9
――あれはいつだっけ。
まだふたりともが小さい頃のことだ。
庭の桜が満開で、エルザとユリウスは風に揺られて舞い落ちる桜の花弁と戯れるようにして遊んでいた。
木のぼりが得意だったユリウスはひとりでするすると桜の木に登って行ってしまう。幼いエルザはそれがうらやましくて、木のぼりを教えてとせがんだが、危ないからだめと言われて、桜の木の根元でふくれっ面をしていた。
樹上のユリウスは困ったように眉尻を下げ、桜の花のついた枝を一枝折って降りてきて、むっつりと怒るエルザに差し出した。
エルザは受け取らなかった。エルザが欲しいのは桜の花の間から見える景色であって、花のついた枝ではないからだ。
ユリウスは少しむっとして、枝を放り出すとどこかへ走り去って行った。
エルザは桜の木に手をかけた。ユリウスが登るのをじっと見ていたから、足をかけるところもよく覚えている。その通りにすればきっと登れる。
おぼつかない手つきで枝をつかみ、滑りながらも足を上げる。どうにか奇跡的にユリウスが先程までいた高いところに到達する。
上を見上げて、わあ、と歓声が漏れた。
青空を彩る桜の花の額縁。視界いっぱいに薄紅色の花びらが広がって、世界の美しさを実感する。
あまりに夢中になりすぎて、バランスをとることがおろそかになった時、ずるっと足が滑った。そのまま、まっさかさまに地面にたたきつけられる。
一瞬の出来事で声も出なかった。
そのまま気を失って、気がつくとベッドの上だった。
エルザの小さな手をユリウスが握っていて、痛みをこらえるような、泣いてしまいそうな顔をしていた。そうして何かに耐えるような声音で名を呼んだ。
「……エルザ」
そう、こんな声だった。
「エルザ」
ゆっくりと目を開けると、あの日と同じ顔が覗き込んでいた。
「……どうして、そんな顔をするの……?」
思わずそう問いかけると、ユリウスはくしゃりと顔をゆがめた。
本当は知っている。
あの日、ユリウスは謝ってくれたから。
自分のせいでエルザを危険な目にあわせた――そう言って、ユリウスは自分を責めた。悪いのはひとりで木登りをして足を滑らせたエルザだったのに。
ユリウスは自分が怪我でもしたみたいに、ぎゅっと眉根を寄せて俯いていた。黒い瞳が不安そうに揺れている。大丈夫、と伝えたくて手を上げようとしたが、思うように動かなかった。
手は後ろ手で縛られていたのだ。足も縛られているようで、動かせない。
ユリウスが背に手をまわして、彼の胸にもたれかかるような形で抱き起こされている。
周囲を見回すと、まったく見覚えのない場所だった。大きな倉庫のような場所に実験器具のようなものがたくさん置いてある。
「起きたようですよ、准将」
聞き覚えのある声がした方へ顔を向ける。そこには恰幅のいい見知らぬ軍人と、ラング氏が立っていた。
「その娘か」
准将と呼ばれた中年の男が巨体を揺すって近づいてきた。目の前にしゃがみこんでじろじろとエルザを眺めた。
自由にならない体で思わずユリウスに身を寄せると、肩を抱く手に力がこもったような気がした。
その様子を見て、彼は面白くもなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「それで、例のものはどこにあるのだ」
尊大な物言いで威圧的に問う。
この人が、少佐の言っていた「高官」なのだろうか。とすれば探しているのは精製法だ。渡すわけにはいかない。
エルザは真っ向から彼を見据えた。
「何のことですか」
「とぼけるでない。お前も知っているんだろう。お前の父親が一体何を作りだしたのか」
分厚い唇がにやりと歪んだ。目の前の醜悪な笑顔に吐き気がする。エルザはぐっと唇をかみしめた。
反抗的なエルザの態度にも、彼は反応を示さなかった。
「まったくルイス・ヒンメルにも困ったものだ。我々が破格の値段で精製法を買い取ろうと言っているのにもかかわらず、奴はそれを拒否した。あまつさえ誰にもわからないようなところに精製法を隠すなど」
准将は立ち上がり、近くにあった木箱の上にどさりと腰かけると、軍服の内ポケットから煙草を取り出した。ラング氏がすかさず近寄ってきて煙草の先に火をつける。紫煙がゆらりと立ち上った。
