Day40:道程(後編)
道中、いくつもの橋を渡る。そのたびに、私はリアの顔を思い出した。
あのとき、「待ってる」と言ってくれた声が、まだ耳に残っている。
それを思い出すたびに、頬が緩んだ。もしかしたら、私の想いが通じたのかも。
勘違いかもしれない――けれど、そう思えるだけで幸せだったが、一人でかみしめていたいため、誰にも見られないよう、両膝を抱え顔を伏せてやり過ごしていた。
やがて、山岳地帯を抜けかけた頃だった。突如、馬車の上空を黒い影が覆った。
オオコウモリの魔物だ。
けたたましい鳴き声とともに群れが急降下し、隊列を襲う。
けれど、護衛の冒険者たちの動きは見事だった。
弓を構えたかと思うと、矢が次々に空間を切り裂き、地に落ちた魔物には剣の閃きがとどめを刺した。
およそ二十匹は倒しただろうか。
戦いのあと、冒険者たちはその羽を丁寧に切り取り、護衛馬車へと積み込んでいく。
聞けば、あの薄い翼膜は軽く、伸縮性に優れており、動きを妨げないため高級なローブやグローブの素材として重宝されるらしい。
さらに、その骨は緩やかな曲線を描いていて、加工すれば楽器の部材にもなるという。
なるほど――そう聞くと、さっきまで恐ろしかった魔物が、まるで宝の山のように見えてくるから不思議だ。
山岳地帯を抜けて二日目の夕方、ようやく最後の宿場町に到着した。
ここを過ぎれば、学術都市まではあと三日の道程。
途中にいくつか農村は点在しているものの、補給や宿泊は望めないらしい。
残りの日々は草原での野宿になると聞き、私は食料を確認してひと安心した。
三日程度なら、十分に持つだろう。
そのまま宿に入り、部屋を確認して荷を下ろす。
一息ついてから私は、食堂へと降りていった。
広い食堂には、冒険者や御者、乗客の男性たちが数人でテーブルを囲み、酒を片手に何やら談笑していた。
食事はすでに済ませたようで、楽しげな笑い声が響いている。
私は軽く会釈をして空いた席で食事を取り、なるべく目立たないように皿を片づけ、自室へ戻った。
少しして、外がやけに騒がしい。
窓を開けて覗くと、先ほどの男たちが満面の笑みを浮かべながら、向かいの建物へと吸い込まれていくのが見えた。
――娼館だった。
入り口には、露出の多いドレスを身にまとった女性たちが並び、豊かな胸元や腰の曲線を強調するように身をくねらせ、通りすがる男たちを艶やかに手招きしている。
その仕草は、計算されたように美しく、そしてどこか――少しだけ淡く切なく感じた。
……私は思わず、自分の身体を見下ろした。
二年前から、ほとんど変わっていない。「ちっ……」小さな舌打ちが漏れる。
男になんて興味はない。ましてやあんな軽薄そうな連中。それでも何故か、気分は悪かった。
胸の奥に残ったざらつきをどうにかしたくて、私は再び食堂へ降りて行った。
カウンターで葡萄ジュースを頼み、コップを両手で包み込む。
酸味のある香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
空いている席に腰を下ろすと、向こうから一人の女性がこちらに歩み寄ってきた。
見覚えのある顔――後ろの護衛馬車にいた冒険者のひとりだ。
「ユリカ……ちゃんだっけ? ここ、座っていい?」
私はうなずいた。
女性は笑みを浮かべながら、軽く腰を下ろす。
彼女の名前はキャス。
柔らかな栗色の髪を肩で束ね、鎧の時とは違い、今着ている白い布地がどこか清潔な印象を与えていた。
話してみると、彼女はかつてシタリアにある「ネウラ薬草学院」で学んでいたという。
薬草学と治癒術を専攻し、卒業後は冒険者として各地を巡りながら回復役を務めているそうだ。
今回、護衛の仕事を引き受けたのも、久しぶりに大学へ行って恩師に顔を見せるため――
そう語る彼女の目は、穏やかで温かかった。
「ユリカちゃんは、どうしてシタリアに?」
「私は、ルーンを学びに行くの」
そう答えると、キャスさんは目を丸くして息をのんだ。
「え? ルーンを? もしかして――中央?!」
「中央……?」
