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第十一回(前編) 赤い翼

 内容の都合上、一部残酷な描写が含まれています。

  

  一 空襲


 逃げ惑う誰もが瞳を赤く染めていた。同じく、誰の耳も麻痺していた。もはや、敵機の轟音も、焼夷弾の風を切る音、地面に着地した時の明朗な金属音も、遅れて漏れる断末魔も、耳に入る者は少ない。すべて、二本の足に神経を集中させた。むき出しの本能がかすかな生存を求めて、火炎の隙間を疾走する。

 助かる者はやはり少なく、ほとんどが道を塞ぐ炎に飲み込まれた。急いで避難する列の中心に爆弾が落ちれば、その箇所は大きく抉れ、深い凹凸の底を、引きちぎられた四肢が荷物や衣服に混ざって埋め尽くした。

 耳触りの悪い金属音みたいな苦悶の嗚咽は、人の声とは程遠く、言葉にもならず、家族の名を呼び続ける声は徐々に弱まり、余力があれば、ムクリと立ち上がり何事もなかったように逃げ始めるも、赤ん坊が始めたばかりの“あんよ”のようにたちまち地面に伏してしまう。そこで初めて、己の膝小僧から下がないだの、股関節から続く下肢がないだの、そこから骨の先が飛び出し、血の筋が垂れ、肝臓や腸が尻尾みたいに続いているだのと分かり、今度こそ人ならぬ絶叫を上げて、その場に倒れた。

 意識がなければ、どうなるか? 後は死へと続く行進をするのみであろう。

五体不満足の重傷者の群れは、「アアァ」と小さく呻きながら、歩を辞さないのは、すでに肉体は死に絶え、続いて思考までも消え、残された本能の身が生存という行動を起こさせているのだろうか?

 例えば、妻子とはぐれたある男は、爆撃に巻き込まれて数人ともども、数メートル上に吹き飛ばされた。異様な感覚を伴う浮遊感に、逆転した視界がめくるめく間もなく、ドツッと鋭い音が耳を打つ。何事かと思ったが、身動きは取れない。そのまま、体中を焼けるような熱が覆った。続いて、意識も消えた。焼け落ちた民家から斜めに飛び出した柱に刺し貫かれた男の死体に、目をくれる者などいない。

 赤ん坊を抱く母親がいた。誰ともなく言いだした「赤ちゃんは背負おてたらあかん! 抱いて逃げ!」という言葉に従って、その女性も知らず忠実に倣っていた。

 先月生まれたばかりの我が子を胸に抱え、彼女は列の中を進んだ。少しでも油断をすれば、足がもつれ、後を歩く列にたちまち踏みつけられてしまう。

 ――もしそうなれば……。母親は、我が子の泣き叫ぶ声を聞き、小さな頭を優しく撫でた。この子だけは死なせたくない思いを強くした。

 空襲訓練の時には活躍した防水槽も、油に塗れ、火柱を高く上げて、今では無用の長物に過ぎない。燃える水槽の上を黒い人影が覆いかぶさっている。よく見ると、皆、炭になるまで焼けた骸であった。その中には、せむしのように背中の張った死体もあるようだ。しこりに似た背中の起こりは、赤ん坊であった。 

 女性は思わず目を背けたが、その際、足がもつれた。酔っ払いの千鳥足みたいに左右に揺れて、態勢を直そうとするも、日々の空腹感と、胸に重心の掛かった我が子もあって、彼女はそのままつんのめった。

 地面に倒れると、子供のひと際高い号泣に続いて、見上げた視界に無数の足が降りかかった。思わず、赤ん坊をかばい、亀のように覆いかぶさる。背中と後頭部を、道行く人が踏みつけながら過ぎていく。耳元には子供の泣き叫ぶ声しか聞こえない。生きる理由となる存在が、自分の体についているという証。手を離さずに、むしろ力を強め、小さな体を支えた。

 長い時間が過ぎ、行列が終わると、炎に塗れた大通りにうずくまったままの女性がいた。幾人もの足に踏みつけられ、一見、大きなズタ袋に見えただろう。横に倒れた、女性の顔は風船のように膨らみ、モンペに包まれた手足は、グニャグニャにへし折れ、タコのようにあらぬ方向に歪曲している。

 女の胸元には、泣き続ける赤ん坊が未だ抱かれたままだった。逃げるという意思を持つには、あまりにも無力である。逃げ遅れた自分達の元に、赤い炎が達するのは間もなくであろう。出産を迎える寸前に夫が出征し、父の顔を知らない我が子も、生まれて一年に立たず、生きながらに焼かれようとしている。

 申し訳が立たない。万が一、生きて帰って来るかもしれない夫に対し、女は思った。子を守るという約束を果たせず、唯々、無念である。

 自分はもはや、我が子を助ける事はできない。差し伸べる他人の手など期待できない。女は、消えつつある意識を左手の指に集中させた。爪の折れた人差し指と親指を、乳飲み子の細い首に添える。女の力でも握りつぶせるのではないぐらい柔らかい。

