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第2章 — 我が家と呼べる場所

彼女はあまりにも小さな声で言ったので、彼は聞き逃しかけ


「……なんとか、なります」


カイトは彼女を見た。

“な


ほとんど空のバッグ。

すり減った靴。

「行く場所がない」と言いかけて、慌てて引っ込めたあの様子――まるで見せてはいけないものをうっかり見せてしまったかのように。


「……なんとか、ね」


カイトは繰り返し


からかうでもなく、ただ――その言葉を彼女に返しただけ。

外から聞いたらどう響くか、気づかせるように。


彼女は答えなかった。


カイトは買い物袋を持ち替え、路地の先をちらりと見てから、再び彼女に視線を戻した。


「ほら」

彼は言った。

「こんな時間に、若い子を一人で放っておくなんて無理だよ」


少しの間。


まっすぐで、簡単な言葉。


「男としての責任だから」


そのあとに落ちた沈黙は、さっきとは違う種類のものだった。


彼女はまた彼を見ていた――あの、さっきと同じ、目を見開いたままの静かな視線。

けれど、その奥で何かが変わっていた。


まるで、もう二度と聞くことはないと思っていた言葉を、

正しい発音で突然聞かされたような――そんな変化。


――男としての責任。


「ついてきてもいい」とも、

「感謝しろ」とも、

これまで彼女がどの男からも感じ取ってきた、あの計算もなかった。


ただ――責任だ、と。


彼女の顔が、一瞬で真っ赤になった。


じわじわではない。

一気に、耳から中心へと広がるような、夕焼けみたいな赤。


彼女は慌てて俯き、髪で顔を隠した――が、ほとんど意味はなかった。


カイトは少し屈んで、彼女の顔を覗き込む。


「顔、すごく赤いよ。熱ある?」


彼女は声にならない音を出した。


言葉ではなかった。

思考という思考が一斉に体から抜け出したような音だった。


「な、な――」

「な、ないです、あの、違って、その……!」


両手で頬を押さえる。実際、信じられないほど熱かった。


「熱、ないです……大丈夫です……」


「そっか」

カイトは少し疑わしげなまま、それ以上は追及しなかった。


しばらくの沈黙。


彼女は地面を見つめていた。

まるでそこに重要な文章でも書いてあるかのように。


そして、ぽつりと。


「どうして……その……」


息を吸う。


「どうして、私みたいなのと一緒に住めるんですか。私は……特別じゃないし、ブスだし、何も持ってないし、ただの――」


「でも可愛いけど」


カイトは、いつも通りの調子で言った。


空が青いとか、雨が降るとか、そういう事実を述べるみたいに。


彼女は止まった。


完全に。


思考が、三秒ほど完全停止した。


可愛い。


今、何て――


顔の赤みは、さらに深い領域へ到達した。


「わ、私……」

彼女の声は、ほとんど聞こえない。

「払うもの、何もなくて……その……体しか――」


「いや、待って、それは違う」


カイトは即座に手を上げて制止した。


「それはいらない。そういうの求めてないから。ゼロ」

一度息を吐く。

「好きなだけ住んでいい。お金もいらない。条件もない。そういう意味じゃない」


彼女は瞬いた。


「じゃあ……どうして?」


カイトは少しだけ考えたあと、空を見上げて言った。


「家、広いしさ」

少し笑う。

「一人だと、ちょっと寂しいんだよね」


彼女の心臓が、不思議な動きをした。


ただ、一拍だけズレたような――


彼女は無意識に胸に手を当てた。


(なに……これ……)


彼は、彼女を見ていた。


待っていた。

彼女の答えを。


(この人……なんでこんな……)


そして、その思考の途中で――


(この人、欲しい)


その考えは、あまりにも自然に、静かに、確定した。


(全部、私のものにしたい)


「……いいなら」

彼女は囁いた。

「お願いします」


カイトは微笑んだ。


「じゃあ、その前に」

「ちゃんと自己紹介しよう」


彼女の名前は、むらさき よる


地面を見ながらそう名乗った。

どこに住んでいたかも話したが、要点だけをぼかすように――痛い部分は切り落とすように。


カイトは深くは聞かなかった。

ただ、きちんと聞いていた。


それだけで、彼女は妙に落ち着かなくなった。


「白銀カイト。十九歳。駅の近くのカフェで働いてる。日の出カフェっていう店」


少し間を置いて、


「よろしくな、夜」


――よろしく。


その言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。


まるで、もう決まっているみたいに。


「……はい。よろしくお願いします……カイト」


彼の名前を口にするのは、少し慎重になる必要がある気がした。


二人は無言で歩いた。


不思議と、気まずくはなかった。


彼は彼女の歩幅に合わせてくれた。

無理に話そうともしない。

時々、ちらりと確認するように彼女を見るだけ。


彼女は、その後ろを少しだけ離れて歩きながら、ずっと考えていた。


――一人だと、寂しいんだよね。


アパートは、落ち着いた住宅街にあった。


目立たない建物。

窓からこぼれる温かい光。

入り口の植木鉢は、長く手入れされているのが分かる。


カイトが鍵を出そうとしたとき――


一階の扉が開いた。


現れた女性は三十代前半くらい。

エプロン姿で、木べらを持っている。


そして、その表情は一瞬で変化した。


――帰宅の認識。

――隣に誰かいる。

――女の子。

――処理不能。


「カイトくん、おかえり」


倉島奈々は、完璧な平静で言った。


「奈々さん、こんばんは」


彼はいつも通りだった。


奈々の視線が夜へ向く。


一瞬だけ、何かが揺れた。


それは、長く築いてきた何かに、小さなひびが入るような表情だった。


しかし、彼女は笑った。


完璧に。


部屋は――


夜は玄関で立ち止まった。


綺麗だった。


見せるための綺麗さではなく、ちゃんと生活されている清潔さ。


広いリビング。

ゲーム機。

本棚いっぱいの漫画。


キッチンには使い込まれた道具。


(この人……一人でここに……)


小さな痛みが胸に浮かぶ。


「ここが君の部屋」


開けられた扉。


ベッド。机。窓。


それだけで、十分すぎる。


夜は目を伏せた。


「隣が俺の部屋」


その言葉に、彼女の脳内に一瞬浮かんだ光景を――即座に打ち消した。


(落ち着け……)


風呂の前に、服が置かれていた。


彼の服。


彼女はそれを手に取り、ほんの一瞬だけ顔を埋めた。


(……大丈夫だ)


食事は温かかった。


ちゃんとしたご飯だった。


一口で、何かが崩れた。


四口目で、涙が出た。


「夜」


「大丈夫です……」


でも無理だった。


「……こんなの……初めてで……」


彼は何も言わなかった。


ただ、そこにいた。


「ここに住むんだろ」

「じゃあ、これは普通のことだよ」


普通。


その言葉で、彼女は完全に崩れた。


夜、ベッドの上で。


壁に手を当てる。


向こうに、彼がいる。


彼女は笑った。


(どうしよう)


そして下の階では。


奈々が天井を見ていた。


明日も料理を持っていく。


それは変わらない。


変わらないはずだ。


こうして――


彼女の新しい生活が、静かに始まった。

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