Day36:止まらぬ輪
領主館でのお茶会から数日後、私は自転車を次の段階へ進ませる決意をした。
後輪につけたギアをフリーホイール式に変え、ペダルをこぐ足を止めても、慣性で前へ進むようにする――それが今回の目的だ。
いまのピストバイクでも十分に実用的で、むしろ速度に限っていえば、こちらのほうが勝っている。
だが、街中で人々に普段使いしてもらうには、もっと楽に漕げることが大切だと私は思っていた。
原理そのものは単純である。
ペダルを漕いでチェーンを伝った運動エネルギーを、一定方向の回転時だけ後輪のギアに伝えてやればよい。
……そう、理屈は簡単なのだ。だが、問題はその仕組みをどう作るかだ。
ローラーチェーンのときと同じく、構造が頭の中ではわかっていても、実際の作りがどうなっているのかまでは理解できていなかった。
私は、マナ車の内部機構に似た仕組みがあるのではと思い立ち、工房長のもとを訪ねることにした。
「工房長、ちょっと教えていただきたいのですが――
一定方向にだけ力が伝わるギア、もしくはそれに似た構造って、マナ車で扱っていたりしますか?」
私はまた、突飛なことを言ってしまったのだろうか。
工房長は少しいぶかしげに私の顔を見つめ、意外な答えを返してきた。
「……そんなもんはないぞ。マナ車は、動力をそのまま伝えておるからな」
その答えに驚きつつも、同時に“ブレーキはどうしているのだろう”という疑問が浮かび、続けて尋ねてみた。
「減速・停止したい場合はな、ブレーキシューのペダルを踏みこむ。
すると、ワイヤーで繋がっとるブレーキシューがタイヤを挟み込み、摩擦でタイヤを止めにかかる。
次にボイラーへのマナ供給が止まり、それと同時にピストン前の圧力弁が開いて蒸気を逃がす。
結果として、ピストンへの動力供給が止まり、マナ車を減速・停止させるという仕組みじゃ。……なんじゃユリカ、知らんかったのか」
そういえば私は、見学の際に板金を叩かせてもらったことはあったが、
それ以外は主にエンジン部門ばかりに顔を出しており、マナ車の基本構造には疎いままだった。
なんだか、工房長にそこを指摘されたようで、少し恥ずかしくなってしまう。
すると工房長は、そんな私の様子を見て呆れたのか、軽くため息をついた。
「まったく……お前さんの知識は、どうにも偏っとるのう」
そう言って、話を元の質問へと戻した。
「先ほどの一定方向にだけ力が伝わる構造のことだがな――。
ワシも詳しくはわからん。
……わからんが、わかりそうな奴なら心当たりがある」
工房長がそう言い終えるか終えないかのうちに、私は勢いよく詰め寄っていた。
「それは誰なんです? 紹介してくれませんか!」
工房長は「……ま、まぁ、落ち着け」と苦笑しながら、私の両肩をつかんでそっと引きはがした。
話によると、昔からの馴染みが時計工房を営んでいるらしい。
そこでなら、一方向にだけ力を伝える仕組み――私が探しているあの構造を教えてもらえるかもしれない、とのことだった。
私は工房長に紹介状を書いてもらい、さっそく工房を後にした。
途中、酒屋で手土産に蒸留酒を買い、西の外壁近く――時計工房がある地域へと足を運ぶ。
西地区の城壁は、いま工事の真っ最中で、遠くに足場だけの城壁が見えている。
聞けば、数年後には西側にも街道が整備され、その場所に新しい城門が建てられるという。
ただ、西側には大きな河が流れている。そこをどうするつもりなのだろう。橋でも架けるのだろうか。
もし橋が架かれば、かなり便利になるはずだ。
私の故郷――ハイジャン村は領都から見て北側に位置している。
だから今は、村から領都へ入るにも、わざわざ南門まで回り込まなければならないのだ。
そんなことを考えているうちに、気がつけば城壁のすぐ近くまで来ていた。
足場の組まれた一帯では、数名の衛兵が立っており、城壁への立ち入りと通り抜けを禁じている。
私はそこから城壁を左手に見ながら、数分歩いたところで、目的の時計工房へとたどり着いた。
