プロローグ — 世界で一番珍しいもの
お手に取っていただき、ありがとうございます。
この作品を書き始めたのは、深夜二時に「最強主人公が何も求めない理由って何だろう」とぼんやり考えていたときでした。
よくある無双もの、よくある転生もの。主人公は強くて、モテて、周りが放っておかない。それはわかる。でも、なぜ彼らはそこまで求められるのか。なぜ周囲の人間は彼に引き寄せられるのか。「チートスキルがある」とか「前世の知識がある」とか、そういう説明じゃなくて、もっと根っこのところで。
そのとき思ったのです。
ただ、ちゃんと見てくれるから、じゃないか、と。
カイトには特別な力も、隠された才能も、大それた目標もありません。ただ目の前にいる人間を、その人間として見ることができる。それだけです。本人は「普通にしているだけ」と思っている。
でも、そういう世界では、それが一番難しいことだったりする。
重い設定の話です。読んでいて、ちくりとする場面もあるかもしれません。それでも、基本的には温かい話を書きたいと思っています。誰かがちゃんと見てもらえる話を。見てもらったことに少し戸惑ってしまう話を。
最後まで、どうぞよろしくお願いします。
著者より
第一話 普通の朝
この世界について、少し説明しておこう。
七分の一。
それが、その数字だ。女性七人に対して男性が一人――そこまで歪んだ比率に、社会は何世代もかけて静かに作り変えられていった。川が岩を避けて流れを変えるように、ゆっくりと、確実に。法律が変わり、社会契約が書き換えられ、昔から自分を高く評価することに長けていた男たちは、今や算数までもが味方についていることに気づいた。
結果は、美しくなかった。
この世界の男はドアを開けない。自分が通り抜けて、後ろへ跳ね返るままにする。「どうぞ」も「ありがとう」も「お待たせしました」も言わない。遅刻し、早退し、名前を忘れ、顔を忘れ、約束を忘れる――そして世界は、その空白を埋めようと水が足跡を満たすように、静かに、文句も言わず再編成される。
女性が「好きですか?」と訊けば、男は「考えておく」と答える。そして彼女は、考慮してもらえたことに礼を言う。
これが普通だった。ずっと昔から普通だった。誰も、それ以外の世界など覚えていなかった。
そんな世界に、三か月前の灰色の火曜日の朝、城ヶ根カイトは降り立った。
ゴミ集積場の端に放り出されるように。見知らぬ少年の身体の中に。ポケットには折れ曲がった千円札と、サイズの合わない靴と、身体とは何の関係もない、骨の芯まで沁みるような疲労感だけを携えて。
彼はしばらく空を見上げた。
それから立ち上がり、膝の埃を払い、仕事を探しに歩き始めた。
◇
今。
カイトは十九歳になっていた。経済的な自立は三か月で達成した。今日も西岡通りを歩いている。水曜日の朝。片腕には紙袋入りの食材。背中のポケットには古本の漫画。
白い無地のシャツ――シンプルなカット、袖を肘まで捲り上げている。ダークネイビーの髪は整えた跡もないのに、なぜか意図的に見える。表情は、この世界に降りてきて三日目頃から定着したものだ。落ち着きが訪れ、混乱が少し静かな何かに変わったあの日から。
永続的な、無関心ではない静けさ。かすかな好奇心。自分が立っているのに、どこか遠くから眺めているような顔。
最初の光景は、立ち止まらずに通り過ぎた。
左手のファミレス。屋外テーブルに二十代後半の男が一人、女性が四人。女たちは男の周りに、引力を見つけた惑星のように集まっていた。男はスマートフォンを見ている。手つかずのコーヒーの冷え具合から察するに、ずっとそうしていたのだろう。二人は小声で話している――小さく、低く、邪魔にならないように。一人は男の顔を、消えてしまう前に記憶しようとするような眼差しで見つめている。四人目は、減ってもいないグラスに水を注いでいた。ゆっくり、丁寧に。注ぐ音すら気に障るかもしれないとでも言うように。
男は顔を上げない。
テーブルの誰も、これを不思議には思っていなかった。
カイトは通り過ぎながら、男の顔を一瞥した。一度も「迷惑をかけすぎているかもしれない」と思ったことのない人間の、ゆるんだ落ち着いた表情。
胸の中で何かが動いた。憐れみとも、怒りとも少し違う。どちらかというと、静かで疲れた――「ああ」という感覚。
そういうことか。
歩き続けた。
四十メートル先、コンビニの前。薬局の制服を着た女性が立ち止まっている。男が紙袋に向かって指を突きつけながら、低い声で何か言っている。声の形だけが届く――区切られた、確信に満ちた声。間違いを指摘されたことが一度もなく、これからもそのつもりのない者の声。
「別のやつだって言ったよな。何が難しいの」
