事件簿3「料理屋で毒ガス発生!?」
「フラン様、こっちこっち、はやく!」
少し先でペトラが元気に手を振って私たちに呼びかける。
「わかったわよ、そんなに慌てなくても店は逃げないでしょ」
「いやいや、悠長にしていたらフラン様のやる気が逃げるかもしれないので!」
あ、それはそうかもなと思った。さすがペトラ。付き合いもそこそこ長いだけある。
自慢じゃないけれど、食べ物にはさほど関心がない。
以前三食スープにパスタを突っ込んだものでいいといったときには、さすがのメイドさん達も相当引いていた気がする。
それだけならただの笑い話だったのだけれど。
そのやり取りが母の耳に入ったらしく、最近妙に料理のバリエーションが増えたような気がする。なんなら私に手伝わせようとする向きもある。
花嫁修業とでもいいたいのだろうか。
料理は正直苦手だ。それに貴族令嬢とは、料理なんかしなくてもいいのではないのか。実際料理人さんが作る料理のほうがよほど品質も安定しているだろうに。
私自身は、工場カイゼンをやっているほうが百万倍楽な気がする。
さて少々話題がそれてしまったけれど、こうやって昼下がりに街を歩いているのにはそれなりの訳がある。
最近できたと聞いた評判の料理屋にペトラがとても興味を持っていて、どうしても今日のお昼はそこがいいと言ってきかない。
なぜ今日なんだというと、ようやく予約が取れたのが今日だったから、だそうだ。
「大変だったんですからね、予約取るの!」
ペトラはドヤりつつ、変わらず成長がみられない胸を張る。
いや、そもそも頼んでないという言葉はぐっと飲みこんでありがとう、と言っておく。
ああ素晴らしきは処世術。
そういうことならまあ仕方ない。ということでいま、連れ出って街を歩いているというわけだ。
なんでも最近人気の店らしい。卓上にコンロを置いてその場で客に肉や野菜を鍋に入れさせ、特製のタレを付けて食べる料理を出すらしい。
「最近肌寒くなってきましたからね。あたたかい料理は正直ありがたいです」
ヘレンが体をさする。たしかに時折吹く風はすこし肌寒く、冬の訪れを思い起こさせる。
案内された席は入り口にほど近いところだった。店の奥に目をやると、昼前だというのに大変な繁盛ぶりだった。
客はみなそれぞれの卓に乗せられたコンロの鍋を囲み、談笑している。窓にはすっかり結露した水滴がついていて、いかにも鍋を食べさせる店なのだと思わせる。
「すごい人気なんだね」
リアが店を見渡してから、感心したように口にした。
「そうなんですよ、ピリ辛のスープに豚と鶏の肉や野菜のうまみが加わってそれはもう極上らしいですよ。やっと予約が取れて」
ペトラの声が今日はやけに頭に響く。興奮しているのだろうか、でも仕方ないか。
風邪でも引いたのかもしれない。最近朝夕冷え込んでいたからか。少し頭痛もする。
「ね、フラン」
ふいに袖をくいくいとニケが引っ張る。
「あ、なに? ニケ」
「ここ、いや。そとにいく」
そういうが早いかニケは席を立つと外に向かって歩き出した。
「え、あ、ちょっとまってニケ。どうした」
慌てて立ち上がったところでガチャン、と物が落ちる大きな音が響き悲鳴が聞こえる。ニケは気になるけれど、そちらに目を向けた。
その途端、軽いめまいに襲われる。少しだるい。これはもう、本格的に風邪かな。
音のしたほうにペトラが真っ先に向かった。遅れてついていく。
どうやら厨房の入り口近くのようだ。
「もしもし、聞こえますか! もしもし!」
人だかりの向こうでペトラの声がする。
人だかりをかき分け、何とかたどり着くとそこには倒れた店員がいた。
「きゅ、急に、体が……動かなくなって……」
「何か持病は?」
ペトラが脈を取りながらたずねる。
「な、い……」
そのまま店員は意識を失ったようだ。再三のペトラの呼びかけにも応答する様子がない。
傍らに散乱しているのは鍋の道具か。割れた土鍋。ぶちまけられた赤みがかったスープ。コンロからは木炭がこぼれ落ち、少しスープがかかったのだろうか、白い煙を上げている。
そういえば先ほどまで活気のあった厨房から何も音が聞こえない。
嫌な予感がする。頭痛も先ほどから強さを増してきた。
ペトラが倒れた従業員を仰向けにしたところであっ、と声を発した。
「ま、魔物です! 夢魔が現れました、みなさん、逃げて!! フラン様も早く!」
とたんに一斉に悲鳴を上げ逃げ出す客たち。
え、なに魔物!? そして従業員の顔を見る。
気を失った者にしては似つかわしくないほどの血色のいい肌。
いけない、これは!
慌てて立ち上がって走ろうとするけれど、体が言うことをきかない。
もうこんなに影響が!?