「実験の過程でできた副産物を我々が有効に利用してやろうというのに、わからん奴だ。こんなに素晴らしいものをなかったことにしてしまうとは、宝の持ち腐れだとは思わんかね」
灰を無造作に落としながら、ちらりと視線が向けられる。エルザは震える声で尋ねた。
「だから……両親を殺したんですか」
精製法を探しているということは、この人が一連の事件の黒幕に違いない。彼に従わない両親を殺したのもきっとこの人なのだろう。思い通りにならないおもちゃを癇癪を起こして壊してしまう子どものように。
「彼らは随分と頑固でねえ。どれ程いい条件を出しても首を縦に振らなかった。それどころかこちらが軍関係者だと知って告発すると言うのでね。仕方がなかったんだよ」
おどけるように肩をすくめてみせる。その理論は自己中心的で、およそ准将などという高い地位にいる者の言葉とは思えなかった。
「それにしても、君があの日家にいなかったのは重畳だ。もし家族がそろっていたら、精製法の隠し場所を探し当てるのにもっと時間がかかっただろうからね」
ぞっと背筋を寒気が走る。あの日、買い物に出ていなければ、自分も殺されて一家心中を装われていたのだろう。
――こんな人に。両親は。
口中に鉄の味が広がる。噛みしめた唇から出血しているようだ。
「さあ、君は私の言うことを聞いてくれるだろう?」
にやにやといやらしい笑みを浮かべながら、猫なで声で准将が言う。
「……誰が。両親を殺した人の言うことなんて」
驚く程低い声が出た。怒りに目が眩む。こんなに激しい怒りが自分の中にもあったなんて。エルザはにたにたと笑う准将を睨みつけた。
「私の両親は何よりも大切なのは命だっていつも言ってた。あなたみたいに軽々しく命を奪ってしまえる人に、精製法は渡せません」
准将はわざとらしくため息をついてみせると、ユリウスに視線を投げた。
「ユリウス君、このお嬢さんに我々のことを理解してもらうのはどうやら困難なようだ。君は何か知っているかね?」
もたれかかっているユリウスの体がぎくりとこわばった。見上げると、蒼白な顔が前を向いている。
数秒のためらいの後、ユリウスが覚悟を決めるように唇を引き結んだ。支えていたエルザの体を壁にもたれ掛けさせ、すっと立ち上がる。
「ユリウス、だめ。お願いよ」
必死で声を上げたが、ユリウスは動揺の欠片もみせなかった。ガーネットのついた宝石箱を准将に差し出す。
「……おそらくこの中に」
准将は宝石箱を受け取ると、たいして興味もなさそうに眺めた。鍵がかかっていることを確かめると、再びエルザの方へ視線を向ける。
「さて、お嬢さん。この箱には鍵がかかっているようだ。君には開け方がわかるんだろうね?」
もったいぶった言い方をしているが、視線は胸元の鍵に固定されている。エルザは身をすくめた。
「できれば協力していただきたいところだが、どうかね? 我々としては、この箱を無理矢理たたき壊してもいいんだが」
彼がどこまで知っているのかは分からない。けれど、その宝石箱は母の大切な思い出の宝石箱。今となっては形見だ。
それを壊すと脅されて、エルザは奥歯を噛みしめた。
「……やめて。壊されるくらいなら開けるわ」
准将は満足げに微笑んで、ユリウスに箱を渡して指示を出す。
「そのままでは開けられないだろうから、手の縄をはずして差し上げなさい」
ユリウスが迷いのない足取りで戻ってきて宝石箱をエルザの前に置く。肩を抱いてユリウスの胸にもたれさせると、後ろ手に縛られたエルザの手の縄をナイフで切ってはずした。
その間エルザは、ユリウスの顔を至近距離で見つめた。さっきから、ずっと視線を合わせようとしない。見たくないものから目をそむけるように。
エルザは焦れた。こんなことは初めてだ。どうしてだろう。ユリウスのことがわからない。
視線を外したまま両手に宝石箱をのせられた。
「ユリウス」
呼びかけると、びくりと肩がふるえる。それでも、こちらを見ようとはしなかった。
「その男にすがっても無駄だぞ。なにせ君の意識を失わせてここへ連れてきたのはその男なんだからな」
