第74章 西海岸の巨竜と焦燥のルーズベルト
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1944年5月上旬
アメリカ合衆国 ワシントンD.C. ホワイトハウス 大統領執務室
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オーバル・オフィス(大統領執務室)の分厚いマホガニーの扉が閉ざされた室内は、まるで通夜の席のような、凍りつくほど重苦しく、そして濃密な絶望の空気に支配されていた。
「……以上が、ハワイ奪還作戦における最終損害報告です。第5水陸両用軍団および第1機甲師団を含む数万の上陸部隊は、空母部隊の撤退によりワイキキ海岸において完全に孤立。日本軍の地下要塞からの猛烈な十字砲火の前に多大な出血を強いられ……現地指揮官であるホランド・M・スミス少将の判断により、無条件降伏を行いました」
合衆国海軍作戦部長であるアーネスト・ジョゼフ・キング大将が、血の滲むような、絞り出すような声で報告書を読み終え、机の上に静かに置いた。
その目の前で、車椅子に深く身を沈めた第32代アメリカ合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、微かに震える手でシガレットホルダーを弄んでいた。
「ハワイの海岸に我が合衆国の若者たちを置き去りにし、数万の兵員と船団を丸ごと敵にくれてやっただと? 誇り高き合衆国海軍の第5艦隊は、陸軍の若者たちを見殺しにして尻尾を巻いて西海岸へ逃げ帰ってきたというのか!」
ルーズベルトの怒声が、執務室の空気を激しく叩き打った。
「大統領閣下、言い訳はいたしません。しかし、我々を護るはずの航空支援は限界に達し、第一艦隊の巨砲に怯えながら艦隊を維持する弾薬すら底を突いていました。あの海域に留まれば、艦隊は全滅し、合衆国は太平洋における海軍力を完全に喪失していたのです!」
キング大将が苦渋に満ちた顔で弁明する。
傍らに直立していた合衆国陸軍参謀総長、ジョージ・カトレット・マーシャル大将も、深く重い息を吐き出した。
「大統領。被害は人的なものにとどまりません。我々がハワイ奪還と将来の要塞化のために持ち込んだ天文学的な数のM4シャーマン中戦車、大量の戦車揚陸艦(LST)、そして海軍建設工兵大隊の最新鋭土木重機群やマーストン・マットのすべてが、ジャップの手に『無傷』で鹵獲されました。彼らは今頃、我々が提供した重機を使って、ハワイをさらに地下深くへと要塞化していることでしょう」
「……我々の資産で、我々を拒絶する城を築いているというのか」
ルーズベルトはシガレットを灰皿へ力任せに押し付け、両手で顔を覆った。
太平洋における「絶対的な要石」たるハワイを完全に奪われ、上陸部隊を丸ごと降伏させられた。もしこの事実がアメリカ国民に広く知れ渡れば、ホワイトハウスの前に暴動が起き、政権は間違いなく吹き飛ぶだろう。
さらにマーシャル大将は、冷酷な地政学的現実を突きつけた。
「ハワイを完全に失ったことで、我々が太平洋を西進するための前線基地は、西海岸のサンディエゴか、北のアリューシャン列島、あるいは遥か南の豊秋津島東岸に孤立している英連邦租界を起点にするしかありません。しかし、そのシドニーすらも、今やジャップの新鋭『鷲型空母』の包囲網に落ちる寸前とされています。太平洋の西半分は、完全に奴らの内海と化しました」
沈黙が降りた。
だが、顔を上げたルーズベルトの双眸には、絶望ではなく、底知れぬ狂気と冷徹な算盤の光が宿っていた。
「……だが、我々は負けていない。アメリカ合衆国は、決して折れはしないのだ」
ルーズベルトは車椅子を進め、壁に掛けられた巨大な世界地図の「ヨーロッパ」を力強く指差した。
「マーシャル将軍、キング提督。ジャップがハワイの砂浜で戦利品の勘定に酔いしれている間に、我々の本当の『力』を解放する時が来た。我々の戦争は、前線の兵士の技量や武士道などで決まるのではない。デトロイトの自動車工場と、ピッツバーグの溶鉱炉の熱量で決まるのだ」
大統領の言葉は、恐るべき冷徹さに満ちていた。
