Day60:温泉都市サークツ(前編)
シタリアから馬車に揺られ、北西へおよそ一日半。
砂漠地帯に囲まれた深い森の中に、温泉都市サークツは存在していた。
なぜ砂漠の真ん中に、これほど大きな森が存在しているのだろうか。
オアシスと呼ぶにはあまりにも広大なその森へ入ると、乾いた砂の景色は瞬く間に木々の緑へと塗り替えられ、しばらく進んだ先に、森を切り開くように築かれた城壁と大きな門が見えてくる。
さらにその向こうでは、いくつもの白い湯煙が屋根の間から立ち昇り、青い空へ溶けるように漂っていた。
そして、まだ門の外だというのに、すでに辺りは温泉特有の匂いに包まれている。
温泉好きでなくとも、日本人なら一度嗅げばすぐに分かる、あの独特な硫黄の匂い。
懐かしいような、それでいて旅先へ来た時だけ感じる特別な匂いに、否が応でも胸が弾んでしまう。
門前では衛兵が長く伸びた列を整理し、その先では審査官が一人一人を呼び止め、訪問の目的や滞在先などを確認していた。
その光景は、前世で見た空港の入国審査によく似ている。
……とはいえ、私自身は一度も海外へ行ったことがない。
だから脳裏に浮かんだのは、本物の入国審査ではなく、昔テレビで見た兄弟お笑いコンビのコントだった。
やたらと威圧的な入国審査官と、何を聞かれてもしどろもどろになる日本人観光客のやり取りが頭の中で勝手に再生され、思わず口元が緩んでしまう。
「……ふふ」
ふと隣を見ると、リオン君がこちらを見ていた。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳をわずかに見開き、まるで何か不意打ちでも受けたように、そのまま瞬きも忘れて私を見つめている。
目が合ってもすぐには逸らそうとせず、ほんの数拍遅れて我に返ったように視線を外した、その横顔がどこか妙に落ち着かなく見えた。
……そんなに突然笑ったのが変だっただろうか。
少しだけ気になったものの、ちょうど私の番が回ってきたため、そのまま審査官の確認を受け、私たちは無事に温泉都市サークツへと足を踏み入れた。
ーーーー
今日は、オルド組全員での旅行である。
もちろん引率として教授も同行しているのだが、どういうわけか、いつもより口数が多く、見るからに機嫌が良さそうだった。
「みなさん、この温泉は、およそ六百年前に開湯されたと言われています。
伝承によると、東方からやってきた一人のペイガンが砂漠を越えようとした際、誤って保存食のすべてを砂の川へ落とし、流してしまったそうです。
途方に暮れ、その場に立ち尽くすペイガン。
それもそのはず、砂漠を越えるには、少なくとも七日はかかります。
そこへ偶然通りかかったのが、現在のサークツ領主の祖先にあたる、当時は砂漠を渡り歩く流浪の民だったマグン一家でした。
彼らは行き場を失ったペイガンを助け、食料を分け与えたのだそうです。
するとペイガンは、その礼として二つの穴を掘り、それぞれに一つずつ鉄器を投げ入れました。
すると不思議なことに、一方の穴からは水が、そしてもう一方からは温かな湯が湧き出した――それが、このサークツ温泉の始まりだと伝えられています。
また、そのペイガンは非常に色白で艶やかな肌を持ち、唇は紅のように赤く、眉はすっきりと整い、澄んだ瞳には気品が宿り、まるで女人と見紛うほどの美しさだったとか。
その逸話もあって、ここの湯は古くから“美肌の湯”や“美人泉”などと呼ばれ、今でも非常に人気なのですよ」
なるほど。
それなら私のお肌も、プルンプルンになるかもしれない。
それにしても、教授は相当な温泉好きなのだろう。
開湯の伝承だけでは飽き足らず、今度は湯に浸かることで身体が温まり、疲れが和らぐだとか、そうした入浴そのものの有用性についてまで、いつになく熱を込めて語り始めていた。
この世界では、貴族ですら身体を清めるといえば温めた湯で拭く程度で、ましてや平民ともなれば、真冬だろうと冷たい水で身体を洗うことも珍しくない。
そんな世界なのだから、教授が嬉々として語る“湯に浸かる”という行為そのものが、そもそも大半の人にとっては馴染みのない、かなり特殊な習慣なのである。
だからなのだろう。
キラキラと目を輝かせ、身振りまで交えて熱弁する教授とは対照的に――誰一人として、まともに話を聞いていなかった。
先ほどまで目を輝かせながら温泉について語っていた教授だったが、ふいに表情を引き締めると、声の調子まで改めて私たちを見回した。
「いいですか、みなさん。
これは後世に行われた調査によって分かったことなのですが、このサークツ周辺は、地形の影響から非常にマナが溜まりやすい土地なのだそうです。
言うなれば、“マナのオアシス”ですね。
そういった学術的な価値もあり、今回の討論会では優勝賞品としてサークツへの招待が選ばれています。
ちなみに今回は、ネウラ薬草学院とアリストリウム貴族院の生徒さんたちも、この街を訪れています。
宿泊先は別ですから、顔を合わせる機会はそう多くないと思いますが……討論会の熱も、まだ完全には冷めていないでしょう。
くれぐれも、余計なトラブルを起こさないようにしてくださいね。
……特に、リオンさん。
エリオさん。
分かっていますね?」
……なんだろう。
エリオ君が名指しされるのは、まあ何となく分かる。
