25話 静かに動き出すもの
ディートリヒから突然尋ねられた内容に、アルヴィンは息を呑んだ。
心臓が激しく脈打つ。
血の気が引き、指先が震えた。
脳裏に焼き付いた光景が蘇る。
鼻を劈く薬品の臭い。
吐き気を催すほど濃い血の匂い。
鼓膜を裂くような悲鳴。
そして「殺してくれ」弱々しく漏れた、その声。
(なんなんだよ、この人は……)
それでも、目の前の男には決して動揺だけは悟られてはないと押し殺す。
アルヴィンはフッと小さく息を吐き、ディートリヒの瞳を真っすぐ見つめた。
「……友達? ああ、アイツ等のことですか。うるさいくらい元気ですよ。この前も、朝からステーキを食べ過ぎて吐いてましたし」
アルヴィンの返答に、ディートリヒはくすりと微笑んだ。
「たしかに、それは元気ですね。あまり朝から無茶はしないように」
「アイツ等に伝えておきます。では、失礼します」
アルヴィンは今度こそ学院長室を後にした。
扉がバタンと音を立てて閉まり、平静を装ったまま廊下を歩き出し、その場から静かに離れていく。
学院長室との距離が開くにつれ、歩幅は次第に大きくなり、自然と足早になっていった。
「クソッ……クソッ、クソッ!」
押し殺していた感情が一気にあふれ出し、ぶわりと全身から汗が噴き出す。
廊下の角を曲がった、その時だった。
ドンッ――と、誰かと肩がぶつかる。
「きゃっ! ちょっと、廊下を走るなんて……って、アルヴィン?」
聞き慣れた声に、狭まっていた視界がゆっくりと開けていく。
「アルヴィン? ちょっと、顔色悪いわよ?」
「エレ……ノア、か?」
「えぇ、そうだけど」
エレノアの顔を見た途端、荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いていき、激しく脈打っていた鼓動もようやく規則正しいリズムを取り戻し始めた。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「あ、あぁ……大丈夫」
「……何か、あったの?」
「いや?」
誰が見ても、アルヴィンの身に何かあったことは明らかだった。
それでも「何でもない」と押し通す彼に、エレノアは訝しげな視線を向けるも、やがて小さくため息をついた。
「ま、いいわ。あなたも学院長に呼ばれたの?」
「あぁ。この前の件で話を聞きたいってさ」
「そう」
「あなたもって……エレノアも呼ばれてるのか?」
「えぇ。ちょうどこれから向かおうとしていたときよ」
「そう、なんだな」
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
「…………私に、なにか力になれることはない?」
「え?」
「あなたに何が起きたかは詳しくは聞かないわ。でも、さっきのあなたを見過ごすことは、やっぱりできない」
エレノアは真っすぐアルヴィンを見つめる。
「あなたの力に、私はなりたいの」
「エレノア……」
アルヴィンはエレノアの言葉に返事をすぐに返すことができなかった。
(ディートリヒと二人きりになった途端、魔獣についての話を聞きたいことが建前だったように感じる異様な時間だった。そんな相手に対してエレノアを巻き込むことなんてできない)
すると、なかなか返事をしないアルヴィンに痺れを切らしたエレノアが再びため息をついた。
「はぁ、いいわ。もう時間だから行かないと」
「あ……」
エレノアはそのまま振り向くこともないまま、学院長室に向かって行った。
ライネルやディートリヒに呼び出されてから数日後。
食堂で一人昼食をとっていたアルヴィンのもとへ、エレノアがやって来た。
「前……いいかしら?」
「エレノア……」
アルヴィンが頷くと、エレノアは前の席へ静かに腰を下ろした。
「一人なんて珍しいのね。いつも一緒にいる二人は?」
「アイツ等なら今頃、補習中」
「補習?」
「そう。ガルドはこの前の模擬テストで赤点をとったのと、レイは体調を崩して出席日数が足りなかったらしくて、その補填」
話を聞いていたエレノアは、不思議そうな表情でアルヴィンを見つめた。
「なんだよ、そんな顔して」
「……いえ、あなたは補習じゃないのね」
まさかそんなふうに思われているとは思わず、アルヴィンはがくりと肩を落とした。
「あのなぁ、俺はそういうところはちゃんとしてるんだよ。サボるならサボるで、ちゃんと計算してる」
