Day38:脱兎
すっかり夜も更けた街道を、私は全速力で駆けていた。
自転車を出す手間さえ惜しみ、ただひたすらにリアの宿舎へ――闇を切り裂くように走り抜ける。
途中、何度も何度も、自転車とすれ違った。
そのたびに、あの日の光景が蘇る。笑い合ったこと、一緒に釣りしたこと、語り合った夜。
懐かしい記憶の欠片が、疲れた脚に力をくれる。
けれど、怖かった。
もしかしたら、また拒まれるかもしれない。
また、あの時のように傷つけてしまうかもしれない。それでも、私は――。
リアの下宿先に着いた頃には、秋の夜気がいっそう冷たく、汗に濡れた頬を刺すように吹き抜けていた。
それと一緒に、心の熱も奪われそうになるが、ここまで来て逃げるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせ、私は拳を握り、扉をノックした。
――トントン。
……反応がない。ドアに耳を当てても、中に人がいる様子もなかった。
あの日、リアは一階の部屋にいたことを思い出し、震える手でその扉を叩く。
やがて、あの時と同じように、獣人の男が顔を出した。
「わ、私……リアンナの友達で、ユ、ユリカと申します……こ、ここ、こ、こちらにリアンナさんは……」
分かっていた相手なのに、またしても情けない声しか出せなかった。
「ん? あぁ……。アンタか。リアのことなら知らねーよ」
短く言い捨てると、男は扉を閉めた。
だが、ここで引き下がれるはずがない。私は再び扉を叩き、大声で訴えた。
「へ、部屋にいなかったんです! 部屋に居ないとなると、もうここしか……。ここしか考えられないんです! 何か知りませんか?! お願いです! リアに会わせてください!」
――ドンドンドン。
何度も叩き続けると、男は観念したように扉を開け、眉をひそめて言った。
「だから! 俺だって知らねぇって! もう数か月、リアの姿なんざ見ちゃいねぇんだよ! 分かったら帰ってくれ!」
その時、騒ぎを聞きつけたのか、寮母さんが顔を覗かせた。
その姿を見た瞬間、胸の奥に希望が灯る。私は藁にもすがる思いで駆け寄り尋ねた。
「す、すみません! 私、リアの友達のユリカです! リアどこにいるか知りませんか?」
寮母さんは一瞬驚いたように目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。
「あぁ、リアちゃんの。覚えてるわよユリカちゃんね。...…リアちゃん? リアちゃんなら随分前に出て行ったわよ? 最後に部屋も綺麗に片付けてくれてね。とても助かったわぁ。...…リアちゃんが引っ越ししたの知らなかったの?」
……そんな。ここに、もういないなんて。
息が詰まる。
もう、リアには会えないのかもしれない――そう思った瞬間、視界が滲んだ。
溢れる涙を止められず、寮母さんの優しい声が遠くで霞んでいく。
結局その夜は、あきらめて帰るしかなかった。
夜風は思いのほか冷たく、泣きはらした目と鼻をヒリヒリと刺した。
街灯の灯りがぼんやりと滲む。
その向こうに、リアの笑顔が浮かんで見えた。
……会いたい。たとえどんな顔をされても。
その願いを胸に、私は暗い道を歩き続けた。しばらくして、前方から声がかかった。
「……どうだった?」
顔を上げると、マルセルたち三人がこちらへ歩いてくるのが見えた。
途中まで迎えに来てくれたのだ。
「その……さっきは、あんな言い方して悪かったな」
「んんん……。大丈夫。ありがとう」
その一言が、心に染みた。
私は三人と並んで帰り、後日あらためてリアの工房を訪ねてみることにした。
――数日後。
今日は特に予定もなく、久しぶりの休みだった。
私は朝のうちに支度を整え、リアの工房へと向かう。
ヴァルネ工房の扉を開けると、今回はまだ午前中ということもあり、中からは活気のある声と音が聞こえてくる。
私は、窓口で声をかける。
「すみません、私リアンナの友達でユリカと申します。...…こちらに、リアンナさんいらっしゃいますか?」
受付の女性は、私を一瞥して「少々お待ちください」と言い、奥へ消えた。
数分後、扉が開く。
胸の奥が高鳴る――が、出てきたのは先ほどの受付の女性だった。
「申し訳ございません。現在、親方の指示で誰も通すなと申されております。……リアンナには、私から何かお伝えしましょうか?」
――そうか。やはり、会えないのか。
会うことを拒まれているのかもしれない。
それでも、リアンナがまだこの領都にいて、ヴァルネ工房に戻っている。
それが分かっただけでも、胸の奥が少し温かくなった。
私は丁寧に礼を述べ、ヴァルネ工房を後にした。
その後――息つく間もない日々が始まった。
ヨアヒムの提案通り街道建設ギルドの耐久試験を中央広場で行うことになり、工房は夜明け前から準備に追われていた。
あの日、リアに会えなかった痛みはまだ消えていなかった。
けれど、忙しさに身を委ねていると、不思議と心が少しずつ軽くなっていった。
認可が下りたのは、それからすぐのことだ。
広場に集まった人々の拍手と笑い声が今でも耳に残っている。
さらに、思いがけない誤算もあった。
廃れると思っていた旧型のピストバイクが、その軽さと速度を買われて、運搬や郵便の事業者たちに根強く求められたのだ。
新型の注文が増えた一方で、旧型の再生依頼も絶えず、工房の灯は昼夜問わず消えることがなかった。
そうして季節は移り変わり、春が過ぎるまで、私たちは休みも返上で働き続けた。
