会で腹一杯食えば朝と昼の分も帳消しになるじゃんか」


「いや、二人ともそれ普通に身体に悪いだけだぞ? 零治の世界の料理が気になるのは分かるけど、少しは何か食べとくべきだったんじゃないのか?」


「いいんだよ、ご主人様。それにもう食事会も始まるんだし今更だぜ……」


「やれやれ。食べすぎて腹壊しても俺は知らないぜ?」


「あら。先客が居たようね」


「あっ、華琳さん」



桃香達の次に集合場所に到着したのは華琳率いる魏の面々である。朝議の場では食事会の提案が零治からされた時、春蘭や桂花は食ってかかる程の勢いで難色を示していたが、春蘭は昼間の特訓のおかげもあってその不満は晴れているし、桂花の表情も普通だ。まあ彼女の場合、華琳と一緒に居られるから機嫌がいいだけなのだろうと思う。他のメンツも何だかんだでやはり零治の世界の料理や酒が楽しみらしく、機嫌の悪い者は一人も居ない。そしてその楽しみが悪い方向へ向かってしまった者がここにも一人居た。季衣である。



「あれ? ……あの、華琳さん」


「何?」


「そっちの娘……許褚ちゃんでしたっけ? 随分顔色が悪いように見えますけど、どうかしたんですか?」


「あぁ、この娘ったら零治と樺憐の料理を沢山食べるために朝から水だけで過ごしてきたのよ。私はやめなさいって注意したのだけれど聞いてくれなくてね」


「あ、あはは……。鈴々ちゃんや翠ちゃんと一緒ですね」



流石の桃香もこれには苦笑いを浮かべざるを得ない。まさか他国の陣営でも同じ事をしている人が居るなどと予想するなど無理な話だ。だがそれは言い換えれば、零治と樺憐の料理の腕前がそれだけ高いという見方もできる。とはいえ食事会が始まるその時間まで絶食するのはあまりにも極端だが、季衣の様子を見て桃香も内心今夜の料理に期待を膨らませた。



「にゃ! 鈴々の真似をするななのだ! ちびっこ春巻き!」


「なにぉ! ボクだって兄ちゃんの料理を沢山食べたいんだよ!」


「ほらほら。二人とも喧嘩はしないの」


「やれやれ。季衣、そんなに怒鳴る元気があるのなら、零治の料理は要らないのではなくて?」



食事会の料理を巡ってさっそく季衣と張飛が睨み合うので、桃香が間に入ってまあまあとなだめ、その様子に華琳はやれやれと苦笑していた。そして残りの陣営である呉の面子もようやく集合場所へと到着してきた。



「ごめ~ん。待たせたー?」


「あっ、雪蓮さん。大丈夫ですよ。私達もいま来た所ですから」


「そう? この様子だと迎えはまだ来てないのね。このまま会場に向かえばいいの?」


「どうなんでしょう? 亜弥さんにはここに集合するように言われただけですから分からないですけど」


「お待たせしました。全員揃っているようですね」


「あっ、亜弥さん……って。ええっ!? 亜弥さん……その格好は?」



迎えである亜弥達が集合場所に到着したので全員の視線が集中するが、大半の人間が眼を丸くしていた。それもそもはず、亜弥達の服装はいつも着用している全身黒ずくめの服装ではなく、ヒラヒラとしたフリルがあしらわれたゴスロリドレスを着用しているのだ。珍しい服というのもあるが、それを着用した人間が六人も居てはインパクトは大きいだろう。



「あぁ、この服ですか? 零治に言われましてね。今夜はこれを着て皆さんの相手をしろと」


「へぇ~。すごく可愛くて似合ってますよ」


「それはどうも」


「へぅ……あの服、ご主人様から頂いた私達の服にそっくり」


「本当ね。……もしかして魏の御遣いって、あんたと同じ趣味があるんじゃないの」


「詠。俺にそんな事訊かれても反応に困るんだが」



こういう服を亜弥は基本的に着ないのだが、褒められるのはやはり悪い気はしない。流石に普段着にするのはご免だが、たまにはこういう服装にするのも案外ありなのかもしれない。その様子を横で見ていた狼華はスタスタと星の前まで進み出ていった。



