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「研究室にも空き巣が入ったって?」


 ティナが赤ワインを口に運びながら言う。

 三人で囲む食卓にはエルザの手料理がずらりと並んでいた。今日は昼間に買い出しに行けたので、昨日よりは華やかなラインナップになっている。


「あ、はい。今日ラング先生のところへお届けものをして、そのついでに覗いたんですけど……ひどく荒らされていて」


「関係者の話によると、昨日まではそんなことなかったらしいから、昨夜から今日の昼前にかけて何者かが侵入したんだろう」


 レオンハルトの声は硬い。

 エルザはサラダを咀嚼しながらレオンハルトの様子を観察する。軍服の袖口で、一昨日はなかった飾りボタンがきらりと光った。

 ふと顔を上げた彼と目が合って、慌てて目線をそらした。うつむいて、手元のスープに目を落とす。

 ユリウスの黒い瞳が頭をよぎって、どんな顔をしていればいいのかさえ分からなくなった。


「やっぱり何か探してるみたいよね」


「そうだろうな。主がいなくなった研究室に金品目当てに入る泥棒はいないだろう」


「ヒンメル氏が故意に隠した可能性もあるわよね」


「君は、何か心当たりがないか」


 レオンハルトに水を向けられ、エルザは思わず顔を上げた。


「心当たり……ですか」


「なんでもいいんだ。なにか、最近預かったものとか、家の中で見慣れないものとか、何かないか」


 エルザは家の中を思い浮かべて考えてみたが、思い当たるものは何もなかった。


「ありません……。でも、もうちょっと考えてみます」


「ああ、頼む」


 一瞬会話が途切れて、食器の音が響く。


「そういえば、軍に幼馴染がいるそうだな」


 レオンハルトが思いだしたように言う。フランクに今日の事を聞いたのだろう。

 恥ずかしいところを見られたことを思い出して、頬が熱くなった。


「はい」


「あら、なあに、赤くなっちゃって。恋人?」


 ティナが目ざとくそう言って、面白そうに身を乗り出した。空色の瞳がきらりと輝く。


「い、いえ、違います。むかしお隣に住んでいた人で、兄みたいなものなんです」


 慌てて否定したが、ティナはますます面白そうににやけた笑みを浮かべる。


「幼馴染ねえ……。過ごした時間って愛に変わるのよねえ」


「いい加減にしろ。あんまりからかうんじゃない」


 レオンハルトが渋い顔をしてティナを軽く睨んだ。はいはい、と肩をすくめてティナが引き下がる。

 ふたりのやり取りは長年そうしてきたかのように自然で、遠慮がない。上司と部下という関係だけではないと明白だった。


「おふたりは長いお付き合いなんですか」


 エルザの問いかけに、レオンハルトとティナは顔を見合わせる。


「そうねえ、士官学校の同期なの。大戦の時からだから……もう十年になるかしら。いわゆる腐れ縁てやつよね」


 ティナが小首をかしげながら言う。


「……不本意ながらな」


 こちらはレオンハルトだ。なんだかものすごく嫌そうな顔をしている。

 聞いちゃいけなかったかしら、と思いながらエルザはスープを一口すすった。

 ティナはうふんと笑って頬を染めた。


「若い頃はふたりで随分無茶したものよね。今となってはいい思い出だけど」


「無茶をしたのは大体お前で、俺は主にその後始末に追われた覚えしかないがな……」