准将の楽しそうな声が響く。彼はねちねちと人をいたぶるのが好きなようだ。
准将の言葉にユリウスの体がますますこわばった。
「さあ、はやく開けたまえ。これでも忙しい身なのでね。遊んでいる暇はないのだよ。それとも、君ができないと言うのならユリウス君にでも頼もうかな? 君から鍵を奪って箱を開ける。実に単純な仕事だが、少しの娯楽程度にはなるだろう」
悪趣味な提案をして准将は満足そうに目を細めた。
噛みしめた奥歯が軋んだ音をたてる。
エルザは覚悟を決めてうなじに手を伸ばした。留め具をはずし、首からネックレスを外す。ガーネットがきらりと瞬いた。
鍵の頭の部分をつまむと、宝石箱の鍵穴に差し込む。かたり、と音がして鍵が開いた。
蓋を開けると、何枚か重なって折りたたまれた紙が入っていた。端の方が、ノートから破りとられたようにギザギザになっている。
「おお!」
歓声を上げたのはラング氏だった。
走り寄ってきてエルザの手からその紙片を奪う。ひらりと落ちた一枚の紙だけがエルザの手元に残った。ラング氏は奪った紙片を広げて夢中で内容に目を通している。
手の中に残ったのは一枚のメモ用紙だった。
『エルザへ』と書かれた書き出しに目が吸い寄せられる。
『エルザへ
君ならいつかこの箱の秘密に気付くことと思う。私達はおそろしい毒薬を作り出してしまった。そして、それを悪用しようとする者がこれを狙っている。一緒に入っているのは毒薬の精製法だ。毒薬の精製法にはしかるべき管理が必要である。もし君がこの箱を開けた時、私達がこの世にいなかったとしたら、君にそれを託したい。レオンハルト・カイザー少佐を頼りなさい。きっと力になってくれるから。
君を巻き込むことを許してほしい。私達は不甲斐ない親で、君は私達には過ぎた娘だった。君と過ごした日々は、君との絆は、私達の宝物だ。ありがとう、君を愛している』
癖のある字は父の筆跡だ。
信用してくれたのに。
――ごめんなさい。
両親の信頼を裏切ってしまった。一度でも愛情を疑ってしまった。
それが悲しくて、涙がこぼれた。無力な自分が悔しくて、涙がこぼれた。
「これでそろったぞ!」
ラング氏が、父の研究ノートと照らし合わせて見比べては喜びの声を上げる。
「では製造に入れるんだな」
准将の言葉にラング氏は嬉々として頷いた。
「精製法はすべて明らかとなりましたから、機材が整えば製造に入れるでしょう」
「ふむ。ではこちらも急がせよう」
ラング氏はうきうきとノートに目を走らせている。
不思議だった。父の共同研究者である彼が、どうして毒薬の製造などを進めようとするのか。
「ラング先生……、先生は、人の命を救うお薬を作っていたのではないのですか」
エルザはこの人の事が苦手だったが、父は研究者としての彼をかっていたし、何より彼も元は医者だったはずだ。
「ああ、そうだね。それはもちろんそうだ。だが、副産物としてできた利用価値のある薬物を利用することがそんなにいけないことかい?」
ラング氏は悪びれもせずけろりと言い放った。絶句するエルザを追いたてるように続ける。
「もちろん、今までの研究は続けるよ。あれが完成すれば莫大な金が手に入るだろうからね」
思考回路がまったく違うのだ。わかりやすく能力の対価として手に入る金銭という価値が、彼の中では随分と重きを置いているらしい。この毒薬に関しても金銭の授受が行われているだろうことは容易に想像できた。
准将が煙草をぽとりと足元に落とすと、見せつけるように足でぐりぐりと執拗に踏みつけた。のそりと立ち上がるとどこからか銃を取り出してエルザに銃口を向けた。
「ご協力感謝するよ、お嬢さん。お礼に君のご両親と同じところへ送ってあげよう」
にやりと口元がいびつに歪む。
エルザは身をすくめた。腕の拘束は外れているが、足はそのままだ。このままでは逃げられない。結び目は固く、手でほどいている時間はなさそうだ。
もう駄目かも。そう思って固く眼をつぶった。
ふわりと何かに抱きしめられるような感覚のすぐ後に、大きな音が鼓膜を震わせる。けれど、覚悟していた痛みはなかった。
目を開けると、ユリウスの腕の中に囲われていた。エルザを抱きしめるユリウスの右肩が赤く染まっている。
