20 兄と妹のように
「……旦那様、頭でも打ちましたカ?」
「……そんなことはないと思うけれど」
ミラは愕然とした表情で「別人のようでス」と呟く。セレナも「ええ」と同意して頷く。
「一晩中付き添っているうちに、何か心境の変化でもあったのですかネ」
「えっ?」
「昨晩セレナ様が生死を彷徨っている間、旦那様は片時も離れることなく側に座っておられましタ。代わる代わる様子を見に行った使用人達の話によると、どうやら一睡もされていないようでス」
「!」
(片時も離れず……一睡もされていない……⁉)
ミラの言葉を聞いたセレナは、ぎょっと目を見開く。
(どうしよう……。男爵様にとんでもないご負担をかけてしまったのね。私が勝手にしたことなのに……)
しかも彼は先ほど『仕事に行く』と言っていた。言われてみれば、ロウェルから与えられた結婚休暇は授爵式までの一週間。今日からは通常通りの勤務が始まるのだろう。
自分のせいでジュードを徹夜状態で出勤させてしまったことに気づき、セレナは自責の念に駆られて項垂れる。
「セレナ様は何も気にしなくていいですヨ!」
急に怒り始めたミラは、頭から蒸気を噴き出さんばかりの勢いで言う。左耳にぶら下げられた象牙のピアスがぶんぶん揺れた。
「悪いのは、素っ気ない態度でセレナ様をほったらかしにし続けた旦那様でス!」
「そんな。私は男爵様にとても良くしていただいているわ。これ以上何も望むことなんてない。お気を遣わせてしまうのは心苦しいわ」
「……ン? セレナ様、旦那様のことをお名前ではなく『男爵様』と呼ぶことにしたのですカ?」
「ええ」
今までは騎士団員としての肩書きしかなかったジュードだが、昨日から晴れて貴族家の当主である。セレナとしてはお祝いの気持ちを表した敬称のつもりだったのだが、なぜかミラはフッと不敵な笑みを浮かべた。
「それはいい作戦ですネ。きっと旦那様もより一層反省されることでしょウ!」
「……?」
首を傾げるセレナに「朝食お持ちしますネ」と言って、ミラは跳ねるように部屋を出ていった。
◇◆
夕暮れ時のエルファルド男爵邸。
――ツカ、ツカ、ツカ、ツカ。
「!」
秒針が時を刻むような、揺るぎなく規則正しい足音。ティーテーブルの上で本を広げていたセレナは、顔を上げてトトトッと小走りで扉の前へ寄る。
「――お帰りなさいませ、男爵様」
「ッ!」
待ち構えたように自分から扉を開けて出迎えたセレナに、ジュードは驚いた様子で目を丸くする。
「なぜ俺だと?」
「足音です。魔力吸収の度にこちらまで来ていただいていましたから、覚えました」
「……! セレナ様がそんなに耳が良いとは。全く知り、知らなかったな」
まだ敬語の癖が取り切れていない様子で言い直すジュードを見て、セレナは苦笑いを浮かべながら眉を下げる。
「……いきなり口調を変えろと言われても困りますよね? 申し訳ございません」
「いや、別に困ってはいない。謝らなくていい」
「あの、もしよろしければ……私を妹君に置き換えてお考えになってはいかがでしょうか?」
「ッ?」
「そうすれば自然と親しみやすい話し方になるのではと……ぁ、もちろんあくまで一案ですが」
セレナがそう言うと、ジュードは顎に手を当てて何やら熟考し始めた。
「確か……セレナも兄上を亡くしていると言っていたよな?」
「っ? ええ」
不躾なご提案だったかしら、と懸念していたセレナは、思いがけない問いかけにきょとんと眉の力を抜く。
ジュードは茶色がかった黒い瞳でセレナを見ながら続けた。
「ならば君も、俺を兄上だと思って接してくれ。その方が互いに肩の力を抜いて話せるだろう」
「! ……ええ、ぜひ」
(男爵様がこんなに思いやり深い方だったなんて……。先週の私が見たら腰を抜かすんじゃないかしら)
セレナが思わず微笑むと、ジュードの瞳がわずかに見開かれたような気がした。しかし、次の瞬間にはもう元の真顔に戻っていて、静かに「決まりだな」と呟く。
二人の間に、温かく穏やかな沈黙が流れる。傾ききった西陽が水平に差し込み、扉の近くで立ち話をする二人の頬を赤く照らした。
「体調はもういいのか?」