 怨嗟のこもった声がレオンハルトの口から洩れ出たが、ティナは聞こえていないかのように華麗に聞き流して続ける。


「レオンは無愛想だし、無口だし、社交性はゼロだし、誤解をされやすいのよね。今でこそ出世の鬼なんて陰で言われてるけど、昔はもっとかわいげがあったのよ」


「積極的に誤解させるような行動をとるお前に言われたくはない」


 レオンハルトはひとことだけ言うと、黙って黙々と料理を口に運ぶ。どうやら何を言っても無駄だと思ったらしい。


「出世の鬼?」


「そう。まあ半分やっかみよね。レオンが順調に階級を上げてるからって、外野が言いたい放題言ってるのよ」


 ティナが、ふんと面白くなさそうに鼻を鳴らす。心なしか目が座ってきたようだ。


「ティナ、飲みすぎなんじゃ……」


「あら、酔ってなんかないわよ。この程度じゃ寝酒にもならないんだから」


 思わず心配して口を出すと、ティナはへにゃりと緩んだ笑みを浮かべた。


「……少佐はお飲みにならないんですか」


 レオンハルトの分もグラスを用意したのだが、彼のグラスには水が満たされている。


「ああ。今夜はまだやることがある」


 レオンハルトが食事を終え、立ち上がった。


「うまかった。ありがとう」


「あ……はい。お粗末さまでした」


 そう言って居間の方へ移動する。その背中を眺めながらティナがうふ、と笑った。


「ほんと、損な生き方しかできないんだから」


 言いながらワインの瓶に手を伸ばす。白魚のような手が届く前に、エルザが瓶を取り上げた。


「もう駄目です」


「いやん、あたし酔ってないわよう」


「酔っ払いは大体酔ってないって言い張るんです」


 そう言ってグラスを取り上げ、ワインの瓶に栓をし、片付ける。

 ティナは、ああんと抗議の声を上げたが、すぐにふにゃりと笑って抱きついてきた。息が酒臭い。気付かなかったが、いつの間にそんなに飲んだのだろう。


「心配してくれるのね。嬉しい」


 なんとか身をかわしながら背後に回ると、ティナの背をぐいぐいと押しながら居間に連れて行く。


「お茶を入れますから、ここで待ってて下さい」


 ソファに座らせて食器の片づけをしながらお湯を沸かす。ハーブティーを二人分入れると居間へ運んだ。

 ティナはどうやら待っている間に寝てしまったようだ。ソファの背もたれにもたれかかってすぅすぅと寝息を立てている。

 レオンハルトは書類に目を通しているようだった。ハーブティーをテーブルに置くと、顔を上げないまま、ありがとうと声だけが返ってきた。

 手元の書類に目を落したまま、カップをとり一口すする。ソーサーにカップを戻す音が静かな部屋に響いた。

 エルザは立ったまま、ぼんやりとその様子を眺めた。


 ユリウスはレオンハルトを疑っていた。

 両親を殺す理由が彼にあるだろうか。

 例えばエルザを利用しようとする彼を両親が忌避したとしたら、その両親を殺してまでも自分を手に入れようとするだろうか。

 両親はエルザが血のつながりがないことを知っていることに気付いていなかったとは思うが、それは命をかけてまで守るべき情報ではないように思う。何よりも命が大切だと常日頃から繰り返していた両親に限って、そこまですることはないと思う。

 何より殺人というリスクを冒してまで手に入れる程の価値が自分の出生にあるとは思えない。情報の真偽が問われないと言うならなおさらだ。そんな面倒なことをするくらいなら何か他の不祥事をでっち上げたほうがはるかに簡単だろう。

