天使の唄は、ただ高らかに
「ふ……ふふふ、くふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ」
べィが恍惚の表情で肩を震わせる。
痩せぎすで病的な少女とは思えないその妖艶で蠱惑的な表情は、まさに悪魔にしか浮かべられない、汚れて蕩け果てた毒沼の快楽の滴りだ。
少女の形に集った魔群は、食い尽くされ、赤黒い肉の塊と化したケイの体を踊るように振りまわしながら、絶頂の余韻を楽しんでいた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
何と! 何と素晴らしい! 肉を齧る一口一口で脳が痺れる! 血を啜る一滴一滴で気をやってしまいそうだ! 我を形作る一匹一匹に至るまでが全て絶頂し! 喰らい合い! 犯し合い始めている! あ! ああっ! んっ! ふあっ! あ……っはぁ! まずい、まずいなコレは……手始めにこんなものを食らってしまっては、この後の楽しみがなくなってしまうという物だ……なぁ?」
悪魔の視線が力尽きて地上に降りた天使人の少女に突き刺さる。虫たちは再召喚されてさらに数を増し、壁は前面が汚らわしい粘液に覆われた肉会に覆われ、天井は分厚い虫の層でコンクリートが全く見えない程。床も虫たちに覆いつくされ、イリスの周囲1メートルを除いてすべてが虫たちの絨毯で隠されている。
しかし、イリスの体は先ほどの『生誕祝う群蟲の葬列』で一匹の虫もついておらず、無傷だった。
「さぁて……幕だ、余は余を楽しませたものに敬意を表する。貴様が今骨になっていないのも、それが故だ」
イリスは魔杖をまっすぐに突きつけ、ありったけの憎悪を込めてべィを睨みつけていた。
「それはそれは……ありがたすぎて泣けてくるね、で? 敬意を表するっていうのは具体的にどうしてくれるの? そこで火を通す直前のハンバーグみたいになっちゃった私の相棒を返して、とっととお似合いの地獄に帰ってくれるとか?」
少ない魔力を何とか練り上げ、魔術の詠唱を始める。その様子を見たべィが、唇の端を釣り上げて小さな微笑みを形作る。
「成程、成程なぁ……そういう事か。しかしなぁ、天使人よそれでは余には勝てんよ、いや、寧ろ余としては喜ぶ所かな? 何せお前がその術式を発動してくれれば、余はもう一度こいつを喰らえるのだからな」
手元の肉塊を目の高さまで持ち上げる。先ほどまでケイの形をしていた肉の塊の中から、蛆や蜈蚣が這い出しては、再び肉を食いながら中に戻っていく。
愛おしそうに、美味しそうに、べィがケイの顔だった場所を舐める。赤い血と混じった唾液が粘つく糸を引いて滴った。
噛みしめたイリスの唇から血が滲む。本当なら今すぐにでも飛び掛かりたい所だったが、ロクに魔力も無い今飛び掛かったところで、食い尽くされるのが解り切っている。
「所で、これは単純な興味で問うのだが……お前ら天使の生態は本当に人間の阿保らしい神話と同じなのか? 淫蕩に沈む享楽とも、この男の肉の味も知らぬと?」
睨みあいながら、べィが問いかける。
一瞬イリスは質問の意味が解らずに硬直したが、すぐにこの悪魔の言わんとすることを理解した。
「何言うかと思えば……最っ低ぇ!」
どれほど薄まろうと、どれほど怠惰と堕落と暴食の極みを尽くそうと、彼女には天使の血が流れている。
言葉こそ短いが、その語気、その表情には天使としてべィの醜悪さを許さない、強い意志が宿っていた。
「悪魔とはそういう者よ、許せ。で? 本題だ、お前はこの肉を味わおうとは思わんのか? 余はこうして、ホラ……隅々まで、文字通り貪りつくした故な……さぁ、肉は十分堪能した、次は魂か……ああ、これを汚し溶かすのは、想像するだけで心がときめくという物よ? お前もどうだ? 余の一部となれば、それこそ心も体も、思う存分混じり合う事ができるのだぞ?」
ぶちり、と自分の脳の奥で音がするのを確かにイリスは聞いた。
勝機や戦いや切り札と言った言葉の全てが脳から消失。代わりに注ぎ込まれたのは、真っ赤に溶けた鉄よりなお熱い、憎悪と敵意の灼熱だ。
「おぉまぁえぇええええええええええええええ!」
エーテルの翼が激情に輝く。羽ばたくと共に周囲の虫たちを吹き飛ばし、一発の弾丸となったイリスの体が飛翔する。
「はぁはははははっ! さぁ来い! 今余の手にある希望が欲しいのだろう!」
黒い霞と白い少女が空中で激突。攻撃魔法に回す魔力すらも惜しみ、最低限の結界魔法で体を守って前へ、前へと進んでいく。
手を伸ばす、届くように。
加速する、間に合うように。
「良い! 良い良い良い良い良い良い良い良い良い!」
虫のそれに腕を作り変え、べィが手をイリスに向ける。
先端に光が集まり、穴蔵を昼間に変えるほどの魔力砲撃が襲う。イリスの体が即座にバレルロールし、回避を試みる。直撃すれば魔力不足の申し訳程度の結界など、水に塗れた紙の様に貫通される。その後に彼女の体は、チリ一つ残さずに消滅するであろう。
(ああもうっ! アタシのバカ! あんな安い挑発で!)
心の中で自分に悪態をつく。最後の切り札の発動まで、おそらくもうあと数秒。
しかし、その数秒を稼げるかが怪しい。砲撃が迫る。べィへの距離を詰めようとするが、必殺の一撃がそれを許さない。
「――ならばっ!」
聖域化の天術と結界を強制終了。浮いた力の全てを飛ぶことに割いて更なる加速をする。
「何っ?」
さしものべィも驚きの声を上げる。先ほどからべィと二人が何とか戦闘になっていたのは、彼女の結界があってこそだ。それを捨て去った今、待っているのは今度こそ行われる全権族の召喚と、確実な死のみである。
――その思考の空白すらも、利用する。
急旋回。ベイの放つ砲撃に添うように飛翔、距離を一気に詰める。
「こんのおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
手を伸ばす。指先がケイの体に触れる。
「戻って来い! 偉そうに助けるって言ったなら! 自分で手ぇ伸ばせばかやろおおおおおおおおおおおおおおっ!」
切り札が発動する。
「成程、こう死ぬのが好みだったか? ではその意思を尊重しよう」
べィがその小さな体を引き裂くべく、爪を振るう。
しかし、その爪は届かない。彼女を護る騎士はすでにここに戻っている。
光がケイの体をなぞり。消失した部位が衣服ごと再生。すんでの所で剣を掲げ、彼女の体を守っていた。
ケイの腕の中、守られながら奇跡の歌が始まり、本格的に天術が効果を発揮。死んだはずの肉体が徐々に形を取り戻し、先ほどは殆ど反射と本能で動いたからだが、意思の力の支配をうける。
「ありがとう。あとは最後まで……よろしくね」
小さなお礼。強い意志を持って、ケイが蠅を睨む。




