第19話 記憶の底の匂い
古い。記憶の底にある。子どもの頃。髪を梳いてもらった夜。眠る前に抱かれた腕。歌。白楡の葉。
「......嘘」
口から零れた。走った。
「フィーネ!」
左脚が痛んだ。構わなかった。通路を抜ける。小さな調整室。無数の銀線。魔晶石。古い術式盤。その前に、一人の女が座っていた。細い背。長い銀白の髪。頭には、隠されていない狐耳。疲れたように伏せられている。女が振り返った。時間が、止まった。頬は痩せていた。目の下には深い影がある。七年前より、ずっと弱っている。
それでも、目だけは、覚えていた。
「......フィーネ?」
その声を、忘れたことなどなかった。
「母様」
次の瞬間には、駆け寄っていた。何を言うつもりだったのか分からない。生きていた。どうして、なぜ。七年。病死だと、墓まで作られて、何度。自分は。
「母様」
もう一度呼ぶ。ミレイアが立ち上がろうとした。その手が術式盤から離れかけた瞬間。警告の鈴音が鳴った。床の銀線が赤く明滅する。
「だめ」
ミレイアの声が変わった。
「ここを止めてはいけない」
手を戻す。鈴音が収まる。フィーネは動けなかった。
「......何を」
「ごめんなさい」
「何をしているのですか」
「流れを押さえているの」
ミレイアは息を整えた。
「祭壇が、もう限界に近い。七環が逆向きに引かれているせいで、アルヴァの力と地脈が何度もぶつかる。ここで少しずつ逃がさないと」
「では止めれば」
「今、急に止めれば逆流が暴れる」
「七環は六つ直しました」
「......六つ?」
ミレイアの目が大きくなる。フィーネは頷いた。
「私が」
声が震えた。
「直しました」
母の顔が歪んだ。泣きそうに見えた。けれど、ミレイアは泣かなかった。
「そう」
それだけ言った。
「あなたが、そこまで」
「母様が残したものを読みました」
「読ませるつもりはなかったわ」
「では、なぜ残したのですか」
少し強くなった。自分でも分かった。七年分だった。
「私を遠ざけたかったのですか」
「ええ」
ミレイアは逃げなかった。
「あなたを守りたかった」
「何も知らせずに?」
「そう」
「それで私は七年間」
声が切れた。続きを言えない。ミレイアは目を伏せた。
「怒っていいわ」
「......今、それを言いますか」
「今しか言えないかもしれないから」
残酷だった。優しい声で言うから、もっと残酷だった。背後で足音が止まった。ユーフェミアとナディア。入ってこない。母娘の間へ割り込まず、通路側で周囲を警戒している。フィーネはそれに気づいた。気づいて、少しだけ呼吸を取り戻した。
「説明は後です」
フィーネは言った。
「第七環はどこですか」
ミレイアが目を上げる。
「......あなた、本当にアンリに似たわね」
「父様なら、もっと穏やかです」
「そこではないわ」
「急いでください」
「はいはい」
七年ぶりの母が、昔と同じ調子で返した。胸が痛んだ。第七《王都地下環》は、調整室のさらに下にあった。円環は大きい。これまでの六つより複雑で、そして最も傷んでいた。銀線の一部は黒く焼け。石盤には細かな亀裂。中央の流れは、上にある《聖冠祭壇》へ無理やり引かれている。
「これを直しても、流れは変わらない」
ミレイアが言った。
「祭壇が向きを固定しているから」
「分かっています」
「......そこまで分かったのね」
「現地で嫌というほど見ました」
フィーネは鞄を開いた。源流で失った予備触媒。残っているのは、身体から離さず持っていた最後の封包だけ。銀砂。砕いた魔晶石。樹脂。やり直しはできない。
「足を怪我しているでしょう」
ミレイアが言う。
「見れば分かります」
「母様まで同じことを言わないでください」
「誰と同じなのかしら」
フィーネは答えなかった。後ろで、ユーフェミアの狐耳がわずかに動いた気がした。見ていない。見ていないことにした。