けれど、そこにリオン君まで並べて釘を刺されるというのは珍しく、討論会で何かあったのだろうかと、妙に気になってしまった。
答えを探すように、私は隣を歩いていたエマさんへと視線を移す。
すると彼女は、こちらと目が合うより先に、頭を抱えるように片手を額へ添え、深いため息をひとつ吐き出していた。
その姿だけで、どうやら私が想像している以上の何かがあったらしいことは、十分すぎるほど伝わってくる。
そこまで見せられてしまえば、聞かずにはいられない。
私はエマさんの隣へ少しだけ距離を詰め、討論会で何があったのか尋ねてみることにした。
「実は……」と、エマさんはまた一つため息をこぼし、どこか言いづらそうに口を開いた。
「討論会四日目の晩餐会でのことなのですが、他大学の生徒も交えて食事をしていたところ、少々……素行のよろしくない方がいらっしゃいまして。
ユリカさんには、あまり気持ちの良い話ではありませんから、お伝えしないようにしていたのですが……その、なんと言いましょうか。
金席である貴女が五公家の者ではないことについて、私たちを咎める方がいらっしゃったのです。
それどころか、貴族ですらない者に金席を奪われるなど五公家の力不足であり、揃いも揃って恥晒しだとまで言われまして……。
最初にお怒りになったのはエリオ様だったのですが、その方がさらに、ユリカさんは実のところ五公家の誰かが妾として囲うつもりなのではないか、そのために不正を働き、金席を取らせたのではないか――などと言い出したところで、リオン様もとうとう我慢の限界を迎えてしまって……。
ついには、決闘にまで話が及んでしまったのです。
幸い、その場に居合わせた教授方が間に入り、どうにか大事には至りませんでしたが……なんとも、後味の悪い晩餐会になってしまいました」
……なるほど。
そんなことが起きていたのか。
とはいえ、二人が怒ったのは私を侮辱されたことよりも、五公家そのものを貶めるような発言をされたことの方が大きかったのだろう。
それでも、私が原因の一つになったことには変わりない。
そう思い、隣を歩くリオン君へと身体を向けると、右手を胸元へ添え、ほんの少しだけ頭を下げた。
(私のせいで、ご迷惑をおかけしました)
――そんな、ただ純粋な謝意と誠意を込めて。
ザワ……。
その瞬間、何か見えない波でも走ったかのように、周囲の空気が一斉に揺れた。
いや、騒然となったというより、色めき立ったと言った方が正しいのかもしれない。
とにかく、つい先ほどまで普通に歩いていたはずの一行が、突然ざわざわと落ち着きを失い始めたのである。
何事かと思い辺りを見回すと、エマさんは驚いたように口をぱくぱくとさせ、フィオナさんは鼻息荒く目を輝かせ、リオン君に至っては顔を真っ赤に染めながら、なぜか何度もうんうんと頷いている。
その隣では、エリオ君だけが事情をすべて理解しているかのように、堪えきれない笑みを浮かべていた。
ますます訳が分からなくなり、助けを求めるようにエマさんへ視線を向けると、彼女は一つ咳払いをしてから、ほんのりと赤みを帯びた耳を指先でさすりながら教えてくれた。
「ユリカさん、その所作は“私の心臓を貴方へ”という、貴族なら誰もが知っている最上級の愛を伝える所作なんです。
……もちろん、ユリカさんにそのような意図がなかったことは分かっています。
ですが、皆が憧れる守護騎士伝記の中で、騎士が生涯を捧げる相手へ想いを伝える際の所作に、あまりにもそっくりだったものですから……。
今後は、くれぐれも人前では控えてくださいね」
……まさか、ただ誠意を伝えようとしただけの仕草に、そんな意味があるとは思ってもみなかった。
恥ずかしさに顔を覆いたくなりながら、ふと右へ目をやると、ちょうどこちらを見ていたリオン君と視線が重なる。
さっきまでなら何とも思わなかったはずなのに、討論会で私のために怒り、決闘にまでなりかけたという話を聞かされた直後に、最上級の愛だなんだと言われてしまえば、どうしたって意識せずにはいられない。
しかもリオン君は、目が合ってもしばらく逸らそうとせず、赤く染まった顔のままこちらを見つめているものだから、胸の奥からせり上がってきた熱がそのまま頬まで駆け上がり、暑さとは明らかに違う汗がじわりと滲んでくる。
私は逃げるように視線を外すと、気まずさを振り切るように歩調を速め、そのまま一足先に宿へと向かった。
ーーーー
宿に到着すると、夕食までは自由行動となった。
さっそく温泉へ向かう者もいれば、土産物を見に街へ繰り出す者、長旅の疲れを癒すため部屋へ戻る者と、それぞれが思い思いに散っていく。
そんな中、私は宿に併設されている“サークツ郷土博物館”へと足を運んだ。
館内には、この地に温泉が湧くようになった経緯や、その効能についての資料が並び、壁には昔のサークツを描いた絵画、棚には王族が入湯した際の記録、さらには古くに使われていた湯もみ板や湯桶まで、六百年という時間を感じさせる品々が所狭しと展示されていた。
温泉街の歴史を眺めるだけのつもりで、私は一つ一つを気の向くままに見て回っていく。
そんな中――ふと、足が止まった。
目に留まったのは、この地に水と温泉をもたらしたという、あのペイガンが穴へ投げ入れた鉄器、そのレプリカだった。
何気なく近づき、表面に刻まれた文字へ目を落とす。
そこには――私がよく知る綴と、これまで一度も見たことのない綴が、並んで刻まれていた。




