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Day37:新たなる一歩

 季節は巡り、秋が来た。

そして、私は十三歳になった。


 先月、自転車工房のみんなに任せた改良計画は、ペーターとカインを中心に着々と進められており、

今日はその試作機の確認のために呼ばれていた。


 自転車工房の扉を開けると、金属と油の匂いが鼻をくすぐり、奥にある窓から光が差し込む。

その窓の前にある机の上には、組み上げられたばかりの後輪が静かに横たわっていた。


 横たわる車輪に目線を落とすと、軸の内側――ハブ部分に、今回新造された新しい機構が詰め込まれているのがわかった。


 見た目はただの金属の輪だが、内部には緻密な仕掛けが隠されている。

まず、大きな円輪は車輪そのものに固定されており、この部分がタイヤと共に回転する。

そして、その内側にはもう一つ、円輪が収まっており、こちらはチェーンと繋がる後輪のギアの軸に固定されていた。


 外側の円輪には鋸の刃のように片側だけ傾いた歯がずらりと並んでいる。

進行方向側はなだらかに削られ、逆側は断崖のように垂直に切り立っており、その歯のひとつひとつに、小さな爪が寄り添うように取り付けられていた。


 爪は細い軸で支えられ、根元には小さなバネが仕込まれている。

押されると軽く沈み、離せばすぐに元の位置に戻る。


 それはまさに、私が時計工房で見たあの歯車を基に発展させた自転車工房独自の機構となっていた。


 工房内には、すでに組み上げられた試作機がおいてあり、私は実際に乗りペダルへと足をかけた。

足にグッと力を入れると、試作機は滑らかに走り出す。少し進んだところで私はペダルを漕ぐ足を止めてみた。


 ――――チリ、チリ、チリ、チリ、チリ。


 噛む音と滑る音が重なり合い、まるで鼓動のように工房に響く。

私は頬にかかった髪を指で払って、小さく笑った。


「すごい……見て。……足を止めてるのに、自転車が進んでる」


 私がそっと足でブレーキをかけると、車輪は短く唸りを残して止まり、工房内に静寂が流れた。

そして――次の瞬間、割れんばかりの歓声が工房中に響き渡った。


 ある者は泣きながら抱き合い、ある者は両手を合わせて天に祈り、

またある者は、呆然と立ち尽くしたまま、その光景を見つめていた。

その歓声を聞きつけて、他の部門の職人たちが次々と様子を見に来るほどだった。


 自転車工房は、熱と光と歓喜に包まれ、まるで、ひとつの新しい時代が、この瞬間に動き出したかのように――。


「みんな、すごいよ! 本当にありがとう!

あとはマナ車と同じようなブレーキを取り付ければ、もう商品化できそうだね」


 その言葉に、ペーターが誇らしげに前へ出てきた。


「ユリカちゃん、実は――もうブレーキは搭載してあるんだ」


「えっ?」


 思わず手元のハンドル部分に視線を落とす。

けれど、そこにはブレーキレバーらしきものはなく、すらりと横に伸びた鉄の棒があるだけだった。


 私が首をかしげると、ペーターが得意げに説明を続ける。


「実はね、カインが『フリーホイールだと止まるのはどうする?』って気づいてくれて、そこで皆で考えたんだ。

後輪の内側にネジ軸を仕込んで、その軸に筒を取りつけたの。こんな風にね。

ペダルを逆方向に回すと、その筒がネジから少しずつ外れていって、反対側にあるブレーキシューを押し当てて、車輪を止める仕組みになってるんだよ。……すごいでしょ?」


 ペーターが実際に新造したハブを用いて説明をしてくれた。私はその説明を聞きながら、思わず息を呑んだ。

それはまさに――コースターブレーキだったのだ。


 この短期間でそこまで辿り着くとは、本当に驚かされた。

私が一年考えても、この答えには届かなかったかもしれない。


 私は胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じながら、心からの拍手をペーターとカインに贈った。