「すみません、てっきり……」
「てっきり、ね」
男はその二文字を、それ自体が問題であるかのように言った。袋を女性の手から奪い、顔も見ずに背を向けた。紙袋がくしゃりと鳴った。振り返らなかった。
女性はその場に少し立ち尽くした。制服の上着の前をそっと直した。一度だけ、鼻から静かに息を吐いた。ごく短く、ごく注意深く。
それから店の中へ戻っていった。
反対側の歩道を歩いていた二人の女性が一部始終を見ていた。目が合い、一人が肩をすくめた。責めているわけじゃない。ただ雨を認める、そういう肩のすくめ方だった。二人は歩き続けた。
カイトは横断歩道で立ち止まった。
「進むな」の赤いシグナルを見ながら、何も考えなかった。何も考えない技術は、相当な努力を積み重ねて習得したもので、彼が今のところ最も誇りにしている個人的な成就のひとつだった。
シグナルが変わった。カイトは歩道から踏み出した。
◇
三人は、横断歩道の中ほどで待っていた。
向こう側からゆっくり歩いてきた女性たちで、自然に速度を落としながら、目に見えない連絡もなく、カイトが歩いている幅にちょうど一人分の隙間が開くように並んでいた。
彼は気づいた。少し幅の狭いドアに差しかかるように――驚きはない、ただ認識。
真ん中の一人が先に口を開いた。
二十代後半。仕立てのいいジャケット、下には絹のブラウス、まとめ髪は一筋だけ意図的に下ろしている。一筋だけ。計算された一筋。彼女はカイトに向かって微笑んだ。深い水が浅く見えるときの穏やかさで。
「ずいぶん歩いてきた感じね」滑らかな声。人当たりよく、完全に無害に聞こえる。「近くに静かなところがあるの。人目もなくて、コーヒーも美味しい」わずかに首を傾ける。「お茶の方がよければそれでも。座ってゆっくり話しましょうよ」
人目もなくて。ゆっくり話しましょう。これ以上無害な文に包まれた贈り物がある。
「向かうところがある」カイトは言った。
「一緒に歩くのは構わないよ」左側から、大学生くらいの声。丸い顔、柔らかい親しみやすさ、鏡の前で練習し、練習し、練習しなかったように見えるまで練習した感じがある。一度、小さく自嘲ぎみに笑う。「ただ――なんか、他の人と違う感じがして。向こうにいるときから気になってた」間。精密に置かれた間。「大切にする。ほんとに大切に」もうひとつの間。短く、重い。「誰より、ずっと」
三人目は何も言わなかった。
少し横に立って――後ろではなく、角度をつけて、自然な退出口をそれとなく塞ぐ位置に。彼女はカイトを観察していた。経験豊富な人間が静かな判断を下すときの集中した眼差しで。目が合うと、微笑んだ。
その微笑みは、観察している部分まで届かなかった。
周囲の朝の街は続いている。左側を通り過ぎた女性が一秒で状況を把握し、すっと視線をそらした。関わることのコストをとうに学んでいる人の、練習された目そらし。少し先、壁にもたれてコーヒーカップを持っている男が、この光景を眺めながら何となく楽しそうにしていた。それなりに面白いテレビを見る人間の顔。投資も関心もない。
男はカイトと目が合うと、カップを少し持ち上げた。「頑張れよ」という意味ではない「頑張れよ」の仕草。それからスマートフォンに視線を戻した。
包囲の形が少しだけ縮まった。誰も派手には動いていない。声も上げない。部屋の出口が静かに並び替えられていくような、社会的な現象として。
俺はただ米を買いたかっただけなんだが、とカイトは思った。非常に個人的な、非常に特定の種類の疲労感を持って。
「向かうところがあるって、言ってたよね」
右側から声が来た。
女の子が、歩道の脇に立ち止まっていた。彼と一緒にいることが明らかな距離に。でも近すぎない。蜂蜜色の髪を半分上げていて、朝の光に数本のほつれ毛が光っている。薄いミントグリーンのニット、シンプルなジーンズ、肩にはキャンバスのトートバッグ。三人の女性を見ている。「少し退屈な状況に来てしまった、せっかくだからいるまで付き合おう」というような、穏やかで気乗りしない顔。
横目でカイトをちらりと見た――一秒で全部見る、「大丈夫?」と言葉なしで訊いてくる種類の視線。それから三人の方に戻した。
「急いでて、ごめんなさいね」と彼女は言った。天気の話をするような声で。友好的で、完全に動かない。
ジャケットの女性は微笑みをちょうど決断が終わるまで保った。それから上着のポケットから二本指でカードを取り出し、カイトに向けて差し出した。まるで恥ずかしいとも思っていないように。
「予定が変わったら」
彼はカードを受け取った。拒むと場面が長くなる。カードは厚手で高級感があった。そりゃそうだろう、とカイトは思った。
