第十話:白風の前にて
その夜、月は雲に隠れていた。
カイは、長屋の藁布団の上で、目を閉じたまま、『野性の勘』を糸のように細く、しかし確実に起こし続けていた。
(——来るとすれば、今夜か、明日か)
『勘』が、長屋全体の生命反応を、薄い網のように覆っていた。
鼾を立てる古参足軽たち。寝返りを打つ若衆。そして——一つだけ、起きている気配。
(……荒木田。組頭が、起きている)
長屋の隅、組頭の小部屋。荒木田は、寝床に入っていなかった。じっと座って、何かを待っている気配だった。
(……今夜だ)
カイは、目を閉じたまま、太郎丸の方角に意識を向けた。
『指揮』のスキルが、薄い「通り道」として太郎丸へ繋がっているのを、カイは確かめた。意志は、まだ伝えていない。だが、いつでも繋がる。
そして、刻が、動いた。
——
寅の刻——朝四時前——のさらに前。
長屋の戸が、音もなく開いた。
組頭の荒木田が、足音を殺して外へ出ていく気配を、カイの『勘』は確かに捉えた。
(——動いた)
カイは、藁布団から音もなく起き上がった。
太郎丸の隣へ寄り、肩を軽く揺すった。
「太郎丸」
「……兄貴」
太郎丸は、即座に目を開けた。長屋でカイが声をかける時の意味を、すでに理解していた。
「来た。お前は、俺の言うことだけを聞け。動くなと言ったら動くな。動けと言ったら動け」
「分かった」
カイは木刀を取り、長屋を出た。
——
外の闇は、思ったより深かった。
雪解けが進んだ城内の地面は、ぬかるんで足音を吸う。だが、その分、滑りやすい。
カイは、二の丸の東側——厩の方角へ向かった。
『野性の勘』が、すでに複数の異質な気配を捉えていた。
(——三つ。先日、塀の外で見た連中だ)
(——もう一つ。組頭の荒木田)
(——そして、本丸の方角に、近藤様の手配した警備の動き)
近藤は動いていた。だが、刺客の三人が向かっている細道は、城内警備の死角に近い。荒木田が手引きしているのが、はっきりと見えた。
(——荒木田は、刺客を厩の脇から本丸の奥廊下へ通すつもりだ。長政公の御座所への最短経路)
カイは、厩の影に身を伏せた。
そこに、太郎丸が音もなく追いついてきた。
「兄貴。どうする」
「お前はここに伏せてろ。白風の馬房に誰も近づけるな。馬が暴れれば、刺客の動きが止まる。お前の役目は、白風を守ることだ」
「……俺が、戦うんじゃないのか」
「お前が戦うのは、白風を守る時だけだ。それ以外では、絶対に動くな」
太郎丸は、唇を引き結んで頷いた。
カイは、太郎丸の肩を軽く叩き、闇に溶けるように動き出した。
『指揮』のスキルが、太郎丸に向かって、薄い意志の糸を張り続けていた。
——
厩の脇の細道に、四つの影が現れた。
先頭は荒木田。後ろに、町人風の三人。
カイは、細道の角、藁束の影に伏せて、息を殺した。
刺客の三人は、先日塀の外で見た時とは違っていた。今夜は、それぞれが懐から鋭利な短刀を抜いている。腰の落とし方、足の運び——明らかに、人を殺し慣れている。
カイは、刺客の一人——先頭の男に視線を向けた。
(——触れずに、武力は読めない。だが、勘で『俺と互角か少し上』と告げている)
(——三人を相手に、剛力一発で全部は倒せない。剛力は30秒、武力35→60。一人ずつなら確実に倒せるが、三人同時はきつい)
(——近藤様の警備が、ここに来るのが先か、刺客が本丸に届くのが先か)
カイは、もう一度『勘』を絞った。
近藤の警備の足音は、まだ遠い。少なくとも、四半刻はかかる。
(——間に合わない。俺がここで止めるしかない)
カイは、藁束の影で、心を決めた。
——
荒木田が、刺客の三人を細道の出口まで誘導した。
「ここから先は、二人だけで進め。三人目は、戻り道の警戒だ。帰り道、私が裏門まで送る」
刺客の頭らしき男が、無言で頷いた。
二人が、細道の出口から出ようとした。その瞬間。
カイは、藁束の影から飛び出した。
「『剛力』」
【スキル:『剛力(Lv.1)』を発動】
【現在体力 54 の一割を消費——切上げ6消費】
【体力:54 → 48 / 54】
【一時補正:武力 35 → 60(+25)】
【効果時間:30秒】
体内で熱が爆ぜる。
カイは、最も近い刺客——先頭の男に、木刀を真上から振り下ろした。
不意打ち。剛力の60。男の頭蓋に直撃。
ゴッ、という重い音と共に、男は声もなく崩れ落ちた。
(——一)
刺客の二人目が、即座に振り向いた。短刀を逆手に構え、低く、低く、地を這うように突進してくる。
カイは『野性の勘』で軌道を読み、横に転がって躱した。
短刀が、カイの肩の藁束を切り裂いた。藁が宙に舞う。
(——速い。武力で言えば、たぶん俺より上だ)
刺客二人目の動きは、佐吉や兵助とは桁違いだった。完全に、人を殺すための動きだった。
カイは、転がった勢いで木刀を構え、二人目に正面から向き合った。
——剛力、残り十数秒。
その時。
背後で、三人目の刺客が、カイの背を狙って動いた気配を『勘』が捉えた。
(——挟まれた)
カイは、太郎丸の方向に意識を向けた。
『指揮』。
(——太郎丸、白風の馬房の戸を開けろッ!)
