第十一回(後編) 青い空
内容の都合上、一部残酷な描写が含まれています。
八 彷徨
六月五日の空襲は、朝の七時半から正午にかけて行われた。そして、正午を過ぎた頃、B29の編隊は撤収を開始した。
敵機が去り、しばらく町には静けさが訪れた。しかし、空には暗雲が包み、地上では太い黒煙はまだ至るところに漂っている。やがて、霧が晴れるようにして辺りがしだいに明瞭となり、瓦礫と屍が覆う大地を露わにした。
ある初老の男は、今日の空襲が始まって間もなく、どこかの防空壕に走り込んだ事で難を逃れた。空襲が終わっても、しばらく壕の中でうずくまっていたが、自分以外に誰もいなくなっているのに気づくと、急いで視界のままならぬ外へと飛び出した。
いまだ行方の知れない息子を探し出すためであった。
かつては建物が並んでいたはずの場所を歩いていた。足の置場もなく、裸足になった右足は瓦礫や石で切ったが、痛みに顔をしかめる余裕などない。目は一心不乱に左右に動かしながら、視界の悪い正面に息子の姿を捉えようと躍起になっている。顔中、炭と血で汚れ、鼻も充血した目と同じく赤く腫れている。
彼にとって一番耐え難いのは、方々から漂ってくる異臭だった。死体が放つ臭いだと分かっているが、しかし、鼻腔を刺激するのは嗅いだ事のある犬や猫とは比較にならない。鼻をつまんで入ってくる。
男の周りには、何もない。高い建造物など一軒も残っておらず、ただ、ポツンと取り残された電信柱が、間隔を置いて傾斜し、瓦礫の山がうず高く地平線まで続いていた。鉄柱のむき出しになったコンクリートが地面から突き上げたように伸びる。所々にひびが走り、近づくには危険すぎる。しかし、あの中に息子がいるかもしれないと思うと素通りできるはずもなく、出来るだけ顔を伸ばして内部を窺った。
そこは、焼死体で埋め尽くされていた。どれも顔は分からないが、仰向けになった黒い焼けた人間の顔が反り返り、こちらを向いている。眼孔はポッカリと空洞ができ、半開きになった口から覗く歯はやけに白い。胴体と分かる位置はモコモコに膨らんでおり、死体と言うには非現実で粘土細工にも思えた。黒焦げの死体はひと固まりになっているので、人数も分からない。顔と顔、体や四肢が重なり合い、肥大化した肉塊から複数の手足を伸ばしている様にも見える。
この中に息子がいなければいいのだが、嫌、いてはいけない。どこかで生きているものと願い、男は歩き始めた。幼い頃から、子供を儲け、その成長を見守るまでいた故郷は、いわば庭のようなものだ。目隠ししても家に帰られるとい自負さえあった。
ところがどうだろう。まるで、区別がつかなくなっているのだ。どの方角にも建物などない。ただ、遠くでへし折れている鉄塔は見覚えがあった。あちらが北ならば、家は反対の方角だ。瓦礫の山を踏みしめる途中、横に倒れた大きな壁から、手がはみ出ているのを見つけ、再び立ち止まった。紫と白の縞がはいったモンペの袖から伸びる、細い腕。息子ではないが、男は恐る恐る、瓦礫の隙間に屈んで、犠牲者の姿を目に焼き付けた。顔はこちらに向きながら、平面に潰れている。目や鼻がなく、口も縦に広がっている。服を突き破るように、腹から五臓六腑がはみ出ていた。
男は耐えられなくなり、慌てて顔を出すと先を急いだ。
見覚えのある河の近くまでたどり着いた。家まではもう少しである。男は思わず足を止めた。これで何度目であろう。だが、抗いようもない光景があったのだ。
遠い昔、子供の頃に泳いだ河は今、青い川面ではなかった。こちらに腹を見せる、死体で一杯に浮いているのである。あまりも得ておらず、元の姿のままを保っている彼らの姿は、あまりにも違和感であった。
どれもが口を空に向かって開け、落ち込んだ目は濁っている。学生服、兵服、ゲートル、モンペ、老若男女の遺骸は焦げてもいない、そのままの姿を空に向かって見せて浮かんでいた。
ふと、男の足元には、黒く変色した赤ん坊がうずくまっていた。微動だにしないそれは、白い頭蓋骨が垣間見える。顔は干からびたように、中空に向いている。
これは一体どういう事じゃ? 儂はどこにおる? ここが故郷か?