 動機としては浅い。

 やはり、納得がいかないのだ。

 ボタンだって、少佐のものとは証明できないだろう。軍人であれば皆その袖口に飾りボタンが付いているのだから。偶然が重なった可能性もあるのだ。

 考え事をしていると、視線を感じたのかレオンハルトがふと顔を上げた。


「どうかしたか」


「あ……いえ」


 視線が交差して、思わず目をそらした。途端に思考が散漫になる。

 レオンハルトは小首をかしげてこちらを見ている。

 見ないで、と言ってしまいそうだった。

 琥珀色の瞳はすべてを見透かすようで、自分ですら気付かないことを見つけられてしまいそうな気がして、身がすくんでしまう。

 なんとなく居心地の悪い雰囲気を変えたくて、話題を探した。


「えっと……やっぱり出世ってしたいものなんですか」


 レオンハルトはきょとんと瞳を瞬いた。

 口に出してから猛烈に後悔する。この話題を今ここで持ってきた自分を責める。


「あ、えっと、すみません、変なこと聞いて……」


 あわあわと慌てるエルザを不思議そうに見て、次いで手に持っていた書類をテーブルに置いた。顎に手を当てて考え込む。


「そうだな……昔、決めたことがあるから」


 ゆがめられた口元に苦い笑みが浮かぶ。澄んだ瞳に影が差した。


「そのためにはある程度の階級が必要だろうな。下っ端の意見など上には通らん」


 ふうとため息が漏れ出る。背もたれにもたれかかると、目を閉じてこめかみを指でもみほぐした。

 随分と疲れているように見えた。前に進むことに倦んでいるような。それでいて進まずにはいられないような。


「決めたことって何ですか」


 そこまでして成し遂げたいこととはなんだろうと気になった。

 レオンハルトは迷うように口をつぐんで考え込んだ。つかの間の静寂の後、立ちつくしているエルザを見上げた。


「……君は覚えていないようだが」


 照明が逆光になるからか、まぶしそうに瞳が細められる。瞳の色が優しさを増したような気がして、エルザの胸がどこかでかたりと音をたてた。

 レオンハルトが口を開きかけた時だった。


「うにゃあー」


 寝ていたティナがみじろぎをして変な声をだした。

 驚いて固まったふたりの前で、ティナは目を閉じたままうーんと伸びをすると、そのままくぅくぅと何事もなかったかのように眠りに落ちる。

 レオンハルトがしかめっ面で立ち上がる。ティナの傍に寄ると、肩を揺さぶった。


「おい、起きろ。寝るならベッドで寝てくれ」


 何度かゆさゆさと揺するとティナは薄く眼を開け、にへらと笑った。


「はあーい」


 右手を高々と上げて返事をすると、ゆらりと立ち上がった。ふらふらと歩きだす足元のおぼつかないティナをはらはらとみていると、なぜかエルザのところへやってきてきゅっと抱きしめられた。


「ひえっ?」


 突然の事に驚いて悲鳴を上げると、ティナはうっとりと目を閉じている。


「あたしの抱き枕……」


 このままだとベッドに連行されそうだ。どうしたものかとおろおろしていると、ごすっと痛そうな音がした。

 ティナの背後に立っていたレオンハルトが頭をはたいたらしい。ティナが抗議の声を上げる。


「いたぁーい」


「お前は酔うと人に絡むのをやめろ。というか酒量の限界をいい加減把握しろ」


「レオンったらひどいわよねえー」


 同意を求めるように、ますます抱きしめる力が強くなる。


「えっと……」


 何とも言えず困っていたら、べりっと音がしそうな感じでレオンハルトがティナの襟首をつかんでひきはがした。そのまま廊下へ引きずって行く。


「じゃあしょうがないからレオンで我慢するうー」


 うふんと緩んだ笑みを浮かべたティナに後ろから飛びつかれて、レオンハルトがバランスを崩しそうになるが、両足で踏ん張ってなんとか耐えた。


「断固拒否する」


 にべもなくすばりと拒否したが、離れようとしないティナに何を言っても無駄と思ったのか、抱きつかれたままずるずるとティナを引きずって歩いて行く。

 いつも隙のないティナの新しい一面は斬新過ぎて言葉にならない。

 手伝いが必要かと思って小走りについて行くと、レオンハルトはエルザの使っている客室の隣の部屋の扉を開けて中に入った。エルザが上掛けをまくって、レオンハルトがティナをベッドの上に寝かす。上掛けをそっとかけると、ようやく諦めたのか、ティナはそのまますうすうと寝息を立て始めた。