「母上。どうですか?」


「ふむ。よく似合っているぞ。流石は我が娘だな」


「おおっ! ありがとうございます。母上」


「おいおい。嬉しいのは分かったから人前で抱きつくでない」



母である星に今の姿を褒められ、例の如く狼華は感極まって抱きついてきた。星も悪い気はしないのだがやはり人前でやられると多少は恥ずかしいので、どうどうとなだめながら肩に手を当てて軽く前に押して狼華を引き剥がした。



「あれ? お母さん、どうして星お姉ちゃんが二人いるの?」



もう一人の星、つまり狼華に興味を示したのは黄忠の一人娘である。名前は璃々。彼女は幼いせいもあるのだろうが、蜀の首脳陣達全員から可愛がられており今や蜀のマスコット的存在であると同時に貴重な癒やしでもある。さて、そんな黄忠の一人娘は好奇心旺盛の活発な娘だ。彼女に狼華についていの経緯を説明するのは非常に難しい。いかんせん生まれた経緯があまりにも特殊なのだ。流石の黄忠もこの質問の返答には困ってしまい、どう言えばいいのか頭を悩ませていた。



「えぇっと、どう言えばいいのかしら。困ったわねぇ……」


「紫苑。そう難しく考えなくても良いではないか。……璃々よ。彼女は私の娘の狼華だ。仲良くしてやってくれよ?」


「ええっ!? 星お姉ちゃんの子供なの!? もしかしてお父さんはご主人様!?」


「いやぁ……璃々ちゃん。実は父親は俺じゃないんだ」


「ええ? じゃあ誰なの?」


「ふふっ。後でちゃんと紹介してやるから安心しろ。……ほら、狼華よ。お主も挨拶せんか」


「あっ、はい。……璃々というのだな? 私の名は狼華。これからよろしく」


「あっ、うん。よろしく」



子供にする挨拶としてはかなり堅苦しいが、これが狼華なりの挨拶なのだろう。彼女はそっと右手を差し出して握手を求めたので、璃々は困惑しながらもその小さな右手をこちらに伸ばしてきたので、狼華は優しく握りしめて握手を交わした。その様子に母親である星は苦笑しているが、時間が経てばもう少し柔らかく対応できるだろうと思いつつ、特に口は挟まずに見守っていた。



「亜弥」


「ん? どうしました? 華琳」


「その服、見覚えがあるのだけれど……もしかして」


「ええ。零治……正確に言えば『狼夏』が着用してた物と同じ服ですよ」


「ふむ。そういえばその零治が居ないようだけれど、彼はどこに居るの?」


「その答えは会場に向かえば分かりますよ。さて、では行きましょうか。どうぞついてきてください」



亜弥を先頭にゴスロリドレスを身に纏った樺憐達が会場へ向かって歩きだしたので華琳達もその後ろへ続いていく。待ちに待った食事会の始まり、そして明かされる零治の秘密。華琳はその両方に期待を抱きながら足を進めていった。


………


……



亜弥達に案内され、辿り着いたのは見慣れた成都城の玉座の間へと続いている大扉である。扉は締め切られているため中の様子は分からない。ここまで来て何を勿体つけるのかと華琳は亜弥に眼で訴えかけたので、その意志を読み取った亜弥も樺憐に目配せをし、二人は扉の前まで進み出てノブに手をかけた。