「国務長官、イギリスのチャーチル首相との連携はどうなっている? 太平洋でジャップにかまけている間に、ユーラシア大陸が完全にナチスとジャップの手に落ちれば、我が合衆国は二つの海に閉じ込められたまま干上がって死ぬ。……まずはヨーロッパだ。ナチス・ドイツの支配するフランスの海岸線に、我が国の全質量を叩きつけ、巨大な『第二戦線』を構築するのだ!」
ルーズベルトは、太平洋での屈辱を晴らすための一撃を、まずはヨーロッパ戦線へと振り下ろす決断を下していた。
「アイゼンハワー将軍に準備を急がせろ。ヨーロッパの扉をこじ開けつつ、同時に西海岸の工場を限界突破で稼働させる。ジャップがハワイの地下に籠もっている間に、我々はその要塞を島ごと物理的に消し飛ばすだけの『鋼鉄の津波』を準備するのだ」
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同月中旬
アメリカ西海岸 カリフォルニア州
カイザー造船所 巨大ドック群
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ワシントンの地下でルーズベルトの狂気的な決断が下されていたまさにその頃、アメリカ西海岸の巨大な造船所群は、人類史上かつてない「マニュファクチャリング・モンスター(大量生産の怪物)」の咆哮を轟かせていた。
「溶接を急げ! スケジュールが2日遅れているぞ! 次の鋼板ブロックをクレーンで降ろせ!」
カリフォルニアの冷たい海風が吹き抜けるカイザー造船所のドックでは、数万人の工員たちが、昼夜の区別なく、強烈なアーク溶接の青白い閃光を散らし続けていた。
彼らの多くは、戦争が始まるまで船の造り方など全く知らなかった農夫や、自動車工場のライン工、さらには女性労働者たちであった。
そこにあるのは、日本の造船所で見られるような、熟練の職人たちがリベットを一本一本丁寧に打ち込み、流線型の美しい船体を組み上げる「造船」の光景ではない。
「船の美しさなんかどうでもいい! 浮いて、走って、大砲が撃てればそれでいいんだ! 隙間は溶接で強引に塞げ!」
現場監督がメガホンで叫ぶ通り、内陸の巨大な鉄鋼工場で四角く成形された鋼鉄のブロックが列車で運ばれてくると、それをクレーンで船台に並べ、工員たちがひたすら電気溶接で強引に繋ぎ合わせていく。
それは造船というより、巨大な「鉄の箱の組み立て作業」であった。
この徹底したブロック工法と溶接技術の乱用により、熟練工を必要としないアメリカの造船システムは、1万トン級の戦時標準船(リバティ船)を平均42日、最速でわずか4日と15時間という狂気的なスピードで進水させていた。
さらに、彼らが現在最も優先して建造を急いでいるのは、太平洋で日本軍に対抗するための「新たな矛」であった。
「……見ろよ。またあのデカい鉄箱が海に降りるぜ」
溶接マスクを額に押し上げた工員が、ドックの隣で進水式を待つ巨大な船体を指差して息を吐いた。
基準排水量2万7100トンの新鋭大型空母『エセックス級』。
ハワイやタラワの海で失った空母の穴を埋めるため、アメリカは「沈められた空母の三倍の数を造る」という暴力的ドクトリンを発動。すでに『フランクリン』『タイコンデロガ』『ランドルフ』といった同型艦が、文字通り「数週間に1隻」という信じがたいペースで全米のドックから吐き出されようとしていた。
「ジャップの空母がどれほど精巧に造られていようと、我々が造るこの『浮かぶ鉄の金庫』の波で、太平洋を埋め尽くしてやる」
西海岸の海は、アメリカの絶望的なまでの「量産力」によって、黒々と塗りつぶされつつあった。
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1944年5月下旬
ワシントン州 シアトル
ボーイング社 第2工場
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西海岸の空の刷新は、艦艇だけにとどまらなかった。
カリフォルニアからさらに北、ワシントン州シアトルに広がるボーイング社の巨大な生産ラインでは、人類の航空史を根底から塗り替え、日本の「職人技の防空網」を完全に過去の遺物とする「終末の兵器」が、ついにその銀色の全容を現しつつあった。