「……迷惑をかけたな」


 ぐったりとしながら、なぜかレオンハルトが謝った。


「いえ……迷惑なんて」


 ふたりで部屋を出る。ドアを閉めるエルザの手を見てレオンハルトが声を上げた。


「その手はどうしたんだ」


 エルザの指には数か所傷があった。どれも大したことのない傷だ。

 今日はいろんなことがありすぎて料理に集中できず、調理中に作ってしまった傷だった。考え事をすると手元が留守になるのはいつもの事なのだ。

 説明しようと口を開く前に、レオンハルトに手をとられた。傷の様子を確認するようにじっくり見ている。レオンハルトの温かい手の熱が、エルザの手にも浸透していくようだった。

 正体のわからない感情が背筋をかけのぼる。

 考える前にエルザは手を払いのけていた。

 レオンハルトが驚いて顔を上げる。


「あ……! す、すみません、驚いて……!」


 我に返って慌てた。心配してくれただけなのに、どうしてこんな失礼なことを。


「あの、私、失礼します! おやすみなさい!」


 それだけ言うと、身をひるがえした。隣の客室に入って、ドアを閉める。そのまま暗闇の中で床に座り込んで膝を抱えた。

 ドアの向こうでためらうような足音が数歩分聞こえたが、やがて居間の方へ戻って行ったのか静かになった。


 頬が熱い。心臓がうるさく音をたてる。

 思考がかき乱される。

 どうするのが正しいのかわからない。

 何を受け入れるべきで何を遠ざけるべきなのか。

 ユリウスの心配そうに揺れる黒い瞳も、レオンハルトの温かい手も、どちらも嘘だとは思えない。どちらも大切で、得難いものに思えた。

 疑うことなんてできない。

 あの優しさがすべて嘘だったのだとしたら、自分はもう何も信じることができなくなるだろう。

 スカートに顔を埋めて、ため息をついた。

 レオンハルトの声が頭に蘇る。


『……君は覚えていないようだが』


 あの時、何を言おうとしたんだろう。

 

 * * * * * * * * *

 

 夜明け前に起きてレオンハルトの見送りをするつもりだったが、少し気まずくて、結局昨日と同じ時間にエルザは部屋から出た。

 定位置にフランクはおらず、居間に顔を出すと、ティナがだらしなくソファに転がっていた。入口から覗きこんだエルザに気付いた彼女は寝っ転がったまま、ひらひらと手を揺らした。


「はあい、おはよう、エルザ」


「おはようございます」


 ティナがするりと起き上って近寄って来る。


「昨夜はごめんなさいねえ。今朝レオンにがっつり怒られたわ。あたしお酒飲むとひと肌恋しくなっちゃうのよ」


 ぺろりと舌を出してみせる。しぐさはかわいいが、酒癖の悪さはかわいげがない。


「あの……二日酔いとかは大丈夫ですか」


「ああ、それは大丈夫」


「ならいいんですけど。……よくここに泊るんですか」


 ティナはいつもの軍服を着ておらず、袖口に繊細なレースのあしらわれた品の良いブラウスに、瞳と同じ水色のタイトスカートの裾からは脚線美が惜しみなく披露されている。着替えが置いてある程頻繁にここに泊っているのかと思ったのだ。


