第4話 地脈は王都へ引かれている
フィーネの手が止まりかけた。
「分かるのですか」
「フェンリシアでも使っている。精度は低いがな」
「なら、その針を見ていてください」
「何をする」
「王都を指さなくなったら言って」
フィーネは三本目の杭を抜いた。代わりに、別の位置へ一本打つ。光が走る。測定針が震えた。
「まだだ」
「分かっています」
二本目。フィーネの指先から血が落ちる。石床へ滲む。ユーフェミアの眉が寄る。
「手を替われ」
「無理です」
「やり方を言え」
「殿下にはできません」
「決めつけるな」
「古代語が読めますか」
「少しは」
「この術式は?」
「読めない」
「では無理です」
「腹が立つな」
「今それを言います?」
フィーネが最後の触媒を溝へ押し込む。光が、一度、強く弾けた。ユーフェミアは測定針を見る。針が回る。王都。西。北。また王都。そして、ゆっくり。王都とは反対の方角へ傾いた。
「変わった」
「どちらへ」
「外だ。王都から離れる向きへ」
フィーネが息を止める。次の瞬間。祠を満たしていた紫色が消えた。青白い光だけが、古い溝を静かに走る。地鳴りも止まった。森に、虫の声が戻る。フィーネはその場に座り込んだ。肩で息をしている。
「......よかった」
小さな声。ユーフェミアは測定針を見た。さっきまで暴れていた針が、今は、一定の方向で静止している。王都ではない。森の奥へ、さらに外へ、流れている。
「お前」
フィーネが顔を上げる。
「これを壊していたんじゃないな」
沈黙。
「流れを戻していた」
フィーネは答えなかった。だが、否定もしなかった。ユーフェミアは祠を見る。崩れた石。古い溝。打ち直された杭。新しく埋められた触媒。そしてフィーネの手。指先には、今日ついたものではない小さな傷がいくつもあった。道具も新しくない。何度も使われている。金属の柄が擦れ。布袋には補修跡。これは。
今夜思いついて始めた作業ではない。
「いつからやっている」
「......」
「一度や二度ではないな」
「殿下」
「何だ」
「腕」
言われて見る。ユーフェミアの右手首に、小さな火傷のような赤い痕があった。さっきの魔力が掠めたらしい。
「これくらい何でもない」
「座ってください」
「お前の方が怪我をしている」
「私は慣れています」
ユーフェミアの視線が鋭くなる。
「今、何と言った」
フィーネが止まる。
「......何でもありません」
「慣れていると言ったな」
「聞き間違いです」
「誤魔化すのが下手だと言った」
「殿下はしつこいですね」
「ああ」
「認めるのですか」
「必要ならな」
フィーネは諦めたように息を吐いた。小さな救急布を取り出す。
「手を」
「先に自分をやれ」
「殿下」
「ラグランジュ嬢」
低く。逃げ道を塞ぐように呼ぶ。フィーネの動きが止まった。紫の瞳がこちらを見る。
「何ですか」
「血が出ている」
「見れば分かります」
「なら手当てしろ」
「殿下の方が先です」
「なぜ」
「私のせいで巻き込んだからです」
「違う」
「違いません」
「勝手についてきたのは私だ」
「だからといって」
「それに」
ユーフェミアは一歩近づいた。
「お前は、自分より先に私を押し出した」
フィーネの目が僅かに揺れる。
「反射です」
「そうか」
「そうです」
「なら反射で人を庇う女が、噂通りの冷酷な悪女ということにしておくか」
フィーネの眉間に皺が寄った。
「皮肉ですか」
「事実確認だ」
「性格が悪いですね」
「お前に言われたくない」
一瞬、フィーネの口元が、本当に僅かに動いた。笑ったのか。呆れただけなのか。分からない。すぐにいつもの無表情へ戻る。
「座ってください」
「お前もだ」
「......では、両方」
「最初からそう言え」
二人は祠の外側の石へ腰を下ろした。フィーネがユーフェミアの手首へ薬を塗る。指先は冷たい。手当ては慣れていた。それも、あまり良い意味ではないのだろう。
「痛みますか」
「別に」
「我慢している人の返事ですね」
「お前に言われたくない」
「二度目です」
「覚えていたか」
「私は記憶力がいいので」
「知っている」
フィーネの手が止まる。
「なぜ知っているのです」
「昨日、搬入記録を一度見ただけで、銀箱の番号を覚えていた」
フィーネは何も言わない。包帯を結ぶ。ユーフェミアは彼女の左腕を見る。
「次」
「結構です」
「手を出せ」
「必要ありません」
「出せ」
「殿下」
「二度言わせるな」
数秒の睨み合い。先に折れたのはフィーネだった。
