第80章 イタリアの泥濘と新たな的
1944年春。
太平洋の西半分を完全に制圧し、ハワイを難攻不落の要塞へと作り変えた豊栄大日本帝国が不気味な静寂を保つ中、地球の反対側であるユーラシア大陸の西半分は、人類史上かつてない流血の泥沼へと完全に沈み込んでいた。
東部戦線においては、ウラル山脈の東麓で、ドイツ国防軍とソ連赤軍の残党が、互いの数千両の戦車と数百万の将兵の命を際限なくすり潰す凄惨な消耗戦を繰り広げている。
そして、南ヨーロッパ。
前年、シシリー島を経てイタリア本土・サレルノの海岸へと直接上陸を果たしたアメリカ合衆国の巨大な軍事質量は、一気に永遠の都ローマまで駆け上がるかに見えた。しかし、ドイツ南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥は、イタリア王立陸軍の残党を無慈悲な「肉の盾」として使い捨てながら、険しいアペニン山脈の地形を極限まで利用した遅滞防衛陣地──『グスタフ・ライン』を構築していた。
アメリカ合衆国の誇る『マニュファクチャリング・モンスター(大量生産の怪物)』が吐き出す鋼鉄の津波は、イタリア中部の峻険な山岳地帯という物理的なボトルネックに激突し、その圧倒的な運動エネルギーを完全に空回りさせられていたのである。
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1944年4月15日 午前6時00分
イタリア半島中部 アペニン山脈 『グスタフ・ライン』
モンテ・カッシーノ修道院跡地 直下
ドイツ国防軍 第10軍 第1降下装甲師団『ヘルマン・ゲーリング』陣地
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かつてヨーロッパ最古の修道院として威容を誇っていたモンテ・カッシーノの白亜の建造物は、数ヶ月に及ぶアメリカ軍の猛烈な艦砲射撃と航空爆撃によって、すでに無残な瓦礫の山へと変わり果てていた。
しかし、その粉砕された分厚い石積みの下こそが、ドイツ軍にとってこの上なく強固な天然の要塞となっていたのである。
「……また来るぞ。アメリカの成金どもは、弾薬を何だと思っているのだ。まるで空に向かって紙屑をばら撒くような真似を」
瓦礫の隙間に完全にカモフラージュ(ターン・ネッツ)された重戦車『VI号戦車 ティーガーI(パンツァー・カンプフ・ヴァーゲン・ゼクス ティーガー・アインス)』の車長席で、第1降下装甲師団の重戦車中隊長、マクシミリアン・フォン・マイヤー大尉が、土埃にまみれた防塵眼鏡を拭いながら忌々しげに吐き捨てた。
彼らの眼下に広がるラピド川の谷底は、春の雨と砲撃によって完全にドロドロの泥濘と化していた。
そして、その泥の海を埋め尽くすようにして、緑色に塗装された何百両もの無骨な鉄塊──アメリカ軍の『M4A1 シャーマン中戦車』の群れが、エンジンを空吹かしさせながら、斜面を這い上がろうと蠢いている。
「距離2,000。目標、先頭のアメリカ戦車。……徹甲榴弾、装填」
マイヤー大尉の低く冷徹な命令が、ガソリンと汗の臭いが充満する車内に響く。
「装填完了!」
装填手のミュラー伍長が、分厚い閉鎖機を力強く叩き込んだ。
彼らが陣取るモンテ・カッシーノの高台は、眼下の谷を登ってくる敵に対して、完璧な俯下角を持っていた。
「撃て(フォイア)!」
ドゴォォォォォンッ!!