「……これが、我が合衆国陸軍航空軍が誇る究極の刃か」
視察に訪れた合衆国陸軍航空軍司令官、ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド大将は、巨大な格納庫の天井を覆い尽くすほどの規格外の巨体を前に、ただ呆然と立ち尽くした。
「はい、アーノルド大将。『B-29 スーパーフォートレス(超空の要塞)』の初期量産型です」
ボーイング社の主任技師が、分厚いマニュアルを片手に誇らしげに胸を張った。ジュラルミン剥き出しの銀色の胴体が、工場の水銀灯を反射して冷たく光っている。
全長30メートル、全幅43メートル。これまでのB-17やB-24といった四発重爆撃機が、子供のおもちゃに見えるほどの圧倒的な巨大さを誇る怪鳥である。
「この機体の最大の特徴は、機体内部が完全に『与圧』されていることです。つまり、乗員は分厚い防寒着や酸素マスクをつけることなく、高度1万メートルという、ジャップの戦闘機や高射砲が届かない成層圏を、ワイシャツ姿で快適に飛行できるのです」
主任技師は、機体各所に配置された滑らかな黒い銃塔を指差した。
「さらに、防御用の機関銃座はすべてアナログな手動操作を廃止し、『アナログ計算機による遠隔操作』へと移行しました。コンピューターが敵機の速度と弾道を自動計算し、無機質なシステムが確実に敵の迎撃機を叩き落とします」
アーノルド大将は、その銀色の機体の滑らかな肌に触れながら、震える息を吐いた。
日本の岐州重工(織田家)や上杉航空が生み出す戦闘機は、確かに職人技の極致であり、芸術的な運動性能を誇っている。しかし、アメリカはこのB-29によって、そうした「職人の技量」や「格闘戦の美学」といったものを、高度1万メートルの空から一方的に蹂躙し、完全に意味のない過去の遺物へと変えようとしていたのだ。
「キング提督の海軍が、太平洋の島々を一つ一つ血を流して奪い返すのに1年かかるというのなら……我々陸軍航空軍は、このB-29の大編隊で太平洋を直接飛び越える」
アーノルド大将の言葉には、アメリカ合衆国という国家が持つ冷徹な合理主義と、暴力的なまでの基礎工業力が凝縮されていた。
「ジャップの兵器工場もろとも、彼らの国家そのものを高度1万メートルから灰燼に帰してみせる。職人が刃を研ぐ時代は、我々の爆弾で完全に終わるのだ」
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1944年6月上旬
ワシントンD.C. ペンタゴン(米国防総省)
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ハワイの悪夢から数週間。
ペンタゴンの地下深くで、ルーズベルト大統領は、次々と報告される西海岸からの「生産完了」のリストに目を通しながら、氷のような笑みを浮かべていた。
「大統領。ヨーロッパ戦線において、アイゼンハワー将軍が指揮するフランス沿岸への大規模上陸作戦(第二戦線構築)の準備が、いよいよ最終段階に入りました」
マーシャル陸軍参謀総長の報告に、ルーズベルトは深く頷いた。
「よろしい。ナチスの息の根を止め、ヨーロッパの扉をこじ開ける。そして同時に……」
ルーズベルトは、車椅子から身を乗り出し、机の上に置かれた『B-29』の青写真と、進水を待つ数十隻の『エセックス級空母』のリストを強く叩いた。
「太平洋のジャップどもにも、我が合衆国の怒りの本当の重さを教えてやる。彼らがどれほど精緻な戦闘機を作り、オーストラリアやハワイを地下要塞化しようとも、我々はこの『マニュファクチャリング・モンスター』が吐き出す鋼鉄の津波で、彼らの絶対防衛圏を外側から順に、地形ごと物理的にすり潰す」
日本の極め抜かれた名刀に対して、アメリカは無尽蔵に湧き出す「規格化された鉄のハンマー」の雨で応えようとしていた。
ハワイでの屈辱を血の涙で飲み込んだ西海岸の巨竜は、その無限の胃袋から次なる終末の兵器を吐き出しながら、太平洋とヨーロッパという二つの巨大な大洋へ向けて、真の「総力戦」の顎を大きく開き始めていたのである。