しかし怪我には構わずに、ユリウスはエルザを抱きしめたまま首をひねって准将を見上げた。
「……話が違います。僕が協力して精製法が手に入れば、彼女の命だけは助けてくださると、そうおっしゃったではありませんか!」
エルザは息を呑んだ。
ユリウスの言葉の意味を考える。
彼は自発的にエルザをさらったのではない。エルザの命を盾に、准将に脅されていたのだ。
「うそ……」
肩の赤い染みはどんどん広がっていく。ユリウスの額には汗が浮いている。
准将はユリウスの訴えを鼻で笑い飛ばした。
「顔を見られたのだぞ。しかもこのお嬢さんはあの忌々しいレオンハルト・カイザーともつながりがある。ここまでの事態になっておとなしくこのまま帰すと思ったのか? 君はどうやら私という人間を理解していないようだ。邪魔をするつもりなら、このまま君ごと消してもいいんだぞ。死人がひとり増えたところで大した違いはない」
「…………っ」
ユリウスが息を詰める。エルザを抱きしめる力が強くなった。
言葉もなく睨みつけるユリウスに、准将がにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「ふむ。君はどうやらそのお嬢さんに特別な感情を抱いているようだな。それなら共に逝くも悪くはなかろう」
准将の言葉に戦慄した。守ろうとしてくれたユリウスすらも、この人は殺そうとしている。
パニックに陥って、エルザは身をよじった。ユリウスの腕から抜け出そうと必死でもがく。
「いや……! 離して! ユリウスは関係ない!」
ユリウスの胸板に手を当ててあらがってみるが、逆に引き寄せられて顔が胸に押し付けられる。
「いやだったら! やめてよ! 馬鹿……!」
もう自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ大きな声で叫び続けた。
血の匂いがふわりと鼻を掠めた。
突如響いた大きな発砲音に目を瞑ってびくりと身をすくませる。
「ぐっ……」
遠くでくぐもった声がして、ごとんと何かが落ちる音がした。
「はあーい、そこまでよん」
直後に聞こえたその場にそぐわない能天気な声に目を開ける。
身をよじってユリウスの肩越しにどうにか顔を出すと、ティナとフランクが銃を構えているのが見えた。その手前に、倒れている准将と、その腕と背を膝で押さえつけて銃を構えるレオンハルトの姿。
「先生も暴れないでね」
銃をおろすと、うふっと微笑んでティナが逃げそこねたラング氏を拘束する。ラング氏が握りしめていた紙片を目ざとく見つけて取り上げると、ポケットにしまった。
――助けに来てくれた。
気が緩んで力が抜ける。途端にユリウスの重さがのしかかってきて後ろに倒れそうになった。ぐっと踏ん張りながら、ユリウスの胸をたたく。
「ユリウス! 少佐達が来てくれたわ。ユリウス?」
返事がない。背中に回っていた手は力を失って下に落ち、ぐったりとエルザに体重を預けて目を閉じている。額には玉の汗が浮かび、肩の傷からは血が止まることなく染み出している。
「うそ、ユリウス? しっかりして!」
手を背中にまわしてぎゅっと肩の傷を押さえる。出血は止まらなかった。血と一緒に指の隙間から命が漏れ出ていくようで、エルザは恐怖した。
――もうこれ以上失いたくないのに。
「大丈夫ですか」
フランクが銃をおろしてこちらへ駆けてくる。
「フランクさん! ユリウスが……」
フランクは銃をしまうと、険しい目つきでユリウスの肩をじっくりと見る。やがて片腕を肩にまわしてユリウスを担ぎあげると、エルザに視線を投げた。安心させるように口元を緩める。
「大丈夫ですよ、きっとね」
そう言ってフランクはユリウスを運んで行った。
入れ替わりにエルザのそばにやってきたのはティナだ。
「ごめんなさいね、遅くなって。怖い思いをさせたわ」
言いながら懐からナイフを取り出して足の拘束を解く。よしよしと頭を撫でられた。温かい手に安堵の涙が浮かぶ。震える足を励ましながら、ティナに支えられてなんとか立ち上がった。
視線の先では、レオンハルトが准将を地面に組み敷いたまま両手を後ろ手で拘束しているところだった。
