Day41:宿・エチュード(前編)
私たち一行は、学術都市シタリアの外環区で降ろされた。
外環区――通称、商業区。
ここは学徒だけでなく、商人や職人、その家族たちが暮らす街だ。
石畳の道には荷馬車の音が響き、路地には香辛料と紙の匂いが混ざっている。
思い描いていた“学びの都”とは少し違う、けれど生きた温度のある場所だった。
まずは、試験までの一週間を過ごす宿を探さなければならない。
費用は抑えたいが、あまりに安宿では落ち着かない。
そんなことを考えながら通りを歩いていると、背後から声がかかった。
「ユリカちゃん、もう宿は決まってるの?」
振り向くと、キャスさんが手を後ろに組みながら歩いてきた。
旅の間に見慣れた笑顔に、少しほっとする。
「いえ、これから探そうかと。……どこか良いところをご存じですか?」
そう尋ねると、キャスさんは待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「それでは――こちらへどうぞ、お嬢様」
軽くウィンクをして、芝居がかった仕草で私を先導する。
その軽やかさに思わず笑ってしまった。
通りの角を曲がると、淡い灰色の石壁に蔦が這う三階建ての建物が見えた。
入口の上には、古びた真鍮の看板。そこには優しい筆致でこう刻まれていた。
――《宿 エチュード》。
外壁は年季が入っていたが、窓には白いカーテンが揺れ、窓辺には色とりどりの鉢植えが並んでいる。
太陽の光を受けた花々が、通りの風に合わせて小さく揺れた。
玄関脇の掲示板には、手書きの張り紙がいくつも貼られている。
「明朝、試験対策会あり」
「今週の夜食スープ ガルピン風スープ」
誰が書いたのかも分からないけれど、そのどれもが優しく、生活の香りがした。
扉をくぐる前から、胸の奥がじんわりと温かくなる。
扉を押すと、真鍮の鈴が軽やかに鳴った。
中は外よりも少し暗く、けれどその分だけ柔らかな光に包まれている。
暖炉では火が低く揺れ、ゆっくりと薪のはぜる音が響いていた。
奥には小さな食堂、その隣には仕切りのない広間が広がっている。
長い机が三つ並び、天井に吊るされたマナ灯が白く明るい光を落としていた。
窓際の席では、何人かの学生たちが厚い本を開き、静かに筆を走らせている。
紙をめくる音、ペン先の擦れる音。
そのかすかな響きが、この空間全体を優しく満たしていた。
私はキャスさんに小声で尋ねた。
「あそこは……?」
「ああ、勉強室だよ」
キャスさんは微笑みながら言った。
「この宿は受験生に優しい宿なの。私も受験の時にお世話になったんだ。
よかったら、ユリカちゃんもここに泊まってみたら?」
その言葉を聞いた瞬間、心の中に小さな灯がともった気がした。
私はすぐにうなずき、キャスさんに礼を言ってから、暖炉のそばにいた中年の婦人へと歩み寄った。
「宿をお願いしたいのですが」
婦人は穏やかな笑みを浮かべて、帳面を開いた。
「ありがとうございます。受験生ね?」
私はこくりとうなずく。
「受験生はね、滞在費を少し安くしているの。
それから朝は粥、夜はスープ付き。勉強はあちらの広間を使ってちょうだい。
夜半の鐘までは灯りを落とさないし、分からないところがあれば、過去の受験生たちが置いていった本もたくさんあるわよ」
私は思わず小さく笑みをこぼした。
「まるで寮みたいですね」
「そうね。夢を追う子たちの、ちょっとした下宿先かしらね」
婦人は柔らかく微笑んだ。
暖炉の薪がぱちりと弾け、窓の外では、夕暮れ前の鐘が静かに鳴りはじめていた。
一日の終わりを告げるその音が、どこか心地よい。
私は十日間の滞在を申し出て、支払いを済ませた。
そのとき、婦人がふと私の後ろに目を向ける。
「あら、キャスちゃんじゃないの? 立派になって」