「ここは二重になっている」
ミレイアが石盤を指す。
「外側は七環返路。内側は祭壇へ繋ぐ固定線。外側だけを直して。内側には触れないで」
「触れれば?」
「今なら王都側へ負荷が跳ねる」
「死者が出ますか」
「可能性がある」
即答だった。フィーネは歯を食いしばる。これだ。ずっと、この構造が、イルダリアの言葉に力を与えてきた。止めれば危険。だから続ける。続けたから、もっと止めにくくなる。そして、犠牲にされるものだけが増えていく。
「直します」
フィーネは膝をついた。
「ユーフェミア様」
呼んでから、自分で少し驚いた。殿下ではなく。自然に、その呼び方が出た。ユーフェミアは一瞬だけ目を細めた。
「何だ」
「測定を」
「ああ」
それだけ。余計なことは言わない。ナディアが入口を守る。ミレイアが内側の流れを押さえる。ユーフェミアが外側の周期を読む。フィーネが環を直す。一人ではない。ここでも。
「右側、上がる」
「二拍後ですか」
「三」
「了解」
銀砂を溝へ入れる。魔晶石を重ねる。古い刻線を繋ぐ。光が走った。痛みで左脚が震える。
「休みなさい」
ミレイアが言う。
「嫌です」
「その頑固さは私ではないわね」
「父様でもありません」
「では、あなた自身ね」
手が止まりかけた。フィーネは何も返さなかった。次の線へ進む。何度も失敗した。十六歳で最初の環を直した時も、何日も同じ石を眺めた。誰かに選ばれたから分かるのではない。七年。読み。試し、間違え。また戻った。だから、今、ここまで来た。
「左、落ちる」
「今です」
「待て、一拍」
ユーフェミアの声。止める。次の瞬間、内側の固定線が赤く脈打った。もし進めていれば、外側の線まで焼けた。
「......助かりました」
「仕事だ」
「そうでしたね」
フィーネは続けた。最後の亀裂へ樹脂を流す。刻印を合わせる。指先で共鳴を読む。母の手が術式盤の上で動く。ユーフェミアの測定針が震える。そして、
「今」
三人の声が重なった。フィーネが触媒を固定する。白い光が円環を一周した。七本。すべての線が繋がる。第七環。物理修復。完了。フィーネはその場へ手をついた。息が荒い。
「測定」
ユーフェミアが針を見る。
「外側は安定した」
「向きは」
「変わらない」
分かっていた。それでも、悔しかった。七つ全部を直した。なのに、流れはまだ王都を向いている。
「祭壇との接続を切り替えない限り、正方向には戻らない」
ミレイアが言った。
「切り替える方法は」
「ある」
「教えてください」
「今ここでやってはいけない」
「理由は分かっています」
「なら十分」
「十分ではありません」
フィーネの声が低くなる。
「私は七年かけました。母様を見つけました。七環も全部直しました。それでも、まだここから連れ出せないと言うのですか」
ミレイアは黙った。
「今、祭壇を切れば」
フィーネは続ける。
「何人死にますか」
「分からない」
「十人?」
「分からない」
「百人?」
「フィーネ」
「分からないなら」
「だから、今は切れない」
静かな声だった。母の声。昔、自分を寝かしつけた声。フィーネは唇を噛んだ。
「なら」
一歩近づく。
「母様だけでも」
ミレイアの手を取る。冷たい。細い。
「一緒に来てください」
「行けない」
「代わりは」
「いない」
「私がやります」
「できない」
即答だった。胸を刺されたようだった。ミレイアはすぐに続ける。
「能力が足りないと言っているのではないの」
「同じです」
「違う」
珍しく強い声。
「あなたは七環を直した。私より先に、外から答えへ辿り着いた。でも、この祭壇は七年間、毎日癖が変わっている。アルヴァの呼吸と逆流の揺れを同時に読む調整は、今すぐ引き継げる作業ではない」
「なら教えてください」
「教える」
「今」
「時間がない」
「あります」
「ないわ」