男は、橋を過ぎながら、その足がふらふらになっているのに気づいたが、疲労とは関係ない。地獄の光景を目に焼き付けてきた生理的な嫌悪感に襲われて、地面に吐いた。
目の前にも別の、黒い死体があった。子供か女性かは分からない。細い足を折り曲げて、仰向けに両手を突き出したまま、頭部はダランと地面に伏している。死体の腹には、らせん状に曲がっている細長い突起物が刺さっていた。
男は立ち上がり、その場を逃げるように走った。もう、激しい運動は控えるべき年であるにもかかわらず、彼の足は一向に止まらなかった。逃れたい光景が永遠に続くうちは、トタンを踏みしめる足が止まる事もないだろう。とうとう息が切れて、ぺたりと座りこんだ場所にも、死屍累々が前後左右を囲む。
遠くに、太いとんがり帽子に似た塔が目立つ建物が目に入った。回教(イスラム教)のモスクである。そう言えば、町はずれに外国人がたむろしていた。息子の事を忘れたかのように、男の足はそこへ向かった。
開け放たれた入り口をくぐると、寺院の中は冷気がひんやりと包み込み、異様な静けさが支配していた。男の他に誰もいない。何かの絵が壁に飾られている。冷たい床に足を下ろし、男は頭を床にこすりつけた。少し黴臭いが、外のような強烈な死臭はあまり漂ってこない。死肉に群れる蠅も飛んでいない。
少なくとも、この中には死体まどないのだ。
祈るようなその姿勢を続けたまま、男はさめざめと泣き始めた。
雨音がかすかに聞こえる。いつもの梅雨が戦禍の後になってやって来た。男はとうとう耳を塞ぎ、束の間の殻に閉じこもる。
外では、暗雲から降り注ぐ、黒く濁った血の雨が屍の街に降り注いでいた。
九 雨の中
顔が冷たい。どうやら、雨が降ってきたようだ。
音のない世界で、太一郎はなんとなくそう思ったが、別に深い感慨を持つ事はなかった。口を大きく開いて、何かを叫ぶ大人がいる。誰かを探しているのだろうか? 太一郎は考えたが、取り立てて悩むほどでもなく埋没していった。
周りは霧が覆い、自分のいる位置も定かではない。もちろん、家がどこにあるのかも判別できない。これが五里霧中の由来かもしれないな、と彼はまたも考えた。
家? 家は燃えてしまったのではなかったか。アメ公の落とした焼夷弾で、火事になって、奥間も自分の部屋もなくなってしまったんじゃなかったか?
少年の記憶は、またも新たな疑問を生んだ。お母ちゃんや姉ちゃんは、どこに行ったのだ? 一番肝心要の問題だった。一家離散という言葉が割り込んできるので、無理やりもみ消した。家にはいなかった気がする。うん。太一郎は自分で頷いた。首が傾いたまま、下を向きながら歩き続けた。
ハルはどうなった? 死んだか? 他の皆みたいに、腹から腸を飛び立たせて死んだか、火を点けられた丸太みたいに、黒焦げの炭になるまで燃えたか、はたまた清兄のように背中にとげを刺されて、おっちんだか?