「......横暴ですね」
「知っている」
「王族がそれを認めないでください」
フィーネが腕を差し出す。裂けた袖を少し上げる。傷は深くない。だが範囲が広い。ユーフェミアは薬を塗る。フィーネの肩が小さく動いた。
「痛いか」
「別に」
「我慢している人の返事だな」
「......性格が悪い」
「三度目だ」
フィーネが黙る。ユーフェミアは包帯を巻きながら、祠を見る。
「さっきの流れ」
「はい」
「王都へ吸われていた」
フィーネの表情が硬くなる。
「測定針がそう示した」
「簡易器具でしょう」
「だから断定はしない」
「では」
「だが、フェンリシアで起きている異常と似ている」
フィーネは視線を落とした。
「魔晶石の品質低下。結界出力の低下。水脈の減少」
「......」
「昨日の会談で、レグリア側は関係ないと言った」
「私は政府ではありません」
「知っている」
「なら私に言われても」
「お前は何か知っている」
「知りません」
「今夜ここで地脈を触っていた女が言っても説得力がない」
「......」
「しかも、初めてではない」
ユーフェミアはフィーネの道具袋を見る。
「その工具。使い込まれている」
「物持ちがいいだけです」
「指の傷」
「不器用なので」
「夜間通行。門番は月に何度も見ていると言った」
「殿下」
「何だ」
「門番に聞いたのですか」
「ああ」
「......本当に面倒な方ですね」
「四度目だ」
「数えているのですか」
「今からでもやめるか?」
「いいえ。事実ですので」
フィーネは立ち上がった。道具を片づけ始める。一本ずつ。位置を確認しながら、ユーフェミアも立つ。
「この祠は何だ」
「古い水源保全施設です」
「大元の環路そのものではありません。流れを読むための古い支点です」
「それだけか」
「それだけです」
「さっきの術式は」
「古いものです」
「なぜ王都へ流れが逆転している」
「知りません」
「なぜお前が直せる」
「少し勉強しました」
「少し?」
フィーネは答えない。折り畳んだ紙を道具袋へ入れる。その瞬間。一枚だけ。風にめくれた。ユーフェミアの目に、円が見えた。一つ。二つ。三つ。もっとある。そのうち幾つかには線が引かれている。フィーネはすぐに紙を閉じた。
「今のは」
「何でもありません」
「何か所ある」
「殿下」
「ここだけではないんだろう」
沈黙。フィーネはフードを被った。
「帰ります」
「答えろ」
「お断りします」
「ラグランジュ嬢」
「殿下」
彼女が振り返る。月明かりの下。灰銀の髪が外套から少しだけこぼれていた。冷たい顔。拒絶する目。けれどユーフェミアは、もう昨日までと同じようには見られなかった。この女は、人目を避け。誰にも褒められず。自分の手を傷だらけにして、何かを直している。しかも、それを知られたくない。
「一つだけ聞く」
「......何でしょう」
「お前がこれを続ければ、フェンリシアの地脈は戻るのか」
フィーネの瞳が揺れた。今までで一番大きく。それだけで、十分だった。
「関係があるんだな」
「私は何も言っていません」
「顔が言った」
「殿下に表情を読まれた覚えはありません」
「今、覚えろ」
「嫌です」
即答だった。ユーフェミアの口元が少し緩む。
「では、もう一つ」
「一つだけでは?」
「気が変わった」
「横暴」
「五度目だ」
「それは性格が悪いの回数でしょう」
「そうだったか」
フィーネは明らかに疲れた顔をした。
「何ですか」
ユーフェミアは祠を指す。
「説明しろ」
フィーネはしばらく黙った。森の風が、二人の間を抜ける。やがて、彼女は静かに答えた。
「......嫌です」
「そうか」
「諦めていただけますか」
「いや」
「でしょうね」
「明日また聞く」
「明日は会いません」
「なら会いに行く」
「外交問題になりますよ」
「ナディアにも言われた」
「側近の言うことは聞いてください」
「必要なら聞く」
「今が必要です」
「それはお前が決めることではない」
フィーネが目を細める。
「では、殿下が決めるのですか」
その言い方に、何かがあった。ただの嫌味ではない。ユーフェミアは一瞬、返事を止める。
「......少なくとも、お前の秘密を勝手に公表はしない」
フィーネの目が少し見開かれた。
「だが、私の国に関わるなら調べる」
「それでは困ります」
「困れ」
「ひどい方ですね」
「六度目か?」
「もう数えなくて結構です」
フィーネは馬の方へ歩き出した。ユーフェミアも続く。
「ついてこないでください」