 死んだら、きっと自分は地獄に堕ちるだろう。女は嗚咽を漏らしながら、赤ん坊の首をつまむ二本の指に力を入れた。


  二 補給係


「どうした、一等兵!」

 砲台の小さな扉が開き、清輝の上官である大和田が厳つい顔を出した。

 初めて会った時は周りも暗かった。二度目に会った時は、雨が降っていた。今、面と向かうとやはり怖い印象が強い。熊を髣髴とさせる口髭と、相応の大柄に、鋭い眼光の上を走る溝のように深いしわ。確かに雑誌の中に登場する勇猛な兵隊を彷彿とさせるが、颯爽としているというと言えばそうでもない。

 彫りの深い皺のせいだろうか、と太一郎は思った。

 少年の姿を捉えた大和田は一瞬目を丸くするが、すぐに砲台の奥に消えた。

「一等兵! 子供を追い返せ!」と怒号だけを響かせる。時と場所を選ばず、声が大きくなるのは砲兵特有である。

「はっ!」と直立して応えた清照は膝を折って跪くと、少年の胸倉を乱暴に掴んだ。

「何で来たんや? ここはもう危ないんやぞ」

 それは先刻までとは打って変わって、いつもの彼が話す静かな問いかけだった。

「僕は、砲台守や、忘れたんか! ここの大砲を見守る役目がある」

「それは、何もない時の話や」

 太一郎は細い首を左右に振って、「言い訳しないでや。僕は非国民やない。いつでも御国の為に死ねるんだ」

「それは分かってる。だけど、それは今やない」清照が手を引いて行こうとするのを振り払い、彼はその場に座り込んだ。「違う、今の話や!」

 清照は、黙り込んだまま太一郎の顔を見つめた。そこには切羽詰まったという表情とも鬼気迫るとも取れるものだった。青年は深い息を吸った。周りの轟音も敵機の来襲を告げる虫の鳴き声みたいな音も、少年の耳には入らないだろう。

「太一郎……俺はな、大阪の空襲で家族が失くしたんや。弟はお前と同じぐらいやった。俺はその仇を取りたくて、今を戦ってる。いつでも死んでもええと思ってんねん」

 清照は数か月前に観た弟や母の亡骸を思い出そうとして、それらを掻き消したかった。太一郎は違う。こいつだけはそうなってほしくはない、と彼は強く願っていた。末っ子の坊に似ているわけでもない。血が繋がっていたわけでもない。

「お前は違う。太一郎、お前にはお母さんもお姉ちゃんもおるんやろ」

「だから、僕はお父ちゃんの代わりに戦わないといけんのや――」言い終わったところに、彼らの近くで爆音が響いた。

 太一郎の体が、ふわっと宙を浮いた。清照は頬を殴られたような強い衝撃で、たまらず地面へ倒れた。

 二人には、一瞬何が起こったか分からなかったに違いない。しかし、それは砲撃音とは違い、もっと荒く直接的で振動を伴うほどだった。倒れた少年の上に彼が守るように覆いかぶさっていた。

 麓の町から徐々に舞い上がる黒煙に加え、B29の大規模な絨毯爆撃により、砲台の周りは濃霧が掛ったように灰色の煙で覆われていた。

「……大丈夫か」

 頭上から呼びかける清照の声が不明瞭だがなんとか耳に入り、続いて、細い目が

見下ろしていた。

「う、うん……平気や。今の、一体何なん?」

 太一郎の応答に、清照は安堵の息を漏らす。

「爆撃くろうたみたいや。もう、こっちもあぶのうなっとる――」

 清照は言葉を切った。太一郎の背後に広がる光景に唖然とする。不審に思い、彼は恐る恐る振り返った。

 一週間前に、餓鬼大将と喧嘩をした場所あたりが、もぎ取られたように大きくえぐれて、黒く染まった穴の底から白煙が舞い上がる。

 そこに爆弾が落ちたのだろう。爆弾ひとつで、人間があんなふうに飛ぶなんて。太一郎は愕然とした。教科書にも漫画の雑誌にもない現実を垣間見たのは、何も今が初めてではない。ここに来るまでに遭遇した、紅蓮の炎に焼かれる人々は、知り合いとはいかなくとも、自分が学校に行くときに顔を合わせていた。顔見知りが、水で取れない油をかぶり、火に焼かれて狂ったように暴れていたのだ。

 今はどうか? 自分は逃げるだけではない。砲台守に逃げることなど許されない。腰抜けじゃない、と自分を証明させてやるのだ。

 大穴のそばに、誰かの体が落ちていた。足は消えている。顔も土で汚れていてわからない。ここでは清照以外の兵士はあまり言葉を交わさなかった。上半身から、血まみれになった内臓が流れる。昔、近所にあった朝鮮人の養豚場で覗いた屠殺を思い出した。人間と豚のそれはあまり変わらない。ヌメヌメした触感を想起させる細長い腸が幾重にも溢れ出ている。

