コミックス3巻発売お礼ss:ただの愛など存在しない
その日は雲一つない快晴だった。
バルコニーの汚れを拭き上げたメイベルは「ううん」と大きく伸びをする。
「いい天気……」
大変な騒ぎになった、花の祭典から数カ月後。
気温はすっかり温かくなり、森から吹いてくる風が甘い花の香りを運んでくる。瑞々しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、メイベルはあらためて空を見上げた。
(こんな日に飛んだら、気持ちいいんだろうなあ……)
今朝がた、少し用事があるといって飛び立ったユージーンのことを思い出す。
全身真っ黒な彼の背中から生える、目が覚めるような純白の翼。あれで自由に飛び回れたら、どんなに楽しいことだろう。
すると上空から、出かけていたユージーンが帰ってきた。
「メイベル、ここにいたのか」
「おかえりなさい、ユージーン」
「ああ」
ユージーンはすたりとバルコニーに着地し、そのままメイベルのもとに歩み寄る。彼の背中に広がる立派な翼をじーっと見つめていると、ユージーンがわずかに眉根を寄せた。
「……どうした?」
「い、いえ! 別に何も」
「もしかして、自分も空を飛びたいと?」
「えっ⁉」
図星を指され、メイベルは思わず赤面する。
それを見たユージーンは静かに一笑し、メイベルを軽々と横抱きにした。
「それくらい、いつでも言えばいいだろ」
「で、でも、大変だろうし、迷惑になるかもって」
「お前から頼まれて、嫌なことなんてひとつもない」
「それは――」
メイベルが言い返すより早く、ユージーンがばさりと翼をはためかせる。すぐに奇妙な浮遊感が全身を取り囲み、二人はあっという間にバルコニーの上方へと飛び上がった。ユージーンの城、そしてそこに至るまでの街道と大きな森が眼下に広がる。
吹き上げる風に前髪を踊らせながら、メイベルは思わず感嘆を漏らした。
「わあっ……!」
「とりあえず、近くを回ってみるか」
そう言うとユージーンは、メイベルを抱き上げたまま森の方へと向かう。森の奥――切り立った崖が見えてきて、メイベルは思わず「あっ」と声を漏らした。
「あの崖……前に、狼に襲われた時の」
「ああ、そうだな」
まだユージーンの人となりが分からなかった頃。
メイベルは彼を懐柔するべく、一人で苺を取りに出向いたことがあった。
だがそこでムタビリスが放っていた使い魔に狙われ――あわや崖から転落するというところを、ユージーンから助けてもらったのだ。
今と同じ、彼の翼によって。
「あの時は驚いたな。森に張っていた術が解けたと見に行ったら、どういうわけかお前が崖から落ちそうになってて」
「その節は本当に助かりました……」
「正直いうと、面倒だな、くらいの気持ちだった。あの時は。でも連れて帰ったお前が苺を――僕が好きだと聞いて、取りに行っていたと知って、その……ものすごく動揺したんだ」
「ユージーン……」
「でももう、あんな無茶は止めてくれ。苺が食べたいなら、僕が取ってくるから」
「ふふ、はい!」
心なしか耳を赤くしているユージーンを見上げながら、メイベルもつい破顔する。
深い崖をゆったりと見下ろしたあと、ユージーンは王都にある港の方へと進路を変えた。すぐに白波が立つ海面が見え始め、メイベルはキラキラと目を輝かせる。
「潮風が気持ちいいですね!」
「ああ。あの時は夜明け前で、こんなに綺麗なところだと思わなかったな」
「たしかに……」
しみじみとつぶやくユージーンの言葉を受けて、メイベルはかつての戦いを思い出した。
カイリに囚われたメイベルを、アマネとユージーンが助け出してくれたこと。彼の腕に抱かれ、火矢による集中攻撃を受けた時は生きた心地がしなかったが、彼はそんな敵の大群をその美貌一つですべて無効化してしまったのだ。
あの時のユージーンは恐ろしく――同時に、これまででいちばん美しかった。
「無事で本当に良かったです」
「たかが人間の武器程度で、僕に傷をつけられるはずがないだろ」
「そ、それはそうかもしれませんけど……でもやっぱり、心配はしますよ」
「……ああ、そうだな」
眉尻を下げたメイベルを見つめ、ユージーンが優しく目を細める。
やがて港から城下町を上っていき――広場の中央にある鐘楼を旋回すると、そのままメイベルの姉たちが住まう王城へと辿り着いた。祭典の時とは違い、今は誰の姿も見つけられなかったが、メイベルは嬉しそうに微笑む。
「懐かしいですね。こうやって二人で、街中にお花を降らせて」
「おかげで僕はとんだ見世物にさせられた」
「でも嬉しかったです。私の大好きな人がこうして、ここにいるんだよって、みんなに知ってもらうことが出来て」
「メイベル……」
ばさっという羽ばたきとともに、二人の傍を風が吹き抜けていく。
そうして王都を一望したところで、ようやくユージーンの城へと戻ってきた。バルコニーに下ろされたメイベルは、乱れた前髪を整えながら嬉しそうに振り返る。
「ありがとうございました! すっごく気持ちよかったです」
「ああ」
「空を飛ぶってやっぱりすごいですね! 最初はちょっと怖かったけど、今は――」
するとメイベルの前に立っていたユージーンが軽く身を屈め、そのままちゅっと口づけてきた。突然のことに、メイベルはすべての思考が停止してしまう。
「ユ、ユージーン? いま、何を……」
「何って、対価をもらっただけだが?」
「た、対価……?」
「空を飛びたい、その願いをかなえてやったんだから当然だろ」
「た、無料じゃ、なかったんですね……」
一気に恥ずかしくなり、メイベルはたまらず足元に視線を落とす。
するとユージーンの手が顎に添えられ、くいっと上向かされた。その顔にいつもの仮面はなく、さわやかな青空の下、凶悪なまでの美貌がどこか得意げに微笑んでいる。
「なんなら、今度はもっと遠くまで連れて行ってやろうか?」
「と、遠くって、例えば……」
「そうだな、キィサにでも行ってみるか」
「キ、キィサって、海を越えた向こう側じゃ――んっ」
メイベルの言葉はそこで途切れ、長い沈黙がその場を支配する。
今日は雲一つない快晴。
森から流れてくる花の香りが、二人をいつまでも包み込んでいた。
それから数日後。
メイベルは高い報酬と引き換えに、キィサまでの空の旅を手にしたのであった。
(了)
コミックス3巻発売&完結記念ssでした!
茜音かや先生、素敵なコミカライズをありがとうございます~!








