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クーデレ王女とキツネ令嬢  作者: 芦名 雅
第十章 王女は国を背負っている

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第16話 王女は国を背負っている


 命令書を読み終えても、ユーフェミアはすぐには口を開かなかった。白楡館の小書庫。机の上には、ミレイア・ラグランジュが残した楽譜と、刺繍布と、古い地図。その横に、いま届いたばかりの、フェンリシア王家の通信文がある。国境東部の地脈出力、再低下。魔晶鉱脈の採掘効率低下。農業結界の不調。そして、これまでの測定結果を直ちに公表せよという評議会命令。


「殿下」


 ナディアが、いつもの乾いた声で呼んだ。


「返答が必要です」


「ああ」


 ユーフェミアは短く答えた。向かい側では、フィーネが黙っている。さっきまで、母が生きているかもしれない。王都地下に何かがある。そんな話をしていた。その顔からも、今は私的な色が消えている。


「公表なさるのですか」


 フィーネが聞いた。


「する」


 即答した。セリアの視線が上がる。フィーネだけは動かなかった。


「そうですか」


「お前は反対だな」


「はい」


「理由を言え」


「今、公表すれば、イルダリア陛下が動きます」


 フィーネは机上の地図へ指を置いた。


「国境高原環を修復したことで、地脈の局所的な乱れはわずかに改善しました。ですが、全体の吸引方向は変わっていない」


「分かっている」


「残り二環です」


 ルーネ川源流。王都地下。


「こちらが構造へ近づいていると知られれば、向こうは待ってくれません」


「最大抽出を前倒しすると?」


「可能性があります」


「証拠は」


「ありません」


 フィーネは迷わず言った。


「ですが、合理性はあります」


「説明しろ」


「現在、地方の地脈低下は王都側でも把握されているはずです。大神官セドリックは古記録の整理を始め、女王陛下は私と殿下の接触を見ています」


 ユーフェミアは黙って聞く。


「そこへ、フェンリシアが『レグリアから地脈魔力を吸われている疑いがある』と公表する」


「まだそこまでは断定していない」


「世間は断定します」


 フィーネの声は静かだった。


「測定値が落ちている。レグリア側で王都方向への偏りがある。女王陛下の大規模奇跡には、ご本人以外の魔力が混ざる。断片だけでも、噂には十分です」


「だから隠せと?」


「十五日」


 ユーフェミアの眉が動く。


「何?」


「十五日だけ、待ってください」


「根拠は」


「ルーネ川源流環を修復します」


 フィーネは地図の北東を示した。


「国境高原環より中枢に近い。ここを戻せれば、地脈流量の改善が測定値に出る可能性が高い」


「可能性」


「はい」


「改善しなければ?」


「その時は」


 一瞬だけ。フィーネの指が止まった。


「公表してください」


 ユーフェミアは彼女を見る。


「私が止めても?」


「止めません」


「なぜ」


「殿下はフェンリシアの次期女王ですから」


 その言葉に、胸の奥が、わずかに痛んだ。正しい。あまりにも。


「なら今でも同じだ」


 ユーフェミアは命令書を持ち上げた。


「国境東部では、現に被害が出ている」


「分かっています」


「農業結界が落ちれば、収穫が減る。鉱山が止まれば、冬の燃料と魔晶石が減る。辺境の結界が弱れば、魔獣被害も増える」


「はい」


「私はそれを知っている」


 声が低くなる。


「知っていて、他国の事情を優先して隠すことはできない」


 フィーネの煙った紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。


「私の事情ではありません」


「何?」


「レグリアの事情です」


 今度は、フィーネの声も少しだけ鋭くなった。


「今公表して、イルダリア陛下が最大抽出を前倒しした場合、被害を受けるのはフェンリシアだけではない。レグリア地方もです」


「だから危険性を公にして止める」


「止まりますか?」


「圧力はかかる」


「女王陛下に?」


「国際問題になれば無視はできない」


「無視しない代わりに、『国を守るための奇跡』を見せるかもしれません」


 ユーフェミアの尾先が、低く一度だけ振れた。苛立っている。自分でも分かる。


「フィーネ」


「はい」


「お前は、私に何を求めている」


 数秒、フィーネは答えなかった。耳は隠れている。昨日、応急修理した《封耳環》が、銀白の狐耳と尾を再び見えなくしている。けれど、ユーフェミアはもう知っている。あの顔の奥で、あの耳がどう動くのかを。


