第28話 聖獣は誰のものでもない
白天狐アルヴァの七尾のうち、一本に光が戻った。その報告を聞いた瞬間、フィーネは、勝った、とは思わなかった。思えなかった。
「王都の結界は」
最初に出た言葉は、それだった。
大逆評議廷の法廷、ざわめく傍聴席、消えた金色の街灯、薄くなった大聖堂の光。人々の顔には恐怖が浮かんでいる。今まで奇跡があることを前提に暮らしてきた。それが目の前で消えたのだ。当然だった。
「通常結界班から報告」
通信担当の司法官が次の板を受け取る。
「東門、切替完了。出力は平時基準の8割6分」
「南治療院、備蓄魔晶石へ移行。重症区画を優先して運用中」
「中央水路、地脈供給低下。機械式揚水機を併用。断水なし」
フィーネはゆっくり息を吐いた。全部、事前に準備していたものだ。エルマの治療院、レオナールが押さえた備蓄、ユーフェミアが猶予を取った間に積み増した魔晶石、通常結界術師の臨時配置、物流倉庫の優先開放。奇跡がなくなったから突然、別の奇跡が生まれたわけではない。人が準備したものが動いている。
「西区の街灯は3割消灯」
司法官が続ける。
「ただし夜間警備灯を優先して再配置。衛兵巡回を増員」
「北区診療所、混乱あり。負傷者はなし」
「祭礼広場では、群衆を順次退避させています」
完璧ではない。不便も出る。混乱もある。それでも、街は立っている。
「......よかった」
声が漏れた。隣でユーフェミアが小さく頷く。
「まだ終わっていない」
「分かっています」
「なら座れ」
「必要ありません」
「手が震えている」
言われて、フィーネは自分の手を見る。本当に震えていた。狐耳も、もう隠していない。さっき自分で外した《封耳環》は、机の上に置いたまま。視線が集まっていることは分かる。けれど戻す気にはなれなかった。今さら隠す必要がない。いや、隠さないと決めた。それだけだ。
「フィーネ」
ユーフェミアが低く呼ぶ。
「母上のところへ行きたいんだろう」
胸の奥が痛んだ。
「......はい」
「なら余計に座れ。地下へ行く許可が出るまでに倒れるな」
「命令ですか」
「助言だ」
「似ています」
「今日は選べ」
短い言葉。フィーネは一度だけユーフェミアを見る。ただ、あの夜、選ばせる、と約束した声だった。
フィーネは椅子へ座った。
「賢明だ」
「うるさいです」
ユーフェミアの耳が、ほんの少し立った。
*
地下への再入場許可が出たのは、七環同期開始から二時間後だった。その間に、王都の主要結界は通常方式へ切り替えられた。地脈値は、王都中心部で急落したあと、危険域の手前で安定。逆に郊外と西部観測所では、ごく小さいが上昇が確認された。花が咲いたわけではない。枯れ川が突然満ちたわけでもない。ただ数字が、初めて王都以外の方を向いた。今は、それで足りた。
地下へ向かう一行の先頭には、レグリア司法官が二人。その後ろに近衛騎士団長エドガー・ヴァラン、フィーネ、ユーフェミア、ナディア、必要最小限の技師と治療神官。全員、正式な《証拠保全命令》の範囲内だ。勝手に潜る必要は、もうない。
前回、暗い通路を、見つかれば終わりだと思いながら歩いた場所を、今は司法官の封印灯が照らしている。フィーネは不思議な気分だった。
「緊張しているか」
ユーフェミア。
「していません」
「耳」
「見ないでください」
「無理だ」
「なぜですか」
「隣にある」
腹が立つ。でも、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
封印区画の手前、焦げた匂いが残っていた。ナディアが扉脇の黒い跡を見る。
「さっき焼かれかけた記録箱です」
彼女の声は乾いていた。
「火は消しました。原本も半分以上無事です」
「セドリックは」
「拘束済み。司法官の監視下」
フィーネは頷く。それ以上、何も言わない。大神官が捕まったことより、今は扉の向こうが大事だった。
封印区画が開く。冷たい空気、白い光。そして巨大な狐。アルヴァ。七本の尾は、まだ床へ重く落ちている。そのうち一本だけ、ごく淡く、月明かりのような光を帯びていた。前に見た時より、呼吸が少しだけ深い。
フィーネは足を止める。聖獣。国の守り。奇跡の源。いくつもの呼び方が頭に浮かんだ。けれどどれも、アルヴァ自身の名前ではない。
「アルヴァ」
それだけ呼ぶ。大きな瞼が、ゆっくり開いた。銀に近い瞳。フィーネを見る。次にユーフェミアを見る。そして、また閉じる。今はまだ、それ以上の反応を返さなかった。
「フィーネ」
