第16話 王女は国を背負っている
命令書を読み終えても、ユーフェミアはすぐには口を開かなかった。白楡館の小書庫。机の上には、ミレイア・ラグランジュが残した楽譜と、刺繍布と、古い地図。その横に、いま届いたばかりの、フェンリシア王家の通信文がある。国境東部の地脈出力、再低下。魔晶鉱脈の採掘効率低下。農業結界の不調。そして、これまでの測定結果を直ちに公表せよという評議会命令。
「殿下」
ナディアが、いつもの乾いた声で呼んだ。
「返答が必要です」
「ああ」
ユーフェミアは短く答えた。向かい側では、フィーネが黙っている。さっきまで、母が生きているかもしれない。王都地下に何かがある。そんな話をしていた。その顔からも、今は私的な色が消えている。
「公表なさるのですか」
フィーネが聞いた。
「する」
即答した。セリアの視線が上がる。フィーネだけは動かなかった。
「そうですか」
「お前は反対だな」
「はい」
「理由を言え」
「今、公表すれば、イルダリア陛下が動きます」
フィーネは机上の地図へ指を置いた。
「国境高原環を修復したことで、地脈の局所的な乱れはわずかに改善しました。ですが、全体の吸引方向は変わっていない」
「分かっている」
「残り二環です」
ルーネ川源流。王都地下。
「こちらが構造へ近づいていると知られれば、向こうは待ってくれません」
「最大抽出を前倒しすると?」
「可能性があります」
「証拠は」
「ありません」
フィーネは迷わず言った。
「ですが、合理性はあります」
「説明しろ」
「現在、地方の地脈低下は王都側でも把握されているはずです。大神官セドリックは古記録の整理を始め、女王陛下は私と殿下の接触を見ています」
ユーフェミアは黙って聞く。
「そこへ、フェンリシアが『レグリアから地脈魔力を吸われている疑いがある』と公表する」
「まだそこまでは断定していない」
「世間は断定します」
フィーネの声は静かだった。
「測定値が落ちている。レグリア側で王都方向への偏りがある。女王陛下の大規模奇跡には、ご本人以外の魔力が混ざる。断片だけでも、噂には十分です」
「だから隠せと?」
「十五日」
ユーフェミアの眉が動く。
「何?」
「十五日だけ、待ってください」
「根拠は」
「ルーネ川源流環を修復します」
フィーネは地図の北東を示した。
「国境高原環より中枢に近い。ここを戻せれば、地脈流量の改善が測定値に出る可能性が高い」
「可能性」
「はい」
「改善しなければ?」
「その時は」
一瞬だけ。フィーネの指が止まった。
「公表してください」
ユーフェミアは彼女を見る。
「私が止めても?」
「止めません」
「なぜ」
「殿下はフェンリシアの次期女王ですから」
その言葉に、胸の奥が、わずかに痛んだ。正しい。あまりにも。
「なら今でも同じだ」
ユーフェミアは命令書を持ち上げた。
「国境東部では、現に被害が出ている」
「分かっています」
「農業結界が落ちれば、収穫が減る。鉱山が止まれば、冬の燃料と魔晶石が減る。辺境の結界が弱れば、魔獣被害も増える」
「はい」
「私はそれを知っている」
声が低くなる。
「知っていて、他国の事情を優先して隠すことはできない」
フィーネの煙った紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「私の事情ではありません」
「何?」
「レグリアの事情です」
今度は、フィーネの声も少しだけ鋭くなった。
「今公表して、イルダリア陛下が最大抽出を前倒しした場合、被害を受けるのはフェンリシアだけではない。レグリア地方もです」
「だから危険性を公にして止める」
「止まりますか?」
「圧力はかかる」
「女王陛下に?」
「国際問題になれば無視はできない」
「無視しない代わりに、『国を守るための奇跡』を見せるかもしれません」
ユーフェミアの尾先が、低く一度だけ振れた。苛立っている。自分でも分かる。
「フィーネ」
「はい」
「お前は、私に何を求めている」
数秒、フィーネは答えなかった。耳は隠れている。昨日、応急修理した《封耳環》が、銀白の狐耳と尾を再び見えなくしている。けれど、ユーフェミアはもう知っている。あの顔の奥で、あの耳がどう動くのかを。