「ではみんな、打ち合わせ通りに頼みますよ。……樺憐」


「はぁい」



亜弥と樺憐はノブを持つ手に力を入れて同時に大扉を引っ張り、そのまま左右に全開に開け放った。そして亜弥、恭佳、狼華、樺憐、奈々瑠、臥々瑠の六人はすぐに左右に分かれて扉の手前で等間隔で横一列に並び、両手を腰の前で組んで背筋を伸ばした。何をしているのかと華琳達は観察していたが、それからすぐに扉の向こうから一つの人影がコツコツと足音を立てながらこちらへと歩いてきている。人影が歩くたびに長髪がユラユラと揺れ動き、優雅な足取りでこちらへと近づいてきた。その人物が扉の奥から姿を見せると、亜弥達は両手を腰の前で組んだまま深々と頭を下げた。亜弥達が頭を下げている人物は、左眼に一部分が鈍角三角形をした黒い布地の眼帯を身に着け、彼女達と同じようにゴスロリドレスを身に纏った深紅の炎を連想させる赤い長髪が特徴的な長身の美しい女性だった。ただ彼女の服装には亜弥達とは少し差異があり、まず両腕の袖にベルトがクロスして五重に巻きつけられているのし、両腕の上腕部分には何やら革製のナイフの鞘のような形をしたホルダーが三つ横一列に取り付けられている。そしてなぜか彼女だけ両手に漆黒の手袋を身に着けているが、亜弥達とは身分を区別するためなのかその意図は不明だ。玉座の間から姿を見せた女性は華琳達の前で足を止め、彼女達を見回す。女性の姿に見惚れていたが、見覚えのない人物がいきなり出てきたので城の主である桃香が声をかけた。



「あの……どちら様ですか?」


「初めましての方も居ますので、まずはご挨拶から。……お初にお目にかかります。私の名前は狼夏。今宵、皆様方をもてなすための食事会の主催者でございます。以後、お見知りおきを」



狼夏と名乗った女性はドレスの裾を両手で摘んで軽く持ち上げ、膝を軽く曲げて会釈する挨拶のカーテシーを披露した。狼夏の優雅な挨拶に桃香達は言葉をまた失うが、それと同時に疑問が浮上してきた。いま彼女は食事会の主催者と口にしたが、今夜の食事会を提案したのは零治だ。ならば主催者は零治のはず。玉座の間から見知らぬ女性の狼夏が姿を見せただけでも訳が分からないのに、桃香達はますます訳が分からなくなった。



「えっ? 主催者? 主催者は零治さんのはずじゃ……。それにどうして狼華ちゃんと同じ名前をしてるんですか?」


「同じではありませんよ、劉備様。私は狼『夏』。あちらの狼華とは別人です」


「……あれ? 私、貴方に名乗りましたっけ?」


「ホント。いつの間に桃香の名前を。それに御遣い君はどこに居るのよ? どうして姿が見えないの?」


「ね、姉ちゃん……」



狼夏の言い回しに困惑している桃香と孫策をよそに、狼夏に声をかけた人物が居た。霞である。彼女は唖然とした表情で右手を震わせながら狼夏を指差しているが、狼夏は狼狽えている霞の心境などつゆ知らず、優雅な笑みを浮かべて会釈した。



「おや。お久しぶりでございますね」


「姉ちゃん。なんであんたがここにおるんや……?」


「あっ! ねえ、流琉。このお姉さんって、随分前に街で見た人だよね?」


「うん。確か女性の下着店の店員をしていた」


「あー! 沙和も思い出したのー。前に凪ちゃん達と一緒に行ったお店の店員さんなのー」


「あぁ、そういやそんな事もあったなー。あん時はめっちゃキモいおっさんも出てきてビビったわ」


「真桜。本人が居ないとはいえ、そういうのは失礼だぞ」


「おおっ。風も思い出したのですよー。あの時は稟ちゃんが鼻血を出して大変でしたねー」


「なっ!? 風! あれは貴方が私に過激な下着を薦めたからでしょう!」


「あんた……あの時はよくもこの私に恥をかかせてくれたわね!」


「んん? 秋蘭、桂花は何を怒っているのだ? あの娘はただの下着店の店員のはずだろう?」


「まあ……随分前に色々とあってな」


「はいはい。みんな少し静かになさい」



狼夏と少なからず接点がある魏の首脳陣達の間であれやこれやと過去の話題が持ち上がって話に収拾がつかなくなり始めていたので、華琳がパンパンと手を叩いて皆を静かにさせた。さて、問題はここからである。朝議で狼華から暴露された零治の秘密。それを明らかにするためにも彼女、狼夏と話をせねばならないがやはり華琳も未だに半信半疑な部分がある。しかし黙っていても何も始まらない。華琳は意を決して狼夏を正面から見据えながら口を開いた。