意志が、薄い糸を伝った。
ほぼ同時に、馬房の方角から、白風の凄まじい嘶きが轟いた。
「ヒィィィィィィィィン——ッ!」
戸が開かれた瞬間、白風は、自由を得た馬の本能で、外へ飛び出した。
長政公の愛馬、雪のように白い駿馬。それが、夜の闇の中、刺客の三人目の前に、突然現れた。
刺客の三人目は、馬の突進に反応しきれず、横に飛んだ。
その瞬間、カイの動きが、変わった。
二人目の刺客に正面から向き合っていたカイは、突如、左に低く沈み込み、刺客の脇腹に木刀を叩き込んだ。
剛力の最後の一撃。武力60。
ゴッ、という音と共に、二人目の脇腹がへし折れた。男は声を上げる暇もなく、地に崩れた。
(——二)
【剛力の効果時間が終了しました】
カイの武力は、35に戻った。
だが、もう、カイの目の前に立っている敵は、一人だけだった。三人目は、白風の突進に気を取られて、馬を躱すために体勢を崩していた。
カイは、その隙に、三人目の刺客の懐に飛び込んだ。
剛力なし、ただの武力35。だが、刺客の体勢は崩れている。
カイは、木刀の柄頭で、三人目のこめかみを打った。
ゴ、と鈍い音。
三人目は、白目を剥いて崩れ落ちた。
(——三)
カイは、息を整える間もなく、最後の一人——荒木田に向き直った。
——
荒木田は、細道の角で、棒立ちになっていた。
刺客が三人とも、わずか数十秒で潰された。それを、自分の縁続きの古参・佐吉が肝を潰された時の比ではない速さで。
「……お前、何者だ」
「足軽でございます。組頭」
カイは、淡々と答えた。
「組頭こそ、何をしておられるのですか。長屋を抜け出し、こんな場所で、刺客と話し込むとは」
「……っ」
荒木田は、太刀を抜こうとした。
だが、その瞬間。
「動くな、荒木田」
闇から、声が落ちた。
近藤忠吾が、四半刻先と思われた警備の足音より早く、すでに細道の入り口に立っていた。
その背後には、十名ほどの城内警備の武士。
(——間に合った……いや、近藤様は、最初から警備をこの距離まで近づけていた)
カイは、ようやく息を吐いた。
近藤は、荒木田を一瞥した。
「お前の動きは、二日前から把握しておった。今夜、刺客と落ち合うのも分かっていた。だが、刺客を取り逃がせば、後ろの黒幕は永遠に掴めぬ。だから、敢えて刺客を踏み込ませた」
「……」
「その上で、刺客を仕留めるためには、お前の動きを察知して動ける者が、厩の近くに必要だった」
近藤の視線が、カイに移った。
「カイ。よくやった」
「……お言葉、ありがとうございます」
「縛れ」
警備の武士が、荒木田を取り押さえた。荒木田は抵抗する気力もなく、雪解けのぬかるみに膝をついた。
刺客の三人は、二人が意識不明、一人が気絶。生きている者は、これから尋問にかける。死者は出ていない。
近藤は、カイに歩み寄った。
「白風を、馬房から出したのは、お前か」
「太郎丸に指示を出しました」
「……指示」
近藤の眉が、わずかに動いた。
「足軽が、足軽を指揮するか」
「やむを得ず」
近藤は、わずかに笑った。
「やむを得ず、で殿の愛馬を解き放つ足軽は、お前くらいだろう」
——
夜明けが近づいていた。
カイ、太郎丸、近藤、そして縛られた荒木田と、意識を失った刺客たちが、本丸の前庭に集められた。
そして、そこに——一人の武士が現れた。
質素な小袖の上に、薄い羽織。だが、その立ち姿だけで、カイは即座に膝をついた。
『野性の勘』が、声もなく、平伏を命じていた。
(——重い。近藤様より、太田様より、城内で会った誰よりも、桁違いに重い)
「面を上げよ」
声は、低く、深かった。
カイは、顔を上げた。
四十がらみの武士。顔立ちは整っているが、目元には深い思考の影があった。
その傍らで、近藤が頭を下げた。
「殿。本件、無事に処理いたしました」
(——殿)
カイの背筋が、一瞬で凍った。
——黒羽長政。城主、その人。
「近藤。事の経緯を、簡潔に申せ」
