Day57:交わる派閥、集まる視線
先ほどまでとは打って変わり、講堂は静まり返っていた。
その中で、エマさんは一度、深く息を吸う。
そして、演台に両手を置き、ゆっくりと視線を上げた。
「――皆さん。
本日、ナトゥーラ派閥の代表という重責をお預かりすることになりました、エマ・ヴァン・ルーファスです」
一礼。
それは形式に則ったものだったが、その眼には確かな決意が宿っていた。
「まず初めに、これまで派閥を支えてこられた先達の方々、そして、ここに集ってくださった皆さんに感謝を申し上げます。
ナトゥーラは、神を自然の一部として捉え、それを信仰する派閥です。
ですが私は、この“自然”という言葉を、単なる対象や資源として扱いたいとは思っていません。
自然とは、人が抗うものでも、征服するものでもなく、また、無条件に崇めるだけの存在でもない。
――私たちが生き、学び、選択する、その土台です」
講堂の空気が、わずかに張りつめるのを、私も確かに感じ取っていた。
「川の流れを知るのは、橋を架けるためです。
風を読むのは、作物を守るため。
星を測るのは、未来を誤らないためです。
知とは、生活と切り離してはいけません」
ここで、エマさんは一度、視線を巡らせる。
呼吸を整えるように、静かに間を置いた。
「私は、ナトゥーラを“静かな研究室に閉じた派閥”にはしません。
街に出て、畑に立ち、工房に入り、人の営みのすぐ隣で、自然と共に学ぶ派閥にしたいと思っています」
その声は穏やかで、しかし言葉のひとつひとつに、揺るがない芯があった。
「それは時に、効率が悪く、遠回りに見えるかもしれません。
ですが、自然そのものが、常に最短の道を選んでいるわけではないのです」
小さく微笑む。
――その無垢な小悪魔に、心を奪われたのは私だけではないだろう。
「急がず、奪わず、見誤らない。
それが、私の考えるナトゥーラの姿です。
この派閥に集う皆さんと共に、“生きるための知”を、積み重ねていきたいと考えています。
――以上を、私の所信といたします。
どうか、共に歩んでください」
エマさんは最後にもう一度、一礼をして顔を上げた。
そこには、いつも私に優しく接してくれる彼女の面影を残しながらも、それとはまるで別人のように、派閥の代表として場に立つ者の顔があった。
そして、拍手が、遅れて、しかし確実に広がっていく。
最初はまばらだったそれは、瞬く間に連なり、音が重なり、押し寄せ、逃げ場を失った空気が震え、耳が痛くなるほどの拍手の中で、私はただ、その場に立ち尽くしていた。
やがて、エマさんが右手をすっと上げると、その一動作だけで波が引くように拍手が止み、講堂には嘘のような静寂が戻ってくる。
「ありがとうございます。
それでは、新入生の皆さん、ご起立いただき、後方の皆様の方へ向きを変えて先輩方にお顔をお見せください」
その言葉を合図に、私を含めた新入生が一斉に立ち上がり、わずかな緊張を抱えたまま後ろを振り返る。
そこに広がっていたのは、ただ数が多いだけではない、積み上げてきた時間と経験を背負った先輩たちの存在そのものであり、その視線に晒された瞬間、緊張の中にも胸の奥がすっと静まり返るような、不思議な安堵にも似た感覚がゆっくりと広がっていった。
ナトゥーラでの代表挨拶と新入生の顔出しを終えた私は、その足でエコノミアの派閥棟へと急いだ。
向かっているのは中央区の外苑にほど近い、商業ギルドの管轄下にある二棟の建物で、その三階部分が渡り廊下によって繋がれている、ひと目でそれと分かる特徴的な造りをしていた。
事前に受け取っていた案内書を受付で手渡し、しばらくその場で待たされたのち、四階にある大きな会議室へと通される。
そして扉を開けた、その瞬間――まるで私の到着を見計らっていたかのような絶妙なタイミングで、今後三カ年計画の発表が始まった。
入り口で手渡された計画書を捲りながら、その場の空気を当然のように掌握して語っているのは――リオン君だった。
「私が、エコノミアの代表として、まず改革したいのは皆の意識そのものだ。