「国を裏切れとは言いません」


「当然だ」


「私を信じろとも、言いません」


「それも腹が立つな」


「なぜです」


「今さらだ」


 フィーネがわずかに目を見開く。ユーフェミアは続けた。


「国境高原で背中を預けた。お前の正体を知った。母親の手掛かりまで一緒に見た」


「それと国家判断は別です」


「分かっている」


 だから、腹が立つ。フィーネを信じることと、フェンリシアを守ること、その二つが、同じ方向を向いてくれない。


「私は十五日で必ず直せるとは言えません」


 フィーネが言った。


「言え」


「言えません」


「そこは強情だな」


「約束できないことを約束する方が無責任です」


 ユーフェミアは黙った。自分がいつも言っていることだった。約束は、代償まで背負える者だけが口にする。フィーネは知らないはずなのに、同じ場所へ立っている。


「では」


 ナディアが口を挟んだ。二人とも見る。


「殿下。ラグランジュ嬢。怒鳴り合いにならないのは結構ですが、結論が出ていません」


「怒鳴ってはいない」


「声量の話ではありません」


 ナディアは机へ一枚の紙を置いた。


「選択肢を分けましょう」


 一本目。


「命令どおり即時公表。フェンリシア国内には説明がつく。ただしレグリア側の反応は制御不能」


 二本目。


「命令を無視して非公表。時間は得られる。ただし殿下は評議会命令違反。こちらは論外です」


「ああ」


 ユーフェミアは即答した。フィーネも反論しない。三本目。


「評議会へ猶予を正式申請する」


 ナディアの指が止まった。


「期限、条件、担保をつけて」


「十五日」


 フィーネが言う。


「十五日が妥当かは本国が決めます」


「では、何を担保にする」


 ユーフェミアが聞いた。ナディアは淡い青の目を向けてくる。


「殿下の政治的信用です」


 セリアが息を止めた。フィーネの顔が変わる。


「それは」


「そうなる」


 ユーフェミアは理解した。次期女王として、父王から外交と軍事の一部権限を預けられている。その自分が、評議会命令へ異議を申し立てる。十五日の猶予を求める。その間に状況が悪化すれば、責任は自分に来る。


「殿下」


 フィーネが低く呼ぶ。


「それはやめてください」


「なぜ」


「必要ありません」


「必要かどうかは私が決める」


「私のために、あなたの立場を賭ける必要はない」


 部屋の空気が止まった。ユーフェミアは、一拍遅れて、腹が立った。


「勘違いするな」


「していません」


「している」


 フィーネの眉が寄る。


「私はお前のためだけに十五日を買うのではない」


「ですが」


「フェンリシアのためだ」


 言い切った。


「今、公表してレグリアが最大抽出を前倒しする危険がある。それがお前の推測で終わる可能性もある。だが、源流環を直せば、改善値が出る可能性がある」


「はい」


「なら、十五日で得られるものは、お前の母親を探す時間だけではない」


 ユーフェミアは地図へ指を置く。


「自国の地脈を戻す時間だ」


 フィーネが黙る。


「私はフェンリシアの次期女王だ」


「知っています」


「なら、私が国のために賭けるものまで、お前が勝手に決めるな」


 言った瞬間。自分の言葉が、少し違う場所にも刺さった気がした。決めるな、相手のためだと言って、代わりに、誰かの選択を、フィーネの表情が、ほんの少し変わる。


「......そうですね」


 短かった。


「私が決めることではありません」


「ああ」


「ただし」


「何だ」


「十五日で何も出なければ、公表してください」


「する」


「私が止めても」


「お前がさっき言った」


 ユーフェミアは命令書を畳んだ。


「私は次期女王だ」


「......ええ」


 その返事は、少しだけ、不満そうだった。



 返答書は、その日のうちに作った。感情で書く余地はなかった。フェンリシア東部の地脈低下は事実。現時点で原因をレグリアへ断定できる公的証拠は不足。国境高原で行った合同測定では、古代地脈施設の物理修復後に局所流量が改善。次の調査地点としてルーネ川源流域に重大な古代施設が存在する可能性。