扉は、可愛らしい装飾の施された小さな丸扉だった。
柔らかな栗色の木に真鍮の蔦模様が彫り込まれ、その先端には葡萄の実のような青いガラス玉が嵌め込まれている。
日差しを受けたガラス玉が、きらりと一瞬光った。
外壁の古びたレンガには、ところどころ煤の跡が残っている。
その上に掲げられた看板には、丸文字でこう記されていた。
「時の小部屋 —— タリェル・デル・テンプス ——」
私は胸の奥が少し高鳴るのを感じながら、取っ手を押し下げ、そっと丸扉を開くと、
カラン、カラン――小さな鐘の音が優しく鳴り響いた。
中に入った瞬間、空気が変わったのがわかった。
静寂の中、壁一面に大小さまざまな時計が並び、そのすべてが、わずかにずれたリズムで時を刻んでいる。
チク、タク、チ、タ、チク、タク――。
その音の群れが、まるで互いに言葉を交わしているかのように響いていた。
香ばしい油の匂いと古い木の香りが混ざり合い、奥の窓から射す陽光が、宙を舞う金属粉を照らす。
その細かな粒が、まるで小さな星のように瞬いていた。
奥の作業台では、ひとりの職人がルーペ越しに小さな歯車を磨いていた。
年齢を重ねた顔立ちに似合わず、その目の光は若者のように鋭い。
私がしばらく声もかけられず立ち尽くしていると、職人のほうから声が飛んできた。
「なんじゃ? 時計が珍しいのか?」
――確かに。
私はこの世界に来てから、時計というものを目にしたのは初めてだった。
ここの人々はいつも鐘の音でおおよその時刻を知る。それで十分足りているのだろう。
「……は、はい。初めて拝見しました。
あの、私、レス・セット・ジェルマネス工房でお世話になっております、ユリカと申します」
そう言いながら、私は工房長から預かった紹介状を差し出した。
「……ふん。あやつのところの者か。
ワシはこの〈タリェル・デル・テンプス〉工房のエンリク・ベルドンじゃ。
……で、何を知りたいんじゃ?」
エンリクさんのどすの利いた声に少したじろぎながらも、私は持参した蒸留酒を渡し、工房で作った自転車のこと、そしてこれから進めようとしている改良のことを説明し、相談してみた。
「……なるほどのぉ。あれはお嬢さんの制作物か。……通りで。あんな芸当、あやつには出来んと思っておったわい。
一方向にだけ力を伝える歯車じゃな。……ほれ、こっちへ来てみなさい」
促されるまま、工房の奥にある作業台へと進む。
作業台の上には、先ほど磨いていた歯車と、組みかけの時計が置かれていた。
エンリクさんは、ルーペを私の顔の前に差し出す。
私はそれを受け取り、そっと覗き込んだ。
ルーペ越しの世界には、細やかな歯車たちが密集していた。
その中央、ぜんまいにあたる部分をピンセットで差しながら、エンリクさんが説明を始める。
「この中央のぜんまいが見えるか? そのすぐ脇に、他とは違う歯車があるじゃろう?」
言われた方へ視線を移すと、確かにひとつだけ形の異なる歯車があった。
他の滑らかな円盤とは違い、歯が片側にだけ立っていて、まるで直角三角形をいくつも並べて円形にしたような、不思議な形をしている。
その隣には、銀色の小さな爪があった。
針金ほどの細さで、先端は刃のように尖り、極小のバネで支えられている。
歯車が進むたび、爪が「カチ」と音を立てて歯の谷に落ちる。
エンリクさんが軽くぜんまいを指で回すと、「チリ、チリ」と乾いた小鳥の声のような音が響いた。
爪が歯の上をすり抜ける音だ。
やがてエンリクさんがぜんまいから手を離す。
その瞬間、歯車にぜんまいの力が伝わり、爪が歯の壁面を押さえ込んだ。
歯車は進むことは許されるが、戻ることは決して許されない。
それはまるで――時間そのものの意志のようだった。
私は息を呑んだ。
ほんの指先ほどの構造なのに、そこに「前進」と「停止」を決める秩序がある。
私が求めていた構造が、ここにあったのだ。
足を止めても、輪は前へと進む。
この小さな歯と爪の仕組みが、それを可能にする――。
