第38話 続きを
草稿が届いたのは、朝だった。
ヴィンセントから、と書いてあった。封を開いた。厚かった。何枚もあった。
読み始めた。
オスカー・フォン・ヴァルシュタインの研究を、ヴィンセントの一派と王国の学者が共同でまとめた草稿だった。「魔力ゼロの者にも固有の力が宿る可能性について」という題が、最初のページに書いてあった。
読み続けた。
数式があった。記録があった。証言があった。仮説があった。父が処刑される前まで書き続けていた内容が、他者の手によって整理されていた。欠けている部分があった。100年前に消えた資料の分だった。それでも、残っていた部分が、丁寧につなぎ合わされていた。
「父は、ここまで書いていたのですね」
声に出た。
感情の名前はなかった。ただ、事実として声になった。
最後のページまで読んだ。
読み終えた後、机の上に草稿を置いた。手を草稿の上に置いた。紙の厚さが、手のひらに伝わった。
ヴィンセントへの返書を書くことにした。短くていい。ただ、これだけは声に出して書きたかった。
羽ペンを取った。書いた。
「父の研究は、正しかった。この世界は、変われます」
書きながら、声に出した。
懐中時計の魔法文字に刻まれた「どうか、続きを」という言葉への、クラリスからの返事だった。オスカーが100年前に書いた言葉への、百年後の答えだった。
封をした。
昼前に、リードが来た。
制服を着ていた。旅の間ずっと着ていた平服ではなかった。王国軍の制服だった。それだけで、用件が分かった。
「王国軍に戻ります」
「そうですか」
「命令が出ました」
リードが少し止まった。
「あなたに会えたことは、たぶん」
また止まった。続きが来るまでに、少し時間がかかった。
「私の一生の思い出になると思います」
クラリスはリードを見た。制服姿だった。旅の間に見てきたリードと、今のリードが重なった。初めて会った時の表情を、クラリスはまだ覚えていた。あの頃より少し、顔の線が変わっていた。
「リード」
「はい」
「あなたは良い将校でした」
リードが一瞬、目を細めた。
何も言わなかった。頷かなかった。ただ、立っていた。
少しして、リードが姿勢を正した。制服の前を一度だけ手で整えた。それだけだった。
「お元気で」
「あなたも」
リードが扉を出た。
足音が廊下を遠ざかった。
午後になった。
クラリスは部屋で荷物をまとめていた。もともと少なかった。それがさらに少なかった。旅の途中で消耗したものは補充しなかった。本当に必要なものだけが残った。
懐中時計を手に取った。
胸元に戻す前に、少しの間、手の中で持った。
セラの家系が100年間守り続けてきたもの、という事実が頭の中にあった。ならば返すべきではないか、という考えが来た。考えが来て、止まった。
懐中時計の表面を、親指でなぞった。
ヴァルシュタイン侯爵家の鷹と盾の紋章が、指先に伝わった。
「もう少し、一緒にいてください」
声には出なかった。口だけが動いた。
胸元に戻した。
セラが部屋に入ってきた。左肩はほぼ動くようになっていた。
「準備、できましたか?」
「はい」
セラが荷物を見た。少ない荷物を見た。
「クラリス様はこれから何をするんですか?」
「旅を、続けます」
「どこへ?」
「まだ変わっていない場所が、あるでしょう」
セラが少しの間考えた。窓の外を見た。それから、クラリスを見た。
「わたしも行きます」
クラリスはセラを見た。
左肩はまだ完全ではないかもしれなかった。旅は続く。次がどこになるか分からなかった。安全とは言えなかった。
止めなかった。
「そうですか」
それだけ言った。
翌朝、宿を出た。
街道に出た。
王都の石造りの建物が、朝の光の中に並んでいた。まだ人通りの少ない時間だった。空が広かった。
クラリスは立った。
懐中時計を取り出した。
左手で持った。親指で蓋を押した。開いた。
秒針が動いていた。
紋章の下に、魔法文字があった。螺旋状に刻まれた小さな文字が、朝の光の中にあった。
「次に目覚める者へ」
読んだ。読んだだけだった。重くなかった。これまでずっとその言葉を受け取ってきた。今は、受け取ってきた言葉が、自分の中にある感覚だった。
蓋を閉じた。
胸元に戻した。
セラが隣に立っていた。荷物を背負っていた。左肩に少し重さを感じているのか、右肩をわずかに高く上げていた。それだけだった。
「行きましょう」
クラリスは言った。
歩き始めた。
セラがついてきた。
街道が続いていた。
街道を歩いた。
王都が後ろになった。建物が遠くなった。空が広くなった。道の両側に草地が広がった。朝の光が地面を照らしていた。
シスター服の背中に、P90の重さがあった。
いつもそこにある重さだった。旅の始まりからそこにある。変わらなかった。
胸元に懐中時計があった。
重くなかった。
「次に目覚める者へ」という言葉が、今は重くなかった。受け取った言葉が、今は自分の言葉でもあった。オスカーが100年前に刻んだ「どうか、続きを」が、今この街道で、2人の足を前に向けていた。
セラが隣を歩いていた。
何も言わなかった。言わないまま、歩いていた。
クラリスも言わなかった。
朝日の中で、2人の影が同じ方向へ伸びていた。
続きを。
ただそれだけが、足を前に向けていた。