聞き慣れない言葉に首をかしげると、キャスさんは気づいたように肩をすくめて笑った。
「ああ、ごめんね。シタリアの学徒たちは皆、ルーニクス大学のことを“中央”って呼ぶのよ。
都市の中心にあるってだけじゃなくてね――
“世界の縮図”、“権力の巣窟”、“知識の集積地”って意味も込められてるのよ」
言葉を聞いた瞬間、胸の奥にざらりとしたものが走った。
“権力の巣窟”――それは、私がこれまで触れたどんな場所よりも遠い響きだった。
きっとそこは、ただ勉強するだけの場所じゃない。
頭の中でそんな言葉がよぎり、ひどく乾いた喉を潤すため、手元の葡萄ジュースにそっと口をつけた。
「……気をつけなさい、ユリカちゃん。
私もうわさでしか聞いたことないけど、あそこは――危険よ。
様々な派閥や思想が入り乱れているって。身の振り方を間違えると、すぐに飲み込まれてしまうから」
キャスさんの声は、どこか本気だった。
少し間をおいて、彼女はふっと微笑む。
「それにしても……ユリカちゃん、良いところのお嬢様だったんだね。もしかして――貴族様?」
「ち、違います!」
慌てて否定すると、キャスさんはいたずらっぽく笑った。
「そうよね、乗合馬車だし。でも……大店の娘さんとか?」
ただの村娘なんだけど……。
そう思いながらも、なぜそう思ったのか気になって尋ねた。
「だって、あそこの学費、ものすごく高いでしょ?
大学の中でも飛び抜けて高いって聞くわ。
それに入試も難しいし。家庭教師を雇って準備しないと受からないって。
――学費も高い、準備費用も高い、入試レベルも高い。まさに“最高峰”ってね」
……家庭教師? 最高峰? 聞いてない。
工房長は「文字が書ければ入れる」って言ってたじゃないか。
嘘だ……だまされた……!
胸の奥に、怒りと不安がいっぺんに広がる。
私は何も準備していない。筆記用具も、教材も、心の覚悟すらも。
「……知りませんでした。知り合いから、文字が書けてお金があれば入れるって……」
私がしょんぼりと言うと、キャスさんは目を丸くし、今度は慌て出した。
「えっ……そうなの!? う、うん、大丈夫よ!
受験するだけなら無料なんだし……来年! そう、来年よ!
みっちり勉強すれば受かるわ! ……きっと!」
励ましてくれているのは分かる。でも、その笑顔がかえって胸に刺さった。
「はうぅ……」
私は情けない声を漏らしながら、しょぼくれた背中で部屋に戻った。
階段を上がる足取りが、いつもよりずっと重かった。
翌朝。
男たちはどこか疲れた様子ながらも、どこか誇らしげに笑っていた。
昨夜の歓楽の余韻をまだ引きずっているのだろう。
馬車へ向かう途中、代表御者がいつものように声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、今日もいい天気だな」そう言って手を伸ばしてきたので、私は反射的に身を引いてしまった。
……なんとなく、その汚れた手で触れてほしくなかった。
昨夜、私は入試の真実を知って打ちひしがれていたというのに、この男連中ときたら、呑気に笑っている。
……やっぱり、男なんてしょうもない生き物なのかもしれない。
ただの八つ当たりなのはわかっているが、そう思わざるを得なかった。
それでも、馬車が進み出すと、次第に心の棘も少しずつ溶けていった。
最後の宿場町を離れると、一面の草原が広がっていた。
風が帆布を揺らし、青と白の世界を縫うように馬車が進む。
草の匂いと風の音が、昨日までの疲れを洗い流してくれた。
夜。
焚き火の傍らで見上げた空には、数え切れないほどの星が瞬いていた。
ひときわ明るい流れ星が尾を引き、私は思わず息を呑む。
――この空のどこかに、私の知っている太陽があるのだろうか。
遠い前世の記憶と、目の前の星空が、不思議なほど静かに重なった。
そして早朝。
濃い霧の中、馬車はゆっくりと進む。
やがて霧の向こうに、巨大な塔と、それに連なる白いアーチ橋が姿を現した。
“学術都市・シタリア”――。
それは、まるで霧の中から現れた神殿のように、光をまとって立っていた。




