↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クーデレ王女とキツネ令嬢  作者: 芦名 雅
第十二章 地下にいるもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/30

第19話 記憶の底の匂い


 古い。記憶の底にある。子どもの頃。髪を梳いてもらった夜。眠る前に抱かれた腕。歌。白楡の葉。


「......嘘」


 口から零れた。走った。


「フィーネ!」


 左脚が痛んだ。構わなかった。通路を抜ける。小さな調整室。無数の銀線。魔晶石。古い術式盤。その前に、一人の女が座っていた。細い背。長い銀白の髪。頭には、隠されていない狐耳。疲れたように伏せられている。女が振り返った。時間が、止まった。頬は痩せていた。目の下には深い影がある。七年前より、ずっと弱っている。


 それでも、目だけは、覚えていた。


「......フィーネ?」


 その声を、忘れたことなどなかった。


「母様」


 次の瞬間には、駆け寄っていた。何を言うつもりだったのか分からない。生きていた。どうして、なぜ。七年。病死だと、墓まで作られて、何度。自分は。


「母様」


 もう一度呼ぶ。ミレイアが立ち上がろうとした。その手が術式盤から離れかけた瞬間。警告の鈴音が鳴った。床の銀線が赤く明滅する。


「だめ」


 ミレイアの声が変わった。


「ここを止めてはいけない」


 手を戻す。鈴音が収まる。フィーネは動けなかった。


「......何を」


「ごめんなさい」


「何をしているのですか」


「流れを押さえているの」


 ミレイアは息を整えた。


「祭壇が、もう限界に近い。七環が逆向きに引かれているせいで、アルヴァの力と地脈が何度もぶつかる。ここで少しずつ逃がさないと」


「では止めれば」


「今、急に止めれば逆流が暴れる」


「七環は六つ直しました」


「......六つ?」


 ミレイアの目が大きくなる。フィーネは頷いた。


「私が」


 声が震えた。


「直しました」


 母の顔が歪んだ。泣きそうに見えた。けれど、ミレイアは泣かなかった。


「そう」


 それだけ言った。


「あなたが、そこまで」


「母様が残したものを読みました」


「読ませるつもりはなかったわ」


「では、なぜ残したのですか」


 少し強くなった。自分でも分かった。七年分だった。


「私を遠ざけたかったのですか」


「ええ」


 ミレイアは逃げなかった。


「あなたを守りたかった」


「何も知らせずに?」


「そう」


「それで私は七年間」


 声が切れた。続きを言えない。ミレイアは目を伏せた。


「怒っていいわ」


「......今、それを言いますか」


「今しか言えないかもしれないから」


 残酷だった。優しい声で言うから、もっと残酷だった。背後で足音が止まった。ユーフェミアとナディア。入ってこない。母娘の間へ割り込まず、通路側で周囲を警戒している。フィーネはそれに気づいた。気づいて、少しだけ呼吸を取り戻した。


「説明は後です」


 フィーネは言った。


「第七環はどこですか」


 ミレイアが目を上げる。


「......あなた、本当にアンリに似たわね」


「父様なら、もっと穏やかです」


「そこではないわ」


「急いでください」


「はいはい」


 七年ぶりの母が、昔と同じ調子で返した。胸が痛んだ。第七《王都地下環》は、調整室のさらに下にあった。円環は大きい。これまでの六つより複雑で、そして最も傷んでいた。銀線の一部は黒く焼け。石盤には細かな亀裂。中央の流れは、上にある《聖冠祭壇》へ無理やり引かれている。