「帰る方向が同じだ」
「殿下の馬はあちらでしょう」
「よく見ているな」
「尾行されていましたから」
ユーフェミアの足が止まる。
「いつ気づいた」
フィーネも止まる。顔を向けないまま答えた。
「小門を出る直前には気づいていました」
「......何?」
「隠れるのが下手です」
「ならなぜ撒かなかった」
「撒いたら、もっと追ってくると思いました」
正解だった。ユーフェミアは認めざるを得ない。
「それに」
フィーネが少しだけ顔を横へ向けた。
「殿下が、どこまで見ているのか確認したかったので」
今度はユーフェミアが黙る番だった。
「お前」
「何でしょう」
「思ったより性格が悪いな」
「存じております」
その返事だけは、少しだけ。楽しそうに聞こえた。
◇
王都へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。小門で馬を返す。門番は何も聞かなかった。ユーフェミアも何も言わない。ラグランジュ邸へ向かう道と、王宮へ向かう道が分かれる。フィーネが立ち止まった。
「今夜のことは」
「言いふらす趣味はない」
「昨日も聞きました」
「なら覚えているだろう」
「記憶力がいいので」
「そうだったな」
フィーネは小さく一礼した。
「では」
「待て」
「まだ何か?」
「傷は明日も手当てしろ」
「セリアがします」
「食べてから寝ろ」
「なぜそこまで」
「倒れられると困る」
フィーネが無言になる。ユーフェミアは続けた。
「地脈の話を聞けなくなる」
「......そういう意味ですか」
「他に何がある」
「何もありません」
なぜか少しだけ声が冷たくなった。ユーフェミアには理由が分からない。
「では、失礼いたします」
「ああ」
フィーネが歩き出す。今度は呼び止めなかった。黒い外套が、夜の道へ消えていく。ユーフェミアはその背中を見送った。昨日。噂は信じないと決めた。今夜。自分の目で見た。フィーネ・ラグランジュは確かに隠し事をしている。夜中に王都を抜け出し、誰も知らない古い祠で、国の地脈へ触れている。十分に怪しい。
十分に危険だ。それでも、少なくとも一つ。分かったことがある。あの女は、壊しているのではない。直している。そして、魔力が暴れた瞬間。何の迷いもなく。自分より先に、ユーフェミアを守った。
「......面倒なのは、どちらだろうな」
ユーフェミアは小さく呟いた。答える者はいない。
◇
「殿下」
王宮西棟へ戻ると、ナディアが扉の前に立っていた。腕を組んでいる。笑っていない。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
「怒っているか」
「いいえ」
「嘘だな」
「私は殿下と違って、散歩だとは申しません」
ユーフェミアは部屋へ入る。ナディアも続いた。
「それで」
「何だ」
「何がありました」
「少し怪我をした」
ナディアの顔色が変わった。
「殿下」
「軽い」
「見せてください」
手首を見せる。包帯。ナディアが目を細めた。
「これ、殿下が巻いたのではありませんね」
「ああ」
「誰が」
「ラグランジュ嬢」
沈黙。
「......ずいぶん、あの令嬢を気にかけていますね」
「そこか?」
「大事でしょう」
「大事ではない」
「そうですか」
「何だ、その顔は」
「別に」
ナディアは包帯を確認する。
「怪我は本当に浅いですね」
「ああ」
「では、本題です」
顔を上げる。
「ラグランジュ令嬢は、何をしていたのです」
ユーフェミアは窓の外を見る。王都の灯り。その先にある、暗い森。青白く光った古い術式。王都へ吸われていた流れ。それを逆へ戻したフィーネ。
「まだ分からない」
「またそれですか」
「だが」
ユーフェミアは言った。
「次は本人から聞く」
「話すと思います?」
「話させる」
「脅します?」
「いや」
「では?」
ユーフェミアは少し考える。命令すれば、立場を使えば、外国王女として圧力をかければ、情報を引き出す方法はある。だが、なぜか。それは違う気がした。
「......説明しろと言う」
「それだけ?」
「ああ」
「断られたら?」
ユーフェミアは、祠での最後のやり取りを思い出した。説明しろ。嫌です。
「また聞く」
ナディアが長く嘆息した。
「殿下もしつこいですね」
「ああ」
「そこは認めるんですね」
「必要ならな」
ユーフェミアは窓から離れた。明日。またフィーネに会う。理由は地脈調査だ。それ以外ではない。今は、少なくとも、そういうことにしておいた。