別の声。奥、祭壇調整室から。フィーネの全身が固まった。母がいる。今度は夢でも推測でもない。ミレイア・ラグランジュが、壁へ片手をついて立っていた。痩せている。顔色も悪い。けれど、生きている。
「お母様」
声がうまく出ない。走りたい。抱きつきたい。七年前の十二歳に一瞬で戻りそうになる。けれどミレイアは、先に右手を上げた。
「まだ」
フィーネが止まる。
「......まだ?」
「最後の固定を外す前に、流れを確認します」
母は母親の顔をしているのに、声だけは古代術式の技師だった。
「七環が戻っても、祭壇側に残留がある。急いで外せばアルヴァへ反動が戻ります」
「どれくらい」
「10分。長くても20分」
10分。七年待ったあとなら短い。短いはずなのに、フィーネには長すぎた。
「分かりました」
それでも答える。自分が母を助けたいからといって、母の判断を奪わない。あの時、地下へ置いて帰った時と同じ。今度は帰らなくていい。それだけが違う。
*
祭壇の切離しは、一つずつ行われた。聖庁技師が司法官の監視のもとで封印具を確認する。ミレイアが数値を読む。フィーネが魔力の流れを嗅ぐ。ユーフェミアは入口で退路と周囲を見ている。ナディアは記録担当と照合。誰か一人が、すべてを解決する仕事ではない。
「第二固定、解除」
低い振動。アルヴァの尾が、わずかに動く。
「流れ」
ミレイアが聞く。フィーネは目を閉じる。濃すぎる魔力。耳の奥が痛い。《封耳環》は外したまま、感覚抑制もない。でも前とは違う。流れが、王都だけへ突き刺さっていない。
「戻っています」
「偏りは」
「まだあります。けれど、固定された逆流ではありません」
「十分」
母が少し笑った。その笑い方が記憶と同じで、フィーネは目を逸らした。
「第三固定」
最後の金属環が、ゆっくり外れる。瞬間、空気が変わった。音ではない。光でもない。巨大な何かが、長いあいだ押さえ込まれていた肩を初めて下ろしたような、そんな感覚。
アルヴァが顔を上げる。七本の尾のうち、二本目にも、ほんの小さな光が走った。フィーネの頭の奥へ、言葉ではないものが触れる。重い。遠い。それでも意味だけは分かった。
――わたしを持つな。
フィーネは息を止めた。王家に、聖庁に、守人に、聖女に、誰かの所有物として扱われ続けた存在。
「......はい」
フィーネは答える。
「持ちません」
誰かが聖獣を得たわけではない。フィーネが新しい主になったわけでもない。ただ、拘束が外れた。アルヴァが自分でいる権利を、少し取り戻した。それだけだ。それでよかった。
「フィーネ」
また母の声。振り返る。ミレイアの膝が崩れた。
「お母様!」
今度は止める手はなかった。フィーネは走る。細い身体を抱き止める。軽い。あまりにも軽い。
「......大きくなったわね」
「七年です」
「そうね」
「遅すぎます」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
言ったのに、声が震える。
「今は」
もう一度、腕へ力を入れる。
「今は、帰ってください」
母の手が、フィーネの髪へ触れる。子どもの頃と同じ。狐耳を避けない。当たり前のように撫でる。
「ええ」
ミレイアはそっと瞼を伏せた。
「帰りましょう」
七年かかった。その言葉だけで、フィーネはまた泣きそうになった。泣かなかった。少なくとも、その場では。
*
地上へ戻ると、セリアが待っていた。彼女は、治療用担架に横たわるミレイアを見て、完全に動きを止めた。
「......奥様?」
ミレイアが薄く目を開ける。
「セリア」
「はい」
「まだ、フィーネに食事をさせてくれている?」
セリアの顔が一瞬で崩れた。
「......それを最初に聞きますか」
「大事でしょう」
「大事です」
涙を拭きながら、セリアはフィーネを見る。
「お嬢様」
「何ですか」
「今日から食事を抜いたら奥様にも報告します」
「なぜ権限が増えているんですか」
「援軍が帰ってきましたので」
ユーフェミアが横で、小さく息を漏らした。
「笑いましたか」
「別に」
「そうですか」
少しだけ、日常が戻った。
*
その日の夜、王都は暗かった。正確には、今までが明るすぎた。聖冠由来の街灯は止まり、通常魔晶石灯へ切り替えられた通りだけが必要な明るさを持っている。祭礼用の光塔は消えた。大聖堂を包んでいた金の膜もない。けれど、人は歩いていた。衛兵が巡回している。水売りが桶を運ぶ。治療院の窓には、青い通常灯が点いている。奇跡がなくても、国は一日目を越えた。
