第九章 霧側の異変編 ― 湿度もまた、単独ではいられなくなる ―第一幕|偏りの兆候
滴原の濃度差
滴原は、霧界でもっとも均された場所だった。
流れはゆるやかで、
濃度は等しく、
重さはどこにも偏らない。
上も下もない。
深さという概念すら、意味を持たなかった。
霧はただ、在るだけで安定していた。
ミストラはその中央に立つ。
立つ、といっても輪郭は揺れている。
存在は薄く、
観測だけが明瞭だ。
彼は掌をひらく。
霧がそこに集まり、
静かに数値へ変換される。
濃度。
流速。
密度偏差。
いつもなら、記録は滑らかだ。
均一。
誤差なし。
だが今日は違う。
掌の上で、霧が沈む。
ほんのわずかに。
ミストラは視線を落とす。
下層が、重い。
上層は、軽い。
層。
滴原に、層は存在しないはずだった。
霧は混ざり続ける。
偏りは、即座に均される。
それが原理。
だが今、均されない。
流れが止まる場所がある。
滞留。
霧が、その場に溜まる。
溜まる、という現象。
それは霧界において異常だった。
溜まるということは、
そこに“留まる理由”があるということ。
理由は、偏りを生む。
偏りは、選別を生む。
選別は、均一を崩す。
ミストラは移動する。
滴原の下層へ。
霧はわずかに冷たい。
密度が高い。
圧がある。
上層へ上がる。
軽い。
広がりすぎている。
同じ空間内で、
同じ霧が、異なる性質を持っている。
これは外部の侵入ではない。
内部の変質だ。
ミストラは再び掌をひらく。
数値が揺らぐ。
わずかな振幅。
だが確実な差。
霧が流れない領域を見つける。
そこだけ、動かない。
周囲が移ろっても、
その場に留まる。
「……滞留確認」
声は薄い。
だが記録は残る。
これまでの報告書はすべて明快だった。
均一。
安定。
変化なし。
ミストラは記録媒体を開く。
記述欄が光る。
項目:
濃度偏差 —— 許容範囲外。
流動性 —— 低下。
層構造 —— 発生。
最後の欄で、手が止まる。
原因。
通常なら、外的要因か内部変動と記す。
だがどちらも決定できない。
外部接触はある。
しかしそれだけでは説明が足りない。
内部反応もある。
しかし自然発生ではない。
霧は均すはずだった。
それが、均さない。
ミストラは初めて、
記録欄に空白を感じる。
選択肢が存在しない。
しばらくの沈黙。
滴原の中央で、
霧は静かに溜まり続ける。
それは池のようでもあり、
影のようでもある。
流れない霧。
留まる湿度。
ミストラはゆっくりと文字を書く。
原因:
「不明」
その二文字は、小さい。
だが重い。
霧界で初めて、
均一が保証されなかった瞬間。
滴原の下層で、
重さがわずかに増す。
霧は、溜まっている。
そしてそれを、
初めて誰かが異常として認識した。




