1 比叡山(ひえいざん)
澱んだ鐘の響きが、比叡の濃霧を重苦しく波打たせた。
続けて地の底から呻くような鐘の音が、まとわりつく霧を震わせる。
「……気持ち悪い音だ」
背中をはい回るような不快感に繕は沈黙した。
栂尾 繕は、耳を塞ぎたくなるのを堪えて言った。
その声は、甲高い幼児のものになっている。
彼は今、覚猷の背中の葛籠の上に座って覚猷の頭につかまっていた。
その背中の上の繕は、白衣が布団のように体を覆ってしまい、蓑虫やてるてる坊主のようだ。
比叡山の急斜面は、七歳の足で踏み越えられる領域ではない。
覚猷は神代より立つ樹齢数百年の、捻じれたり苔むしたりした巨大な杉がそびえ立つ急斜面を重力ごとき意に介さぬように、暗い杉林の斜面を滑るように登っていた。
音のみならず、大気そのものが変質していた。
煮溶かした膠の中を泳ぐごとき、ぬめり帯びた湿気が全身を舐め回す。
吸い込む息は、朽ちた堂塔の黴臭さと、鼻をつく下卑た抹香が混じり合い、喉の奥にへばりつくようだった。
鳥居をくぐった瞬間、空気の色が変わった。
ここだけ重力が歪んでいるような浮遊感がある。
覚猷は先頭を行き、振り返らずに鋭く告げた。
「心せよ、繕。此処は既に結界の内ぞ……ゆめゆめ、堕つるでないぞ。」
それには答えず、葛籠の上の繕は覚猷の頭を強く抱きしめた。
前を行く覚猷の背中も、いつになく強張っている。
平安京の鬼門を守る聖地、比叡山。
だが、二人が目指しているのは延暦寺の本堂ではない。
山奥にひっそりと佇む、かつて高名な僧侶が隠居所として使っていた古い御堂だ。
風に乗って、人の声が聞こえてきた。
読経だ。
何百、何千という僧侶が一斉に唱えているような、不気味な重低音。
しかし、その言葉には祈りが篭っていないし理解できない言葉の羅列だった。
あるのは、自己顕示欲と、他者をひれ伏させたいという歪んだ支配欲だけだ。
「繕、そなたには何とぞ見ゆる」
覚猷に問われ、繕は眼鏡の位置を直した。
<眼>を発動させる。
世界の色相が反転し、杉林の奥にある御堂の姿が浮かび上がった。
「うわ……なにこれ最悪だ」
繕は絶句した。
御堂は、黄金に輝いていた。
だが、それは清浄な仏の光ではない。
建物の表面、柱の一本一本、瓦の一枚一枚に至るまで、びっしりと「金箔」のようなものが貼り付いてはいるが、それは金箔に見せかけた「カビ」だった。
「はっ。実なき者に限りて、上べを飾りたがるものよ」
覚猷は独鈷杵を握りしめ、自身の法衣の襟を正した。
「参るぞ。折檻の刻なり」