「ペトラ、あなたも、にげるのよ」
「とっくに逃げてます!」
すっかり鉛のように重くなった体を引きずるように出口に向かう。けれどすぐに動けなくなった。
まずい。
これは大変に、まずい。
けれど体はどんどん重くなる。
泥の中を歩くように一歩、もう一歩。
ずぶずぶと泥の沼に沈んでいくかのように、あっという間に身体のやつがいうことをきかない。
出口まで、まだずいぶんある。
くそ、こんなにこの店、広かったっけ。
振り返ったペトラの表情が、よく……見えない。
……
…………
………………
結局、心配して様子を見に入ってきたリアに抱きかかえられ、店を出る羽目になった。
通りの木陰に腰を下ろし、激しい頭痛と吐き気をこらえつつ深呼吸をする。
「ごめん、助かった。ありがとうリア」
「うほっ。お嬢様がデレた」
「……デレてない」
「えっ、そんなぁ」
「そんなことより、ペトラは? あなたたちは大丈夫? 頭痛とか吐き気とか」
「ペトラちゃんはほら、そこに」
見るとペトラは他のお客さんの様子を診ている。
ぎこちない笑顔。額には脂汗が浮かぶ。
きっと彼女も無事ではないはず。無理はしないでほしい。
「わたしは少し、頭痛がありますが、そこまでは。……あれ? ってことは何か原因があるんですね」
「ええ、いま店の中では致死性の……ガスが発生しつつあるわ」
その言葉に、リアはぎょっと目をむく。
「ちょ、それって大変じゃないですか!」
「そうね。なので元気な人に声をかけて、……すぐに外から窓や開口部を全部、開けるようにいって」
「それってどういう」
「説明はあと……とにかく早く。開かなければ壊してでもいいから、すぐ開けなさい……!」
「わ、わかりました」
リアは私の言葉に気圧されたのだろうか。少し驚いたかのように立ち上がり二、三歩後ずさると、振りかえり周りの男性たちに声をかけだした。
「いい、間違っても中に入るようなことがないように。あと……中の空気は吸わないようにとも」
リアが右手で了解の意思表示をしつつ、周りの男性に指示を出している。彼らは血相を変え、店の左右に散っていく様子をかすむ視界で見送った。
すぐに窓という窓、扉をあけ放ち、あるいは打ち壊し、内部の空気の入れ替えを試みたようだ。
倒れている者は数人が息をこらえ、店から引っ張り出したらしい。
厨房には三名の従業員が倒れていた。
またホールで倒れた一名も同様に救助されたという。
全員、幸いにも一命はとりとめた。が、今後なんらかの障がいが残るのは避けられないかもしれない。
本来であれば、あの状態の現場に立ち入ることはとても危険な行為なので、やるべきではない。
けれど同時に、とても勇気のある行為だとおもう。そのおかげで彼らの命がつながったのかもしれないと思うと、こんなとき何が正しいのかいつもわからなくなる。
ペトラが『夢魔』だといった今回のケース。
初期は風邪のような症状、そして症状が重くなるにつれ頭痛が増悪され、吐き気やめまい、視覚障害がおきる。
併せて四肢の自由が徐々に効かなくなり、ついには意識消失、そのまま昏睡に陥り死に至る。
冬場の暖房、旧式の風呂釜やガス湯沸かし器でもたびたび起きる事故。
一酸化炭素中毒。
このガスを吸って中毒に陥ったとき、血中のヘモグロビンがそれと結合し、酸素以上に鮮やかな赤色を呈する。すると中毒者の頬は健康的なピンク色に見え、しばしば誤解させるが、その血色とは裏腹に静かに、速やかに命を奪うおそろしい中毒だ。
炭鉱ではしばしば大規模に発生する場合がある。検知器が一般的でなかった時代は人よりガスに感受性の高い小鳥を連れ、事故を未然に防いでいたという。
また換気の悪い工場、冬の一般家庭でも残念ながらよく見られる。
中毒に陥った本人は、気づかないことが多いらしい。自らも体験し思った。確かに意識していないととても気づけない。
その様子を、まるで夢魔に魅入られた者が眠るように魂を奪われ、息を引き取る様子に例えたのだろう。
一酸化炭素という概念はまだ無いけれど、この世界の住人が長年の経験から導いた教訓なのだ。
今回の事故の原因は換気の行き届かない環境で使用された燃料――木炭にある。
木炭に限らず、多くの燃料は燃やすと一定量、一酸化炭素を発生させる。
周囲の酸素が少なくなると燃料は不完全燃焼を起こしやすくなり、その濃度は急速に増していくという。
この店は最近評判となり、多くの客が訪れるようになったと聞く。客をさばくために大量の炭をおこし、準備していたのだろう。
さらに最近の冷え込みにより窓を閉じたため、換気がされにくい環境となっていた。それら複合的な要因が今回の事故の原因だ。
調理場への十分な換気設備の設置と日常点検。従業員への教育の徹底。中毒発生時の対応マニュアルの整備。
後日この店にこれらを指示しようとしていたけれど、しかしそれは叶わなかった。
店主はじめ、従業員の職場復帰が絶望的となったからだ。
それ以来、店舗の新規出店許可における安全確認の一つに、換気についての項目が付け加えられたのは言うまでもない。