 15日間の公表猶予を要請。条件。毎日の測定値を本国へ送付。一定以上の追加低下が確認された場合は、猶予を即時打ち切る。同時に、国境州へ薬草、保存食、魔晶石の緊急備蓄を前倒しする。公表を遅らせる代わりに、被害への備えは遅らせない。


「これでいい」


 ユーフェミアが署名する。ナディアが確認した。


「最後です」


「何が」


「失敗時の責任者」


 空欄が一つある。ユーフェミアは迷わず、自分の名を書いた。ユーフェミア・フェンリシア。第一王女。次期王位継承者。


「殿下」


 フィーネの声がした。いつの間にか、扉のところに立っている。


「何だ」


「いえ」


「言え」


「......本当に、書いたのですね」


「見れば分かるだろう」


「そういう意味ではありません」


「では何だ」


 フィーネは少し黙った。


「何でもありません」


「それは便利だな」


「殿下にだけは言われたくありません」


 ナディアが、送信用の短文へ要点を写す。


「お二人とも、会話は後で。最寄りの中継所へ送ります」


「頼む」


「承知しました」


 署名入りの原本は、後から急使に持たせる。先に必要なのは、評議会の判断を仰ぐための要旨だった。ナディアが出て行く。セリアも備品確認を理由に席を外した。二人だけになる。ユーフェミアはフィーネを見る。


「何だ」


「何も言っていません」


「見ている」


「殿下もでしょう」


「私は見ている」


「堂々と言わないでください」


 フィーネが耳飾りへ触れかける。途中で止めた。応急修理したばかりだ。


「壊れるぞ」


「分かっています」


「なら触るな」


「癖です」


「知っている」


 フィーネがこちらを見る。


「それも、いつの間に」


「最初から」


「怖いですね」


「お前ほどではない」


「私の何が怖いのです」


「七年間、一人で国土の古代施設を直していた女が言うな」


「一人ではありません」


「何?」


 フィーネは机の上を見る。母の楽譜。父の書庫。叔父が守った土地。セリアが整えた夜の外出。そして、国境高原で使った、フェンリシアの測量記録。


「......今は、もう」


 小さく言った。


「一人ではありません」


 ユーフェミアは返事をしなかった。何か言えば、余計なことまで口にしそうだった。代わりに、


「なら働け」


「台無しですね」


「十五日しかない」


「......はい」


 フィーネの口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。気のせいかもしれない。耳が見えないのが、少し不便だと思った。その考えは、当然、口には出さなかった。



 二日後。伝令はその日のうちに届いていた。二日を要したのは、評議会が条件を詰めるためだった。フェンリシア本国から《伝令術式》で返答が来た。許可。ただし条件付き。15日。毎日2回、国境東部の測定値を共有。基準値を下回った地点が一つでも増えれば、公表猶予は即時終了。15日後までに原因説明、改善値、またはレグリア側の公的調査受入れのいずれも得られなければ、測定結果を公開する。


 さらに、ユーフェミアの帰国後、評議会で本判断について説明を求める。


「実質的な査問ですね」


 セリアが言った。


「査問まではいかない」


 ナディアが答える。


「ただし失敗すれば、殿下の次期女王としての判断力を疑う者は出るでしょう」


「十分重いではありませんか」


「王族ですから」


 ユーフェミアは返答文を折る。


「妥当だ」


 フィーネがじっとこちらを見ている。


「またか」


「何がです」


「その顔だ」


「私はいつも同じ顔です」


「知っている」


「では」


「だから分かる」


 フィーネが黙る。ユーフェミアは言った。


「気にするな」


「無理です」


「では、気にして働け」


「殿下」


「結果を出せばいい」


 フィーネは数秒、こちらを見た後。


「......合理的ですね」


「そうだろう」


「腹が立ちます」


「知っている」



 十五日という時間を買ったからといって、十五日すべてを、源流環の修復だけに使えるわけではなかった。フェンリシア側では、国境州への緊急物資手配が始まった。薬草。魔晶石。乾燥穀物。冬季用の燃料。結界技師の追加派遣。ユーフェミアは白楡館の客室を、一時的な執務室に変えた。机が二つ。一つにはフェンリシアの備蓄表。