三人は来たときと同様に引いた――滑らかに、目に見える苛立ちもなく、撤退しきる前にもう次の計算を始めていた。無言だった一人が一度だけ振り返った。カイトはその視線を無表情で受け止め、彼女が目をそらすまで待った。
カードを見下ろした。読まずに、米の袋の隣に押し込んだ。
隣の女の子は三人が行くのを見送った。それから、初めてちゃんとカイトの方を向いた。
「大丈夫でした?」
「うん」とカイトは言った。「ありがとう」
シンプルに。本心から。その二言が着地して、彼女は目を瞬かせた。
「あ――いや、別に……」トートのストラップを持ち直した。また持ち直した。「お礼とか言われると、その、大したことじゃないし、ただ通りかかっただけで、なんか……」止まる。言い直す。「お礼はいいって言いたかっただけです。大したことじゃなかったから。なんか意味ある感じになってるけど別にそういうじゃ、普通なら」止まった。自分が早口になっていることに気づいたようだった。
カイトはその話し方を静かな集中で見ていた。本当に面白いと思うものを見るときの目で。
彼女はカイトが見ていることに気づいた。この街で人が互いを見る種類の視線ではなかった。計算も、値踏みも、目的もなかった。ただ目の前に人がいて、それだけで注意を払う理由になっているような、そういう目だった。
彼女の表情が少し変わった。一瞬だけ。緊張していた何かが消えて、文章が予定していた結末を失い、新しい終わり方を探しているような間が生まれた。
それから笑った。短く、少しぎこちなく、本物の笑いだった。視線をそらして、首の後ろを擦った。「なんでそんなこと言ったんだろ、私」
「助かりました」とカイトは言った。「本当に」
彼女は口を開けた。閉じた。一度だけ頷いた――小さく、きっぱりした頷き。何かが予期しない場所に届いたことを、その頷きで隠している人間の頷き。トートバッグを肩に戻した。
「じゃあ……よかったです」通りの先を見た。「こっち方向なので」
こっち方向に行った。
カイトは彼女が角を曲がり、普通の朝の人波に溶けていくのを見た。現れたときと同じ当然さで。何も演じず、何も計算せず。ただ親切なことをしようと思い、して、通り過ぎていった。
彼はしばらく立っていた。
コンビニ上の画面がニュース字幕を流している。ファミレスの男はまだスマートフォンを見ている。歩道は朝の慎重なchoreographyで満たされている。男とはこれだけの価値があると、静かに決めてすべてをそこから作り直した世界の。
七分の一。
カイトは前の世界では何もかも持っていた。権力も金も、近づく前に扉を開けさせる名前も。十八時間働いて、オフィスで眠り、通話中に食事を冷まして、ある朝そのまま目を覚まさなかった。最後に本当に望んでいたもの、あのすべての騒音の下にある一つの願いは、恥ずかしいくらい小さかった。
普通の生活がしたい。ただそれだけ。普通の、生活が。
歩き始めた。
ポケットに手を入れて、買い物袋を軽く揺らしながら、背中に漫画を当てながら。自分みたいな人間をどう扱えばいいか見当もつかない世界を、歩いていった。
まだ知らなかった。蜂蜜色の髪の、早口で、笑いが途中で直るあの女の子が、先週入学したのと同じ大学にいることを。
まだ知らなかった。今朝も紫色の髪の子が、目を覚ます前に部屋のドアの外にコーヒーを置いていったことを。
まだ何も、知らなかった。
ただ歩いた。この世界で彼という存在に対してまだ何の備えもできていない、その真っ只中を。
それでよかった。
まだ。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
初めて投稿した作品なので、粗削りな部分もたくさんあると思います。「ここおかしいよ」「こう書いた方がいいよ」というご意見があれば、感想欄で何でも言っていただけると嬉しいです。凹みはしますが、それより先に喜びます。
一話を書き終えて、改めてカイトという人物について考えていました。
前の世界では何もかも持っていた人間が、捨てたくて捨てたわけでもないのに全部失って、それでも最初にすることが「仕事を探しに行く」という。我ながら業の深い主人公を作ってしまったと思っています。彼は弱くない。でも強がってもいない。ただ、生きることに対して妙に真面目なんですよね。前の世界でそれしか知らなかったから。
ヒロインたちについては、これから少しずつ書いていきます。蜂蜜色の髪の子は自分が思っているより図太いし、紫の髪の子は自分が思っているよりずっと臆病です。カイトはたぶん最後まで自分がモテていることに気づかない。気づいても、たぶん「そうか」で終わる。
そういう話です。
次話も、もし気が向いたらまた来てください。待っています。
著者より