あんなおかしくて面白い奴でも、死ぬ時は同じかもしれない。
そう言えば、清兄はどうした? 太一郎は後ろを振り返った。降りてきたばかりの山は、まだ山火事で燃えている。雨が止む頃にははげ山になっているかもしれない。そうなれば、極秘の砲台は皆の知るところになるだろう。
貴一はどうしただろうか? 金持ちのボンボンでも、敵の空襲からは逃げられるはずもないな。金で敵が逃げてくれるはずがない。紙屑の金を握ったまま、地獄に行けばいいのだ。太一郎は唇を歪ませて、笑った。あいつの秘密を知ってからは愉快でならなかった。これから貴一の顔を見るたびに、思い出し笑いに苦しめられる羽目になる。
そう言えば――。太一郎が疑問符の濁流に夢中になっていたせいで、眼前に立つ男に注意が行かなかった。できたところで、逃げる手立てなどなかったであろう。後ろにも、前方の男と同じく、怒りで紅潮した顔に宿した幾人かがいた。
国民服を着た、痩身の男が、トボトボ前を行く太一郎の胸倉を掴み上げた。突然、外部から思惟を乱暴にかき消され、何かが起きたのか分からないまま、少年は地面に倒された。
少年を複数の老若男女が取り囲んだ。中には知っている顔もあった。一同は、炭に汚れた中に無表情を浮かべ、太一郎を冷ややかに睥睨していた。
まるで、どこかの光景に似ている。太一郎は考えたが、思い出せなかった。
男が何か言っている。チリチリに焦げた髪は皆同じだが、異様にしわが多くて見た目よりも年を取っていそうだ。
大人達の声が微かに太一郎の耳へ入ってくる。
「こいつは神長とこのガキや!」
「こいつはスパイの家やったらしいぞ!」
「こいつらのせいで俺の家族は……」
方々から聞こえる嗚咽の混じった怒号は、間違いなく自分に向けられていると分かり、太一郎が何かを言おうとした瞬間、後頭部を誰かに殴られた。
「殺しちまえっ!」子供の声がした。聞いたことのある、だみ声。貴一よりも大柄な肥満体を思い浮かべる前に、暴力の第二波が来た。
「アカの子倅めら!」
横転した太一郎の体めがけて、杖を振り下ろす老人。近所では温和で通っていたが、たった一人の連れ合いを失い、平常の面影などない。
「死んじまえやっ! 貴様など、真っ先に死ね!」
先刻、太一郎をはり倒した中年の男は、前々から神長家の噂を近所中に言い触らしていた。食料の乏しくなる一方の困窮極まる生活の、あくまではけ口に過ぎなかったのだが、ここに来て暴徒を率先していた。
子供の怒りを代弁するように、和田勝は太一郎の小さな体を蹴り続けた。砲台山でやられた分と、決闘で一方的に放棄された時の屈辱と、少年は怒りを持って埋め合わせた。もちろん、家族を目の前で失った恨みもあるが、勝の中では、なぜか喧嘩の事ばかりが浮かんでいた。
数分間ぐらい続いただろうか。ぐったりと動かなくなった少年に唾をかけた中年男性が離れたのを皮切りに、飽きたかのように方々に去って行った。間髪入れずに立ち上がった太一郎に向かって、誰かが拳ぐらいの石を投げつけた。
一撃の投石は、少年の脳天に当たった。太一郎は再び地面に倒れる。投げつけた本人は低く笑ったが、それっきり顔を青ざめたまま、小雨の中に消えた。
太一郎は泣いた。数えきれない痛みと、戻りつつある現実的な感覚とで、麻痺していた理性が殻を破り決壊した。
「お母ちゃん!……」
明るく、時には気丈で厳しい母を思い浮かべる。
「お姉ちゃん!……」
太一郎はまた二人を呼んだ。か細い声が雨と霧に消えていく。
「お、お父ちゃん……」
――ごめんなさい……。
嗚咽が雨の中に消えていく。太一郎はただ、徘徊するしかなかった。
十 解き放たれて、戯れて
六月五日から数日間、太一郎は瓦礫と化した街を徘徊した。
朝の昼も飲まず食わず、一睡も眠る事なく、その足は止まるのを知らず、かつては閑散した商店が軒を連ねていた大通りの真ん中を歩いた。
その時、橋の中央を渡る一休さんを思い浮かべた。彼もこんなに自信に溢れ返っていたのだろうか? 煮えたぎる高揚感で体が熱かったのだろうか? 太一郎は不安定な足場を軽く跳びながら移動し、一際笑った。
ここの橋は少し汚すぎるな。それに、どこに欄干があるのか分からないし、川面もトタンの目立つガラクタですっかり濁っている。
