第六章《壱》
午後四時十五分。 きっと外は日が暮れ始めて、連なる屋根を夕焼けが真っ赤に染めているのだろう。
しかし誰も口を開かない会議室の中では外の様子など確認する余地はなかった。
ピリピリとした緊張の走る中、腕時計の秒針が刻々と時間を刻んでいく。
先方の到着まで、あと十五分ほどまで差し迫っていた。
事前に昌司から知らされた情報とこのビルに向かっている最中に車の中で目を通した情報を整理するとこうだ。
交渉相手の企業は三神電機株式会社。本社は群馬県前橋市に構えている。
社長の名前は三神颯一郎。年齢は五一歳。家族構成は妻、息子の三人。颯一郎の母は十年前に他界。先代社長に当たる颯一郎の父も前年に他界し、颯一郎が社長のポストを受け継いでいる。
息子の名前は颯太。年齢は十七歳。高校二年生。学業は学年二位の実力者。つまり結季の縁談相手はこの颯太ということだ。
資料に目を通す限りでは文句の出しようのないスペックの持ち主で、万年成績が中の中である俺としてはぐうの音も出ない。これ見よがしに学内成績までいてくるあたりがいやらしい。というのもこの資料、先方から送られてきた資料であるからだ。
ざっと見て取捨選択したが他にも特にほしくもない情報がわんさか書かれていた。それだけに俺はうさん臭さを感じえない。
何だか落ち着かない様子の昌司は難しい顔を浮かべながらしきりに時間を気にしては重いため息を漏らしている。
その隣に並んで座る結季は毅然としているようだったが、目を落とすと力強く握られた両手が小刻みに震えているのが見て取れた。
俺は結季の後ろに立って、肩を軽くポンポンと叩いた。
「なに?」
「お嬢様。ご安心ください。……俺がついてる」
俺はそう結季に耳打ちすると少し緊張の残った顔のまま、少し口元を緩めた。
「なによ、もう。似合わないの。でも、ありがとね、刻刃」
「そもそも俺に似合わないことをさせてるのはどこのお家の人なんだろうな」
「むか。……悪かったわねぇ。ほんとそういうとこ、可愛くないなぁ」
「何も可愛いアピールしたいわけじゃないからな!?」
「なによ、ムキになって……」
そう言って結季は口元を軽く押さえて小さく笑う。どうやら少しいつもの調子を取り戻したようだ。
「結季」
「ん?」
「例の流れで進めて本当にいいんだな?」
「ええ、いいわ。わたしもそうするのがいいと思ったし、わたしは刻刃を信じてるから」
そう言う結季の目は真っ直ぐに俺を捉えて離さなかった。あまりの真っ直ぐさに俺は目を背けそうになる。
「ほんと、お前は……」
結季との付き合いは長い。
幼い頃からずっと一緒だった。
ずっと家族のように思ってきた。
それくらいに俺の中で小波結季という幼馴染の存在は大きい。
そんな結季は一歩間違えば手の届かないところに行ってしまうかもしれない。そして彼女はその未来を望んでいない。
そして今、結季は俺に全てを委ねてくれている。
俺はその期待を裏切る結果には絶対にしたくない。
「任せろ」
「うん……!」
俺は結季の顔を見て頷くと襟を正して、ふぅと息をつく。
「若、そろそろ」
「ああ」
昌司の後ろに立っていた紡祁が目配せする。
俺は気を引き締める。
この会談、失敗は許されない。
「いよいよだ」
そして間もなく、ゆっくりと会議室の扉が開かれた。
扉が開いた途端、俺も紡祁も結季までも唖然とした。いや、面食らってしまった。
それもそのはずである。やってきたのはいかにもそうなオジサンではなく、俺たちとそう歳が変わらないであろう青年とその側付きの女性の二人だったからだ。
俺は昌司に耳打ちをする。
「CEO……、訊いていましたか?」
「いや、息子がくるという連絡は訊いていたが……。まさか息子一人だけでくるとは」
昌司の様子から察するに三神社長本人だけか、社長と一緒に訪れるという頭だったのだろう。普通はそうだろう。如何に息子とは言えども、親なら息子の嫁に取る人物がどんなひととなりをしているかは気にならないわけがない。これは一体どういう風の吹き回しだろうか。
当の本人、三神電機株式会社の御曹司であるところの三神颯太は、何を不思議そうにしているのかと首を傾げるでもなく、そのまま机を挟んで昌司と向き合う。
「本日はお招きくださいまして、ありがとうございます、小波CEO。群馬の太田市に本社を置きます三神電機から参りました三神颯太と申します。そして初めまして、小波結季さん。噂通りのお美しい人だ」
颯太が深々と頭を下げると側付きの女性も頭を下げる。
「いやいや、こちらもわざわざ遠いところからご足労願って申し訳ない。まずは頭を上げてお座りください」