「これを直しても、流れは変わらない」


 ミレイアが言った。


「祭壇が向きを固定しているから」


「分かっています」


「......そこまで分かったのね」


「現地で嫌というほど見ました」


 フィーネは鞄を開いた。源流で失った予備触媒。残っているのは、身体から離さず持っていた最後の封包だけ。銀砂。砕いた魔晶石。樹脂。やり直しはできない。


「足を怪我しているでしょう」


 ミレイアが言う。


「見れば分かります」


「母様まで同じことを言わないでください」


「誰と同じなのかしら」


 フィーネは答えなかった。後ろで、ユーフェミアの狐耳がわずかに動いた気がした。見ていない。見ていないことにした。


「ここは二重になっている」


 ミレイアが石盤を指す。


「外側は七環返路。内側は祭壇へ繋ぐ固定線。外側だけを直して。内側には触れないで」


「触れれば?」


「今なら王都側へ負荷が跳ねる」


「死者が出ますか」


「可能性がある」


 即答だった。フィーネは歯を食いしばる。これだ。ずっと、この構造が、イルダリアの言葉に力を与えてきた。止めれば危険。だから続ける。続けたから、もっと止めにくくなる。そして、犠牲にされるものだけが増えていく。


「直します」


 フィーネは膝をついた。


「ユーフェミア様」


 呼んでから、自分で少し驚いた。殿下ではなく。自然に、その呼び方が出た。ユーフェミアは一瞬だけ目を細めた。


「何だ」


「測定を」


「ああ」


 それだけ。余計なことは言わない。ナディアが入口を守る。ミレイアが内側の流れを押さえる。ユーフェミアが外側の周期を読む。フィーネが環を直す。一人ではない。ここでも。


「右側、上がる」


「二拍後ですか」


「三」


「了解」


 銀砂を溝へ入れる。魔晶石を重ねる。古い刻線を繋ぐ。光が走った。痛みで左脚が震える。


「休みなさい」


 ミレイアが言う。


「嫌です」


「その頑固さは私ではないわね」


「父様でもありません」


「では、あなた自身ね」


 手が止まりかけた。フィーネは何も返さなかった。次の線へ進む。何度も失敗した。十六歳で最初の環を直した時も、何日も同じ石を眺めた。誰かに選ばれたから分かるのではない。七年。読み。試し、間違え。また戻った。だから、今、ここまで来た。


「左、落ちる」


「今です」


「待て、一拍」


 ユーフェミアの声。止める。次の瞬間、内側の固定線が赤く脈打った。もし進めていれば、外側の線まで焼けた。


「......助かりました」


「仕事だ」


「そうでしたね」


 フィーネは続けた。最後の亀裂へ樹脂を流す。刻印を合わせる。指先で共鳴を読む。母の手が術式盤の上で動く。ユーフェミアの測定針が震える。そして、


「今」


 三人の声が重なった。フィーネが触媒を固定する。白い光が円環を一周した。七本。すべての線が繋がる。第七環。物理修復。完了。フィーネはその場へ手をついた。息が荒い。


「測定」


 ユーフェミアが針を見る。


「外側は安定した」


「向きは」


「変わらない」


 分かっていた。それでも、悔しかった。七つ全部を直した。なのに、流れはまだ王都を向いている。


「祭壇との接続を切り替えない限り、正方向には戻らない」


 ミレイアが言った。


「切り替える方法は」


「ある」


「教えてください」


「今ここでやってはいけない」


「理由は分かっています」


「なら十分」


「十分ではありません」


 フィーネの声が低くなる。


「私は七年かけました。母様を見つけました。七環も全部直しました。それでも、まだここから連れ出せないと言うのですか」


 ミレイアは黙った。


「今、祭壇を切れば」


 フィーネは続ける。


「何人死にますか」


「分からない」


「十人?」


「分からない」


「百人?」


「フィーネ」


「分からないなら」


「だから、今は切れない」


 静かな声だった。母の声。昔、自分を寝かしつけた声。フィーネは唇を噛んだ。


「なら」


 一歩近づく。


「母様だけでも」


 ミレイアの手を取る。冷たい。細い。


「一緒に来てください」


「行けない」


「代わりは」


「いない」


「私がやります」


「できない」


 即答だった。胸を刺されたようだった。ミレイアはすぐに続ける。


「能力が足りないと言っているのではないの」


「同じです」


「違う」


 珍しく強い声。


「あなたは七環を直した。私より先に、外から答えへ辿り着いた。でも、この祭壇は七年間、毎日癖が変わっている。アルヴァの呼吸と逆流の揺れを同時に読む調整は、今すぐ引き継げる作業ではない」