あまり綺麗とは言えない橋を、薄汚れた格好で歩く自分は、学芸で演じた軍人よりもみすぼらしく、滑稽でおかしかった。
道と家がなくなった町内を、何度も往来する少年の姿を、どこかから避難してきた幾人が目撃した。笑みを浮かべながら行き過ぎる太一郎を、異口同音に憐れみながらも、聞えよがしに蔑む者も少なくなかった。
「あの小僧、キチガイになっちまったんか」
言われ後ろ指を指されようが、今の彼には聞こえないだろう。間近で何度も聞いた砲撃とB29の爆撃音、加えて暴徒達の私刑により、両耳の鼓膜が破れていた。
両手を一杯に広げ、太一郎は瓦礫の馳を駆けた。足は棒になってタコのように千鳥足になっても止まらない。顔は憑き物がすっかり落ちたかのか、憂いが嘘のように消えて晴々しく朗らかだった。
天真爛漫とも表現できる笑顔を浮かべ、ケラケラと笑った。
足元には、地面から突き出して木炭と化した電柱、垂れ下がる電線、斜面に欠けた塀には弾丸の穴の跡が色濃く残る。無造作に放置された黒古げの死体が山積みのまま残っている。老若男女問わず、太陽に向かって手を差し出すように絶命し、周りを蠅が集り、孵化した蛆虫が隙間なく這いずる。
太一郎の目には、一面に雲が漂う空に映っていた。陰鬱な梅雨が過ぎ、初夏の到来を告げる巨大な積乱雲の群れに、青く澄み渡る大空のパノラマが広がる、自分だけの世界がそこにあった。
神長家と酒屋が向かい合っていた通りに来ても、彼が気づかずに通り過ぎて行った。頭の中の世界に、神長家も月影酒屋も存在しないのだ。
かつての理性が亡失していなければ、そこに残っていただろう。家具や棚もすべて燃え尽き、残ったものは皆無である。彼の父親の部屋にあった哲学書、小説もまた他の何億の書物と同じように灰燼に伏した。
次に河原のある空き地に出た。かつて、子供達が遊び場とし、太一郎もまた皆に混じって兵隊ごっこをしていた。最近では、貴一の報復に従った毅達にリンチされた思い出が新しいが、勿論、今の彼にはその記憶が一抹も残存していない。悲惨な過去など、とうの昔に“のうなった”のだ。
数日前まであった、空地に設置された防空壕の中にあった死体の山――その中には、妙子と巴も入っている――も既に取り払われたようだ。
生まれ育った町は瓦礫と屍の荒れ地になってしまった。
しかし、悲しみも怒りもすっかり消えている。全部が、少年を重圧で押し潰した挙句、忘却の彼方へといざなったのである。
太一郎にとっての現実は、何もない。彼を取り巻くのは、ただ、夢心地のみ。
何周目だろうか。月影酒屋のあった場所で、途方もなく石段に座っていた春乃が、こちらへ近づいてくる太一郎を捉えた。
「太ちゃん?」春乃は掠れた声で呼んだ。
太一郎の反応はなく、何度も呼びとめる彼女を無視して真横を通り過ぎていく。残った気力を振る絞り、春乃はそのふらつく背中に走ってぶつかった。タックルのような形で倒れる二人は、土埃を立たせて地面に強く打った。
「太ちゃんが生きてた! ちゃんと助かっとったぁ!」
少年の上に馬乗りになり、抑えようのない歓喜に打ち震える顔は、涙と鼻水で濡れて太一郎の顔に滴るが、彼はまるで自分の状況を理解できないような、そしてそれすらもどうでもいいような無表情で幼馴染の少女を見つめる。
「どけ!」
太一郎は怒鳴って、春乃の胸倉をつかんで乱暴に引きはがした。
「太ちゃん?」
「人の邪魔をすんなや、馬鹿野郎が!」
いつもなら引き下がらないはずだった。しかし、目の前の少年はいつもの知っていう太一郎ではなかった。頭の中だけが交換した他人のようである。
青天に輝く陽光が降り注ぐ。梅雨の時期が過ぎて、初夏の兆しを見せ始めていた。
不快を示していた仏頂面が急に解けて、太一郎はけたたましく笑い出した。腹を押さえながら、青空にこだましながら。
「太ちゃん……どうしたんじゃ?」
今まで見た事のない少年の変貌に、血の気を失った彼女は太一郎の肩に触れようとするが、いきなり手を広げてその周りを走り出した。それはまるで飛行機にでもなったかのようだったが、太一郎は紛れもなく人間である。
「僕らは、大空を羽ばたく大きな鳥になったんや! ずっとずっと遠い遠い宇宙の果てまで飛んでいくねん!」