「国を裏切れとは言いません」
「当然だ」
「私を信じろとも、言いません」
「それも腹が立つな」
「なぜです」
「今さらだ」
フィーネがわずかに目を見開く。ユーフェミアは続けた。
「国境高原で背中を預けた。お前の正体を知った。母親の手掛かりまで一緒に見た」
「それと国家判断は別です」
「分かっている」
だから、腹が立つ。フィーネを信じることと、フェンリシアを守ること、その二つが、同じ方向を向いてくれない。
「私は十五日で必ず直せるとは言えません」
フィーネが言った。
「言え」
「言えません」
「そこは強情だな」
「約束できないことを約束する方が無責任です」
ユーフェミアは黙った。自分がいつも言っていることだった。約束は、代償まで背負える者だけが口にする。フィーネは知らないはずなのに、同じ場所へ立っている。
「では」
ナディアが口を挟んだ。二人とも見る。
「殿下。ラグランジュ嬢。怒鳴り合いにならないのは結構ですが、結論が出ていません」
「怒鳴ってはいない」
「声量の話ではありません」
ナディアは机へ一枚の紙を置いた。
「選択肢を分けましょう」
一本目。
「命令どおり即時公表。フェンリシア国内には説明がつく。ただしレグリア側の反応は制御不能」
二本目。
「命令を無視して非公表。時間は得られる。ただし殿下は評議会命令違反。こちらは論外です」
「ああ」
ユーフェミアは即答した。フィーネも反論しない。三本目。
「評議会へ猶予を正式申請する」
ナディアの指が止まった。
「期限、条件、担保をつけて」
「十五日」
フィーネが言う。
「十五日が妥当かは本国が決めます」
「では、何を担保にする」
ユーフェミアが聞いた。ナディアは淡い青の目を向けてくる。
「殿下の政治的信用です」
セリアが息を止めた。フィーネの顔が変わる。
「それは」
「そうなる」
ユーフェミアは理解した。次期女王として、父王から外交と軍事の一部権限を預けられている。その自分が、評議会命令へ異議を申し立てる。十五日の猶予を求める。その間に状況が悪化すれば、責任は自分に来る。
「殿下」
フィーネが低く呼ぶ。
「それはやめてください」
「なぜ」
「必要ありません」
「必要かどうかは私が決める」
「私のために、あなたの立場を賭ける必要はない」
部屋の空気が止まった。ユーフェミアは、一拍遅れて、腹が立った。
「勘違いするな」
「していません」
「している」
フィーネの眉が寄る。
「私はお前のためだけに十五日を買うのではない」
「ですが」
「フェンリシアのためだ」
言い切った。
「今、公表してレグリアが最大抽出を前倒しする危険がある。それがお前の推測で終わる可能性もある。だが、源流環を直せば、改善値が出る可能性がある」
「はい」
「なら、十五日で得られるものは、お前の母親を探す時間だけではない」
ユーフェミアは地図へ指を置く。
「自国の地脈を戻す時間だ」
フィーネが黙る。
「私はフェンリシアの次期女王だ」
「知っています」
「なら、私が国のために賭けるものまで、お前が勝手に決めるな」
言った瞬間。自分の言葉が、少し違う場所にも刺さった気がした。決めるな、相手のためだと言って、代わりに、誰かの選択を、フィーネの表情が、ほんの少し変わる。
「......そうですね」
短かった。
「私が決めることではありません」
「ああ」
「ただし」
「何だ」
「十五日で何も出なければ、公表してください」
「する」
「私が止めても」
「お前がさっき言った」
ユーフェミアは命令書を畳んだ。
「私は次期女王だ」
「......ええ」
その返事は、少しだけ、不満そうだった。
◇
返答書は、その日のうちに作った。感情で書く余地はなかった。フェンリシア東部の地脈低下は事実。現時点で原因をレグリアへ断定できる公的証拠は不足。国境高原で行った合同測定では、古代地脈施設の物理修復後に局所流量が改善。次の調査地点としてルーネ川源流域に重大な古代施設が存在する可能性。
15日間の公表猶予を要請。条件。毎日の測定値を本国へ送付。一定以上の追加低下が確認された場合は、猶予を即時打ち切る。同時に、国境州へ薬草、保存食、魔晶石の緊急備蓄を前倒しする。公表を遅らせる代わりに、被害への備えは遅らせない。