翌朝、西葡萄丘陵から、古い灌漑路の水位が数指分戻ったと報告。南港では、倉庫結界の出力低下が止まった。国境高原では、フェンリシア側とレグリア側の測定差が縮んだ。東大森林では、枯れかけていた結界杭の一本が、再び規定値へ近づいた。
どれも小さい。地味だ。民衆が歓声を上げるような奇跡ではない。フィーネには、その方が信用できた。
*
三日後、大逆評議廷の別件審理で、イルダリア・レグリアの王位と《聖女》称号の剥奪が決まった。セドリックは聖職を停止され、身柄を司法拘置へ移された。アレクシスの王位継承権も、審理終了まで停止。
これは拍手で終わる話ではなかった。書類が作られ、封印が押され、証言が記録され、責任が一つずつ分けられていく。フィーネは、その方がよいと思った。誰か一人を悪魔にして全部終わったことにするより、誰が何を知り、何を命じ、何を見逃したのか、記録へ残す方がずっと大事だった。
ミレイアの証言は、その中心になった。
治療院の一室。まだ起き上がる時間を制限されている母の前に、アレクシスが立った。フィーネは少し離れた窓際にいる。ユーフェミアも、さらに後ろ。これは、アレクシスが聞かなければならない話だった。
「あなたは」
アレクシスの声が掠れていた。
「本当に、七年間......」
「ええ」
ミレイアは穏やかに答える。
「祭壇の維持をさせられていました」
「母上は」
そこで言葉が止まる。
「母上は、知っていたのですか」
「知っていました」
短い、逃げ道のない返事。アレクシスの顔から色が引く。
「だが」
拳を握る。
「母上は、大疫病で人を救った」
「はい」
ミレイアは否定しなかった。アレクシスが顔を上げる。
「......否定しないのか」
「救われた方々がいるのは事実です」
母の声は静かだった。
「あなたのお母様が、その時に何もしていなかったとは言いません」
「では」
「ですが」
ミレイアは、そこで初めて少し強く言った。
「その事実は、七年の監禁を消しません」
アレクシスが俯く。
「私は......知らなかった」
「ええ」
「何も」
「知らなかったことと、確かめなかったことは、同じではありません」
フィーネは母を見る。厳しい。でも必要な言葉だった。
アレクシスは長い間、何も言わなかった。
「......分かりました」
やっと、それだけ言う。謝罪は、まだだった。今、簡単な一言で済ませる方が、きっと違う。
彼は部屋を出た。背中が、来た時より小さく見えた。
*
問題は、別のところからも来た。
「フィーネ様こそ、真の聖女なのでは」
最初に言ったのは、若い貴族だった。次に新聞が書いた。
《聖女女王の偽りを暴いた、白銀の狐姫》
《地脈を救った真の聖女》
《先代聖女の娘、奇跡を継ぐ》
どれも気持ちが悪かった。
王宮前の臨時説明会。記者の一人がまた聞く。
「ラグランジュ伯。では今後、聖女位を受けるお考えは」
「ありません」
即答した。
「しかし、あなたは七環を――」
「修復しました」
「聖獣を解放し――」
「解放に関わりました」
「ならば」
「それと聖女になることは別です」
記者が黙る。フィーネは狐耳を隠さず、まっすぐ前を見る。
「私はフィーネ・ラグランジュです。それ以上の肩書きは必要ありません」
静かになった。少し離れた場所で、エルマがほんの少しだけ笑った。彼女は聖教の神官だ。信仰を捨ててはいない。それでも、フィーネを聖女にしようとはしなかった。
「それでいいと思います」
あとで、エルマは言った。
「私は祈ります。フィーネ様は研究してください」
「命令ですか」
「お願いです」
「なら検討します」
宗教を壊す必要はない。人の祈りまで奪う必要はない。偽っていた仕組みを、偽っていたままにしない。フィーネはそう思うことにした。
*
イルダリアとの最後の面会は、王宮ではなく、司法庁の監視室で行われた。王冠はない。聖女の白金衣もない。簡素な濃紺の服。それでも、イルダリアは背筋を伸ばしていた。
フィーネとミレイア、二人で入る。ユーフェミアは扉の外に残った。頼めば入っただろう。でも、これは母と、母の旧友と、娘の話だった。
「ミレイア」
イルダリアが昔の友人の名を呼ぶ。
「生きていてくれて、よかったわ」
フィーネの尾が、強く床を打ちそうになった。止める。ミレイアは怒鳴らない。
「あなたが生かしていたのでしょう」
「ええ」
イルダリアも否定しない。
「あなたでなければ、祭壇を維持できなかった」
「それだけ?」
短い沈黙。
「......殺せなかったのも、本当よ」
ミレイアの表情が、少しだけ悲しくなる。
「それを慈悲とは呼びません」
「分かっているわ」
イルダリアは、窓のない壁を見る。
「でも、あの日」