「久しいわね、狼夏。まさかこんな所で貴方と再会するとは思ってもいなかったわ」


「はい。お久しぶりでございますね、曹操様。最後にお会いしたのは、貴方様の城に招かれてお茶をした時以来ですね」


「華琳さん。このお姉さんの事を知ってるんですか?」


「ええ。最も……正確に言えば貴方達もよく知ってる人物のはずよ。朝の話が真実ならばね」


「えっ? 朝の話って何の事ですか?」


「それを今から訊くのよ。『彼女』にね」


「…………」


「……回りくどいのはやめましょう。『正体』を見せなさい」



華琳のシンプルな要求に狼夏はフッと小さな笑みをこぼすと右手を自分の喉に数秒当てるとすぐに手を離して下ろした。一体何をしたのかと全員がキョトンとし、その場に奇妙な沈黙が広がるが、その沈黙を打ち破るかの如く狼夏は口を開く。その口から発せられたのは。



「ふぅ……これぞまさに精神的な公開処刑」


「「「「「えええええっ!?」」」」」



誰もが驚いた。先程まで澄んだ涼やかな声をしていたのに、狼夏の口から発せられた声は男性の声。しかもその声は聞き慣れた零治の肉声だったのだ。何が何だから分からない。女性が男の声で喋るなど絶対にあり得ない。あり得るとするならば目の前の女性、狼夏が男性でなければ成立しない事態だ。やはりまだ誰もが事態を理解できていないのだろう。狼夏はやれやれと言わんばかりに首を左右に振り、ダメ押しにかかるべく右手を後頭部の長髪に伸ばして鷲掴み、それを毟り取ったのだ。後ろの付け毛を外した事で緩めのツンツンした髪が強調される。化粧のおかげで顔に違いこそ多少はあるが、目の前の人物は間違いなく零治本人である。



「これで満足か? 華琳」


「……朝議の時は信じていたわ。やはりそれでも半信半疑の部分が拭えずにいた。でも、これで確信を得られたわ。狼夏の正体が女性ではなく、女装した貴方だという事にね」



明かされた真実を前にし、華琳を除く誰もが思考回路が停止していて眼が点になっている。目の前の女性の正体が男性、しかもよく知る人物である零治なのだ。こんな事態を前にしてどう反応しろと言うのだ。反応しろという方が無理な話である。またしてもその場に奇妙な沈黙が広がるが、その沈黙をすぐに打ち破る人物が出現した。さっきから腹を押さえながら小刻みに身体を震わせている春蘭だった。



「ぷっ……くくく。ふふふ……あはは……あーっはっはっはっ! な、何だ音無! その格好は! 貴様そういう趣味があったのか! はーっはっはっはっ!」


「…………」


「あぁ、春蘭。今の零治をあまり刺激しない方が――」



亜弥がフォローしようとしたが零治はスッと左手を上げて彼女の言葉を遮り、右手に持つ付け毛を付け直し、もう一度喉に魔法をかけて声も狼夏のものに変えた。狼夏に扮した零治は優雅な笑みを浮かべながら落ち着いた足取りで未だに爆笑している春蘭に一歩、また一歩と近づき、手が届く範囲に入ると両手を腰の前で組んで落ち着いた口調で話しかけた。



「『夏侯惇』将軍。何がそんなに可笑しいのですか?」


(え? 夏侯惇? 零治、なぜ今更そんな呼び方をするの?)