「これでいい」
ユーフェミアが署名する。ナディアが確認した。
「最後です」
「何が」
「失敗時の責任者」
空欄が一つある。ユーフェミアは迷わず、自分の名を書いた。ユーフェミア・フェンリシア。第一王女。次期王位継承者。
「殿下」
フィーネの声がした。いつの間にか、扉のところに立っている。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「......本当に、書いたのですね」
「見れば分かるだろう」
「そういう意味ではありません」
「では何だ」
フィーネは少し黙った。
「何でもありません」
「それは便利だな」
「殿下にだけは言われたくありません」
ナディアが、送信用の短文へ要点を写す。
「お二人とも、会話は後で。最寄りの中継所へ送ります」
「頼む」
「承知しました」
署名入りの原本は、後から急使に持たせる。先に必要なのは、評議会の判断を仰ぐための要旨だった。ナディアが出て行く。セリアも備品確認を理由に席を外した。二人だけになる。ユーフェミアはフィーネを見る。
「何だ」
「何も言っていません」
「見ている」
「殿下もでしょう」
「私は見ている」
「堂々と言わないでください」
フィーネが耳飾りへ触れかける。途中で止めた。応急修理したばかりだ。
「壊れるぞ」
「分かっています」
「なら触るな」
「癖です」
「知っている」
フィーネがこちらを見る。
「それも、いつの間に」
「最初から」
「怖いですね」
「お前ほどではない」
「私の何が怖いのです」
「七年間、一人で国土の古代施設を直していた女が言うな」
「一人ではありません」
「何?」
フィーネは机の上を見る。母の楽譜。父の書庫。叔父が守った土地。セリアが整えた夜の外出。そして、国境高原で使った、フェンリシアの測量記録。
「......今は、もう」
小さく言った。
「一人ではありません」
ユーフェミアは返事をしなかった。何か言えば、余計なことまで口にしそうだった。代わりに、
「なら働け」
「台無しですね」
「十五日しかない」
「......はい」
フィーネの口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。気のせいかもしれない。耳が見えないのが、少し不便だと思った。その考えは、当然、口には出さなかった。
◇
二日後。伝令はその日のうちに届いていた。二日を要したのは、評議会が条件を詰めるためだった。フェンリシア本国から《伝令術式》で返答が来た。許可。ただし条件付き。15日。毎日2回、国境東部の測定値を共有。基準値を下回った地点が一つでも増えれば、公表猶予は即時終了。15日後までに原因説明、改善値、またはレグリア側の公的調査受入れのいずれも得られなければ、測定結果を公開する。
さらに、ユーフェミアの帰国後、評議会で本判断について説明を求める。
「実質的な査問ですね」
セリアが言った。
「査問まではいかない」
ナディアが答える。
「ただし失敗すれば、殿下の次期女王としての判断力を疑う者は出るでしょう」
「十分重いではありませんか」
「王族ですから」
ユーフェミアは返答文を折る。
「妥当だ」
フィーネがじっとこちらを見ている。
「またか」
「何がです」
「その顔だ」
「私はいつも同じ顔です」
「知っている」
「では」
「だから分かる」
フィーネが黙る。ユーフェミアは言った。
「気にするな」
「無理です」
「では、気にして働け」
「殿下」
「結果を出せばいい」
フィーネは数秒、こちらを見た後。
「......合理的ですね」
「そうだろう」
「腹が立ちます」
「知っている」
◇
十五日という時間を買ったからといって、十五日すべてを、源流環の修復だけに使えるわけではなかった。フェンリシア側では、国境州への緊急物資手配が始まった。薬草。魔晶石。乾燥穀物。冬季用の燃料。結界技師の追加派遣。ユーフェミアは白楡館の客室を、一時的な執務室に変えた。机が二つ。一つにはフェンリシアの備蓄表。
もう一つにはレグリアの地脈図。
「鉄鉱石の輸送枠を削れば、魔晶石を3割増やせます」
ナディアが言う。
「鉄は冬前に必要だ」