声は、昔話をするように穏やかだった。
「疫病で、子どもが死んでいた。治療院の床まで人で埋まっていた。通常の浄化では間に合わなかった」
「覚えています」
「アルヴァから力を借りて、救えた」
「ええ」
「なら私は」
イルダリアの指が、膝の上で組まれる。
「同じ選択をしただけよ。国を守るために」
ミレイアは長く、友人だった女を見る。
「違います」
静かな声。
「一度、非常時に借りたことと」
一拍。
「返さずに奪い続けることは違う」
イルダリアの目が揺れる。
「救えた命があることと、奪い続けてよいことは同じではありません」
部屋が静かになる。フィーネは、その言葉を七年間、母が言いたかったのだと思った。
イルダリアは反論しなかった。認めたわけでもない。ただ、
「そう」
とだけ言った。その一言で足りた。裁くのはフィーネではない。法律と、記録と、これから続く審理だ。
フィーネはイルダリアに背を向ける。
「フィーネ」
呼び止められる。顔を向けない。
「あなたは、私を憎んでいる?」
少し考える。
「はい」
嘘をつく必要はない。
「ですが」
そこで、体をこちらへ向ける。
「あなたを憎むことに、私の残りの人生を使うつもりはありません」
イルダリアが、初めて何も返さなかった。
*
ミレイアが、ユーフェミアと正式に話したのは、それから五日後だった。
王都邸の小さな応接室。母はまだ、一日に歩ける距離を制限されている。それでも、自分の足で椅子まで来た。
ユーフェミアは、フェンリシア第一王女として礼をする。
「ミレイア・ラグランジュ殿。改めて、ユーフェミア・フェンリシアです」
「ええ。存じています」
母の目が鋭い。フィーネは嫌な予感がした。
「あなたが娘を助けてくださったことには、礼を言います」
「必要ありません。私も助けられています」
「では、先に言っておきます」
やはり、ミレイアは笑わなかった。
「私は、娘を次の王家の道具にするために七年耐えたのではありません」
フィーネの耳が、ぴんと立った。
「お母様」
「黙っていて」
「なぜですか」
「大事なところだから」
ユーフェミアは怒らなかった。不快そうにも見せなかった。
「当然です」
短く答える。
「私が決めることではありません」
ミレイアが、わずかに目を細める。ユーフェミアは続ける。
「フィーネが私を選ばないなら、それまでです」
フィーネの尾が、椅子の横で、ばし、と一度だけ床を叩いた。三人とも、その音を聞いた。
「......今のは」
「何もありません」
「フィーネ」
「ありません」
母が、七年ぶりに見るような顔で、フィーネを見る。
「なるほど」
「何がですか」
「いいえ」
「言ってください」
「嫌です」
ユーフェミアが、口元を僅かに緩めた。
「ユーフェミア様も笑わないでください」
「笑っていない」
「嘘です」
「お前の能力は嘘を見抜けない」
「そういう問題ではありません」
ミレイアが、今度こそ小さく笑った。その音を聞いて、フィーネは怒る気を失くした。
「......まだ信用はしません」
ミレイアが、ユーフェミアへ言う。
「構いません」
「王族ですから」
「はい」
「娘を泣かせたら」
「それは困る」
「なぜあなたが困るのですか」
フィーネが割り込む。
「私が困るからだ」
「意味が分かりません」
「そのうち分かる」
「分かりたくありません」
尾が、また動いた。母はそれ以上、何も言わなかった。
*
季節が少し進んだ。レグリア各地の地脈値は、ゆっくり戻り続けた。王都の華美な奇跡は戻らない。代わりに、通常結界の増設計画が始まった。治療院は、聖冠供給に依存しない薬剤と魔晶石の予算を組み直した。聖庁では、外部監査の準備が始まった。
アルヴァは、誰の使い魔にもならなかった。誰か個人の聖獣にはならないまま、拘束のない地下区画で体力を戻し、自分で動ける時を待っている。
フィーネは時々会いに行く。最初に会いに行った時、頭の奥へ届いたのは短い一語だった。
――フィーネ。
返ってきたのは、その一言だけだった。それからは、命令も祈りもせず、ただ報告をする。
「今日は南港の水位が戻りました」
とか、
「母は薬が苦いと文句を言っています」
とか、
「ユーフェミア様が帰国します」
とか。最後の報告だけ、声が少し小さくなった。アルヴァの尾が一本、ゆっくり動いた。笑われたような気がした。
「気のせいです」
返事はない。
数か月後、フィーネは一通の正式招待状を手に、フェンリシア王都フェルネリアの城門をくぐった。今日は、ユーフェミア・フェンリシアの戴冠式の日だった。