 こんな風になるのも嫌だ。だけど逃げるのも許せなかった。

 太一郎は、「お前、何を……」と呆然とする清照の横を走り、砲台の方へと駆ける。入口から、奥の操縦席に座った上官に差し出した。

「僕は砲台守です! 砲弾も僕が代わりに運びます」

「何だと……さっきの爆撃か。佐川!」

「はっ!」フラフラと歩み寄る清照に向かって、大和田曹長は命じた。

「補充にあたれ」

「僕もします」太一郎は負けじと言葉を挟むが、上官の背中は振り返らない。

 少年は唇を噛みしめ、「勝手にします」

 大和田曹長は無言のままであった。勝手にしろ、と太一郎はそう受け止めた。何日振りだろうか、彼の顔に笑みが広がった。


  三 空襲


 周りは炎と煙で充満し、目くら滅法の世界と化した。

 墨汁を溢したように染まり、ほとんどが目を痛め、そのせいで瞼を閉じながら手探りのまま前へと進むしかなく、普段の地理や土地勘など何の効果もない。ただ、前に突き出した手の先に感じる熱気で判断し、少しでも炎から逃げる。

 B29の編隊が通過した後の地域は、黒煙の下に赤い炎により、ほとんどの建物が焼け落ち、至る所で隅になるまで燃え続ける屍が埋め尽くし、異様な臭気が漂った。獣の肉が焼けるそれとは明らかに異なる、鼻をつく腐臭のない場所はどこにもなかった。


  四 すべては生きるため


 最初の空爆によって、多くの児童が犠牲になった。

 警報が鳴ってからの少一時間、張茂第五国民学校の校庭に集まった生徒達は、そのまま待機を命じられていた。同行する予定であった教師達も青天の霹靂ぶりで、せめて生徒に動揺を悟られないように、冷静に放送される対応を待ち続けた。

 青い空を滑空するB29が彼らの視界に入った。どこからか複数の悲鳴と怒号が一気に上がった。一機のB29が旋回し、徐々に高度を下げ、学校の方へと飛来する。

 誰かが悲鳴を上げた。半田貴一である。彼は咄嗟に列から逃げようとした。

 顔はすっかり血の気を失い、薄い唇はワンワナと震える。全身から冷や汗が流れ落ちるのを感じた。言うまでもなく、彼の脳裏には数か月前に体験した、東京での惨事を思い出した。

 その夜、やけに風を切る音が多い気がした。まどろみかけた頭を、耳障りなサイレンが掻き乱した。それから後は、あまり覚えていない。あまりにも気違いじみた狂乱の嵐は、言語として説明するには限度を軽く越える。ましてや、貴一はまだ子供であった。

 だが、一度覚えた感覚は消えない。火事場に残った焦げ跡のようにしつこく残り続ける。事実、神戸の田舎町に越してからもずっと、毎夜に悪夢として再生されるのだ。

 いきなり取り乱した優等生を、不審な視線を送る取り巻きのほとんどが、太い胴体から発せられた閃光を見逃していた

 地上すれすれに低空飛行するB29が、通りざまに校庭へ向けて機銃掃射した。放たれた銃弾は、容赦なく集まっていた教師や学童達を蜂の巣にした。多くは顔や体に血肉を散らせ、全身を銃弾に抉られて倒れていく。ある者は、立ったまま頭部が消失し、踊るように胴体を反転させながら伏した。頭に着弾すると、頭蓋を砕き、脳漿を降らす。腹部に着弾すれば、赤い血肉と一緒に、腸が筋となって流れ出た。

 校庭の砂が徐々に赤く染まるまで時間はかからなかった。

 担任だった男が、怒りで紅潮したように、顔中を血で染めながら地面に伏すのを貴一は目撃した。もともと気持ちの悪い顔をした男だったが、まるで当てつけみたいに、死ぬ寸前もこちらを向いて笑いかけてきやがった。

 貴一は吐き気を催しかけたが、足の方が速く動いた。小刻みに揺れる腹はいつもよりも重く感じる。これだけは絶対に遺伝したのだ。父親は痩せていたので、実家の部屋に飾ってある、祖父で間違いないはずだ。杖を持ちながら、安楽椅子に座り、意味もなく仏頂面をする老人。威厳、というよりも難儀という言葉が浮かんできそうな、あの祖父もまた太っていた。死因も、その体型にふさわしい心筋梗塞だったらしい。

 ――死んでたまるか! 寝汗にまみれて、不愉快な眠りから飛び出しては、貴一はそう叫んだ。自分は一度助かったのだ。たかが運じゃない。仮に幸運でも、いわゆる持って生まれた天賦の才能だ。自分にも、それが備わっているものと信じて疑わなかった。

 ――死んでたまるか! 貴一はもう一度叫んで、逃げ惑う列の中を失踪した。

 目の前に、見覚えのある奴がいた。使い勝手の良い荒岩毅である。最初、車に乗せてやり、3円分の配給券をチラつかせただけでつき従うようになった。伝言役以外にしか役に立たない奴だった。