そして、ぶううんと言いながら走ってどこかへ行こうとする。止めようとする春乃は、「どうしたんじゃ、太ちゃん! どこにも行かんといて!」
体を振りまわして、掴まれていた細い腕を解いた少年は、身軽な身のこなしで塀の上に立った。
「僕らは、白い翼を持つ鳥になった! もう、B29なんかより、零戦よりも強く、戦艦大和よりも武器をたくさん持っているんやぞ!」
大きく手を広げて、瓦礫の山を登り、少年は意味の分からない雄叫びを上げた。しかし、突如、ガクンと体が揺れて、太一郎はその場に倒れた。
「太ちゃん……」
彼女はその場所へゆっくりとした足取りで歩いた。そして、地面に伏した少年も傍に立った。大きくばたつくように手足を揺らす少年の姿は、網にかかった魚に似ていた。頭を押さえながら呻く。
「太ちゃん!」
力が抜けたように跪くと、春乃は変わり果てた少年の体を持ち上げて自分の膝の上に乗せた。
「死なんといて! 死んだらいやや!」
白目を剥いて、鼻や耳から黒い血を流す。少年は一瞬、普通の顔に戻り、少女に問うた。
「いっとうー何なん?」
太一郎のつぶやきを聞き、春乃は強く抱きしめた。細い体を優しく包む。それに、とても冷たい。太一郎の命が死んでいくのが分かった。
少年の体が小刻みに痙攣し、やがて力なく地面に伏した。
それから――神長太一郎の死骸を膝に乗せて、少女は自分の知っている歌を片っ端から歌い始めた。涙は枯れていたが、喉は枯れて声が出なくなるまで、彼女の舌足らずな歌声は止まなかった。取り分けて上手ではない。それでも少女は歌い続けた。事切れた太一郎の顔は赤子と見紛うほど安穏に溢れていた。
この日、砲台守の太一郎が死んだのだ。
十一 盲目の少年
太一郎の死体が雨に濡れないように上からトタンを被せると、春乃は学校のあった場所に向かって歩き出した。通行人の会話の中に、『学校で乾パンが配布されているらしい、怪我人が大勢運び込まれて、治療を受けている』とあったためである。
「太ちゃん、ちゃんと待っといてや」
そう言い残し、春乃は荒廃した荒れ地をトボトボと歩いた。走る気力さえなく、ただ、周りの者について行くだけであった。ほとんどの顔が、沈痛や疲労困憊を通り越して、虫の抜け殻を想起させた。誰もが、向かう先のなく彷徨う、地獄の亡者が織り成す葬列に、自分も加わったかのような気分に陥っていただろう。
春乃もまた、太一郎の死を目撃しながらも受け入れられずにいた。いわば、生きつつ死につつの亡者と変わりない。板の切れ端やガラス、岩肌で傷だらけになった足はふらついたが、その度に体勢を持ち直しつつ進んだ。
――太ちゃんに、おいしい乾パンを喰わしてやるんじゃ。
そうすれば生き返るかもしれん、と少女は強く思った。思慮が欠けているとしても、人が死んだら“のうなる”という事ぐらいは知っていた。
もしかすると、春乃もまた、死期の太一郎みたく狂っているかもしれない。
誰かの噂は本当だった。張茂第五国民学校とは正反対の方角にある、西野崎国民学校に辿り着くと、校庭を埋め尽くす人だかりと、テントがいくつも並んでいた。ほとんどが軽傷者に簡易の治療を施すのに使われている。顔や手の火傷、灰の入った目、避難時に負った打撲等……。
小さな呻き声が校舎から漏れている。手当てがおぼつかない重傷者、死が訪れるまでの間、筆舌を絶する激痛に苛まれる。殺戮の雨がもたらした、地獄の残り火が日を経ても、多くの命を奪っていった。
春乃は乾パンの入った袋を抱える家族に、舌足らずな言葉で聞いた。探していた子供が見つかり、空襲の少ない遠方にいる親戚から連絡が取れて、束の間の安堵にあった彼らに話しかけた少女は運がよかったのかもしれない。
家族連れからテントの場所を聞き、春乃は乾パン配布場所を見つけ、そこのひときわ長い行列の後ろに並んだ。
一時間近く待った甲斐があり、三、四十枚入った紙袋を強く抱えて、太一郎の眠る月影酒店跡地へと向かった。毎日徘徊していた町の土地勘は、何もなくなった今もなんとなくだが分かった。
大通りのあった場所まで来たところで、春乃は奇妙な少年に出くわした。
「誰かぁ、助けてください……」