「なら教えてください」


「教える」


「今」


「時間がない」


「あります」


「ないわ」


 ミレイアが入口を見る。ナディアも同時に体を反転させた。


「足音」


 低い声。


「上の通路。複数」


 敵か。点検の神官か。近衛か。分からない。だが残れない。


「撤退します」


 ナディアが言う。ユーフェミアはフィーネを見た。何も言わない。決めろと、そういう目だった。母の手は、自分の手の中にある。連れていける。無理にでも、ユーフェミアとナディアがいれば、拘束を切ることもできる。走れる。逃げられるかもしれない。七年。七年、探した。目の前にいる。生きている。手を離せば。


 また地下に置いていくことになる。


「フィーネ」


 母が呼んだ。


「私は今、行かない」


「でも」


「私が決める」


 言葉が止まった。ミレイアは弱っている。囚われている。それでも、今ここから出ないと決めたのは、母だった。国のためだから、誰かが死ぬから、その理由が正しいかどうかではない。選んだのは、母だ。フィーネは、その手を、離した。


「......分かりました」


 声が出ない。もう一度。


「分かりました」


 ミレイアが微笑んだ。弱い。それでも、母の笑い方だった。


「ごめんね」


「謝らないでください」


「では」


「次に会った時、全部聞きます」


「ええ」


「七年分です」


「長そうね」


「覚悟してください」


「分かったわ」


 フィーネは背を向けた。振り返れば、動けなくなる。ユーフェミアが退路へ出る。ナディアが後方を確認する。誰も、急かさなかった。母娘の時間を、必要以上に奪わなかった。それでも、出なければならない。扉の前で、フィーネは一度だけ止まった。


「母様」


「何?」


「生きていてください」


 返事はすぐだった。


「あなたも」


 それだけ。扉が閉まった。帰路はほとんど覚えていない。足音。湿った石。遠くの警戒鐘。ユーフェミアの背。ナディアの短い合図。入口で待っていたセリアの青ざめた顔。全部。薄い膜の向こうにあるようだった。


「お嬢様」


 セリアが何か言う。


「戻ります」


 それしか答えられなかった。


「見つかったのですか」


 フィーネは頷いた。


「......生きて?」


 もう一度。頷いた。セリアが口元を押さえた。泣きそうな顔をした。フィーネは泣かなかった。泣く理由がない。母は生きていた。喜ぶべきだ。七環も直った。進んだ。何も失っていない。そう思った。屋敷へ戻った頃には、夜が明けかけていた。王都の空が白む。遠くで大聖堂の鐘が鳴る。フィーネは書斎へ入った。


 机の上には、イルダリアの招待状がまだ置かれている。


『お帰りなさい』


 文字が目に入る。その下に、母の楽譜。七つの印。全部。辿った。全部。正しかった。母は生きていた。


「......よかった」


 口にした。声が震えた。目の前が滲んだ。フィーネは瞬きをする。止まらない。


「おかしいですね」


 誰に言うでもなく呟く。


「生きていたのに」


 涙が落ちた。一滴。楽譜の脇へ、慌てて紙を避ける。そんなことをしている自分が、ひどく滑稽だった。


「生きていたのに」


 もう一度。今度は声にならなかった。扉の近くに、人の気配がある。ユーフェミアだった。いつからいたのか分からない。見られた。最悪だった。


「......見ないでください」


「分かった」


 ユーフェミアは視線を窓へ向けた。出ていかなかった。近づいてもこなかった。ただ、そこにいた。フィーネは手で目元を押さえた。


「何も言わないでください」


「ああ」


「慰めも、いりません」


「ああ」


「......帰れとも言いません」


 少しの沈黙。


「分かった」


 同じ返事。それで、とうとう。堪えられなくなった。声は出さなかった。ただ涙だけが落ちた。七年間。母は死んだと思わされていた。七年間。生きているかもしれないと疑い続けた。七年間。探した。そして、見つけた。見つけたのに、自分の手で、母の手を離した。置いてきた。王都の地下へ、もう一度。自分の意思で。


 七年探した母を、置いて帰ってきた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。