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Day39:飛躍(前編)

 領都での暮らしも、残すところあとひと月を切った。

街の喧騒の奥で、ゆっくりと季節の足音が進んでいく。

私はその中で、旅立ちの準備に追われていた。


 目的地である、学術都市・シタリアまでの道のりは約半月ほど。

途中いくつかの町で休む予定だが、それでも一週間分の食料は用意しておくようにと言われた。

私はリストを片手に、商店街を歩き回りながら必要なものを買い集めていく。


 食事は主に干し肉と塩豚。これを旅先で水やスープに浸して戻し、火にかけて食べる。

保存が利く上に、長旅では貴重な栄養源になる。


 飲み物は水のほか葡萄酒も用意する。

水は日が経つとすぐ悪くなるため、煮沸した水で葡萄酒を薄めて飲むのが習わしだと聞いた。

それなら、私のような未成年でも飲むことができる。


 長い旅に出るのは初めてで、すべてが新鮮だった。

手に取る保存食ひとつにも、工夫があることを知る。

途中、乾いた果物を噛み、その甘みを感じ、心細さを紛らわせていた。


 買い物の途中では、これまでお世話になった人々へ挨拶まわりもしていった。

街道建設ギルド、なじみの釣具屋、そしてカーヴェル工房。


「そうなんだ? その年で一人旅だなんて大変だね。挨拶に来てくれてありがとう。気をつけてね」


 そんな他愛もない言葉のひとつひとつが、胸に沁みた。

日々に追われるうちに、私はいつの間にかこの街の人たちに支えられていたのだと気づく。


 そして、出発を二週間後に控えたある日、私は商業ギルドを訪れた。

窓口には珍しくベンさんの姿があった。

「お久しぶりです」と声をかけると、彼は少し驚いたように笑った。


「もう出発される時期なんですね。ユリカさんが自転車を開発されてから、ここ商業ギルドも随分と賑やかになったんですよ。ありがとうございます。……寂しくなりますね」


 そう言いながら、社章を確認し、三十リウスとギルド手形を発行してくれた。

受け取った手形は思いのほか重く、その重みが、これまでの時間を思い出させる。


「今まで本当にお世話になりました」


 私はそう言って頭を下げる。

ベンさんはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、差し出した手をしっかりと握ってくれた。

手のひらから伝わる温もりに、名残惜しさがこみ上げる。


 私は深く息を吸い込み、軽く会釈をして商業ギルドを後にした。


  私は、その足で街の菓子店に立ち寄る。

店内の棚には、金粉をあしらったタルトや、香ばしい焼き菓子が並び、そこには甘い幸せな空間が広がっていた。

少し背伸びをして、上等な詰め合わせをひと箱選んだ私は、次に領主館へ向かった。


 急な訪問になることは承知の上だった。

正門の前で、門番の方に深く頭を下げ、菓子と感謝を記した手紙を託す。

――夫人へのお礼と、リゼットに短い別れの挨拶を添えて。


  門を出た瞬間、胸の奥が少しだけ締めつけられた。


 それからの一週間。

出発までにどうしても形にしておきたいことがあったので、私は自転車工房にこもりきりになった。


 まず取り組んだのは、新しい収益構造の提案だった。

乗る人それぞれが必要な部品を自由に選べる――いわば、オプション販売の仕組みだ。

現行の型に足りない要素は、ハンドルブレーキ、ルーン電灯、そして荷物を積むためのカゴ。


 それらを同じ規格で製造すれば、どの自転車にも取り付けられる。

すでに購入した人々にも販売でき、継続的な収益源となるはずだ。

みんなもその案にすぐに賛同し、工房の空気が少しだけ明るくなった。


 次に、私は改良の方向性を託した。

紙の上に新しい図面を描く。

それは今のクロスバイク型とは異なる、街乗りに特化した“シティサイクル”――いわゆるママチャリの構造だった。


 トップチューブをなくし、サドルを低くして重心を安定させる。

子どもや小柄な女性でも、足を高く上げずにまたがれる。

そして、坂道でも快適に走れるよう、多段ギアと変速機の概念を伝えた。


 細部までは再現できなかったけれど、仕組みの核心だけは覚えている。

私は大まかな構造を説明し、「あとは自分たちで形にして」とだけ告げた。


 それは自転車の発展だけでなく、いずれマナ車の進化にも繋がるだろう。

――そんな風に格好をつけてはみたけれど、実のところ私も“概念”しか知らないのだ。

紙の上に引いた線が正しいのかどうかさえ、自信はなかった。


 そして、残り一週間。

いよいよ出発の日が近づいてきた。


 先日買い揃えた食料や衣服などの生活用品を、大きなカバンに詰めていく。

入れたそばから、旅の実感が少しずつ重みを増していくようだった。


 それから――何よりも大切な釣り道具を丁寧に包み、念のために新型の自転車も持っていくことにした。


  荷造りを終えかけた時、まだ主食を用意していないことに、ふと気づく。

昨夜書いた家族への手紙を出すついでに、パン類を買いにいくことにする。


 パン・デュランとハードタック。どちらも旅には欠かせない定番の保存食だそうだ。

特にハードタックは、驚くほど固く、半年はもつらしいが、そのままではとても歯が立たない。

葡萄酒やスープに浸して食べるのが普通なのだとか。


  考えるだけで、これから始まる旅の長さを感じた。


 露店街へ向かう途中、街へ戻ったばかりの兄さんと出くわした。

肩には旅の埃が積もり、革の鎧にはいくつもの傷跡が刻まれている。

なんでも、ケペップ・ロロミ――双頭の大亀の討伐に行っていたらしい。


 「……ずいぶん傷だらけじゃない」


 思わずそう言って、私は兄さんの頬をそっと撫でた。

指先に触れるざらりとした感触が、戦いの重みを教えてくれる。


 「そうか……。そろそろ出発するのか。家には帰ったのか?」


 兄さんの低い声が、少し掠れて聞こえた。

私は首を横に振り、忙しくて戻れなかったこと、いまから手紙を出すつもりでいることを伝える。


 兄さんは少し考え、それから優しく笑った。


「なら、俺が預かってやるよ。来週には一度帰る予定だから、そのとき渡しておく」


 その言葉がありがたくて、胸の奥が温かくなった。

せっかくの機会だから、郵便では送れない現金も一緒に託すことにした。

手紙と十リウスを包み、兄さんの手にそっと渡す。


 兄さんは、どこを見ても傷だらけだった。けれど、その笑顔は昔と変わらない。

これでしばらく会えないと思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 私は一歩踏み出して、兄さんを抱きしめた。

革鎧の硬さが腕にあたる。その感触ごと、今の記憶に焼きつけた。


「……兄さん、ありがとう」


 兄さんは何も言わず、そっと私の背を叩いた。

2025.10.22:

タイトルのナンバリング修正

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