「はい、おかげさまで。……私のことより、男爵様はご自分の体調を気になさってください。昨日、一睡もされていないのですよね?」
「そう言えばそうだな」
「そんな状態で丸一日お仕事をされて、さぞかしお疲れでしょう。早くお休みになってください」
「! あ、いや、その……」
急に口ごもり始めたジュードを不思議に思い、セレナは長い睫毛をパシパシと揺らして瞬く。しばらくして、彼は焦ったように目線を泳がせながら、この上なく低い声で言った。
「体調が回復したのであれば、一緒に夕食でもどうかと思って……」
「っ? 男爵様と?」
「……あまり気が進まないか?」
「ち、違いますっ! お誘いいただけるなんて思っていなかったので、驚いてしまって。すごく嬉しいです」
セレナが快諾すると、じわじわとジュードの表情が明転していく。一見すると分かりづらいが、定規を当てたように一直線だった眉の力がフッと緩み、瞳が生き生きと飴色に輝きだしたのだ。感情に顔面が追い付かない様子でぼんやりとセレナを見下ろす様は、どことなく彼が生み出すゴーレムにも似ている。
「――夕食の準備が整い次第、迎えにくる」
「お待ちしております」
ジュードは先ほどとは打って変わった柔らかい声でそう言うと、軽い足取りでセレナの私室を後にした。セレナは彼の背中が見えなくなるのを見届けてから、扉を閉める。
ところが。扉が閉まり切る直前、にゅっとミラが廊下から顔を出してきた。
「話は聞きましたヨ……」
いつから廊下に立っていたのだろうか。ミラは何やらニヤニヤしながら、セレナの目の前まで来て言う。
「旦那様と初ディナー! これは気合を入れてオメカシしなくてはいけませんネ‼」
「えっ? 別に晩餐会というわけじゃなく、ただのお夕食よ? 必要ないと思うけれど」
「何をおっしゃいますカ! 必要アリアリですヨ!」
「……?」
ミラはどういうわけかやる気満々で、ふんふんっと鼻息も荒くセレナに迫る。すっかり気圧されたセレナは、諦めて身を任せることにした。
「わ、わかったわ。テーブルの上を片付けるから少し待っていてね」
「片付けでしたら後でミラがやりますヨ。……ていうか、何ですコレ?」
ティーテーブルの上に広げていた分厚い本や筆記用具。それらを片付け始めるセレナを見て、ミラがこてんと首を傾げる。
「アルバートさんにお願いして、国語辞典や読み書きの教科書を用意してもらったの。男爵様に難しい言葉を使わないでほしいとお願いするばかりではいけないと思って」
「なっ……なんと健気ナ!」
「まだまだ知らない単語だらけだけどね」
大層感激した様子で目を潤ませるミラを宥めるべく、セレナは苦笑交じりに言う。すると、彼女はますます意気込んで腕まくりをし始めた。
「心までお美しいセレナ様をより一層眩しく光り輝かせル――それがミラの仕事でス!」
そこからはもう、何が何だかわからなかった。
一流メイドの本分を思い出したミラは、病み上がりのため着心地重視のワンピース姿だったセレナを、目にも留まらぬ速さで変身させていく。
そして気付いた時には、ピンク色のチューリップが全体に刺繍されたドレスに召し替えられていた。長い白髪は両耳の下で二つのお団子にまとめられ、首元にはドレスと同じピンク色のリボンがふんわりと蝶結びされている。その姿は、そのままビスクドールとして売られていてもおかしくないほどに、あどけなく愛くるしい。
「フッフッフ……今度こそ旦那様をぎゃふんと言わせられますネ」
「ぎゃふん……?」
ミラの言っていることは良くわからないが、どうやらこれで完成のようだ。
(素敵なドレスだけど、さすがに少し子供っぽくないかしら……?)
姿見の前に立たされたセレナは、己の姿を見て急に恥ずかしさを覚える。自分から『妹と思ってください』と言ったくせに、幼稚と思われてしまったらどうしようと心配になってきたのだ。
セレナは妙にそわそわしながら、彼が部屋を訪れるのを待つ。
――ところが。
「旦那様、いらっしゃらないですネ……」
「そうね……」
燃える夕陽が地の果てに落ち、清かな月が昇り切る時刻を過ぎても――ジュードが迎えに来ることはなかった。