今の大人たちは、己の利益のみを優先し、他を顧みず、派閥同士の優劣に固執し、より高みへ上ることをすっかり忘れている。
そして、そんな大人たちから教育を受けた我々新世代もまた、その傾向を強く引き継いでいると見ている。
本当の意味で意識を変えられるのは、我々の子や孫の世代になるだろう。
しかし、今ここで始めなければ、我が子らも同じように育ち、人の発展はそこで止まる。
『歩みを止めた瞬間にペシュの値が下がる』――この言葉の意味は、エコノミアに属する諸君らなら理解しているはずだ。
よって、私が代表を務めるこの三カ年は、派閥の垣根を超えた、これまでにない計画となる」
その言葉が落ちた瞬間、会場の空気が一気に動いた。
どよめきが波のように広がり、紙をめくる音が重なり合い、その隙間から議論の声が立ち上がっていく。
ざわめきはすぐに収まる気配を見せず、むしろ熱を帯びながら広がり続けていた。
私は、ただ入り口に立ったまま、口を開けてその光景を見ていることしかできずにいた。
エマさんに続き、リオン君までもが派閥の代表として場を動かしている。
その事実だけが、現実感を伴わないまま、遅れて胸の内に沈んでいく。
――しかし、そんな折。
「みんな、聞いてくれ。
こんな計画書で驚いているようではだめだ。
ちょうど今、超派閥を地で行く、新しい仲間がナトゥーラ派閥から駆けつけてくれたところだ」
そう言って、リオン君は視線をこちらへと向ける。
その動きを追うように、会場にいた全員の視線が、一斉に私へと突き刺さった。
無数の視線が、音を立てるように私へと集中したその瞬間、逃げ場がないと理解するよりも先に身体が反応し、ぐっと上半身が後ろへ仰け反った。
だが足は思うように動かず、退こうとしているのに逃げ切れないまま、視線だけが容赦なく追いかけてくる。
胸の奥がきゅっと縮まり、喉の奥にうまく言葉にならない何かが引っかかり、声を出そうとしても出てこない。
代わりに漏れたのは、情けない息だけだった。
「……ぅぐ……」
視界の端がじわりと滲み、泣くほどではないと分かっているのに、このままもう一押しされたらきっと耐えられない――そんなところまで、あっという間に私は追い詰められていた。
「おい……、あれ金席だぞ」
「なんでも、新しい乗り物を発明し、すでに商品化まで済ませてるとか……」
「部屋が片付けられないらしいぞ」
(……おい、最後のやつ、顔覚えたからな……)
それにしても……通りで、急いできたのに受付で待機させられたはずだ。
全てはこの演出の為だったのだろうと、ようやく腑に落ちる。
リオン君に良いように使われてしまった。
そう思った矢先、その背後でニヤニヤと笑いをこらえ切れていないエリオ君の顔が目に入る。
――ああ、なるほど。
この筋書きを描いたのは、きっと彼だ。
込み上げかけていたものが、すっと引いていく。
代わりに残ったのは、諦めにも似た静かな納得だった。
「……はぁ」
ひとつ、息を吐く。
さっきまでの動揺を、そのまま吐き出すように。
――もういい。
ここまで来たら、やるしかない。
そう割り切った瞬間、不思議と身体の力が抜け、姿勢を正し、深く一礼し、そのまま流れるようにカーテシーを決める。
「ただいま、ご紹介いただきました。ユリカです。
エコノミアの末席に加われたこと、嬉しく思います。どうぞよろしくお願いします」
そう言うと私は、会議室最後列の一番端にある椅子へと腰を下ろした。
そこからは、リオン君を中心に据えた三カ年計画の詳細が、途切れることなく語られていく。
途中、派閥員からの質問や討論も挟まれ、言葉がぶつかり合いながら次の形へと練り上げられていくその光景は、さながら前世の大学時代に一度だけ参加した――いや、朋美に半ば強引に連れて行かれた――起業サークルそのものだった。
……つまり、とても夢の詰まった計画である。
熱気の冷めやらぬ会場を背に、私は静かに席を立ち、その余韻だけを少しだけ連れて、次なる派閥――デストレーザへと向かった。