ティーガーの主砲、56口径8.8センチ(アハト・アハト)砲が、空気を引き裂くような凄まじい咆哮を上げた。
初速800メートル毎秒を超える重厚な徹甲弾が、急斜面を登ろうと泥にキャタピラを空転させていたアメリカ軍のM4シャーマンの薄い上面装甲を、まるでバターのように容易くブチ抜いた。内部のガソリンと弾薬が誘爆し、30トンの鋼鉄の塊が瞬時に巨大な火柱へと変わる。
「次弾! 左の車両を狙え! 奴らの豆鉄砲では、この距離から我々の前面装甲は絶対に抜けない!」
マイヤーの号令とともに、稜線に隠蔽されていた数十両の『ティーガーI』や長砲身の『IV号戦車(G型)』、そして無数の『8.8センチ高射砲』が一斉に火を噴いた。
アメリカの工場から吐き出された大量のM4シャーマンは、山肌に遮られてまともな陣形を組むこともできず、泥に足を取られながら、ドイツ軍のアウトレンジからの精密射撃によって、次々と火だるまのスクラップに変えられていった。
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同日 午前7時30分
イタリア半島中部 ラピド川 谷底
アメリカ陸軍 第5軍 第1機甲師団 突撃部隊
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「退がれ! バック(後退)しろ! このままじゃただの射撃マト(ターゲット)だ!」
アメリカ陸軍・第1機甲師団の車長、ウィリアム・G・ガーナー軍曹は、『M4A1 シャーマン中戦車』のハッチから身を乗り出し、喉が裂けるほどの声で絶叫した。
サレルノの砂浜でドイツ軍の洗礼を受けた彼は、このイタリア戦線の泥沼で、すでに三度も自分の乗る戦車を撃破され、その度に後方から届けられる新品のシャーマンに乗り換えて、再びこの地獄へ戻ってきていた。
ガァァァァンッ!!
ガーナーのすぐ隣を登っていた僚車が、丘の上からの88ミリ砲弾の直撃を受け、砲塔を根本から吹き飛ばされた。燃え盛る車内から、若い戦車兵たちが火だるまになって転がり出てくる。
「クソったれ! 空軍は何をしている! あの修道院の跡地を爆撃機で完全に平らにしたんじゃなかったのか!」
ガーナーの部下である砲手が、涙声で悪態をつく。
「爆撃でできた瓦礫が、逆にナチスの最高のトーチカ(バンカー)になっちまったんだよ! 撃ち返せ! 75ミリ(セブンティ・ファイブ)の弾薬をすべて丘の上へバラ撒け!」
M4シャーマンの75ミリ戦車砲が反撃の火を噴くが、急角度で見上げる丘の上、しかも瓦礫に隠れたドイツ戦車の前面100ミリ装甲を貫通することは、物理的に不可能であった。
アメリカ合衆国が誇るマニュファクチャリング・モンスターが生み出した圧倒的な生産力は、このイタリアの狭く険しい山岳地帯においては、数的な優位を全く活かすことができず、ただ狭い谷底に戦車の渋滞を引き起こし、ドイツ軍に極上の標的を提供しているだけであった。
「……神よ(オー・マイ・ゴッド)。ここはただの巨大な肉挽き機だ」
ガーナー軍曹は、泥と血にまみれた顔で天を仰いだ。
ヨーロッパの扉をこじ開けるはずだったイタリア戦線は、アメリカの若者たちの命と、デトロイトの工場が吐き出す鋼鉄を無尽蔵に飲み込む、終わりのない地獄へと完全に沈み込んでいたのである。
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1944年4月20日 午後2時00分
米国ワシントンD.C. ペンタゴン(米国防総省)
地下最高戦略会議室
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ワシントンD.C.の地下深く、眩い蛍光灯に照らされた重苦しい空間に、二つの国家の命運を握る最高指導者たちが顔を揃えていた。
車椅子に深く身を沈めた、第32代アメリカ合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト。
そして、その対面に座り、トレードマークの太い葉巻を苛立たしげに燻らせているのは、カナダ・オタワの亡命政府から極秘裏に飛来した大英帝国首相、ウィンストン・チャーチルであった。
