第25話 証拠は紙に残る
三人目は、レオナール・レグリア。王室評議会副議長、五十一歳。地味な灰色の礼服で、今日も驚くほど華がない。しかし、彼が持ってきた紙は重かった。
「これは王室予算記録です」
レオナールが言う。
「聖冠祭壇関連、結界維持、魔晶石調達、地方補修費。過去七年分」
「機密では?」
アレクシスが問う。
「評議廷の提出命令により開示可能な範囲を出しています」
「何が分かる」
「まだ結論ではありません」
レオナールは即答した。
「相関です」
フィーネは少しだけ安心した。この男は変わらない。疑惑です、証拠に変えましょう。そう言っていた男だ。
「大規模奇跡が行われた年度と、その直前の祭壇関連予算増額が一致する」
書面を指す。
「同時期に、地方の結界補修費と河川維持費が増えている」
「地方の老朽化は珍しくない」
「その通りです」
「では」
「珍しくないからこそ、全国規模で同じ方向へ動くなら確認が必要です」
別の表を示す。
「北鉱山。東部森林。南部港湾。西部水路。そして国境側」
「何を言いたい」
「私は、まだ誰が犯罪者だとも言っていません」
レオナールの声は平坦だった。
「ですが、被告が主張する地脈悪化と、王室予算の変動が無関係だと断定することもできません」
七席の一人が問う。
「原本はどこにある」
「王室記録庫です」
「祭壇関連の詳細原簿は」
「聖庁管理区画と王宮側保管庫に分かれています」
フィーネは、そこで立った。
「評議廷へ申請があります」
アレクシスが振り向く。
「何を」
「証拠保全です」
*
フィーネ側が提出した申請書は、前日までに用意していた。王室記録庫、聖冠祭壇の管理記録、祭壇接続部、抽出量記録、ミレイア失脚前後の聖庁命令書。それら全てを、係争証拠として凍結する。
「被告は、王家と聖庁が証拠を隠滅すると主張するのですか」
アレクシスの声が低くなる。
「可能性があると主張します」
「母上が?」
「王家が、です」
「同じことだ」
「違います」
フィーネは見返した。
「これは陛下の人格を裁くための申請ではありません」
一拍。
「記録を残すための申請です」
ユーフェミアが、証人席から何も言わずこちらを見る。そう、人格では勝たない。フィーネを信じなくていい。イルダリアを嫌わなくてもいい。ただ紙を残す、数字を残す、施設をそのまま残す。そこから判断してもらう。
首席司法官が七席へ確認する。
「対象は、本件罪状と直接関係する範囲に限定する」
「異議なし」
「聖冠祭壇そのものを停止する命令ではない」
「確認する」
フィーネはそこを強く見た。今、祭壇を止めてはいけない。母が言った。今外せば逆流が暴走する。王都で死者が出る。保全と停止は違う。
「採決する」
短い時間が、ひどく長かった。やがて杖が鳴る。
「《証拠保全命令》を発する」
法廷の空気が変わった。
「王室記録庫、および聖冠祭壇に関する係争資料・設備について、現状保存を命じる」
ざわめきが大きくなる。
「執行主体はレグリア司法官および近衛騎士団。必要な技術立会人を付す」
首席司法官は続ける。
「フェンリシア側測定資料との照合が必要なため、同国の立会人を少数認める。ただし指揮権はレグリア側に置く」
ナディアが立つ。
「フェンリシア使節団警備責任者、ナディア・ヴォルカー。立会人として参加を申請します」
「認める」
エドガーが近衛席から一礼する。表情は変わらない。王家の命令でフィーネを監視した男が、今度は評議廷の命令で証拠を守る。それでよかった。法は、誰かを好きだから動くべきではない。
*
審理は、そこで終わらなかった。むしろ、そこから――イルダリアが初めて前へ出た。
「発言をよろしいでしょうか」
穏やかな声。法廷が静まる。金の髪、深紅の瞳、昨日までと同じ慈愛深い聖女女王の顔。
「陛下。告発者としての意見陳述を認めます」
「ありがとうございます」
イルダリアは、まずフィーネを見なかった。七席へ向かう。
「私は、この娘を罰したいのではありません」
静かな声が、よく響く。
「王国を守らなければならないのです」