 もう一つにはレグリアの地脈図。


「鉄鉱石の輸送枠を削れば、魔晶石を3割増やせます」


 ナディアが言う。


「鉄は冬前に必要だ」


「では王都向け装飾石を止める」


「それでいい」


「国境商会が反発します」


「説明は私がする」


 反対側では、フィーネとルシアンが帳簿を広げている。


「ヴァレーヌの穀物備蓄を国境へ回せます」


 フィーネが言った。ルシアンがすぐに首を振る。


「全部は駄目だ」


「全部とは言っていません」


「お前は数字を出す前に最大値を考える」


「叔父様は最小値から考えすぎです」


「領民を飢えさせないためだ」


「私も同じです」


「なら7割残せ」


「6割」


「7」


「6.5」


「......6.5。ただし港倉庫分には手をつけない」


「結構です」


 ユーフェミアは思わずそちらを見る。フィーネが気づく。


「何です」


「いや」


「言ってください」


「お前、叔父には少し素直だな」


「どこがですか」


「交渉している」


「殿下ともしています」


「私には殺すと言った」


「必要なら今からでも」


 ルシアンが眉を寄せた。


「何の話だ」


「何でもありません」


 フィーネが即答した。セリアが咳払いする。ナディアは書類から目を上げなかった。ただ、狼耳だけが少し横を向いた。



 三日目の朝。最初の備蓄車列がフェンリシア国境へ向かった。同じ日。レグリア側でも、ラグランジュ家の倉庫から穀物と薪が北東へ送られた。名目は交易安定化の臨時融通。地脈危機とは書かない。まだ、公表していないからだ。だが、隠しているからといって、何もしないわけではない。ユーフェミアは、その違いを何度も確認した。


 公表猶予は、不都合な事実を埋めるためではない。被害を減らしながら、より安全な選択肢を作るための時間だ。もし途中で被害が拡大するなら。約束どおり。自分が公表する。フィーネがどんな顔をしても、母親の居場所へあと一歩でも、そう決めている。それが、フィーネを信じることと矛盾しないように。



 出発は四日目の夜明けになった。目的地はルーネ川源流域。王都からなら通常五日以上。白楡館からも遠い。国境高原よりさらに険しい。今回は遊びのない旅程になる。ユーフェミア。フィーネ。ナディア。セリア。加えて、測量器材を運ぶフェンリシアの技師二名と、護衛数名。人数を増やしすぎない。目立つからだ。


「お嬢様」


 馬車の前で、セリアが言う。


「本当にその体調で行くのですか」


「問題ありません」


「はいはい。我慢している人の返事ですね」


「その言い回しをどこで覚えたのです」


「有名ですよ」


 ユーフェミアが横を向く。フィーネがこちらを睨んだ。


「殿下」


「私は何も言っていない」


「顔が笑っています」


「笑っていない」


「耳が立っています」


 ユーフェミアの耳が反射的に寝た。フィーネの目が細くなる。


「分かりやすいですね」


「お前にだけは言われたくない」


「今は見えません」


「だから余計に腹が立つ」


「何がです」


「何でもない」


 ナディアが馬へ荷を括りながら言った。


「出発前から元気ですね」


「どこがだ」


「私は止めましたからね」


「何を」


「何でもありません」


 最近。周りの人間が、この返事を使いすぎている。誰のせいかは考えないことにした。フィーネが馬車へ乗る。ユーフェミアは自分の馬へ跨がった。東の空が白み始めている。十五日の猶予。もう三日使った。残り十二日。源流環を見つける。直す。改善値を取る。それができなければ、公表する。それだけだ。


「行くぞ」


 ユーフェミアが言った。一行が動き出す。白楡館の白い並木が、ゆっくり後ろへ遠ざかっていった。



 その半刻後。白楡館から東へ続く街道脇。古い石壁の陰から、一人の男が顔を出した。旅商人の外套。泥のついた靴。荷は少ない。男は遠ざかる馬車を見た。数を数える。王女。灰狼の護衛。ラグランジュ令嬢。その侍女。測量器材。北東へ向かう。男は懐から、小さな紙片を取り出した。そこには、聖庁の文書で使われる、細い七本線の透かしが入っていた。


 筆を走らせる。――対象、白楡館を出発。――方角、北東。――地脈測量器材を確認。紙を折る。封はしない。別の男へ渡す。


「急げ」


「王都へ?」


「違う」


 男は街道の北東を見る。


「先へ回せ」


 馬が一頭。朝霧の中を走り出した。ユーフェミアたちは、まだ知らない。十五日を買ったその瞬間から、相手もまた、時間を使い始めていた。



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