 貴一は彼の体を突き飛ばした。親しかったはずの貴一から激しいタックルを受けて、毅は地面に頭から倒れた。

 耳を塞ぎながら、走ると、後ろからがる小さな声が止んだ。視界の端に、赤く染まった毅の死体が映り、慌てて正面だけを見据えて逃げ続けた。

 しゃがみ込む生徒が目に入り、思わずこけそうになった。腰巾着の毅だった。顔の半分が血みどろで見分けがつかなかったが、甲高い呻き声が本人と似ていた。そう思うのも束の間、貴一は軌道を変えて、負傷する少年から離れた。一瞬、目が合った気がしたが、無視した。自分の関わり相手ではないし、栓もない。

 罪悪感など、もちろんあるはずもない。目の前の光景を見れば分かる。流れ弾に当たったのだろう、立ち止まったおかげで、右手首が吹き飛んだ下級生が無茶苦茶に喚きながら、地面に転がる手首を探している。

 足元にあったそれを、貴一は彼の元に投げた。膝に当たった手首に、目を大きくするや否や、下級生の少年は拾って、互いの断面を擦りつけようとする。あれでくっつくとでも思っているらしい。もしくは、頭が狂ったかだ。

 腕を持つ下級生を振り切り、貴一は校庭の端に急いだ。鉄棒と楠が立ち並ぶそこなら、安全な気がしたのだ。辿り着くまでの長い時間、貴一は耳を塞いでいた。隙間から洩れる、機関銃特有の風を切る連続音、地響きみたいな爆撃の破快音、屠殺される牛馬の断末魔を彷彿とさせる、皆の悲鳴。

それらは全部、空耳だ。自分とは何の関わりのない、別世界の喧騒なんだ。

 後ろを振り返ってはいけない。いざなぎが???を連れ帰るのとはわけが違う。貴一は背後で繰り広げられる、地獄絵図に無視を決め込んだ。

 そうだ。今から死ぬ人間しか関係ない。死なない人間は見るに値しない。

 知性はおろか思惟もまた、年齢にしては人一倍抜きんでていた。早熟という意味ではない。貴一はあまりにも歪であり過ぎた。

 鉄棒の前に、小柄な少年が倒れていた。太一郎かと思ったが、頭蓋を露出させ、脳みそを地面にばら撒いた顔は判別がつかない。貴一はためらわず、太一郎と面識のあった一宮隆の死体を、軽く飛び越えた。

 こうなれば、全部終わりだ。生きてこそ意味がある。

そう、生きてこそだ。生きてこそ。生きてこそ……貴一は何度も反芻した。一度でも言い間違えたり、止めたりしたら死んでしまう。勝手に決めつけ、小太りの少年は戦禍の真っただ中を、自分でも信じられない程に疾走した。

 眼鏡を落して、視界がぼやけても変わる事はなかった。


  五 背水の陣


 自分は何をしている? おかしな問いが頭をかすめては消える。

 太一郎は、何度も砲台と弾倉を行き来し、その間、近くで何度も爆音を聞いた。木の破片や石が飛んで頬を切り熱が走る。手を集中させていなければ落としてしまいそうな重さの砲弾を渡し終えると、また次の球を取りに戻った。途中、砲台が重厚な軋みを発しながら傾き、轟音と共に赤い閃光を発するのが見えた。煙を巻き上げながら、砲身がピストンみたいに凹んでは飛び出す。

 一度も立ち止まらず、荒くなった息も整えず、そして空を見る事もないまま、太一郎は必死だった。長い間隔ではないが何度も走ったせいか、足の裏も痛んだしどうやら爪が割れてしまったようだった。痛みを感じたが、彼は胸に抱えた砲弾を落としてしまわないかが心配だった。

 紡錘形をした灰色の砲弾は、本で読んだよりもずっと重たく表面がざらついている。丸みをおびた頭に爆弾が詰まっていると、どこかの本で読んだことがあるので、なるべく触らないように心掛けながら、落さないように両手で抱えつつ走って運んだ。が、今では歩くので精いっぱいなほど重く感じていた。

 彼が運んだ弾を、清照が無言で受け取って装填する。最初は戸惑っていた青年も太一郎の意気に押されているのか、はたまた砲兵として我を殺しているのか。ただでさえ、要員の少ない砲台は、いまや半分以上減った気がする。太一郎の他に砲弾を運ぶ者の姿をあまり見かけない。

 ふと、太一郎は木々から覗く麓の町が目に入った。生まれ育った場所は今、見渡す限り煙と炎に包まれている。狼煙のような一筋が各地からいくつも上がっている。遠くから誰かの呻きが重なる。助けを呼ぶ声、家族を呼ぶ声、怒号、気違いじみた笑い声。千差万別の断末魔が頂上のここへ流れてくる。

 上空を漂う鬼畜米英の敵機が、こちらに向かい飛来してきた。

 あまりにも近く、操縦席の顔が一瞬見えた。ゴーグルみたいなものをかけた男の顔は表情にこちらを見据え――。

 何度目かは分からない砲撃音が耳元で響く。

 清照から渡された耳栓を付けてはいたが、今ではまるで役に立たない。耳の中で火薬庫があって、そこが爆発している。遠い場所からなっているようにしか聞こえない。周りの音も一切入ってこなくなった。