「ありがとう。こんなに自転車のことを考えてくれるなんて……。これはもう、私の自転車じゃなく、みんなの……、この自転車工房の自転車だね……」


 私は、止まらない涙で前が見えなくなってしまった。

先日は、形を変えてほしくない、リアとの思い出を壊してほしくないと願っていたけれど――やっぱり、そんなわけにはいかないと感じた。

この自転車は、間違いなく自転車工房が生み出した自転車なのだ。


 私が原型を作り、リアの手を借り、工房長と共に育て、そして今、仲間たちの手によって完成された。

――こんなにうれしいことはない。


 これからの一年、新型自転車のお披露目を段取りし、受注と体制の整備、そして製造に追われる日々になるだろう。


 けれど、その前に、私はどうしてもやっておきたいことがあった。


 ――数日後。

事前に工房長とペーターに事情を伝え、三人並んで商業ギルドへ向かった。


 商業ギルドの受付でベンさんをお願いし、前回――社章の受け渡しと説明を受けた部屋へ通された。

三人並んで腰を下ろす。初めてギルドを訪れたペーターは落ち着かず、視線をあちこちに泳がせている。

……初めてここに来たときの私も、きっとこんな風だったのだろう。


 やがて扉が開き、ベンさんが現れた。

前回と同じように向かいに座るが、今日は私からの用件だ。部屋には、少しだけ張り詰めた空気が漂っていた。


「お時間をいただきありがとうございます。

今回は、私が持つ自転車の分配金の停止と、自転車工房長の変更について申請に来ました」


 事前に事情を聞いていた工房長とペーターは黙って頷いたが、

ベンさんは目を丸くして、少しの間、言葉を失っていた。


 それも無理はない。

自分で言うのもなんだけれど、分配金の実入りはかなり良い。

すでに私の貯金は六十ティウス――リウス換算で六千を優に越えている。

そんな収益源の権利を、自ら手放すというのだから、驚かない方がおかしい。


「……理由をうかがってもよろしいですか?」


 私は深く息を吸い込み、心の内をそのまま伝えた。


「自転車の原型を作ったのは私ですが、そこから先はみんなで改良を重ね、形にしてきたものです。

そして今、彼らは新しい自転車を生み出そうとしています。

そんな中で、もう手を動かしていない私が分配金を受け取り続けるのは、きっと工房の成長を妨げると思いました。


 それに……私は来年の今ごろ、シタリアに行ってルーニクス大学へ入ります。

この街を離れてしまう前に、頑張ってくれた人たちに、ちゃんと報いたいんです。

自分の力で掴んだ成果は、その人に返るべきだと思うから」


 しかし、私の目をまっすぐ見て話を聞いてくれていたベンさんから、思いもよらない言葉が返ってきた。

どうやら、先ほどの驚きは、私が分配金を手放すからではなかったらしい。


「……驚きました。やはり共同で開発するだけありますね。

思想というか、考え方というか――とても似ているんです。

実は先日、リアンナさんからも同じ申し出がありまして。現在、処理の途中なんですよ」


 ――えっ……?


 今度は、私の方が言葉を失った。


「リアンナさんも言っていました。

“今のまま自分がもらうのは、自転車の未来によくない”と。

それに、“来年に向けて新しい取り組みを進めている”とも」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

涙がまたあふれて、止まらなかった。


 工房長が黙って私の頭を撫でてくれる。

向かいでは、事情を知らないベンさんが慌てふためき、その隣でペーターは、唇をきつく結んだまま、静かに俯いていた。


 鼻をかみ、ようやく気持ちを整えた私は、分配金を自転車工房へ切り替える書類と、工房長の名をペーターへと変更する書類にサインをした。


 続いて、親工房の工房長と、新たな自転車工房長となるペーターが、それぞれ署名をする。

その瞬間、小さくインクの匂いが立ちのぼり――

新しい自転車工房の時代が、静かに始まった。


 事を済ませ、自転車工房へ戻ると、みんなが新工房長となったペーターを拍手で迎え入れてくれた。

人数が増え、ペーターを中心に笑い合う輪を見ていると、どこか疎外感のようなものも感じた。

けれど――これが正しい形なのだと思った。


 その夜は久しぶりに、私、マルセル、ヨアヒム、ペーターの四人でテーブルを囲んだ。

今後のことを話し合いたかったのと、こうして顔をそろえられる機会も、もうそう多くはないだろうと思ったからだ。


 まず、新型自転車のお披露目について話が及んだ。

新商品や新規格を開発した際は、商業ギルドへの登録が必要となる。

権利を守るため、そして広く周知してもらうための手続きだ。

だが、今や“第三の車”と呼ばれる自転車に関しては、街道建設ギルドの認可も求められる。

それが、今回の難題でもあった。


 そのとき、普段はどこかのんびりしているヨアヒムが、珍しく口を開いた。


「街道建設ギルドでは、新型自転車の設計書提出のあとに耐久テストをやるんだよね?