傍聴席の空気が動く。
「フィーネ・ラグランジュは、若く、聡明です。母を早くに亡くし、父まで失った。孤独の中で何かを疑い、自分だけで背負おうとしたのでしょう」
フィーネの爪が掌へ食い込んだ。母を殺したことにしている本人が、母を亡くした娘を憐れむ。けれど、顔は動かさない。
「しかし」
イルダリアは続ける。
「善意や確信だけで、国家の封印へ触れることを許してはなりません」
そこは正しい。だから厄介だった。
「外国王族と秘密を共有し、正式な行政手続きを避け、王宮地下へ侵入した。その行為を、結果が良かったかもしれないという理由だけで免責すれば、次に同じことをする者を止められません」
七席の何人かが資料へ目を落とす。イルダリアは怒鳴らない。嘘だけも言わない。フィーネが実際にした違法行為を、国家秩序の言葉で包む。
「提出された数字は、確認すべきでしょう」
意外な言葉だった。
「保全命令にも従います」
アレクシスが母を見る。少し安心したように。イルダリアは微笑む。
「ですが」
そこで視線がフィーネへ向いた。
「この娘が、何を隠してきたのかも」
空気が変わる。フィーネの左耳飾りの奥が、痛んだ気がした。
「同じように、皆様には知っていただく必要があります」
「陛下」
アレクシスがわずかに眉を寄せる。知らない。彼は、ここから先を知らない。
イルダリアは書記官へ目を向けた。
「旧聖女候補登録簿と、ヴァルネ家に関する古い入国記録を」
紙が運ばれる。フィーネは母の名を見た。ミレイア。若い頃、フェンリシアからレグリアへ渡った妖狐族。狐耳と尾を《封耳環》で隠し、聖女候補となった母。
アレクシスが資料を読む。
「これは......」
声が止まった。今日、初めてだった。彼の顔に、追及でも怒りでもない迷いが出たのは。
午前中、自分の母を守るためにフィーネへ問いを投げ続けていた王太子。その手元には今、母から聞かされていなかった記録がある。地脈測定、治療院記録、予算変動、そして先代聖女の出自。まだ真相を受け入れたわけではない。ただ初めて、説明と記録が同じ形をしていないことに気づいた。
「母上」
アレクシスが小さく言う。
「なぜ、この記録を」
「今は審理中です、アレクシス」
穏やかに遮られる。
「あなたも、王太子としてなすべきことをなさい」
「......はい」
けれど、返事は午前より遅かった。
*
六日後、大聖冠祭、最終日の朝。
「フィーネ・ラグランジュ」
イルダリアが呼ぶ。
「はい」
「あなたのお母様が、どこの生まれだったか」
「知っています」
「どの血を引いていたかも?」
「知っています」
傍聴席がざわつく。イルダリアは、少し悲しそうな顔をした。
「ならば、あなたが長年、王国へ隠してきたことも分かっていますね」
フィーネは答えない。
「血そのものを罪だと言っているのではありません」
先に逃げ道を塞ぐように、イルダリアが言う。法的には、半妖狐であることは犯罪ではない。だから犯罪とは言わない。代わりに、欺いた、隠した、信用できない。そういう印象へと塗り替えていく。
「ですが、身分ある者が自らの出自と身体的特徴を長年隠し、宮廷と王国を欺いていた事実は、今ここであなたの証言の信用性を考える上で無関係ではありません」
悪評、秘密、母の血。全てを一つの「信用できない女」へまとめようとしている。
以前の自分なら、隠しただろう。母がくれた耳飾りを握って、もっと深く、見つからないように、生き残るために。
でも、七日前、自分はラグランジュ家を受け取った。叔父は言った。今日からお前のものだ。ユーフェミアは片膝をついて、王女としてではないと言った。そして以前、正体を見た時に、隠したいなら隠す、公表するかはお前が決めろ、そう言った。
決めるのは自分だ。イルダリアでも、王家でも、母でも、ユーフェミアでもない。
フィーネは証人席を見た。ユーフェミアは動かなかった。止めない。助けない。ただこちらを見ている。選ぶまで隣にいる。その約束どおりに。
フィーネは前を向いた。左手を上げる。指先が、銀の《封耳環》へ触れた。