振り返ると、キャスさんが驚いたように目を丸くし、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「覚えててくださったんですか? ありがとうございます。
この子、乗合馬車で一緒になったんです。中央を受けるって言うから、ぜひこちらを紹介したくて」
「あら……ルーニクス大学を? それはまたご立派で。ぜひ頑張ってね」
婦人の言葉は、どこか誇らしげで、それでいて母親のような優しさがあった。
その温もりに胸がじんわりと熱くなる。
やがて、宿の従業員が私の荷物を受け取り、部屋へと案内してくれた。
キャスさんは「少し話してから帰るね」と言い、暖炉のそばに残った。
私は軽く会釈して階段を上がる。階段の木の軋む音が、どこか懐かしく感じた。
案内されたのは最上階の一番奥、突き当たりの部屋だった。
従業員の話によると、二階が男性、三階が女性専用になっているという。
その心遣いが、妙にうれしかった。
荷物を片づけたあと、階下へ降りる。
一階の食堂では、すでに夜食のスープが配られ、宿の学生たちがそれぞれ持ち寄った食材を合わせて楽しんでいた。
賑やかというより、温かい――そんな空気が漂っている。
私は婦人のもとへ歩み寄り、受験対策について尋ねた。
「ユリカちゃん、いらっしゃい。
ルーニクス大学の受験問題? うーん、問題そのものはないけれど……。
たしか、少し前の対策本ならあったはずよ。
ただね、うちに来る子であそこを受ける子は滅多にいないから、種類は少ないの。勘弁してね」
婦人はそう言いながら、棚の上段に手を伸ばし、古びた装丁の本を数冊取り出した。
そのうちの一冊を私に手渡してくれる。
「ありがとうございます」
本を胸に抱えて、私は勉強室の奥にある一人掛けのソファへ向かった。
マナ灯の白い光が、紙の上に静かに落ちている。ページを開くと、古いインクの匂いがふわりと漂った。
対策本を読み進めているうちに、気がつけば、もう消灯時間ぎりぎりになっていた。
夜食のスープもとうに片づけられ、私は仕方なく部屋へ戻って、残っていた携帯食でお腹を満たした。
干し肉をかじりながら、先ほどの内容を思い返す。
まず、ルーニクス大学の入試は《理算試》と呼ばれる、論理的思考と算術力を試される問題らしい。
その理念は「理を扱う者は、正答とその筋道を示せ。」というものだ。
正解していたとしても。「どう考えたのか」を明示できることが合格条件になってくる。
単元は主に以下の四つ。
Ⅰ. 数理構築、Ⅱ. 条件推論、Ⅲ. 手順設計、Ⅳ. 理表現
Ⅰ. 数理構築
こちらは基礎計算・文章題からなっており、内容を見る限り主な設問は一次方程式、比、速さで構成されている。
Ⅱ. 条件推論
この単元では、条件整理・真偽判定・場合分けを問われ、確率や論理思考を試される。
残りの「Ⅲ. 手順設計」は具体的手順・規則発見・操作順序を、「Ⅳ. 理表現」は思考過程・自論説明を小論文・数学的説明問題として問われるというものだった。
一見難しそうにも思えるが、内容としては、平均に関する一次方程式の文章問題など、前世で言えば中学生程度の学力があれば、造作もない問題ばかり。
私だって遊び惚けていたとはいえ、元は女子大生。なんの抜かりもなかった。
……これは行けるかもしれない。
胸の奥で、ぽつりとそんな声が響いた。
そもそも、この世界では学校に通うこと自体が珍しい。
子どもたちは神殿の学び舎で、せいぜい読み書きや道徳のようなことを学ぶ程度だ。
最高峰と言われる大学でも、この程度の問題なら――。
そう思うと、肩の力が抜けて、あの重苦しい緊張がどこかへ消えていった。
私はベッドに寝転び、天井を見上げた。
ほんの少しだけ、未来が近く感じられた。