ボロボロの黒装束を着た、小太りの少年。怖い目にあったのか腰が抜けたみたいに、地面に這いつくばっている。
「誰かぁぁ……」
虚ろに開かれた両目は、なぜか空を仰ぎ、作り物のように瞬き一つしない。
「あんた、目ぇ見えへんのか?」春乃は、思わず彼に話しかけた。
少年の、煤だらけになった顔がこちらを向いた。坊主よりも少し長めの髪は、すっかり乱れ、所々がちりちりに焦げていた。大人が履きそうな靴も片方しかない。
「誰? 誰かいるのか?」
「ここにおるよ」少年の周囲を歩きながら言った。
やはり目が見えないのか、目線が春乃よりやや高い位置をキョロキョロしている。
「君は子供か? 大人の人は近くにいないの?」
「おらん。うちのお母んとお父んも、どっか行ってしもうた。今はうちしかおらん」
少年が舌打ちし、あっさりと見限るように春乃から離れた。その時、彼がおなかの虫を鳴らした。あれだけ太っていても空腹になるものなのかと、少女は思った。
疲れていた春乃はその場に座った。抱えていた袋から乾パンを一枚取り出し、それをかじった。小さな穴の並んだ乾パンは、歯を立てるほど固くて無味乾燥だが、何もないよりましだろう。のどに詰まりかけて何度か咳込んだ。
「何か食べているの?」少年が慌ててやって来た。耳ざとくなったようだ。
「乾パンじゃ」
「何枚ある?」
「三十枚じゃ」
バリバリ食べながら、能天気に春乃が言うと、少年は手を上げて飛び込もうとした。彼女は難なく避けて、盲目の少年は何もない地面に伏した。
「よこせ!」
「嫌じゃ。あんたは乱暴過ぎるけん」
「何おかしな事を言ってんだ。金なら後であげる。だから、つべこべ言わず乾パンよこせって言ってんだよ!」
春乃は少年から離れた。「やっぱり、あんたは乱暴じゃ。そんなに太っとるのに、よこせよこせって、とっても礼儀知らずじゃ」
春乃の言葉に、少年の顔は強張り、肩を小さく震わせる。
「なんだと……お前まで馬鹿にするのか? アイツみたいに、僕を笑い者にして……一体、自分を誰様だと思っているんだ、貧乏人の分際でぇ!」
濁った目が春乃を睨みつけるが、かすれる声のせいか覇気がない。
「乾パンあげるのをやめた。あんたは礼儀知らずじゃ」
「何だと?」
盲目の少年は、その場を去ろうとする少女を追いかけようとするが、瓦礫に足を取られて地面に再度倒れた。
春乃は気になり、声を出さぬように立っていた。じきに少年が鼻水を垂らして嗚咽を漏らす。頭を地面にこすり付けて土下座をする格好になった。
「お願いします……僕が悪かったです……どうか助けてください。僕に乾パンをください。僕がすべて悪かったです。ごめんなさい。後生だから……」
春乃は少年が少し気の毒になった。目が見えないせいでひどい言葉しか出ないのかもしれないし、いつも偉そうにしているかもしれない。けれども、今、腹を空かせて困っているのは事実だろう。
彼女は、一度袋の中を覗いた。決して多くはないが、底が見えないほど乾パンの敷きつめてある。
――太ちゃんの分だけど……。
少女は、うずくまったままの少年に近づいて、傷だらけの厚ぼったいその手に、乾パンを五枚だけ載せた。少年が泣くのを止めて、墨で黒くなった顔を上げた。春乃は彼の体を真後ろに向けさせる。その先は学校の方角だった。
「このまま、まっすぐ歩き。そうしたら、乾パンくれる学校につくよ。目も治してくれるかもしれんよ」
「本当に?」
春乃は少年から離れた。彼は目を開けたままお辞儀をすると、少女が示した方へと歩き出した。数日経ったおかげで、瓦礫もある程度片づけられて、人が通れる道が漠然とだが走っていた。
少年はしばらく歩いた後、後ろを振り返った。
「このキチガイ野郎め! お前なんて、野垂れて死んじまえ!」
彼はそう叫び、慌てて逃げようとした矢先、足を滑らせたのか少年の姿は消えた。
春乃はただ悲しげに遠くを見つめると、再び、太一郎の眠る場所へと歩いた。
十二 離別
まもなく、日が暮れようとしていた。
途端の敷いてある場所に到着した春乃は、思わず体を固くする。トタンが払われ、太一郎の体が横たわっていた。その死体の横にもんぺ姿の誰かがひざまずいていた。ハンカチで少年の顔を拭いている。
――太ちゃんのお母さん?