昌司の一声に二人は顔を上げて、失礼しますと腰を下ろした。立ち上がっていた昌司と結季も続いて席に着く。
「三神君。例の話なんだが……」
「はい、そうですね。お互いに時間に追われている身ですし、単刀直入にお話させてもらっていいですか? 僕と結季さんの婚約について」
「……!」
――――きた。
颯太は淀みなく本題へ移ろうとする。どうやら長々と話をするつもりはないらしい。
「ああ、進めてくれ。しかし、今回は三神君の御父上はいらしてないようだが?」
「大丈夫ですよ。ご心配には及びません。私は父からこの縁談については任されていますので」
「……そうか」
飄々とした様子の颯太に昌司は歯切れの悪い反応をする。
つまるところ俺たちの狙いが少しズレたのだ。今回、俺たちは決定権を持つのは父親である颯一郎であると仮定してある作戦を立てていた。
**
それは結季を展望フロアから連れ戻して、三神颯太がやってくる前のこと。
「――――ふむ。まずは前提問題からですね。この会合……改め縁談に際して、こちらから結季さんを差し出すことはしない、それでいいですね?」
「ああ。すまないね、新城君。そして結季、すまなかった。お前の性格を考えれば異論があっても反論するはずがなかったんだ。全ては立場を優先してしまった私の不甲斐なさだ。刻刃君にも迷惑をかけた。この通りだ」
昌司は皆の前で深々と頭を下げた。一財閥のトップに頭を下げられては俺も紡祁もどう反応を返せば良いやら困ってしまう。
「お父様」
結季は凛とした声で父親を呼んだ。
「お父様は相変わらず不器用なのね。お母様も昔苦労させられたと言っていたわ」
「はは……、面目ないな」
昌司は笑いながら肩を落とす。結季も優しく微笑みを浮かべていた。
「でもね、わたしも悪かったの。これでも頑張っているほうだけど、根っこのほうは昔のままみたい。引っ込み思案で泣き虫で。でもね、わたし気付いたよ。今までは周りの色んな人に気遣ってもらって、わたしの目に見えない気持ちを汲み取ってもらって生きてきたんだって。でもこれからはそうじゃいけない。わたし気持ちはちゃんと言葉で、行動で示す。それをね、今日……教えてもらったの」
そう言って結季は俺のほうに目線を向けた。俺は恥ずかしくなって目を逸らす。
「だからね。わたしは自分の結婚相手は自分で決める。三神さんとは結婚できない」
「ああ……」
昌司は結季の言葉を噛みしめるように目を伏せた。
「でも、お父様の気持ちも立場も解っているつもり。だからわたしはお父様の力になりたい。だって今は二人だけの家族でしょう?」
「……ありがとう。結季。本当に、ありがとう」
そうして一頻り思いの丈をぶつけ合ったあと後、本題に移る。
「――――えー、っと。じゃあ、紡祁。結季を差し出さずにまるっと収める方法は何があるんだ?」
「そうですね……。ビジネスの基本は利害関係の一致ですから。なら、三神氏に小波コンツェルンの半導体事業を救済してもらうに足りるだけの何かを……」
そもそも今回の縁談は小波側が伺いを立てたものではない。三神側が小波コンツェルンの半導体事業の不振を知って持ちかけてきたものだった。それなら話は早い。三神颯一郎は企みがあってこの縁談を持ちかけてきたはずだ。それならある程度は予想が付く。要は――――
「小波コンツェルン内に三神颯一郎のためのそれ相応のポストを作ってやればいい、ってことかい?」
昌司はぽつりと呟く。
「そうですね。それが今回ではリスクが一番小さいやり方だとは思います」
ビジネスはお互いの利害が一致しないと成立しない。その点から考えて紡祁の案は最善だった。
しかし、それは今の颯太の発言で無効化されてしまった。
この縁談は三神電機と小波コンツェルン間で行われているものだが、その決定権は社長である三神颯一郎にはないと颯太は言ったのだ。
つまり颯一郎を幾ら優遇してもこの縁談自体は収束しない。
だが、俺たちの手札がなくなったわけではない。ある意味ではジョーカー的なカードが一枚残っている。
だから、この話し合いには続きがある。
「――――ですが、これの手が使えなくなったら、手詰まりになります。他にも手札は持っておきたいですね」
紡祁のもっともな意見に各々考えを巡らせる。そして俺は一つの案に思いつく。
「あ……」
「何か思いついたの? 刻刃」
「ああ……いや、その前に、ちょっと確認したいことがあってさ」
そもそも本人に訊いて根底をはっきりさせなければいけない。そうでなければこの案は使えない。
「あの、CEO。が半導体事業にこだわるのは事業そのものではなくて、そこで働いている人たちの生活を考えているからなんですよね」
