湿った誘い
学問の世界とは、静かなる戦場だ。論文の引用数、学会での発表、そして、誰も足を踏み入れたことのないフィールドワーク。若手の民俗学者である僕、篠田雅彦は、その戦場で、焦っていた。
博士課程を終えて大学の非常勤講師の職を得たものの、そこから先への道筋は見えない。インパクトのある研究成果を出し、常勤のポストを得なければ、いずれアカデミックの世界から弾き出される。そんな焦燥感が、僕を常に駆り立てていた。
そんな時、僕は、その村の存在を知った。
神保町の古書店で、埃をかぶった郷土史の束の中から見つけた、一冊の私家版の冊子。大正時代に書かれた、ある旅人の手記だった。そのほとんどは、紀伊半島の山々を巡る退屈な記録だったが、最後の数ページに、奇妙な記述があった。
『…この先の谷は、里人ら「湿り谷」と呼び、近づくことを固く禁ず。谷には、一年を通して霧雨が止むことなく、陽の光さえ届かぬという。その奥に、古き民の住まう村ありと聞くが、その姿を見た者はいない。彼らは、時の流れから取り残され、老いることなく生き続ける「常若の民」であると、里人らは囁く。あるいは、それは、人ならざるものへの畏怖が生んだ、迷信に過ぎぬのかもしれぬが…』
湿り村。常若の民。
僕の心臓が、高鳴った。これだ。近代化の波から完全に取り残され、地図にさえ載っていない、失われた村。もし、今もその村が存在し、独自の信仰や生活様式を保っているとしたら? それは、民俗学における世紀の大発見になるかもしれない。
僕は、憑かれたように、その村に関する調査を始めた。しかし、情報は皆無に等しかった。国土地理院の地図にも、該当する地域に集落の記号はない。古い文献をいくら漁っても、あの手記以上の記述は見つからなかった。まるで、世界そのものが、その村の存在を隠しているかのようだった。
だが、それが逆に、僕の野心に火をつけた。これは、僕にしかできない研究だ。指導教官や、鼻持ちならないライバルたちの度肝を抜いてやる。
数ヶ月にわたる調査の末、僕は、手記の記述と古い地形図を照らし合わせ、おおよその場所を特定した。最寄りの集落から、舗装されていない林道を十数キロ進み、そこからさらに、道なき山道を半日以上歩かなければたどり着けない、まさに陸の孤島だった。
準備を整え、僕は一人、その村を目指した。大学には、個人的な調査旅行だとだけ告げた。この獲物は、誰にも渡したくなかった。
林道の終点に車を停め、山道に足を踏み入れた瞬間から、空気が変わった。それまで聞こえていた蝉の声が遠のき、代わりに、しっとりとした静寂が支配する。木々の幹は、ビロードのような深い緑色の苔に覆われ、足元の腐葉土は、たっぷりと水分を含んで、僕の登山靴を優しく、しかし、ねっとりと受け止めた。
歩き始めて三時間が過ぎた頃だろうか。ポツリ、と額に冷たいものが落ちてきた。雨だ。見上げると、木の葉の隙間から見える空は、いつの間にか、均質な灰色の雲に覆われていた。天気予見では、今日は一日晴れるはずだった。
それは、天気雨と呼ぶにはあまりに静かで、霧と呼ぶにはあまりに肌を濡らす、奇妙な雨だった。糸のように細く、絶え間なく、音もなく降り注ぐ。周囲の木々は、その霧雨に濡れて、より一層、深く、濃い緑色になっていく。
そして、僕は、それを見つけた。
獣道のような斜面を登りきった、その先に、それはあった。深い谷の底に、まるで世界の底に沈殿するようにして、数軒の茅葺き屋根の家々が、身を寄せ合って存在していた。
湿り村。
村全体が、乳白色の霧に包まれていた。家々の壁は黒ずみ、苔生している。そのどれもから、生活のかまどから立ち上るはずの煙は見えない。人の気配が、全く感じられなかった。ただ、村の中央に立つ一本の巨大な杉の木だけが、天を衝くように、圧倒的な存在感を放っていた。
僕は、ゴクリと唾を飲み込み、谷底へと続く、苔むした石段をゆっくりと下り始めた。一歩、村に近づくごとに、湿度が、そして、植物と土が発酵するような、甘く重い匂いが濃くなっていく。
村に足を踏み入れた。地面はぬかるみ、歩くたびに「じゅく」という湿った音がする。家々は、人の住んでいる気配がないのに、不思議と荒廃してはいなかった。まるで、ついさっきまで誰かがいたかのような、静かな生活感だけが漂っている。
「ごめんください」
一番手前にあった家の、開け放たれた戸口に向かって、僕は声をかけた。返事はない。家の中を覗くと、囲炉裏には灰が積もり、壁には農具がかけられている。土間には、子供のものだろうか、小さな草履が揃えて置いてあった。
その時、背後に、人の気配がした。
ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、腰の曲がった一人の老婆だった。藍染のもんぺを履き、頭にてぬぐいを巻いている。その顔は、深い皺に覆われていたが、奇妙なことに、肌は、まるで蝋細工のように、つるりとして血の気がなく、じっとりと濡れていた。
「…どちら様かのう」
老婆の声は、水を含んだ綿のように、くぐもって聞こえた。
「あ、僕は、民俗学の研究をしている篠田と申します。こちらの村の歴史や、暮らしについて、お話を伺えないかと思いまして…」
僕の言葉に、老婆は、表情を変えなかった。焦点の合わない、濡れた黒曜石のような瞳で、僕の向こう側、霧の立ち込める森の奥を、じっと見ているかのようだった。
「まあ…旅のお方か。ようおいでなすった。こんな、何もない村へ」
老婆は、ゆっくりと僕に歩み寄ってきた。その動きは、まるで水中の生物のように、滑らかで、音もなかった。
やがて、他の家々からも、一人、また一人と、村人たちが姿を現した。老人、壮年の男、若い女、そして子供たち。その誰もが、あの老婆と同じだった。血の気の失せた、蝋のような肌。濡れた瞳。そして、人間離れした、静かな佇まい。
彼らは、僕を遠巻きに囲んだ。敵意はない。かといって、歓迎しているわけでもない。ただ、珍しい生き物を観察するかのように、じっと、僕を見つめていた。その無数の視線に晒され、僕は、自分の身体の表面が、村の湿った空気に、少しずつ溶け出していくような、奇妙な感覚に囚われた。
「さあ、お入りなされ。雨は、体に毒じゃからのう」
老婆が、しわがれた手で、僕の腕を掴んだ。その手は、氷のように冷たく、そして、驚くほど、ぬめりとしていた。
僕は、抗うことができなかった。彼らの静かな圧力と、この村全体を支配する、抗いがたい停滞の空気に、なすすべもなく、飲み込まれていくしかなかった。この時、僕はまだ、この村の本当の恐ろしさを、そして、「溶け合う」ことの、甘美な絶望を、知らなかったのだ。