「ここって家に帰るより近いのよね。だから、帰るのが面倒な時とかよく来るのよ。ここにいるのはレオンひとりだから気も使わないし」


 ふたりはやっぱり恋人同士なのかな、とぼんやりと考えた。未婚の男女が頻繁にひとつ屋根の下で過ごすということは、やはりそういうことなのだろう。

 エルザは胸に片手を当てた。

 なんだろう。もやもやする。

 よくわからない感情を首を振って頭から追い出す。


「フランクさんはお休みなんですか」


「んー、彼は別件でちょっとね。あたしは休みだから、フランクの代わりをしようかと思って」


 目の前まで来ると、顎にほっそりした指がかかって上を向けられる。


「それとも、あたしじゃご不満かしら」


 碧い瞳が細められる。


「えっ、あの、滅相もありません」


 あわてて否定しながら、至近距離の艶やかな微笑みにしばし見とれた。

 はっと我に返って、頬を染めながら後ずさって距離をとる。その様子をティナは面白そうに見つめた。


「あの、少佐は……」


「ああ、朝早くに出てったわ」


 ティナが頬に手を当てて小首を傾げた。


「なんだかお通夜みたいな顔してたわねえ」


 その言葉にエルザがしょぼんと肩を落とした。心当たりがあったからだ。


「……お茶でも入れますね」


 肩を落としたまま台所へ向かう。

 お湯を沸かしていると、台所の入口で扉にもたれかかってエルザを眺めていたティナがぽつりと言った。


「謝れる時に謝っておいた方がいいわよ。悪いと思っているのならね」


 なぜか彼女にはお見通しのようだ。昨夜は酔っていたし、いくらなんでも部屋の外の出来事までわかるわけはないとは思うのだが。

 ティナに背を向けたままコンロの炎を見つめる。

 お湯が沸くにはまだまだ時間がかかりそうだった。


「あたしねえ、今の自分は嫌いじゃないの」


 背中の向こうから、ティナの静かな声が響く。


「でもね、認めてくれない人もいるわけよね」


 ため息めいた吐息の音が空気を震わせた。


「まあ仕方ないわ。あたしは今まで自分が満足するように好き勝手に生きてきたから、それがいいと思うか悪いと思うかは、人によって違うのが当たり前だもの」


 彼女の声は淡々としていた。いつもの感情豊かな声音が嘘のように静かだ。


「うちは昔から軍人の一族でね。お固い父親にとって、あたしは理解できない存在だったってわけ。いつも不可思議なものを見るような目で見られたもんだわ」


 軍人の名家といえば上流階級の人達だ。そんな家に生まれた女子には家を守る義務がある。一般的に言えば、しかるべき家の男子と結婚して家庭に入るのが普通だろう。男女の格差は狭まってきたとはいえ、軍のような男社会ではまだまだ女性の地位は低いのである。

 彼女が軍に入って今の地位まで上り詰めたのは驚くべきことだった。


「父の期待に添えなかった結果が今の自分なのだとしたら、後悔はしないけれど、父には謝るべきだと思っていたの。でも謝れなかったわ。もう二度と会えない」


 ぎくりと手がこわばって、ポットに入れていた茶葉がこぼれた。手元でかさりと乾いた音をたてる。


「あなたならわかっているでしょう。いつその時がやって来るのか分からない」


「……はい」


 昨日と同じ今日がやってきたとしても、明日も同じとは限らない。

 予期せぬ出来事はいつも突然やってきて、その度に心をかき乱されて。最近は特に、そんなことの繰り返しだった。


「何があったか聞かないんですか」


 やかんがじわじわと音を立て始めた。


「聞いてほしいなら聞くわよ。でも、あなたにもうまく説明できないんじゃない?」


 心の中を言い当てられて、言葉に詰まる。

 ティナの声音に優しさが混じる。


「あなたいつも道に迷った子どもみたいな顔してる。レオンの前では特にね」


 迷子のようなものなのかもしれない。両親を失ってから、道しるべを失ったように心細さに押しつぶされそうになる。

 誰かに手を引いてほしい。でも、誰にも寄りかかりたくない。手をとってしまえば、後は喪失におびえるだけだとわかっているから。

 なんて情けない自分。

 何もできない。ただ流される。仕方ないと繰り返して、自分の心を正当化する。

 何も欲しくないふりをして、手を伸ばしもしない。

 本当はひとりになりたくないだけで。

 あの日つかまれた腕を利用しているのは自分の方なのに。


「……失礼なことをしたとは思ってるんです」


「そう」


「謝ります、きちんと」


 コンロの火を止め、お湯をポットに注ぐ。ふわりと紅茶のいい香りが立ち上った。


「ねえ、それじゃこういうのはどうかしら」


 振り返ったエルザの目に飛び込んできたのは、いたずらっ子のようなティナの笑顔だった。


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