 同じく、砲弾を運んでいる豊道二等兵に肩を叩く。耳元で何かを叫んでいる。その時、敵機の羽音が雑音で混じる。

街を滑空するように、二機が飛来するやいなや、通りざまに機銃掃射した。連続する銃声に並び、周りの木や地面を抉る。

 太一郎は砲弾を抱えながら、その場にしゃがみ込んだ。普通ならば避けられるはずもない。反射的に出た行動だった。

 咄嗟に目と耳を閉じた途端、突風が頬を切り、小石や小枝が当たる。腕に小さな木の棘が刺さっている。

 これは一体何なのか。無音の世界を、ただ往復する作業に没頭していた太一郎は問うた。突起の刺さった腕から、赤い血が流れ、地面に滴る。周りの光景がゆっくりのまま動いている。砲台の中から何かを叫ぶ曹長に、砲弾を無性に詰め込む清照――。

 これが、自分がなってほしいと思っていた情景なのだろうか? 父の事が知られるまでの砲台守は、あまりにも退屈だが平和だった。餓鬼大将が攻めて来た時も、これほどの切迫した状況ではなかった。

 何も死ぬわけではなかったからだろう。今はどうか?

 太一郎はフラフラした足取りで、胸に抱える砲弾を清照の元へと運んだ。少年が来ても、彼は呆然と後ろを見ているだけであった。おかしいと思いながら、太一郎も清照と同じ方向に振り返った。

 遥か遠方の空に、左翼から黒煙を吹かす敵機が蠅の鳴き声を残しながら、視界に消えていくのが目に入った。ここの砲台が放った弾が命中したのか、清照が言っていたほかの砲台か。もしかしたら、自分の運んでいた砲弾だろうか?

 さらに、砲台から少し離れた丘に転じると――いつもそこで春乃がスケッチを以って座っていた――に誰かが横たわっているのが分かったが、その顔が豊道でその体から下半身が続いていないと分かった瞬間、太一郎は息を飲んで小さく叫んだ。

「あかん。見たらあかん!」

 清照が目を覆い隠そうとするが、傷だらけの手に力はなかった。久しぶりに聞いたような清照の声が弱々しく絞り出される。

「……豊道。あかん……そんな」

 任務を忘れ、彼の元に歩み寄った清照は、虚ろになった顔に向かって話しかけた。青白くなった新兵の顔は、血に塗れ、唇が震えている。両目も焦点が合っていない。

「一等兵殿……寒い……体の下が寒い――」

 二等兵の下半身は消失し、その断面からは臓物が止めようもなく漏れ出ていた。震える唇は止まり、開かれた瞳孔もそのままになったきりだった。

 開かれた遺体の目を清照は厳かに閉じる。

「太一郎、お前は早よ逃げ」

「嫌や」

 清照は、太一郎の頬を殴った。予期せず、少年は荒れた地面に倒れた。

「まだ分からんか? もう遊びやない。ここにいたら、お前まで死ぬぞ」

「僕は少国民です。同じよう戦うなら、今死ぬんも大人になって死ぬんも同じや」

 少年の手は震えていた。言葉もまた同様だった。しかし、自分にとって正しい台詞が機械のように吐き出される。

「お前は、まだ死んだらあかん。お前には、お母んもお姉もおるやろ」

「その二人のために戦ってんねん! もう、非国民言われんようにな」

 清照は少年の肩を強く抱き、「噂なんてみんな忘れる。こんな空襲があって、それどころじゃなくなるわ」

「清兄は何で戦ってるん? 家族のためなんちゃうんか? 僕と同じはずや」

 青年は小さく笑った、そして首を振った。

「違う。お前と違って、俺には、もう何もない」

 周りの喧騒が一瞬静まった気がする。一秒か、それ以下のコマ単位。実際は銃弾が飛び交っていただろうし、爆弾が炸裂し、また誰かが死んだかもしれない。  

 太一郎は何かを言うのを止め、清照の初めて浮かべる顔をまじまじと見つめた。

「三月にな、大阪の梅田ででっかい空襲があっったんや。ここらと同じぐらいかもしれん。その日以来な、家族と連絡取れんでな……。近所のおばさんが手紙を送ってくれたんや。家族は家ごと火事で亡くなったってな」

 周りは、いつの間に白から黒煙へと変わっていた。木と草葉と、肉の燃える悪臭。目が染みる。清照は一度、強く咳き込んだ。

「仇を打ったかて、俺にはもう何もあらへん。家族も家も、待ってくれる人も帰る場所もあらへん。死ぬまでずっと一人や。アメ公の一人や二人ぶっ殺しても、おかんもおとんも兄弟等も生き返るわけとちゃう……」

 火の点いた木の葉が、五月雨のように降っては舞い散る。赤く燃え、そして灰となり、地面に落ちる前に消えていく。

 青年は向き直り、太一郎のか細い肩を掴む。肉が食い込むほど強く、夢うつつにも似た、ぼんやりとした意識が一気に覚め、五感を震わす現実が精彩を取り戻していく。消えたはずの音も次第に元に戻りつつあった。