「さて……あなたには聞かなければならないことがたくさんありそうだ、アドルフ・ベッカー准将」
背中を膝で踏みつけられて銃口を向けられたまま、頭上から降って来る冷やかな声に巨体がびくりと反応した。
「わ、私はこの国のためを思って……!」
みなまで言わせず、ごりっと不吉な音をたてて銃口が准将の頭にこすりつけられた。准将が恐怖で口をつぐむ。
「そうでしょうね。この国とご自分の地位の向上をお考えになっての事だとわかっておりますとも。あなたの思想については後程とっくりと聞かせていただきますが」
少佐がちらりと一瞬エルザに視線をやった。
「その前に今ここでお聞きしたいことがあります。あなたには、十八年程前に栗色の髪、緑の瞳をもった女性を妊娠させた挙句、責任をとることもなく見捨てたという噂がありますが」
「……それがなんだというんだ」
「エルザ」
琥珀色の瞳がエルザを捉えた。
「今なら快く話していただけると思うんだが、君は聞きたいか」
エルザは緑の瞳を瞬いた。
とある高官の屋敷で働いていた母の妹。それが、実母のはずだった。それでは目の前の醜悪なこの男が実父だと言うのだろうか。
しかし、栗色の髪、緑の瞳など珍しいものではない。エルザは実母の容姿すら知らないし、それだけの情報ではその女性が実母かどうかなど特定のしようもない。
そんな不確かな情報で少佐がこんなことをするだろうか。
――ああ、ちがう。
エルザは栗色の髪を揺らして頭を振った。
「いいえ、私には関係のないことです。……私の父はルイス・ヒンメルただ一人ですから」
もし真実をエルザに伝えようとするのなら、こんなに持って回った言い方をするはずがない。母の容姿だけでなく名前まで突き止めているに違いない彼なら、はっきりとそう言うだろう。
少佐はきっと、自分に機会を与えてくれたのだ。足元を失って不安定に揺れるこの心が、もう一度確かな足場を得るために過去と決別するこの機会を。
意図を理解してきっぱりと言い切ったエルザに、少佐は満足そうに微笑んだ。琥珀色の瞳がきらりと煌めいて、褒められたような気持ちになる。胸の内が温かくなって、頬が熱を持った。
彼はいつもそうだ。
正論を押し付けることをせず、エルザの心を大切にしてくれる。泣いているエルザに元気を出せとは言わず、気のすむまで泣かせてくれる。おろおろと考えがまとまらずに焦るエルザの心が決まるまでじっと待ってくれる。
それがどれだけ嬉しかったか、この人は知っているだろうか。
――いつか、ちゃんと言えたらいいな。
准将の背中を押しながら、室内から出ていくレオンハルトの頼もしい背中を見ながらそう思った。
突然、宝石箱を調べていたティナがあら、と声を上げる。中からひらりと何かを取り出して、エルザの手のひらに落した。
「写真……?」
それは一枚の写真だった。随分若い両親と、母によく似た面差しの女性がひとり、赤ん坊を抱いて映っている。裏返すと『ゾフィ、エルザと』と母の筆跡で書いてあった。
表をもう一度見返す。
このゾフィという人が実母なのだろうか。
その人はやつれてはいたが幸せそうに微笑んでいる。
モノクロの写真では、その人の色彩は分からなかった。栗色の髪なのか、緑の瞳なのか、確かめることはもうできない。
――きっとそれでいい。
母の寂しそうな顔がまぶたの裏に浮かんだ。
『この箱には真実が詰まっているの。今はまだその時ではないけれど、いつかあける時が来るわ』
母の言う真実とは、きっとこの写真の事だ。いつかエルザが真実を知る日が来ることを思って、母は不安を抱えていたのだろう。
真実を知って離れて行ってしまうかもしれない。溝ができてしまうかもしれない。それはエルザの想いとまったく同じで。
もう知っていると言えばよかったのかもしれない。
実子でないことを知っている。それでもふたりをかけがえのない両親と思って生きていることを伝えればよかったのかもしれない。
今となってはもう遅いけれど。
ぽん、と肩にティナの手が乗る。
「素敵な写真ね」
空色の瞳が優しく細められる。
エルザはそっと写真を胸に抱きしめた。胸の中の温かい想いに笑みがこぼれる。
「はい」