「……以上が、イタリア戦線における我が第5軍の現状です。前進は完全に停止。ローマの南に構築された『グスタフ・ライン』の突破は困難を極めており、我が軍のM4シャーマン中戦車と歩兵の損耗率は、許容限界を超えつつあります」
合衆国陸軍参謀総長、ジョージ・C・マーシャル大将が、報告書を机に置き、苦渋に満ちた表情で首を振った。
「ナチスのアルベルト・ケッセルリンク元帥は、イタリアの山岳地形を完璧に利用しています。我々がいかに東海岸の港から無尽蔵の戦車や弾薬を運び込もうとも、それを展開するための平野が存在しない。兵站のパイプラインは太くとも、それを戦場へ叩きつける『蛇口』が細すぎるのです」
ルーズベルト大統領は、手元のシガレットホルダーを弄びながら、冷徹な目で壁面の巨大なヨーロッパ海図を見つめた。
「イタリア半島の『柔らかい下腹』からヨーロッパを抉り出すという作戦は、地形という物理的障壁の前に頓挫したというわけか」
「その通りです、プレジデント(大統領)」
マーシャルが言葉を継いだ。
「これ以上、イタリアの泥沼に我が国の莫大な工業力を注ぎ込むのは、戦略的な浪費です。ヒトラーは我々を山に釘付けにし、その間に東部戦線での立て直しを図ろうとしています」
沈黙が会議室を支配する中、カナダから飛来した老獅子、チャーチル首相が重い口を開いた。
「ルーズベルトよ。我々がイタリアの山の中で無為に血を流している間にも、大英帝国の心臓であったロンドンは、ナチスの軍靴に踏みにじられ続けている。極東ではジャップがインドを制圧し、我々の命脈は真に尽きかけようとしているのだぞ」
チャーチルの血走った眼光が、ルーズベルトを射抜く。
「今こそ、大戦略を転換する時だ。細く険しいイタリアの山道を這い上がるのではなく、我々の持てる『海からの暴力』を最大限に発揮できる場所……すなわち、ナチスが占領する『イギリス本土』へ直接、海を渡って逆上陸を仕掛けるのだ」
その言葉に、海軍作戦部長であるアーネスト・J・キング大将が眉をひそめた。
「チャーチル首相。しかしイギリス本土の海岸線には、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が構築した難攻不落の要塞線……『大西洋の壁』が聳え立っています。そこへ正面から上陸船団を差し向ければ、イタリア以上の凄惨な出血を強要されることは火を見るより明らかです」
「出血を恐れるな! 質量で押し潰すのだ!」
チャーチルが机を激しく叩き、葉巻の灰を散らした。
「アメリカの造船所から、毎週のように湧き出しているあの数千隻の戦車揚陸艦(LST)と戦時標準船は何のためにある! イタリアの山道では戦車を並べられなくとも、広大な大西洋とイギリスの平坦な海岸線ならば、その無尽蔵の生産力を『面』として一度に叩きつけることができる!」
ルーズベルト大統領は、車椅子の背もたれからゆっくりと身を起こし、その双眸に底知れぬ狂気と合理主義の炎を宿らせた。
「……チャーチルの言う通りだ。イタリアという袋小路にこれ以上付き合う必要はない。我々の『マニュファクチャリング・モンスター』の最大の強みは、平面における質量の飽和攻撃だ」
ルーズベルトの指先が、海図の上の「イギリス本土」を強く指し示した。
「マーシャル将軍、キング提督。太平洋のジャップはハワイの地下要塞に引き籠もり、我々の反攻を待っている。ならば、彼らにはもうしばらく待っていてもらおう。我が合衆国の全工業力を、これより大西洋へ完全に集中させる。カナダのハリファックスに展開している大英帝国亡命本国艦隊と、我が第8艦隊および第10艦隊を完全に統合し、人類史上最大の『鋼鉄の橋』を大西洋に架けるのだ」
大統領の言葉は、西半球の全生産力を一つの点へ収束させる、恐るべき死刑執行の宣告であった。
「作戦名『リターン・キング(王の帰還)』。……海を埋め尽くすリバティ船と揚陸艦のベルトコンベアで、ナチスに占領されたイギリス本土の海岸線へ、数百万人規模の上陸部隊と数万両のシャーマン戦車を直接吐き出す。ルントシュテットの壁など、物理的な質量ですべて平らな駐車場に変えてやれ」
ワシントンD.C.の地下深くで、ヨーロッパの泥沼を強引に終わらせるための、史上最大の逆上陸作戦が正式に立案された。
太平洋で冷徹に時を待つ豊栄大日本帝国の背後で、アメリカとイギリスが、ナチス・ドイツの支配する「旧き王土」を奪還すべく、大西洋を血で染め上げる巨大な鉄の津波を準備し始めたのである。