「だから、お前だけでも――」清照の言葉が途切れた。

 B29から放たれた機銃の一発が、偶然、青年の脳天を貫き、脳漿を撒き散らし、顔面を跡形もなく粉砕した。その瞬間に佐川清輝は死に、頭部の欠けた痩身は力なくドサリと地面に伏した。

 太一郎には、最初、何が起こったのか理解できなかった。自分には、清照にも弾など当たるはずがないと信じて疑わなかったからだ。

 しかし、この弾雨の中、当たらない方が不自然なのを少年は気づかなかった。

近くに転がり落ちた砲弾を慌てて拾い上げてから、太一郎は冷たくなった上官を呆然と見下ろした。

「清にい……」

 何をしているのだろう? 先刻の問いが彼方から到来する。清照の頭が水風船みたいに破裂した。あまりにも非現実な瞬間の出来事に、太一郎の思考は麻痺しているのかもしれない。夢のような現実ではなく、夢にしては現実的に過ぎる悪夢であった。

 ただ、震える唇を噛みしめて、少年はポツリと言った。

「突っ立ってるんのが悪い」

 太一郎は清照の死体に背を向け、砲弾の補給を再開した。

 空は、少しずつ雨雲が覆い始めていた。


  六 母と娘


 ここに籠って、どのくらいの時間が経ったのだろうか?

 間近にかかる母の吐息を聞きながら、神長巴は狭い防空壕の中を見渡した。壕の中心辺りに、天井から白熱球が垂れ下がっている。時折の激震で、オレンジ色の微光が振れる。唯一の照明は、あまりにも心もとない。

 老若男女を問わずごった返した防空壕の中を照らす。防空頭巾を被っているせいで判別はできないが、ほとんどが町内の人達だ。誰もが、顔を伏せながらしゃがみ込む。一人に与えられた隙間は大変限られている。自ずと、正座をするか体育座りをするしかない。

 当然ながら、誰もが押し黙っている。少し前にあった町内の訓練とは違い、小声で交わす者もいなければ、気を紛らわして冗談を言う人もいない。何も聞こえないわけではない。ただ、外から入って来る破壊と爆発音、そして無数の荒い呼吸が聞こえる。そのため、豪の中は蒸し風呂のように熱気で溢れ返える。

 巴は、袖で顔の汗をぬぐった。それでも、心底で駆け巡る恐怖と不安が汗となって、後から後から流れ落ちてくる。

普段は、工場の油と炭で汚れているが、彼女の顔は母親に似て、白く透き通っていた。妙子や太一郎も気づいていないが、男勝りで横着な性格とは裏腹に、時々、巴は鏡に映る自分を眺めていた。

 古い絵の具の赤を唇に塗り、いつかは長く髪を伸ばし、悠々と街を歩く姿を夢見ていた。それ故に、自分がまったく間逆を演じる事に歯がゆくてならなかった。違うの。本当の自分はそうではないのに。そう思いつつも、今日まで女らしく居られなかったのは、父がいなかったせいである。

 巴はふと、横に座る母を見た。目はずっと豪の入口に向けられている。いつもの彼女にはない焦燥感が浮かび、流れる汗を拭く様子も見せずに呆然としている。

 巴は体を動かして、母の顔を流れる汗を拭き取った。ハッとしたように、妙子は娘の方を向いた。

「お母ちゃん、大丈夫?」

「心配かけてごめんね、巴さん」

 妙子はニコリと笑ったが、すぐに入口に目を転じる。弟はちゃん付けし、自分をさん付けする、やや変わり者の母も、この時ばかりは太一郎が気懸りらしかった。巴自身もそうである。

「太ちゃんなら大丈夫よ」

 巴には、母の焦りを知っていた。自分も同様の危惧を抱いたのだ。

「警報が鳴った時間には、まだ学校についてなかったかもしれない」

「でも、警報が鳴ってから、間があったから走ったら学校についてたかもしれんないよ」

「そう?」

 母が向き直り、彼女は強く頷いた。

「あの子は、愛国少年だよ。皆がそう言ってた」

 今はともかく、以前は近所の人達は弟の事を褒めていたのを、彼女は覚えている。逆に、母はあまり快く思っていなかった。以前その理由をそれとなく彼女に問うと、溜め息を小さく吐いて母は確かこう言っていた。『太ちゃんがそう呼ばれるんは、今みたいに戦争のない時の方がよかった』と。当時は深く考えたりはしなかったが、ここ数日間の出来事で母の言葉が理解できた。

 入口から陽光が漏れているが、外の街は既に爆撃によって黒煙と炎に覆われているため、入口に掛かる垂れ幕を上げるわけにはいかなかった。

 しかしそれでも微かな煙が室内に入って来る。何人かの咳が途切れなく続き、別の誰かと思われる舌打ちに数回聞こえた。

 こんな状態を我慢しろというの。巴はその相手を睨みつけたかったが、暗闇の中では特定は難しい上に、そんな気力もなかった。

 普段は雑炊か芋の葉ぐらいしか食してこなかった体には、今日のような未曽有の空襲から逃げ遂せただけでもすべてを消耗したように力が入らなくなっていた。それは母の妙子も同様だろう。