「お、可笑しいに決まっておろう! まさか貴様に女装の趣味があったとはなぁ! ははは! これからは音無ちゃんと呼んでやろうか?」


「フッ……少々気が緩みすぎですわね。夏侯惇将軍……」


「何? ……ぬおっ!?」



零治が意味深な言葉を放った次の瞬間だった。零治は春蘭の右腕に素早く自分の右手を伸ばして捻り上げ、そのまま彼女の身体を反転させて春蘭の右腕を後ろに回してその自由を奪い、それと同時に彼女の脚、膝の内側に自分の膝を使って蹴りを打ち込んでバランスを崩させる。更に零治は自分の左腕を春蘭を背後から抱き締めるように回し、左肩をガッチリとホールドしてあっという間に両腕を使えなくすると、零治の左手の袖の下、手首の内側から鈍く光り輝く一本の短いブレードが飛び出していたのだ。これが零治がBDに頼んで用意させた保険だ。彼は狼夏に扮する時、見た目は非武装の女性を演じる必要があった。だからといって丸腰では任務の遂行も難しい。武器の現地調達だって毎回上手くいく訳ではないのだ。そういった時に活用していたのが袖の下に仕込んでいるギミック式ブレードの暗器、通称アサシンブレードをよく使用していたのだ。零治はそれを春蘭の喉元に突きつけながら耳元に囁きかけた。



「驚きましたか? まさかこんな事をされるなんて予想も出来なかったのでは……?」


「おい貴様っ! これは何の真似だ……っ!?」


「フッ。一種の警告ですよ、夏侯惇将軍。……私は元いた世界でこの姿に扮し、単独で敵地に潜入する任務をよくやらされていましたのよ。そして主な任務内容は……暗殺……」


「っ!?」


「ふふっ。私の事を信じて疑わない愚かな標的に近づいては、こうしてこの刃で喉元を掻っ捌いて血の海に何人も沈めてやりましたのよ。今の貴方のようにね……」


「…………」


「これで私が何を言いたいのか理解できましたのならば、くれぐれも私の事をバカにするような言動はお控えください。貴方も今夜の食事を最後の晩餐なんかにしたくはありませんでしょう……?」


「姉者。今のはどう考えても姉者が悪い。ここは素直に謝った方が身のためだぞ」


「わ、分かった。私が悪かった。だからいい加減離してくれ……っ!」


「理解が早くて何よりです……」



秋蘭の助言、それと零治の警告がよほど堪えたのか春蘭は素直に謝罪をしたので、その答えに納得した零治もすぐに彼女を開放し、左手の指を軽く動かすと袖の下から飛び出していたブレードもギミックが作動して素早く袖の奥に引っ込んでいく。自分の喉を右手で押さえながら息を乱している春蘭に近寄ると、零治は狼夏としてまるで侍女のように彼女の身だしなみを整え、数歩後ろに下がってカーテシーをした。



「先程は失礼いたしました。私もつい熱くなって、余興にも熱が入ってしまいましたわね」


「余興? 私にはどう見ても本気にしか見えなかったわよ、零治……」


「曹操様。それは誰の事ですか? 今の私は狼夏。それ以上でもそれ以下でもありません」


「ふぅ……あくまでも『狼夏』でいる事に徹するというの?」


「本来の自分に戻れと仰るのであればそうします。ですがその場合、この姿も着替えさせていただきますがね」


「そう。なら、私ももうしばらくその姿の貴方を愉しみたいから今はやめておきましょう。……所で」


「はい?」


「なぜ左眼に眼帯をしているの? 眼はもう治っているはずでしょう?」


「眼は確かに治りました。ですが傷跡はそのままです。化粧で隠せるかも試したのですが、どうしても薄っすらと見えてしまいますのでそれを隠すためのやむを得ない処置です。この姿で傷のある顔を見せるのは私個人としては嫌ですので」


「そう。まあ、その姿の貴方も悪くないわ。食事会の間、せいぜい私を愉しませてちょうだい」


「無論です。……さて、おふざけはこのくらいにしましょうか。それでは皆さん。どうぞ中へ。折角の料理が冷めてしまいますよ?」



あくまでもこの場においては零治は狼夏という女性を演じ続けるつもりでいるのだ。普段の自分、つまり零治という一人の男性に戻れというのであればそうするが、それを言われない限りはあくまでも狼夏という偽りの女性を演じ続け、今夜の食事会を華琳達に楽しんでもらう。それが今の零治の考えなのだ。零治は狼夏という一人の女性の演じを徹しながら華琳達を伴って今夜の食事会の会場である玉座の間を優雅に歩き、彼女達をテーブルへと案内した。