「うん、そうだが……それが何かな?」
「それなら――――」
**
「じゃあ、話を進めますね。では……」
「――――三神君」
「はい? なんでしょうか」
「この縁談はなしだ。小波コンツェルンの半導体事業は解体する」
「――――!?」
颯太は口を開けて呆然とする。
ここにきて俺は初めて颯太の素の反応を見られた気がした。というのも颯太の言動には何か焦りのようなものを感じていたのだ。颯太の言葉には彼自身の意思は含まれていない気がした。
「な……っ! 何故です? 半導体事業を守りたいのでしょう? だったら我々の力が必要なはずだ」
颯太は先ほどまでの余裕はどこへ消えたのか、身を乗り出して昌司に向かって捲し立てる。
それほどまでに昌司の会話の切り返しがまさかの反応だった、ということなのだろう。
そして彼自身の目的は結季との婚約なしには果たされない。
その結論が決定的になる瞬間だった。
こいつは結季との婚約そのものが目的なのだ。
「私は半導体事業そのものを守りたいわけではない。そこで働いてくれている社員とその家族を守りたい。しかし今の日本の有り様はどうだろうか。各地区における経済活動は財閥が管理していると言っていい。財閥の息がかかっている企業はその地域の財閥の管理のもと運営されている。だから他地区の企業との業務提携や業務委託、ノウハウの交換は現実的に不可能だ。この財閥同士が自分たちの利益のためにいがみ合っている間はね。まあ、私が言えた話ではないが」
しかしだな、と昌司は続ける。
「言葉を変えてみると、どうだろう。財閥が彼らの成長を邪魔しているのなら財閥が手を引けばいい。財閥というしがらみがなくなれば、関東地区に留まらず、他地区の同業者とも手を組めるだろう。そうなれば我々としては経営の負担は解消されるし、大事な社員たちも職を失わずに済む」
「それは……、あなた方はそうかもしれないですが……。ですが、あなたは無責任だ! 傾きかけた中小企業が財閥から放り出されて立て直せるとは僕には思えない……!」
「ただで手放すわけじゃない。そこはしっかり考えるさ。それに私個人しては娘には財閥や私の都合で自由を奪われてほしくない、そう思っただけなんだ」
「…………」
すまないと頭を下げる昌司に、颯太はただ無言で立ち尽くすだけだった。
しばらくして颯太は傍付きの女性に付き添われるようにその場から去っていった。
「これで良かったの? お父様」
颯太が立ち去った後、しばらくして結季はそんなことを呟いた。
「ああ。もう決めたことだ。それに事前に打ち合わせていただろう?」
「そうだけど……」
結季はどこか苦しそうに瞼に力を込める。
「きっと、彼の目的は《小波コンツェルン》じゃないと思うわ。彼は彼自身の目的があったと思うの」
「あいつ自身の目的……?」
「うん。刻刃は何か思うことなかった? 彼の言動とか」
「うーん……。そうだな…………」
正直なところ、思うところはあった。
恐らく結季の言うことには一理あると思う。少なくとも取り乱す前の三神颯太の言動には俺も違和感を覚えた。何故だか彼は結論を急いでいた。自ら父から全権を任されていると宣言したにも関わらず、だ。
そして取り乱してからの愕然とした表情。きっと彼は何か大きな問題を抱えている。
あとはその問題解決に結季との婚約が絡んでいるのだろう。
しかしこれらは憶測にすぎない。たかだか裏付けのない俺の勘がそう思わせているだけである。
そんなことで結季には余計な心配をかけたくない。結季は何でも抱え込んでしまう癖があるから。
「俺は特に思うところはなかったな。そうだろ? 紡祁」
俺の目配せに意図を感じ取ってくれたのか、紡祁は「そうですね」と同調してくれた。
「そっかぁ……。だったら、わたしの思い過ごしかもね。変なこと言ってごめんなさい、刻刃」
「別にいいさ。でも、一応身の回りには気を付けておけよ。俺たちがいつでも見てられるわけじゃない」
「ええ、解ってる。用心するね」
結季は続けて、「あ、そうだ」と呟いた。
「まだ、わたしからは言ってなかったよね。刻刃、紡祁くん、どうか、これからもわたしの護衛をよろしくお願いします」
結季が頭を下げるので、俺たちも続いて頭を下げた。
「「畏まりました。お嬢様」」
俺は結季の護衛任務を正式に受けたことで影奉行者として一歩前に踏み出した。
ただ、そのときは結季を絶対に傷つけさせないという覚悟だけが自分を突き動かしていた。
お久しぶりです。皆さん元気してましたか? 僕は元気です! 来月もしばらくはミラユキ優先更新でやっていきますので、宜しくお願い致します。