 妙子達のいる防空壕は、自宅から数十メートル離れた水路の傍の空き地に設置されていたため、常に水漏れを防ぐために外へ組みだす必要があったが、入口に置かれたポンプに手を伸ばす者は誰もいない。

 断続的に破裂音が続く。天井からは、空気を着る風の音が聞こえてくる。焼夷弾が落ちているのだ。

 前触れもなく、入口の幕が上がった。もんぺ姿の若い女性が転がるようにして入って来て、入り口付近に座っていた母とぶつかった。

「お母ちゃん!」

 慌てて駆け寄る巴を無視して、防空壕に入って来た女性は言った。「お願いです。ここにいさせて下さい! 家族とはぐれてしもうたんです」

「あんた、何丁目や?」

 ぎらつく目をした男が質問する。

「四丁目です……。家に出た途端に爆弾が降ってきて、煙の中を手さぐりに歩いてここが見えたんです……」

 急いで逃げてきたのだろう、息が荒い。額から血を流している。服も焦げている個所もある。

「出てけ」鋭い目の男が女を外に追いやろうとする。「ここはな、三丁目や。俺達が腹減ってるのを我慢して、汗水たらしながら作った壕に余所者なぞ入れられるか!」

 なんて傲慢な物言いだろうかと、巴は拳を握り締めた。母は平気そうに顔を上げて、二人のやり取りを見守っているだけだが、彼女には我慢できそうにもなかった。一度、外の様子を見れば一目瞭然だ。家も道路もなく、周りは火の海なのに、丁が違うだの、余所者だの、自分を何様だと思っているのだろうか。

「それにな、お前さんみたいな逃げ遅れたもんが入ってくると、ここが敵機に狙い撃ちされるんじゃ」

 あまりにもおかしな理屈だ。なのに、自分も含めてだれも反論しない。それどころか、奥に収まった人々は冷ややかな目で新参者を見つめている。

 何も言わなければ、賛成しているのと同じだ。亡くなった父の言葉を思い出し、巴は閉じていようと決めていたはずの口火を切った。

「今はそんなこと言うてる場合じゃないでしょう」

 男が女性から巴に視線を変えた。先刻のように険しくなる。

「何やと!」

「人が命からがらに逃げてきた言うのに、あんたはなんて事を言うんですか? この人が外に出て、撃たれたりしたら責任持てるん?」

 男の顔が紅潮するのが、暗がりの中でも分かった。

「非国民の分際で……」

「空襲が始まれば、ここにいるもんは皆同じです。非国民は関係ありません」

 男が黙り込んだ。女性は妙子の方に座り、「大丈夫ですか?」と申し訳なさそうに聞いたが、平気だと返した。

 言葉が続かず、男は唾を吐いて悪態をつくと黙り込んだ。一旦、壕の中が呼吸以外に静まり返った支配された矢先、安穏の沈黙は呆気なく終わった。

「いつ報せた?」

 壕の奥にうずくまっていた老婆が皺だらけの顔を上げ、こちらに向かって大声で言った。「あんたら、一体いつ、鬼畜米英どもに教えたんじゃあ?」

 一斉に老婆の方を向く。近くに住んでいたのは覚えているが、名前は思い出せない。隣組でもなかった。時々商店街を徘徊する姿は見かける事はあったが、家族のほとんどが出征して以降は、豆腐屋のおばあさんみたいに無口だった気がする。

「何、言うとるのですか?」

 老婆は抜け歯だらけの口を開け、「こんな朝早うに彼奴らが攻めて来るはずがない。ワシらが油断するのを知っておらんとな」

 巴は、老婆の言葉が理解できなかった。あまりに突飛が過ぎる主張だ。

「そうじゃ。スパイが教えやがったんだろう」

 口々に囁きが飛んだ。女性の事は既に話題にもなっていない。もしかしたら、今までずっと陰口を叩かれてきたのだろう。おとなしくなったばかりだったあの男まで、いつの間にか加勢していた。

「余所者より非国民。どうやら出て行くんは、あんたら二人みたいやの」

 妙子が彼女の手を引いた。反論すべき言葉を組み立てたまま言い返してやりたかったが、巴はしぶしぶ母に従う。

 入口をくぐって、壕の外へ出ると黒煙で視界がほとんど見えなかった。

「ごめん、お母ちゃん。わたし、余計な事ばかり言うて」

 母は巴の頬を拭いて、「巴さんは正しいことを言うたんやから、ええんよ。お互い様でいいはずなのに。それより、ごめんね。悔しかったでしょ」

 巴は笑いながら首を振る。「あそこは暑苦しかったからちょうどよかったわ」

 二人は防空壕のある空地を出て、煙の漂う路地を避けて、河原の方へ向かおうとした。先日、太一郎が友人だった児童にいじめられた場所に着いた時、巴は小さな悲鳴を漏らした。