「はい。魏の皆様はこちらのお席をご利用くださいませ」


「ありがとう」



華琳も目の前の女性が女装した零治ではなくあくまでも狼夏という一人の女性なのだと言い聞かせながら会釈をして席に着き、春蘭達も続いて着席した。華琳達が使用しているテーブルの横を素通りして亜弥が蜀の面々を、樺憐が呉の面々を先導してテーブルへと案内していく。



「はい。蜀の方々はこちらの席になりますよ。どうぞお好きな席に着席ください」


「ありがとうございます。亜弥さん」


「はぁい。呉の皆さんはこちらの席になりますわぁ」


「どうもね~」



参加陣営は三国だが、蜀のメンバーは呂布や孟獲などと他国から加わっている人間も居るので魏や呉と比較すると人数は圧倒的に多い。そのため急遽蜀のメンバーが使用するテーブルはもう一つ追加して二つ用意し、玉座の間の中央に各テーブルで四角形を描くように配置している。参加者全員が席に着いたので、零治がテーブルが並んでいる中央の空間に立ち、狼夏を演じながら食事会のルールの説明を始めた。



「はい。皆さん席に着いたようですので、今夜の食事会の決まり事を説明させていただきますね」


「ええ~? 兄ちゃん、ボクもうお腹ペコペコなんだけどぉ……」


「兄ちゃん? ふふふ。許褚さん、何のご冗談ですか? 私は『女』ですよ?」


「えっ? えぇっと……」



零治の予想外な反応に季衣はどう言えばいいのか困って言葉に詰まってしまい、その様子を見かねた隣の席に座っている流琉が肘で季衣の脇腹を突っつき、彼女がこちらを向くとちょいちょいと手招きをして耳打ちをした。



「季衣、駄目だって。今の兄様は狼夏って女の人になりきってるから普段通りに話しても人違いって言われるだけだから」


「え~? じゃあどうすればいいのさ?」


「目の前に居るのはあくまでも狼夏って名前の女の人。そう思って話すしかないわね」


「どうかなさったのですか?」


「えっ!? あぁ、えっと……ううん! 何でもないです……」


「そうですか。では続けさせていただきます。お腹を空かせているのは承知していますが、もう少しだけ私にお付き合いください」


「は~い……」


「おほん。では改めまして。皆さんが使用している卓の右手側に、こちらで用意した取り皿と料理の大皿を載せた卓をご用意しています。そちらで専用の器具を使ってお好きな料理をお取りください」


「ふむ。私達が自分で料理を取りに行くの? 変わった提供のし方ね」


「こちらの世界では馴染みの無い形式ですが、私達の世界では大勢の人に料理を同時に提供する方法として一般的です。また、私達だけで皆さんの注文を受けてから料理を提供するというのは無理がありますのでこの方法を取らせていただきました。全員に出来たての提供は難しいですがそこはご理解ください」


「構わないわ。天の国の料理だけでなく、その食事の形式も楽しめるのならば、私達の世界でも今後の食事会での参考になるから実に有益な時間と言えるわ」


「恐れ入ります。曹操様」



最初は難色を示されるのではないかと思っていたが、華琳がすぐにこちらの事情を理解してくれたので、零治は狼夏という一人の女性を演じながら恭しく一度お辞儀をして最大限の感謝の意を示し、今夜の食事会の説明を続けた。



「それと大皿の料理ですが、皆様に行き渡るようにちゃんとおかわりも用意してあります。くれぐれも取り合いなどの喧嘩はなさらぬように。それと列への割り込み、及び大皿をそのまま持って行くのも厳禁です。こちらが注意してもそれらを聞けないようであれば、問答無用で会場から追い出させていただきますので悪しからず」


「鈴々ちゃん。聞こえた? 喧嘩や独り占めは駄目だよ?」


「季衣。分かったわね? くれぐれも今夜の食事会を台無しにするような真似はしないでちょうだいね?」


「にゃ! 桃香お姉ちゃん酷いのだ! 鈴々、そんな事しないのだ!」


「華琳様! 今のはいくらなんでも酷すぎますよぉ!」


「ふふふ。はいはい。お静かに。私の話はまだ終わっていませんよ」


「あうっ……ごめんなさいなのだ」


「は~い」


「どうも。さて、料理の方ですが、あちらの大皿だけでなく私と樺憐がそれぞれ特別な料理をその場で調理して皆さんに提供する予定です。ただし、こちらは材料や調理工程の関係上おかわりの用意できる物もあればできない物もありますのでご理解ください」