窓の外で風が変わるたび、時間がどこか遠いもののように感じられた。
そんな初夏のある日、私は久しぶりにモークム夫人から手紙をいただいた。
上品な封蝋を割ると、そこにはお茶会への招待の文が添えられている。
――久々にお会いできる。その言葉に、胸の奥がほっと温まった。
領主館を訪ねるのは何か月ぶりだろう。今回は中庭ではなく、応接室へと通された。
応接室は、煌びやかでありながら不思議と落ち着いた空気を纏っていた。
金の装飾も絵画も控えめで、洗練された静けさがある。それはきっと、夫人の趣味なのだろう。
華美に流れず、品よく整えられた室内は、彼女自身の佇まいを映しているようだった。
ほどなくして、夫人が姿を現した。
その背後にはリゼットがぴたりと寄り添っている。どうやら今日は、少しむくれているらしい。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
私は深く一礼し、華やかにカーテシーを決める。夫人が微笑み、向かいのソファを勧めてくださった。
腰を下ろすと、すぐにメイドが紅茶を尋ねてくる。
私は前回同様に、香り高いダージリンのような紅茶をお願いした。
茶器の音が静かに響き、温かな香りが広がる。
あの忙しさに満ちた工房とは正反対の、穏やかな時間が流れていた。
テーブルの上には、瑞々しい果実と焼き菓子が美しく並べられていた。
陽光を受けてガラス皿が淡く光り、香り立つ紅茶の湯気がゆるやかに空気を満たす。
お茶会は、そんな穏やかな雰囲気の中で始まった。
最初の話題は、新型自転車のことだった。
開発のきっかけや、ペーター達から聞いた失敗談を話すたびに、夫人は身を乗り出して聞き入り、まるで自分のことのように楽しそうに頷いてくれた。
その優しい反応に、思わずこちらまで笑ってしまう。
やがて話題は、自然とたわいない日常へと移っていった。
私は、久しぶりの休日に釣りへ出かけた話や、工房のみんなとの賑やかな様子を語り、夫人はというと、先日の婦人会でくだらない陰口を言われ、思わず正面から切り返してしまったという豪快なエピソードを披露してくれた。
そして最後は、貴族院時代の思い出話へ。
そんな中、学校の話題のつながりで、ルーニクス大学の話を切り出した。
この話だけは、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
こんなにも良くしてくださっている夫人に、驚かせてしまうのではないかと、なかなか切り出せずにいたのだ。
けれど、夫人の反応は意外なほど穏やかだった。
「……えぇ、存じておりますわ。前の祝賀会の時に、あなたの工房長から伺いましたの。
それにしても、自分で学費を稼ぐなんて――立派なことですわね」
いつの間にそんな話を……。工房長め。
しかし、なぜそんな話を? と疑問に思ったのもつかの間、横にいたリゼットが勢いよく立ち上がった。
「ユリカお姉さま! 私……寂しいです。
せっかく仲良くしていただけたのに……。遠くに行かれてるなんて……」
むくれながら入ってきた理由はこれか。
そう思い、ちらりと夫人に目を向けると、彼女は困ったように微笑み、小さくため息をついた。
「リゼット、みっともないからおやめなさい」
夫人の声には、たしなめるというより、娘を気遣う優しさが滲んでいた。
けれどリゼットは、唇を噛んだまま引き下がらない。
「で、でも、お母さま。ユリカお姉さまが遠くに行ってしまうんです……!」
その震える声に、夫人は深くため息をついた。
「リゼット、いい加減になさい。……ユリカさんも、卒業後はこちらに戻って来られるのでしょう?」
私は小さく頷き、「その予定です」と答えた。
リゼットはようやく椅子に腰を下ろしたが、頬を膨らませたまま、悲しいような、拗ねたような表情を浮かべていた。
私はそっと立ち上がり、彼女の隣まで歩み寄る。
手を取ると、彼女の手は小さくて震えていた。
「リゼット様。そんなに悲しまないでください。
卒業したらまた戻ってきますので、その時は、今日みたいにお茶をしましょう。
それまで、その可愛い笑顔を忘れないでください。...…どうか笑顔で見送ってくださいね」
リゼットはしばらく私を見つめ、それから鼻を鳴らして笑った。
「……はいっ」
その笑顔を見て、胸の奥がすこし軽くなった。こうして、出発前の最後のお茶会は穏やかに幕を閉じた。
玄関へ向かう廊下の途中、ふと足が止まった。
半月形の真っ白なコンソールが、夕陽を受けて淡く光っている。
その上には季節の花と燭台が並び、無駄のない意匠が、かえって荘厳さを引き立てていた。
私の視線に気づいた夫人が、微笑みながら声をかける。
「ユリカさん、気になって? それ、前回の建築祭で優勝したカーヴェル工房の作品なのよ」
あの日、リアを訪ねる前に立ち寄った工房――。
胸の奥が、静かにチクリと痛んだ。
「そういえば、もう今年の建築祭が始まりましたね。
毎回楽しみにしているのですが、今年の建築部門には“橋の耐久性”の科目を設けているのです。
そして、その優勝者には、西の河に橋を架ける事業をお任せする予定なんですよ」
夫人の頬はほんのりと紅潮していた。
建築祭を心から楽しみにしているのだと、その笑顔を見て思った。
玄関まで見送ってもらい、外へ出る。
空はすっかり茜に染まり、建物の屋根や街路樹の影が長く伸びていた。
――領都を発つまで、あとひと月。
この空を、あと何度見られるのだろう。
そんなことを思いながら、私はゆっくりと家路についた。