 川面を埋め尽くして、炎が上がり、無数の人々が泳いで逃げ惑っていた。ほとんどの者が焼かれて、水面に浮かんでいる。水の上を火が広がる光景は初めてだった。

「こんな事――」

 母は静かに手を合わせた。娘もそれに倣う。

「男の人が、ああなると分かっていても戦わないといけんなんて、酷やと思うのはお母さんの間違いやろか?」

 母は目を開けて、巴の方に向く。「ごめんね」

「何で謝るの、お母さん?」

「こんな時代に、あなた達を生んでしまって」

「お母ちゃん……」巴は頭を下げたまま、首を横に振った。「アホな事言わんといて。うちも太一郎も、お父ちゃんとお母ちゃんに会いとうて生まれてきたんよ」

 顔を上げて母を直視する少女は、涙を流していたが、口元を緩めて、「人間、いくら死ぬ気で頑張ったかて、こんなもんやって――」

 突如、耳元が破裂するほどの痛みが走った。爆発したのだと遠くから間隔が報せた時には、神長巴の上半身は数メートル離れた川辺まで吹き飛んでいた。彼女自身が足を失った事実は知らないまま、即死のまま絶命した。

 母親もまた、同様であった。間近で爆発した衝撃で、彼女の体もまた千切れるように吹き飛んだ。臓物を草原にまき散らしながら、僅かな思惟がかつての幻想を映した。ほんの一瞬であり、走馬灯に近い。

 そこには、結核になる前の夫と二人の子供と仲良く祭りに出かけた時の思い出であった。多忙極まる日常に埋もれたせいで、今まですっかり忘れていた。

 かすかな意識が映し出した回想は露となって消えた。やがて、母娘の遺骸は炎に包まれ、幾千の死者に埋もれていった。


  七 破滅


 清照が死んでからもなお、太一郎は砲弾を運び続けていた。

 近くで幾人かの断末魔と呻きが聞こえたが、少年は見向きもしない。心ここに非ず、否、それ以上に自らの役割に執心していた。

 周りを彩る黒煙と炎はいつの間にか弱まっていた。理由は雨である。山間部では天候が崩れやすく、さらに梅雨時を控えた季節であったせいか、暗雲が包む空から次第にポタリポタリと雨滴が降り始めていた。

 もちろん、それでも太一郎少年の足は止まらない。すでに靴は両方脱げ、素足を枝や岩肌が傷つけ、右の人差し指の爪が折れていた。煤で学生服は汚れ、顔もまた、墨を塗ったように焦げている。火事場から焼け出された者と変わらない出で立ちになっていた。

 彼の手もまた、砲弾を掴んだ時、先刻に爆弾で飛ばされた際に、数本を突き指していた。足指と同様に爪も割れていた。

 痛みが麻痺しているのだ。すべての意識が、砲台守という自分自身を保てる依り代に傾斜しているのだ。また、自分はまだ夢の中にいるのだと思った。水責めの後、それより前の夢、それとも今日の朝の夢か……。

 いずれにしろ、太一郎には信じられない出来事ばかりであった。自分の住む町が敵の攻撃で壊滅して、砲台で戦っても太刀打ちできずに、清兄も死んで、新参の豊道二等兵まで体を真っ二つにされて……あまりにも阿呆過ぎる、と少年は笑った。

 誰かが、太一郎の肩を掴んだ。夢ではなく、現実の感触だった。

 まさか、清照だろうかと思って振り返ると、あの髭の上官が立っていた。熊のような大柄な大和田曹長は、なぜか頭から血を流している。

「山から下りろ」それだけ言った。

 振り切るには、肩に食い込むほどの万力。赤く染まった手の甲はしかし、表面の皮が剥けて、血肉と白い骨が薄く覗いていた。少年は思わず凝視した。

「まだ敵はいなくなっていません」震えた声で何とか振り絞った。

「味方もいないぞ。見ろ」

 グイっと体を反転させられ、太一郎の視界は、清照や豊道、他の青年たちの死体で一杯になった。目を背けようとしたが、曹長に頭を押さえられてできなかった。

「弾倉もない。見ろ」

 方向を変えられると、今まで砲弾を取りに往復した所が消えていた。代わりに、煉瓦が吹っ飛び、大穴が広がっているのみである。

「武器もない。自分の目で見ろ!」

 今度は、太一郎が自分で振り向いた。砲台の様子は一変していた。砲身は先から折れて、それを支えていた土台もまた所々がひしゃげていた。そして、扉の空いた土台から、煙が漏れている。

「もう、お前がここにいる理由はなくなった。早く逃げろ」

「嫌や!」

 曹長が平手を張った。小枝のように、太一郎の体は呆気なく転倒してしまう。地面に強かに打った時、太一郎は奇妙な感覚を抱いた。夢から覚めた気がしたのだ。心の底を燻る熱が、雨に打たれ、泥に塗れた体と共に冷めていく。

「命令だ! 今からでも遅くない。逃げろ。転進だ」

 どこかで聞いた単語が、やたら懐かしい。

「おじさんはどうするんや?」

「俺は、ここに残る。皆のために、けじめをつけねばならん」

 さあ、行けと曹長に背中を押されて、太一郎は広場から追い出された。

 太一郎は転げ落ちるように、斜面を下りていると、頂上から何回か耳をつんざくような銃声が響いた。



                《後半へつづく》

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