「じゅるっ……特別な料理。どんなのが出てくるんだ?」


「翠姉様。よだれが口から溢れてるよ……」



特別な料理という単語に食いしん坊の張飛や翠、季衣などは口からよだれが滝のように溢れ出ており、まだ見ぬ料理に想いを馳せている。その様子に零治はまるで女性のように口元に右手を当てて優雅な笑みをこぼす。ここまで演技が徹底していると目の前の女装をした零治が本当に女性であると誰もが思わされてしまうだろう。



「はいは~い。お姉さんにしつも~ん」


「はい。どうぞ。孫策様」


「……なんか調子狂うわね」


「お気になさらず。それでどういったご質問ですか?」


「料理の事は一通り分かったわ。その料理に合わせるお酒はどうなっているの?」


「そちらも抜かりはありませんよ。用意した料理に合うお酒を皆さんの卓に大瓶でご用意いたしますので。また、それ以外にもお望みでしたら私が受け持つ調理台までお越しいただくか、亜弥達にお申し付けくださればこちらでご用意いたします」


「その口ぶりだと種類は豊富って事?」


「無論です」


「あらあら。期待しちゃうじゃない。なんなら今夜全部呑み尽くしちゃおうかしら?」


「雪蓮。明日は大事な決戦を控えている事を忘れるなよ」


「分かってるわよ。ほんと冥琳は堅いんだから」


「ふふふ。最後に空になった食器類ですが、給仕として亜弥達が皆さんの卓を回って回収いたします。もしくはご自分の手で私か樺憐の調理台まで持ってきていただいても結構です。取り皿は余分の用意してありますので、次の料理を取る時はそちらをご使用ください」


「なるほど。そうする事で常に皿は新しい状態だから、別の料理を取っても前に取った料理の味が移る心配も無いという事なのね。実に合理的だわ」


「ありがとうございます。曹操様。……さて、ここまでで何かご質問などはございますでしょうか?」



狼夏として零治は席に着いている参加者達に質問がないか問いかけるが、誰も何も言わない。というよりも、これ以上は待ちきれないから早く食事にありつきたいがために敢えて質問はしない。分からない事があったら食事会が始まってから訊けばいい。その一心で誰も何も言わないのかもしれない。零治もこれ以上華琳達を待たせるのは本意ではないので、食事会の開催を宣言する事にした。



「ふふふ。皆さんもう待ちきれないようですね。では難しい話は終わりにして、そろそろ食事会を始めましょうか」



ようやく主催者からのお許しが出たので全員が席から一斉に立ち上がり、料理の大皿が待っている卓へ向かおうとしたその時だった。零治は最後に一つだけ華琳達に聞いてほしい事があるので、おもむろに口を開いて落ち着いた口調で皆に語りかけた。



「っと、その前に最後に一つだけ皆さんにお願いがあります。お時間は取らせませんので聞いてください」


「お願い? 零治さん、急に改まってどうしたんです?」


「零治さん? 劉備様、私の名は狼夏ですよ?」


「あっ、あははは……。ごめんなさい。つい間違えちゃって。それで私達にお願いって何ですか?」


「難しい事ではありません。ただ、一度手に取った料理は残さず完食してほしい。自分で食べきるのが無理なら人にあげてもいい。とにかく残さず食べてほしいのです」



華琳達は零治の口から告げられた思いも寄らない、というよりは至極当たり前の事を言われて全員互いに顔を見合わせて怪訝な表情になった。料理を残さず食べるなど、どこでも当たり前の事だ。ましてやこの世界では何がきっかけでその日の食事にも困るような事態に直面するとも言い切れない。零治もこの世界での生活が長いから自分達が食べ物の有り難みを身に沁みて分かっている事も理解しているはず。なのになぜわざわざこんな当たり前の事をお願いするのか華琳が問いかけた。