「では王都向け装飾石を止める」
「それでいい」
「国境商会が反発します」
「説明は私がする」
反対側では、フィーネとルシアンが帳簿を広げている。
「ヴァレーヌの穀物備蓄を国境へ回せます」
フィーネが言った。ルシアンがすぐに首を振る。
「全部は駄目だ」
「全部とは言っていません」
「お前は数字を出す前に最大値を考える」
「叔父様は最小値から考えすぎです」
「領民を飢えさせないためだ」
「私も同じです」
「なら7割残せ」
「6割」
「7」
「6.5」
「......6.5。ただし港倉庫分には手をつけない」
「結構です」
ユーフェミアは思わずそちらを見る。フィーネが気づく。
「何です」
「いや」
「言ってください」
「お前、叔父には少し素直だな」
「どこがですか」
「交渉している」
「殿下ともしています」
「私には殺すと言った」
「必要なら今からでも」
ルシアンが眉を寄せた。
「何の話だ」
「何でもありません」
フィーネが即答した。セリアが咳払いする。ナディアは書類から目を上げなかった。ただ、狼耳だけが少し横を向いた。
◇
三日目の朝。最初の備蓄車列がフェンリシア国境へ向かった。同じ日。レグリア側でも、ラグランジュ家の倉庫から穀物と薪が北東へ送られた。名目は交易安定化の臨時融通。地脈危機とは書かない。まだ、公表していないからだ。だが、隠しているからといって、何もしないわけではない。ユーフェミアは、その違いを何度も確認した。
公表猶予は、不都合な事実を埋めるためではない。被害を減らしながら、より安全な選択肢を作るための時間だ。もし途中で被害が拡大するなら。約束どおり。自分が公表する。フィーネがどんな顔をしても、母親の居場所へあと一歩でも、そう決めている。それが、フィーネを信じることと矛盾しないように。
◇
出発は四日目の夜明けになった。目的地はルーネ川源流域。王都からなら通常五日以上。白楡館からも遠い。国境高原よりさらに険しい。今回は遊びのない旅程になる。ユーフェミア。フィーネ。ナディア。セリア。加えて、測量器材を運ぶフェンリシアの技師二名と、護衛数名。人数を増やしすぎない。目立つからだ。
「お嬢様」
馬車の前で、セリアが言う。
「本当にその体調で行くのですか」
「問題ありません」
「はいはい。我慢している人の返事ですね」
「その言い回しをどこで覚えたのです」
「有名ですよ」
ユーフェミアが横を向く。フィーネがこちらを睨んだ。
「殿下」
「私は何も言っていない」
「顔が笑っています」
「笑っていない」
「耳が立っています」
ユーフェミアの耳が反射的に寝た。フィーネの目が細くなる。
「分かりやすいですね」
「お前にだけは言われたくない」
「今は見えません」
「だから余計に腹が立つ」
「何がです」
「何でもない」
ナディアが馬へ荷を括りながら言った。
「出発前から元気ですね」
「どこがだ」
「私は止めましたからね」
「何を」
「何でもありません」
最近。周りの人間が、この返事を使いすぎている。誰のせいかは考えないことにした。フィーネが馬車へ乗る。ユーフェミアは自分の馬へ跨がった。東の空が白み始めている。十五日の猶予。もう三日使った。残り十二日。源流環を見つける。直す。改善値を取る。それができなければ、公表する。それだけだ。
「行くぞ」
ユーフェミアが言った。一行が動き出す。白楡館の白い並木が、ゆっくり後ろへ遠ざかっていった。
◇
その半刻後。白楡館から東へ続く街道脇。古い石壁の陰から、一人の男が顔を出した。旅商人の外套。泥のついた靴。荷は少ない。男は遠ざかる馬車を見た。数を数える。王女。灰狼の護衛。ラグランジュ令嬢。その侍女。測量器材。北東へ向かう。男は懐から、小さな紙片を取り出した。そこには、聖庁の文書で使われる、細い七本線の透かしが入っていた。
筆を走らせる。――対象、白楡館を出発。――方角、北東。――地脈測量器材を確認。紙を折る。封はしない。別の男へ渡す。
「急げ」
「王都へ?」
「違う」
男は街道の北東を見る。
「先へ回せ」
馬が一頭。朝霧の中を走り出した。ユーフェミアたちは、まだ知らない。十五日を買ったその瞬間から、相手もまた、時間を使い始めていた。




