第三章 2
「どこのネズミが入り込んだかと思えば……身内に寝首を掻かれるとは」
「……カイリ兄上」
「誰が私の名を呼んでいいと言った?」
酷薄な表情のまま、カイリは静かに歩み寄る。アマネは庇うようにメイベルの前に立ったが、その腕や肩が震えていることにメイベルは気づいていた。
「お前は用なしだ、アマネ」
カチリ、とわずかな金属音がし、カイリが何かを構えた。
そのわずかな隙を狙い、アマネは袖から短刀を取り出すと、カイリに向けて投擲する。同時にメイベルの腕を強く引いた。二人は船楼の中央を離れ、船べりに向かって一気に走る。
「下にオレが乗ってきた小舟がある。それに――」
アマネが海面を指さし、逃げるようメイベルに指示した。だが次の瞬間、大きな破裂音が弾け、くぐもった声がメイベルのすぐそばに落ちる。
「往生際が悪いな」
カイリの冷たい言葉が、メイベルの耳をなぞった。振り返り、恐る恐るアマネを見る。
一目には何が起きているか分からなかった。
だがアマネの着ていた服に真っ黒い穴が開いており、そこを中心にじわりと鮮血が滲んでいた。アマネ自身もまた、何が起きたか理解出来なかったのか、大きく目を見開いている。
メイベルが目を凝らすと、カイリが手に持っている物がうっすらと確認できた。金属製の長い筒に握り手が付属しており、以前トラヴィスが持っていたものとよく似ている。原理は分からないが、何かがあの筒から放たれ、それがアマネの体を貫いたのだろう。
さらにカイリは、アマネに向けて二度目の衝撃を打ち出した。
今度は肩に風穴があき、アマネはたまらず絶叫する。
「アマネさん!」
くずおれるアマネの体を、メイベルは必死に抱きとめようとしたが、彼の上体は大きく傾き、そのまま滑るように船体から落下した。メイベルは慌てて身を乗り出し、アマネの行方を捜す。
だがばしゃん、と海面に高く跳ね上がった白い飛沫を見ることしか出来ず、アマネの体は暗い水底に飲み込まれてしまった。その音を確認したのか、カイリは静かに微笑む。
「あの傷では、上がってくることはまず無理でしょう。――さあメイベル様、こちらに」
言いながらカイリは一歩、また一歩と足を進める。メイベルは次第に縮まっていく距離を前に、一つの決意を固めていた。
(早く助けないと……!)
メイベルはアマネが用意していた縄梯子を掴んだ。だがのんびりと下りている暇はない。
覚悟を決める前に、メイベルの体は動いていた。
「やめなさい、貴女も助かりませんよ」
カイリの制止も聞かず、メイベルは船べりに膝を乗り上げる。
下から吹き上げる潮風と、全く底の見えない黒い波間は恐怖でしかなかったが、アマネの安否を考えれば、臆する時間は一秒たりともない。
大きく息を吸い込んで、そのまま前に重心をずらす。
ぐらりと体が傾き、吸い込まれるような嫌な浮遊感がメイベルを襲った――それはすぐに、どぶんという水音と息の出来なくなる閉塞感に変わる。
(アマネさん……一体どこに……)
未だ明けぬ夜の海。
細かな水泡の合間にメイベルは目を光らせるが、人影らしきものは見当たらない。アマネが落ちてすぐのはずだが、もっと下へと沈んでしまったのだろうか。
さらに水底を目指してメイベルは潜る。だが海本来の水流が強く、上手く泳ぐことが出来ない。しかし早くアマネを見つけ出して、手当をしなければ。
(どうしよう、息が)
次第に苦しくなるのを堪え、何とかアマネを探し出そうとする。
だがいよいよ限界が来たのか、メイベルは口からごぼりと大きな泡を吐き出した。胸のあたりが押しつぶされるような感覚に、メイベルは目を眇める。
もう少し。まだアマネが。
途絶えた呼吸は徐々に脳を侵食し、メイベルの視界が霞んでいく。手足の力が抜けていき、体は折り曲がるようにゆっくりと浮かび上がった。
その間も周囲を見回すが、やはりアマネの姿はない。
(ごめんなさい、アマネさん……)
メイベルは遠のく意識の中、そっと目を閉じた。
――どこかで、魚が跳ねる音がした。
こと切れた人形のように水中を漂うメイベルの元に、黒い水棲馬が颯爽と現れる。
もちろんそれは幻獣などではなく、メイベルに隣り合うと、すぐに人としての形を取った。黒い髪に黒い仮面を着けたその人物は、そっとメイベルの頬に手を伸ばす。
(……?)
触れられたメイベルはぼんやりと目を開く。
銀色に輝く泡沫の向こうに、ユージーンがいた。
ゆらゆらと揺らぐ髪がとても綺麗で、深海の闇の中であっても、金色の目だけが月のように輝いている。
(ユージーン、さん……?)
これはきっと死の間際に見るという夢だろう、とメイベルは思った。
(ちゃんと謝れなくて、ごめんなさい……)
でも最期に思い出したのが、ユージーンでよかった、とメイベルは微笑む。
すると幻覚であったはずのユージーンもまた、その美しい目を細く眇める。
やがてメイベルの頬に両手を添わせると、ユージーンは顔を傾け、そっと唇を重ねた。
弛緩しきったメイベルの体を抱きとめる様に、二人はゆっくりと重なったまま水中を沈んでいく。こぽり、と溢れたあぶくが空を目指して浮き上がる中、まるで時が止まったかのように、二人は長い口づけを交わしていた。
(……?)
どのくらいそうしていただろうか。
メイベルは自分が息をしていることに気が付いた。
もちろん地上にいるような自由さはないが、わずかな呼吸だけで意識を保つことが出来る、とようやく覚醒する。
同時にユージーンにキスされていることを改めて認識し、慌てて彼の胸を叩いた。すると唇を離したユージーンはにこりと笑みを浮かべ、メイベルを抱いたまま、水面を目指して器用に片腕で水を掻いていく。
やがて船底が見え始めたかと思うと、ユージーンは水中でメイベルを横抱きにし、自らの背に羽を生やした。ニ三羽ばたくと勢いよく浮上し、あっという間に水面を突き破る。船倉や帆柱の先端も追い越し、空高くまで飛び上がると、ようやくばさりと白い両翼を夜空に広げ切った。
水中から空中へ、一気に移動したメイベルは驚き、自分を抱き上げているユージーンを見る。その髪は濡れて艶々と輝いていたが、ユージーンが軽く頭を払うと、滴っていた水がすべて霧散した。
あわせてメイベルの服や髪も一緒に乾き、冷たい海水に奪われた体温が少しずつ戻ってくる。戸惑うメイベルをよそに、ユージーンはメイベルの手を握ると、その甲に視線を落とした。深く刻まれた痛々しい傷痕に、苦々しく眉を寄せる。
「ユージーン、さん、どうしてここに」
「アマネから連絡をもらった。すぐに来い、と」