走り寄った春乃だが、気配に気づいてこちらを振り返ったのは、まったく知らない女性だった。
「おばちゃん、誰?」春乃は駆け寄ると、太一郎の死体をひったくった。「太ちゃんを連れて行かんといて!」
「あなたは、この子の知り合いなのね」
三十代後半ぐらいの年齢だろうか、目じりのしわを無視すれば、顔も手もきめの細かい肌をしている。
「その子はもう死んでいるのよ。いつまでも、ここにおいていてもかわいそう」
「太ちゃんはどこにもやらへん。ずっと、ここにおる!」
女性は黙っていた。ただ、ぱっちりと開いた目が少女を心配げに見つめていた。
「おばさんには関係ないよ」
「私もね、友達を空襲で亡くしたの」
「おばさんは神戸の人?」
女性は首を振り、「私は丹波から来たの。古い友人を探しにここへ来たのだけれど……」
「見つからんの?」
女性は小さく頷くとその場に座り込み、賽の河原のように小石を積んだ。一つ積んだら、父のため。二つ積んだら、母のため。おぼろげな歌が頭の中で反芻する。
「家族も知り合いも戦争で死んだ。息子も戦死した。今は私一人。お嬢ちゃんの親はどこにいるの?」
「お父もお母もどっかに行ってしもうた。うちも一人ぼっちじゃ」膝に乗せた太一郎の頭をなでながら、「……太ちゃんも、のうなってしもうた」
春乃は泣き出した。抑えの利かない奔流になって、少年の顔にかかり、地面に流れ落ちる。ひきつけの発作みたいに止まらない。
「みんな、他人。だからこそ結びついて生きていかなきゃいけないの」
太一郎の体が、以前よりも冷たくなった気がする。それに、氷のように固い。肌の色もどす黒く染まりつつある。
「待っていてあげる。気が晴れたら、一緒に親を探しましょう」
女性の気配が消えた。そういえば、名前も聞いていなかった。
春乃は袋から乾パンを一枚取り出すと、太一郎の口につけた。もちろん、少年の唇は閉じられたままである。春乃は彼の口をこじ開けて、乾パンを食べさせてやろうとするが、思い通りにならない。
二人の周りをハエがたかっている。卵を植え付けられると、蛆が湧いてしまう。蛆は太一郎を残さず食べてしまう。少年の体が腐っているのだと、春乃は分かっていた。手を振って、ハエを追い払おうとする。
何度払ってもハエはどこにも逃げようとせず、太一郎の手に、顔にまとわりつく。
「嫌じゃ……嫌じゃ」
太一郎の黒い瞳は薄く濁っている。白内障みたいだった。まるで、さっき出会った口の悪い少年と同じように……。
「おばちゃん……おばちゃん!」春乃は叫んで振り返った。
露出した岩場に、その女性は座っていた。言っていた通りずっと待っていたのだ。春乃は彼女の元に駆け寄った。
「太ちゃんも燃えやさんとあかんの? おばあちゃんみたいに、燃やさんとあかんの?」
女性は何も言わない。ただ、横たわる太一郎の死体を抱えた。
「荼毘に伏してもらうのよ」
「荼毘?」
「生きていた間の辛いことも悲しいことも、全部浄化してくれるのよ」
「本当に?」
女性は歩き出した。その後を、春乃が追った。
「おばさんはなんていう名前なん?」
「うちは、春乃……」
少女はなぜか、自分の苗字を失念した。しかし、紀島と名乗った女性は特に問わず、ただ「いい名前ね」とだけ言った。
それから、二人は太一郎の死体を火葬場まで運んだ。同じように死屍累々が積まれている。大穴に無造作に入れられ、そして火葬された。パチパチと鳴り、黒煙が空に舞い上がる間、春乃は紀島にすがり付いて泣いた。
「大事な友達だったのね……」
春乃はふと、泣きはらす顔を上げた。紀島の歳の頃は、顔の皺、目じりなどからして四十路ぐらいだろう。ただ、年齢に不相応なまでの凛とした瞳を、太一郎を失った少女から、崩れ落ちる小さな棺と、無数に舞い上がる赤黒い火の粉に向けた。
紀島に倣い、春乃は大きな瞳を見開き、この世から消えていく少年の骸を眺め続けた。
梅雨が始まって間もない、昭和二十年の六月は上旬の頃である。
《最終回へつづく》