だったら、そのテストを中央広場とか、人の多いところでやってもらえばいいんじゃないかな」


 ――その手があったか。


 私たち三人は思わず顔を見合わせ、驚きを隠せなかった。

マルセルに至っては、咥えていた肉を落とし、皿のソースを盛大に飛ばしてシャツを汚していた。

その様子に、私たちは腹を抱えて笑い合った。


 次に、生産体制についての話になる。

お披露目のあとは、きっと前回と同じように注文が殺到するだろう。

先に量産しておきたいところだが、街道建設ギルドの認可が下りる前に動くのはあまりにも危うい。

そのことを踏まえ、今回は前回と同様、台数を整えてから出荷する方針に決まった。


 そして最後に、新体制の話へと移る。

今後はペーターが新工房長、ヨアヒムが補佐。

マルセルは今まで通りでいいと言っていたが、無理を言って工房長代理をお願いした。

私は、シタリア行きの準備や街道建設ギルドとのやり取り、お茶会などで自由に動けるように、三人の提案で相談役の席を設けてもらうことになった。


 これで、今後の自転車工房の方向性も決まり、私たちはそれぞれのコップを掲げて乾杯した。

葡萄酒を飲めるようになるまでには、あと二年。今日は、葡萄ジュースで我慢だ。


 酔いもまわり、笑い声が絶えたころ――ペーターがふいに口を開いた。


「マルセル……。あのこと、ユリカちゃんに言わなくていいの? 僕は、言ったほうがいいと思う。今日、商業ギルドでそう思ったんだ」


 ――その瞬間、マルセルの肩がビクリと跳ねた。驚きが伝わってくる。

「あのこと」? ……まさか、愛の告白?


 私は、顔に熱がこもるのを感じながら、思わず姿勢を正した。

フォークを置き、視線をマルセルへ向ける。


「……ったく、こういうのは本当はユリカ本人が気づかなきゃダメなんだがな。……しょうがないか」


 マルセルったら、そんな態度おくびにも出さなかったくせに――。

思わず胸の鼓動が速くなり、酔っ払っているのかもしれないと、確認のため私はコップに口を付けた。

……葡萄ジュースだった。


「実はな、少し前にリアンナが工房に来たんだよ」


 ――その言葉は、私にとってまたしても思いもよらないものだった。


「今日、ユリカは商業ギルドで聞いたみたいだけどな。リアンナが叔父に分配金停止の申し入れをして、その手続きの付き添いを頼みに来た帰り――

ちょうど出口で会ったんだ。そのときは、何をしているのか軽く話しただけで終わったがな」


 そう言って、マルセルは葡萄酒を一口含み、静かに息を吐いた。


「俺もヴァルネ工房のやつから、リアンナの様子は前に聞いていたから気になっていたんだ。

だから後日改めて、そいつを訪ねて事情を聞いた。

そいつはリアンナと同じ家具部門で修行してるんだが、もうここ数カ月、姿を見ていないらしい。

――もしかしたら、もうヴァルネ工房は辞めてしまったのかもな。……ふん、根性のないやつだ」


 その言葉を聞いた瞬間、私は魂が抜け落ちたように愕然とした。

あの日――私がリアを怒らせたせいなのか。

どこで間違えてしまったのか。

私の何がいけなかったのか。


 胸の奥が焼けるように痛い。

思い出すたびに、後悔と自責が渦を巻く。

「ごめんね」と言いたくて、でも今さら何を言えばいいのかも分からない。


 考えれば考えるほど、涙があふれて止まらなかった。

それでも――ここで泣くだけでは、あの日の私と何も変わらない。

逃げたまま、後ろを見たまま、きっと一生、後悔する。


 だったら、怖くても進むしかない。

彼女に会って、もう一度、自分の言葉で伝えたい。


 私は袖で涙をぬぐい、深く息を吸った。

そして、葡萄ジュースを一気に飲み干す。

胸の奥で、何かが“決壊する音”がした。


 その勢いのまま席を立ち、食堂を飛び出した。

椅子が後ろに倒れ、カランと乾いた音を立てる。


 背後では、ヨアヒムとペーターがマルセルを責めていた。


「なんであんな言い方するんだ!」


 けれど、もう私は振り返らなかった。涙に濡れた頬を風がなで、前だけを見て走った。

――あの時、踏み出せなかった一歩を、ようやく踏み出せた気がした。

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