「は。隣領・葛西からの刺客三名が、家中の組頭・荒木田の手引きにより、二の丸厩脇から本丸への侵入を図りました。手引きの背後に、猪又殿の関与が疑われます。刺客は、足軽カイが、もう一人の足軽・太郎丸を指揮して、すべて生け捕り、もしくは無力化いたしました」
長政の目が、カイに向いた。
「……足軽、二人で、刺客三人を仕留めたか」
「はい」
「お前が、カイか」
「は。足軽カイ、参じております」
長政は、しばらくカイを見つめた。
その目は、観察ではなく、興味だった。何かを測っている目。
「近藤」
「は」
「この者は、もう、足軽ではない」
「……は」
「明日付で、組頭格の臨時職を与える。罰の三月は、本日をもって満了とする。荒木田の後任は、この者に当面任せる」
「承知いたしました」
長政は、カイに視線を戻した。
「カイ。お前は、北の森の主を仕留めた水呑だな。村長家の不正を看破した者だな」
「はい」
「そして、今夜、刺客から私の命を救った者、でもある」
「……」
「お前の名は、覚えておく」
それだけ言って、長政は踵を返した。
近藤が深く頭を下げ、長政を本丸へ送った。
——
カイは、しばらく動けなかった。
(——殿が、俺の名を、覚えると言った)
熊を倒した時とも、五郎を屈服させた時とも、近藤と笑い合った時とも違う、別種の重みが、カイの胸に沈み込んでいた。
『野性の勘』は、まだ、長政の去った方向に、震えるような余韻を残していた。
(……あれが、城主か)
数値は、読めなかった。だが、勘で言えば、カイがこれまで触れてきたどの武士とも、桁違いに格上だ。
『野性の勘』が、まだ何かを告げていた。
(——だが、あの方の背後にも、もっと重い、何かがあった気がする。あれは、長政公自身の格か、それとも——)
カイは、それ以上は考えなかった。今は、考えるべき時ではない。
——
【経験値を獲得:刺客の制圧、城主の認知、城内派閥構造への正式な参画を確認】
【レベル:7 → 10】
【全基本能力値の天頂が大幅に上昇】
カイの脳内で、再び黄金の樹が、これまでで最も深く根を張り巡らせた。
【対象:カイ】(17歳・Lv.10)
【職】:足軽組組頭格(臨時)
【体力】:72 / 72 (+18)
【武力】:42 (+7)
【知力】:48 (+7)
【魅力】:65 (+7)
【統率力】:42 (+10)
【SP】:15
(……職が、変わった)
カイは、自分のステータスを見つめた。
体力72、武力42、知力48、魅力65、統率力42。
一足軽だった自分が、ようやく「武士」と呼ばれて違和感のない数字に手をかけた。
そして、統率力が一気に+10。
(——指揮、太郎丸との連携、刺客の制圧、城主からの認知。これらが全部、統率力を伸ばしたのか)
カイは、長く息を吐いた。
夜が、明けようとしていた。
東の空に、薄い藍色が広がり始めている。
カイは、太郎丸を呼んだ。
「太郎丸」
「兄貴」
「白風を、厩に戻せるか」
「ああ。あいつ、もう落ち着いてる」
太郎丸は、白風の手綱を引いて、厩の方へ歩いていった。
カイは、その背中を見送りながら、もう一度、自分の手のひらを開いた。
知らず、汗で濡れていた。
水呑のカイが、村長家を潰し、城に上がり、長屋を制し、刺客から城主の命を救った。
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——「将になる」物語が、始まろうとしていた。
——
■ 第十話・終 現在のステータス
【対象:カイ】(17歳・Lv.10)
【職】:足軽組組頭格(臨時)
【体力】:72 / 72
【武力】:42(剛力使用時:67)
【知力】:48
【魅力】:65
【統率力】:42
【SP】:15
【保有スキル】
野性の勘(Lv.1)/剛力(Lv.1)/鑑定(Lv.1)/冷静沈着(Lv.1)/交渉(Lv.1)/応急(Lv.1)/指揮(Lv.1)
——第一章「泥土の鎖」 完——