時計の構造を一通り教わったあと、折角と思い、懐中時計を一つ安く譲ってもらった。
それを内ポケットにしまい、私は時計工房を後にする。
エンリクさんは見送りながら、すでに先ほど渡した蒸留酒の封を切り、一人でちびちびとやり始めていた。
工房へ戻ると、工房長にお礼と報告を伝え、その足で自転車工房へ向かった。
中では、新人を含め十数名の職人たちが作業に追われている。
私は自分の机に腰を下ろし、先ほど見た時計の構造を紙に描き起こす。
図面を描き終えると、全員を呼び集めて声を上げた。
「忙しいところごめんね。ちょっと、みんなに相談したいことと、今後の話をしたいの」
まず私は、これからの予定を話した。
一年も経たないうちに領都を離れ、学術都市シタリアへ向かうこと。
そしてルーニクス大学で三年間、ルーンについて学ぶこと。
今後、自転車工房をマルセルに任せたい――そう伝えた。
場が一瞬静まり、すぐにざわめきが起きる。そんな中で、マルセルが一歩前に出て言った。
「その話はありがたいんだが、悪いが受けられない。俺は叔父の跡を継いで、マナ車工房を継ぐつもりなんだ。そのためにも、ここで工房長を名乗るわけにはいかないんだよ。……俺の代わりにペーターじゃダメか?」
――そうだった。
マルセルは、もともと次期工房長の座を目指してレス・セット・ジェルマネス工房に来ていたのだ。
そのことをすっかり忘れていた私は、少しだけ恥ずかしくなった。
「……ごめん、そのことを忘れていたわ。ありがとう、マルセル。
次に話したいのは、自転車の改良案のことなの。ちょっと細かい内容になるから、真面目で金属に詳しいペーターを主任にって思っていたんだけど……。工房長もお願いできる? 大変だとは思うけど」
突然の指名に、ペーターは「ぼ、僕なんかが?」と慌てて両手を振った。
けれど、ヨアヒムが「支えるよ」と言うと、ペーターはほっとしたように笑い、
「わ、わかりました。やってみます!」と力強くうなずいてくれた。
これで、安心して、私も自転車も次のステップへ進めそうである。
今後の憂いがひとつ消えた私は、フリーホイール構想の説明を行った。先ほど書いた時計の図面を用いて、その原理と自転車で叶えたい事、そして開発を自転車工房のみんなに任せることを説明する。
「……以上がやりたい事の説明なんだけど、何か質問ある?」
そこで、手を挙げたのは、先日私をマルセルの妹扱いした、赤髪の青年だった。
――確か、名前はカイン。私は、発言を促した。
「何か、制限はありますか? 構造や形を大きく変えても問題はないでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、私はハッとした。
自転車の形は前世で一般的に乗られていたクロスバイクを模したものだ。なので、私には自転車という物の固定概念がこびり付いている。
だが、彼らからすると自転車は全く新しい乗り物なのだ。今の形が正解なわけではない。
もっと自由で、もっと多様であっていい。しかし――――
「そうね……。新しい機構の開発や、構造自体は変えてもいいけど、自転車のあの形だけは変えないで欲しいかも……。
今の形で交通ルールも通したし、領都の人たちにもようやく馴染んできた。今はもう、少しずつ領都の外にも広まり始めてるから……」
そんなのはこじつけでしかない事は私もわかっている。
でも、リアと共に作り上げたあの自転車を、私の大事な思い出を壊さないで欲しい。
――あの時の思い出を、手放したくなかった。
咄嗟にそう思ってしまったのだ。
――私は、浅ましい人間だ。
リアを怒らせ、嫌われたのに未だに断ち切れないでいる自分が嫌になった。
その未練が心を締めつけ、視界がじんわりと滲んでいく。
自転車工房のみんなは、すでに次の段階へと動き出していた。図面を囲み、意見を交わし、未来の形を思い描いている。
そんな中で、マルセルだけが、静かにこちらを見つめていた。