「狼夏。わざわざそんな分かりきった事を私達にお願いするのには何か理由があるの?」


「私達『人』という種族は何かを犠牲にしてその命を繋いでいます。日々の生活はもちろん、そして食事に関してもです。皆さんならこんな事は当然ご存知かと思いますが」


「ええ。無論よ」


「今回の料理に使用した肉や魚、野菜類に至るまで全ては『命』。その命を頂くからには全てを無駄にせずに食する。それが料理になってくれた動植物達への、ひいてはその料理を作ってくれた人に対する最大限の感謝となるのです」


「そうね。私もその点には同感だわ」


「なんだかそんな話を聞かされると、私達って物凄く罪深い人みたいに思えてきちゃうわね」


「えぇっと、つまり狼夏さんは私達に好き嫌いはするなって言いたいんですか?」


「それももちろんありますが、一番の理由は……食べ物を粗末にするのは人としての最低の行為であり、料理に対する冒涜であると私は考えています。そんな真似をする輩は例え王であろうとも私は決して許しません」


「あらあら。狼夏、そんな怖い顔をしては折角の美人が台無しよ?」


「っ! おほん! 失礼。……まあ、私が言いたいのは『命』に対して日々の感謝を忘れずに、そして今夜の料理を無駄にせずに楽しんでもらいた。それだけです」


「狼夏。安心なさい。ここに居る者全員が貴方と同じ考えよ」


「私も華琳と同意見よ。まあ、最後の部分は少し極論な気もするけれどね」


「狼夏さん。私達も華琳さんや雪蓮さんと同じです。今夜の料理も残さず食べきりますよ。もちろん、料理になった食材と狼夏さん達への感謝も忘れずに」


「ありがとうございます。さて、では改めまして食事会を始めましょう。さあ皆さん、今夜は私達の世界の料理と酒を存分に愉しんで英気を養ってください」



零治がパンっと手を叩き、食事会の開催を宣言した。それを合図に三国の首脳陣達は料理の並んでいるテーブルへと群がり、あっという間に行列が出来てしまう。これでは最初の料理が瞬く間に無くなってしまうのも時間の問題だろう。先日は三国の首脳陣達の特訓と試験で多忙な一日だったが、今夜は彼女達をもてなすための多忙な日が始まるのであった。

零治「また随分と間が空いたな」


亜弥「もはや恒例行事ですね」


作者「言い訳はしません。でもその分長文の内容だからそれで勘弁して」


奈々瑠「…………」


恭佳「ん? 奈々瑠、どうした? 顔が赤いよ?」


奈々瑠「はぁ……兄さんとの新婚生活。素敵……」


臥々瑠「奈々瑠、あれはあくまでも妄想だよ。そんなんで満足なの?」


樺憐「あらあら。なら臥々瑠は現実がいいのねぇ?」


臥々瑠「っ! い、いや、今のはそういう意味で言ったわけじゃ……っ!」


零治「あぁもう。奈々瑠の妄想とはいえ、なんであんな内容を話しに加えたんだ」


作者「最初は書くつもりは無かったんだが、その方が面白いと思ってな」


零治「……まさか現実になったりしねぇよな?」


作者「さあ? どうでしょうね」


亜弥「所で今回のサブタイトル、なぜ『再び』というワードを使ったんです?」


恭佳「確かに。ここは『Part3』じゃないの?」


作者「狼夏メインの話ならそうしていたが、そうじゃないし華琳達との再会の意味も入れてこうしたまでだ」


亜弥「なるほど」


作者「という事で、次回は狼夏として頑張ってくれよ? 我らが主人公さんよ」


零治「あぁ、その日は予定があるんで無理だわ。姉さんにでも代役を頼んでくれよ」


狼華「父上。伯母上に面倒事を押し付けて現実逃避はしないでほしいですな」


恭佳「ああん!? おい! 今なんつったぁ!」


狼華「っ! あ、姉上!? 今のはただの言い間違いでして……っ!」


作者「ケンカなら他所でやってくれよ。では今回はこの辺で。次回をお楽しみに」

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