「計算って……本来ならする必要なんてないでしょ」
呆れたように言いながらも、エレノアは朝食のパンを丁寧に一口大へちぎり、口元へ運ぶ。
無駄のない洗練された所作に、アルヴィンは思わず見入ってしまう。
「……なによ」
視線に気づいたエレノアが、不思議そうに眉をひそめた。
「い、いや……相変わらず所作が綺麗だなって」
「綺麗って、私を誰だと思っているのよ。幼い頃から嫌というほどマナーを叩き込まれてきたんだから、当然じゃない」
「ま、それもそうか」
(四大貴族のグレイシア家なら、それも当然か)
するとアルヴィンは、何かを思い出したように視線を泳がせ、ぎこちなく口を開いた。
「そ……そういえば、この前の呼び出し……どうだったんだよ」
(……急にこんな話を振るなんて、不自然すぎるだろ)
自分から話題を切り出しておきながら、そのあまりの不自然さに、アルヴィンは心の中で頭を抱えた。
「……あなたね。あの時は何も言わなかったくせに」
エレノアは、学院長に呼び出されたあの日のアルヴィンの様子を思い出したのか、呆れたようにため息をつくと、手にしていたパンを皿へ戻した。
「特にこれといった話をしたわけじゃないけれど……ロウたちは学院長が手配した孤児院に入ったことと、魔獣の死体は国が管理しているってことくらいかしら?」
ディートリヒとの会話を聞いたアルヴィンは、驚きのあまり目を見開き、何度か瞬きを繰り返した。
「な……なによ」
「え? ロウたちが孤児院に入ったって?」
「だから、そう言ったじゃない……」
アルヴィンの反応に、エレノアも少し驚いたようだったが、そのまま話を続けた。
「今回の事件で保護された子供たちの多くが、両親を亡くしていたらしいの」
その言葉を聞き、アルヴィンの脳裏に、先日の誘拐事件で助け出したフィンとミア兄妹の姿が浮かんだ。
(そういえば、あの二人も親を亡くしたってロウが言ってたな)
「しかも、頼れる親族もいなかったらしくて、野宿をしながら暮らしていたらしいわ」
「あの年齢で、野宿?」
ロウやフィンとミア、それに路地裏の秘密基地で出会った子供たちは、まだ年端もいかない。
そんな子供たちだけで野宿を続けていたなんて、アルヴィンには信じられなかった。
「えぇ。だから、もう今回みたいな事件に巻き込まれないようにと、学院長が孤児院を手配したそうよ」
「そうか……それなら、安心だな」
子供たちが安心して暮らせる環境を得たと知り、アルヴィンは胸をなで下ろした。
だが、その安堵も束の間、もう一つ気になっていたことが頭をよぎる。
「で? 例の死体は国が管理してるのか?」
急に話題を切り替えたアルヴィンの勢いに、エレノアはわずかに目を丸くし、飲もうとしていたお茶を、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「それも詳しいことは分からないけど、今は国が調べている最中らしいわよ」
魔獣の死体については、やはり情報が伏せられているのか、思っていたような収穫は得られなかった。
アルヴィンは小さく息をつき、しばらく考え込む。
「まぁ、子供たちが無事だって分かっただけでも良かった」
「…………この件には、あまり深入りしない方がいいと思うの」
その真剣な声音に、アルヴィンはエレノアへ視線を向けたると、まっすぐ見つめてくるその瞳には、隠しきれない不安の色が宿っていた。
「深入りしない方がいいって、どういうことだよ」
「そんなの、決まってるでしょう」
エレノアは思わず声を強めた。
「この件は、一学生である私たちの手に負えるようなものじゃない。それに……貴族の間でも、何かが変わり始めているの」
「何かが変わり始めてるって、なんだよ」
アルヴィンの問いに、エレノアは目を伏せた。
「分からないの。ただ、水面下で何かが変わっている。それだけは感じるの」
すると、エレノアが念を押すように続けた。
「いい? この件は、もう終わり。死にかけたこと、忘れたとは言わせないわ」
紛れもない事実に、アルヴィンは観念したように頷いた。
「……わかったよ。もう変なことはしない」
(魔獣の出現。貴族たちの動き。そして学院長……全部、どこかで繋がってる。俺の目的のためにも、このまま見過ごすわけにはいかない)
そう答えながらも、アルヴィンの胸にはすでに一つの考えが浮かんでいた。