ミレイアが入口を見る。ナディアも同時に体を反転させた。
「足音」
低い声。
「上の通路。複数」
敵か。点検の神官か。近衛か。分からない。だが残れない。
「撤退します」
ナディアが言う。ユーフェミアはフィーネを見た。何も言わない。決めろと、そういう目だった。母の手は、自分の手の中にある。連れていける。無理にでも、ユーフェミアとナディアがいれば、拘束を切ることもできる。走れる。逃げられるかもしれない。七年。七年、探した。目の前にいる。生きている。手を離せば。
また地下に置いていくことになる。
「フィーネ」
母が呼んだ。
「私は今、行かない」
「でも」
「私が決める」
言葉が止まった。ミレイアは弱っている。囚われている。それでも、今ここから出ないと決めたのは、母だった。国のためだから、誰かが死ぬから、その理由が正しいかどうかではない。選んだのは、母だ。フィーネは、その手を、離した。
「......分かりました」
声が出ない。もう一度。
「分かりました」
ミレイアが微笑んだ。弱い。それでも、母の笑い方だった。
「ごめんね」
「謝らないでください」
「では」
「次に会った時、全部聞きます」
「ええ」
「七年分です」
「長そうね」
「覚悟してください」
「分かったわ」
フィーネは背を向けた。振り返れば、動けなくなる。ユーフェミアが退路へ出る。ナディアが後方を確認する。誰も、急かさなかった。母娘の時間を、必要以上に奪わなかった。それでも、出なければならない。扉の前で、フィーネは一度だけ止まった。
「母様」
「何?」
「生きていてください」
返事はすぐだった。
「あなたも」
それだけ。扉が閉まった。帰路はほとんど覚えていない。足音。湿った石。遠くの警戒鐘。ユーフェミアの背。ナディアの短い合図。入口で待っていたセリアの青ざめた顔。全部。薄い膜の向こうにあるようだった。
「お嬢様」
セリアが何か言う。
「戻ります」
それしか答えられなかった。
「見つかったのですか」
フィーネは頷いた。
「......生きて?」
もう一度。頷いた。セリアが口元を押さえた。泣きそうな顔をした。フィーネは泣かなかった。泣く理由がない。母は生きていた。喜ぶべきだ。七環も直った。進んだ。何も失っていない。そう思った。屋敷へ戻った頃には、夜が明けかけていた。王都の空が白む。遠くで大聖堂の鐘が鳴る。フィーネは書斎へ入った。
机の上には、イルダリアの招待状がまだ置かれている。
『お帰りなさい』
文字が目に入る。その下に、母の楽譜。七つの印。全部。辿った。全部。正しかった。母は生きていた。
「......よかった」
口にした。声が震えた。目の前が滲んだ。フィーネは瞬きをする。止まらない。
「おかしいですね」
誰に言うでもなく呟く。
「生きていたのに」
涙が落ちた。一滴。楽譜の脇へ、慌てて紙を避ける。そんなことをしている自分が、ひどく滑稽だった。
「生きていたのに」
もう一度。今度は声にならなかった。扉の近くに、人の気配がある。ユーフェミアだった。いつからいたのか分からない。見られた。最悪だった。
「......見ないでください」
「分かった」
ユーフェミアは視線を窓へ向けた。出ていかなかった。近づいてもこなかった。ただ、そこにいた。フィーネは手で目元を押さえた。
「何も言わないでください」
「ああ」
「慰めも、いりません」
「ああ」
「......帰れとも言いません」
少しの沈黙。
「分かった」
同じ返事。それで、とうとう。堪えられなくなった。声は出さなかった。ただ涙だけが落ちた。七年間。母は死んだと思わされていた。七年間。生きているかもしれないと疑い続けた。七年間。探した。そして、見つけた。見つけたのに、自分の手で、母の手を離した。置いてきた。王都の地下へ、もう一度。自分の意思で。
七年探した母を、置いて帰ってきた。




